2006年 01月
東トルキスタン [2006-01-31 13:12 by satotak]
日本は多民族国家…!? [2006-01-30 12:06 by satotak]
突厥帝国と現在のトルコ民族 [2006-01-28 11:30 by satotak]
モンゴルとは集団の呼び名 - モンゴルの起源 - [2006-01-27 11:38 by satotak]
「民族」という用語 [2006-01-26 09:08 by satotak]
モンゴル系かテュルク(トルコ)系か [2006-01-25 11:47 by satotak]
黒海の東部周辺 -グルジア、アルメニア、トルコ- [2006-01-24 09:08 by satotak]
朝青龍、琴欧州、そして黒海は? [2006-01-23 09:52 by satotak]
民族:自分の関心は… [2006-01-21 12:58 by satotak]
iPowerWebに申込む [2006-01-20 11:18 by satotak]
Webサイトを準備中 [2006-01-19 12:48 by satotak]

2006年 01月 31日
東トルキスタン
東トルキスタン」という用語は、地理上では中国新疆ウイグル自治区の領域を指すが、地理的というよりは政治的な意味合いで使われることも多い。そしてその意義は使う人の立場によって異なってくる。

ここでは「ウィキペディア」、「東トルキスタン情報センター」、「チャイナネット」の3例について見る。

ウィキペディアより:
東トルキスタン(ひがしトルキスタン、ウイグル語:?????? ?????????、Sharqiy T?rkistan)は、トルキスタン東部地域を指す地域概念。2005年現在では中華人民共和国領新疆ウイグル自治区に相当することから、「中国領トルキスタン」とも言う。…
東トルキスタンは地域概念であるが、特にウイグル人の中国からの独立派の人々が、中国視点の地名である「新疆」(「新しい領土」という意味)を嫌い、ウイグルの居住地域の地域名として好んで用いる。…

東トルキスタン情報センターより:
1884年までカシュガリヤ国があって、首都はカシュガル市で、ヤクプベグがその王様だった。1884年中国の清朝がカシュガルヤに侵略してきて、ウイグル民族の国であるカシュガルヤに「新疆」という名前をつけ、軍事、政治中心をカシュガル市から8km南のイェギシェヘル(Yengisheher)に置き、イェギシェヘルを疏勒と呼び、首都のカシュガル市を疏府と呼ぶようになった。…
1944年11月12日グルジャ市で東トルキスタン共和国の国慶節が開かれた。エリハン.トレが主席、ハキムベグ.ホジャが副主席、アブドゥロップ.メフスムが秘書長になり、各部を設けていた。ゲリラの形式から1945年4月8日に東トルキスタン共和国民族軍が成立し、天山の北側のイリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区などを完全に解放し、中国政権を倒していた。当時の解放、独立革命は「三区革命」と呼ばれている。
1944年…に建国した東トルキスタン共和国のエリハン.トレ主席の話で言うと「いわゆる新疆が中国の一部であるというのは、真っ赤な嘘である。歴史を偽造し、人間を騙そうとする人に思い出してほしい事実は、中国の官吏及び帝王たちは、自分の命と土地を保全するために3500キロメートルの万里の長城をつくり、鷹にあった兎のようにそのなかに引き籠っていたことである。中国政府の歴史家はこの真実を隠したが、全世界の歴史家はそれを知っている。…これから中国政府は東トルキスタン領土に対する野望を放棄して…東トルキスタンの土地を侵略したり、東トルキスタンの民衆を圧迫したりすることをやめてほしい」。
これが中国と東トルキスタンの関係である。…

チャイナネットより:
…6世紀に栄えた突厥(チュルク)は古代の遊牧民族の名称で、アルタイ山脈や中国北方の草原などの地帯で活躍していた。紀元552年、突厥は可汗(かかん)国を設立。…その後末裔はその他の民族と次第に融合していった。11世紀以降国外の一部の歴史書で使用された「突厥」という表現は、本来の突厥人に限定されず、アルタイ語系突厥語を話すすべての民族の総称であった。一部の人がいうようなすべての突厥人により構成された統一国家は、歴史上存在した事実はない。
新疆ウイグル自治区を分裂させ、支配するという目的を達成するために、古い植民地主義者は新疆を「東トルキスタン」と呼び、(これに対応して、中央アジア諸国は「西トルキスタン」と呼ばれる)、新疆は「東トルキスタン」人の庭であるという誤った説をねつ造している。
紀元前60年に漢朝が西域都護府を設置してから、新疆はずっと中国領土の一部分であり、その後も中央政権による新疆支配は続いた。
しかし20世紀初頭以降、ごく一部の新疆分裂分子と宗教過激主義者は、古い植民地主義の説をゆがめた邪説に基づき、いわゆる「東トルキスタン理論」を捏造した。「東トルキスタンは古来より独立した国家であり、その民族には1万年近い歴史がある」と吹聴し、…中国の各民族が共同で築き上げた祖国の歴史を否定し、…様々な分裂分子は「東トルキスタン」の旗印とともに活動し、「東トルキスタン国」を打ち立てるという妄想の実現を企てている。...

# by satotak | 2006-01-31 13:12 | 東トルキスタン | Trackback | Comments(0)
2006年 01月 30日
日本は多民族国家…!?
中国が多民族国家であるということには異論がないだろう。その是非についてはいろいろあっても…
一方で日本は単一民族であると広く(?)信じられているが、時々有力な政治家などが「日本は単一民族」と公言して批判されたりもする。

沖縄の独立論については24日に簡単に触れたが、あの意識調査にもいろいろ問題があるようだ。例えば [沖縄も中国人の移住先]
28日のNHKハイビジョンで「島唄の風〜夏川りみが旅するふるさとの心」の再放送があった。八重山列島の生活を眺め、「安里屋ゆんた」を聴いて、「日本は多民族」を実感する。
この番組の紹介が[むらさんのたいくつな日々: 島唄の風] にある。

日本の民族についても調べてみたいと思うが…気が多いばかりで、頭は回らず、手は動かず…

# by satotak | 2006-01-30 12:06 | 民族 | Trackback | Comments(0)
2006年 01月 28日
突厥帝国と現在のトルコ民族
宮本淳子著「モンゴルの歴史」(刀水書房 2002)より:

552年に柔然を破って漠北のモンゴル高原の支配者となった新しい遊牧騎馬民「突厥」が、現在のトルコという民族名の語源である。しかし、トルコ民族という観念自体は、20世紀はじめに誕生した、たいへん新しいものである。「突厥」という漢字は、もともと「チュルク」という遊牧騎馬民の集団名の音訳だった。このチュルクを現代中国人は「土耳古」(トゥルクー)と音訳し、これを日本人がトルコと写した。だから、チュルクトルコも同じことばなのだが、日本では、現代のトルコと区別するために、古代トルコをチュルクといい分けることもある。

現在のトルコ共和国は、1923年に建国された。その前身のオスマン帝国を建てたオスマン家は、13世紀に今のトルコ共和国のあるアナトリアに駐屯したモンゴル軍の出身である。オスマン帝国は、15世紀にビザンティン帝国を滅ぼしてイスタンブルに都を移し、16世紀には、その支配権はバルカン半島、東地中海、西アジア、北アフリカをおおった。
オスマン帝国の最盛期は約150年続いたのち、1683年にハンガリーを失ったのを境にして、18世紀には西ヨーロッパのほうが優勢になりはじめ、最後に第一次世界大戦に敗れて解体してしまった。

残ったアナトリアのアンカラで、ケマル・アタチュルク[「チュルクの父」という意味]がトルコ共和国を建国した。初代大統領となったケマルは、国家の独立を維持するため、トルコ民族主義をスローガンとして採用したのである。
オスマン帝国時代には、「トルコ人」は「遊牧民」という意味で、地方に住む[田舎者」という蔑称でもあった。宮廷の支配層は、自分たちのことをオスマン人といい、自分たちのことばをオスマン語と呼んでいた。オスマン帝国を構成した人びとは、さまざまな人種から成っていた。

しかし、建国したばかりのトルコ共和国をまとめるためには、国民の団結が必要である。ケマルは、トルコ共和国民は、純粋なトルコ民族である、と主張し、その建国は552年にさかのぼる、と決めた。つまり、突厥帝国がトルコ共和国の祖で、現在のトルコ共和国民はすべて、モンゴル高原と中央アジアからアナトリアに移住した、と主張したのだ。
…人種や言語による区分は、きわめて政治的な動機から生まれたものだし、このように、民族という観念も、人間の創り出したイデオロギーなのである。

そうであれば、現代の「政党」は「民族」の発展(それとも矮小化)した形と言えるかもしれない。

# by satotak | 2006-01-28 11:30 | トルコ | Trackback | Comments(0)
2006年 01月 27日
モンゴルとは集団の呼び名 - モンゴルの起源 -
「遊牧民から見た世界史」(杉山正明著、日本経済新聞社 1997)より:

モンゴル帝国について多くの人が感じるであろう疑問は、なぜあれほど急速に史上最大の版図をもつまでに拡大したのかという点だろう。…
軍事上におけるモンゴル軍の優位性をかぞえあげていけば、おそらくきりがなくなるだろう。…しかし、従来ややもすれば、もっとも肝心な点を見逃しがちだったのではなかろうか。それは、「モンゴル」ということばそのものにある。

結論を先取りするかたちになるが、「モンゴル」とは、きわめて融通性にとんだ集団概念であった。しかも、それは、版図の拡大につれておなじように膨脹した。きわめて弾力性のあることばであり、人間組織であった。
ひるがえって、ふつうに「モンゴル」というと、あたかもはじめからそうした人種民族が厳然として存在したかのように考えられている。しかし、それは誤解である。いや、錯覚といってもいい。

たしかに現在、外蒙のモンゴル国と、ゴビの南、中華人民共和国の内蒙古自治区という二種の地域を中心にして、モンゴルという人種・民族が存在しているから、それが過去にさかのぼって、ずっとそうだったと考えられるのも仕方がない面がある。それに、これらの人びとが、世界帝国時代の「大モンゴル国」のモンゴルたちの、すくなくとも子孫の一部分であることもたしかではあろう。

しかし、ここで肝心な点は、モンゴル帝国の形成に中核となった「モンゴル」とは、いったいどういう人びとだったのかである。そこに、超広域の世界帝国が出現した鍵が隠されている。
チンギス・カン、すなわちテムジンによる高原統合のまえ、大小、数多くの牧民集団が割拠し、入り乱れるように攻伐をくりかえしていた。大きな場合は「部族」単位で、小さなものは「氏族」単位で、運命共同体をつくって行動した。
もちろん、ここにいう「部族」も「氏族」も厳密な表現ではなく、おもに血縁もしくは仮構された疑似血縁でむすばれた小規模な集団をかりに「氏族」といい、そうした「氏族集団」が地縁や政治上の理由(その場合も、「血」に仮託された親疎関係が強調された)でいく個か寄りあつまったものを、やはりかりに「部族」というほどのことにすぎない。
当時の漢語文献において、「○○ 氏」、「○○ 部」と表記されるものに近い。…高原に割拠する諸勢力のうち、…ケレイト、ナイマンなどは、それなりの中央権力機構をそなえ、「王国」といってもよい状態にあったとされる。とはいえ、結束や組織化の度合いにちがいはあっても、いずれも「連合体」である点に、大きな違いはなかった。
モンゴルはそのなかであまり強力とはいえない「部族」集団であった。まして、テムジンが生まれたのは、モンゴル部のなかの、…小連合であるキャト氏…の、そのまたボルジギン氏という家柄であった。大小あまたある牧民集団の大海にあっては、まことに渺(びょう)たる存在にすぎなかった。…

歴史上、モンゴルという名称そのものは、すでに唐代の漢文献にあらわれている。「萌骨」蒙兀」などと表記された。いずれも、モンゴルに近い音をあらわす。
しかし、モンゴルと呼ばれる集団は、久しいあいだ、とりたてて目立つほどのこともない存在であったらしい。弱小集団のモンゴル部が記録の表面に浮上してくるのは、せいぜいが12世紀のことである。テムジン登場の前夜とさえいっていい。モンゴルは新興勢力であった。
12世紀すえ、テムジンは、そのモンゴル集団のリーダーへと浮上した。さらに、13世紀のはじめ、ほとんど一瞬にちかい好機をとらえて、ケレイト部のワン・カン…を奇襲攻撃で殪(たお)した。…ときに、1203年の秋であった。
一気に、高原の東部と中部の覇者にのしあがったテムジンは、1205年、西部の大勢力であるナイマン部族連合をも打倒・吸収する。テムジンの覇業は、わずか二年あまりでなしとげられた。

ここに、容貌も言語もまちまちな牧民たちが、テムジンという一個の権威者のもとに寄りあつまるかたちが生まれた。まさしく、政治連合体というほかはない。その牧民連合体の名として、指導者の出身集団の名をとって、「モンゴル」とされるのは自然のなりゆきであった。すなわち、いわゆる「モンゴル」とは、もともとささやかな集団の呼び名にもとづくのである。

# by satotak | 2006-01-27 11:38 | モンゴル | Trackback | Comments(0)
2006年 01月 26日
「民族」という用語
「中央アジアの歴史・社会・文化」(放送大学教育振興会 2004)の中で間野英二は言う。

「「中央アジアはさまざまな民族のるつぼである」と,よくいわれる。事実,現在,中央アジアにはウズべク,カザフ,キルギス,トルクメン,ウイグルなど,テュルク系の言語を使用する人々(テュルク系民族)や,…。
といっても,民族という言葉にはいろいろなニュアンスがある。…

民族という言葉ですぐ思い出されるのは,19 世紀のヨーロッパにおける民族主義(ナショナリズム)や民族自決などという場合の民族である。この場合,この民族という言葉には国家や民族への帰属意識アイデンティティーの問題が関係してくる。しかし,前近代の中央アジアにはこのような19 世紀のヨーロッパ的な民族は存在しなかった。もっとも,20 世紀になると,中央アジアでもこのような意味での「民族」が「創出」されたと考えられている。例えば,「ウズベク共和国のウズべク民族は,1924 年,ソ連によって創出され,その結果この国ではウズべクの民族文化やウズベクの民族主義など,近代のヨーロッパと共通する問題が論議された」などという場合の民族は,明らかに19 世紀のヨーロッパ的な民族である。しかし,この文章の「創出」という言葉にも込められているように,民族意識を持ったウズべク民族が,ソ連によるその「創出」以前に実際にどれほど存在したかなど,なお解明すべき問題はあまりにも多いのである。…

本書で一般的に使われる民族という言葉は,19 世紀のヨーロッパ的な民族の意味ではなく,別の意味で使われる。…例えば,中央アジア史を語る際に,「中央アジアのテュルク(トルコ)民族」とか「テュルク(トルコ)民族史」という表現をよく使う。しかしこの場合,この「テュルク民族」に,同じ民族としての共通の民族意識,帰属意識があったという証拠は全くない。また,これらの「テュルク民族」が「中央アジア」という地理的概念を知っていて,彼らがその中央アジアへの帰属意識を持っていたという証拠もない。…彼らの間にあった帰属意識は,同じオアシスの出身者としての同郷意識とか,同じ部族の出身者としての部族意識,チャガタィ語など同じ言語への帰属意識,さらに同じイスラーム教徒としてのイスラーム世界への帰属意識などに過ぎなかった。

それでも,私たちは「中央アジアのテュルク民族」という言葉を使用する。しかしこの言葉は,テュルク民族の民族としての意識(民族意識)などとは関係なく,中央アジアの外部にいる私たちが,中央アジアで「テュルク語系の言語を使用し,その言語によって文化活動を行ってきた人々 」を指して使用する便宜的な言葉に過ぎない。つまり民族という言葉を,言語を中心とする,広い意味での文化を共有する人々 を指して用いるのである。
もっとも,ここでもうーつ確認しておきたいことがある。それは中央アジアがバイリンガルの世界であるということである。例えば,中央アジアにはテュルク語とペルシア語,テュルク語と中国語,…系統の異なる2 系統の言語を日常的に並行的に使用している人々 が多い。そのような人々 を,使用する言語を基準にして,いったい何民族と呼ぶべきであろうか。あるいは,このような人々 の「母国語」とはいったいどの言葉なのであろうか。
そのように考えると,中央アジア史を語る際の「民族」の問題の難しさが改めて浮かび上がってくるのである。

ただし,本書では,このような問題があることは承知の上で,民族という言葉を,単純に,同一の共通する言語を使用する人々,そしてその言語を使用して形成された文化を共有する人々 を指すことにしたい。テュルク民族といえばテュルク語系の諸言語を使用し,それらの言語を用いて文化活動を行う人々 を,そしてカザフ民族といえばカザフ語というテュルク語の一方言を話し,この方言を使って文化活動を行う人々 を指す。そして,この場合,カザフ民族という民族の形成期を,カザフ語という,他のテュルク諸語とは区別される一方言の成立期に求めるのである。

なお,民族という言葉とともに人種という言葉がある。この言葉は,身長や頭の形,皮膚の色や毛髪,それに目の色など生物学的な特徴によって人類を分類する場合に用いられる。中央アジアは,はじめアーリア民族,すなわちアーリア語(インド・ヨーロッパ語)を使用する,おそらくは白色人種(コーカソイド)の世界であったが,そこに,9 〜10 世紀ごろからアルタイ系言語(テュルク語やモンゴル語,満州語)を使う黄色人種(モンゴロイド)が進出した。そして長年にわたる両者の混血の結果,今日の中央アジアはさまざまな人種的特徴を持つ人々が住む世界となっている。つまり,中央アジアは「民族のるつぼ」であるばかりでなく,また「人種のるつぼ」ともいえるのである。」

現在の民族問題を議論するときに、安易に歴史上の民族と結び付けるべきではない...ということか。
ウイグルにしても、モンゴルにしても...

# by satotak | 2006-01-26 09:08 | 民族 | Trackback(1) | Comments(2)
2006年 01月 25日
モンゴル系かテュルク(トルコ)系か
「モンゴルの歴史」(刀水書房 2002)の中で著者の宮脇淳子は次のように書いている。

「モンゴル高原ではじめて遊牧騎馬民の政治連合体、つまり遊牧帝国をつくった匈奴は、モンゴル系だったか、トルコ系だったか、という議論が、かつてわが国の東洋史学界で話題になった。いまでも一般書では、…モンゴル高原で興亡を繰り返した遊牧騎馬民について、モンゴル系かトルコ系か、とりあえず決めて叙述する。しかし、この命題には、重大な欠陥がいくつも存在する。
まず第一に、その系統が、人種のことを指しているのか、言語のことを指しているのか、はっきりしないことである。
第二に、モンゴルもトルコも、匈奴よりも後世に誕生した遊牧騎馬民の名称である。かれらより古い時代の遊牧民が、どちらに属していたか、どうして決められるだろう。

どちらかに決めようとしている人たちにとって、分類の基準は、人種の場合だと、形質学的特徴が、現在のモンゴル民族とトルコ民族のどちらにより近いか、ということになる。ところが、人種の区分でいえば、現在トルコ系に分類される人びとは、…大なり小なり、モンゴロイドとコーカソイドの混血である。古い時代に中央ユーラシアにいたコー力ソイドが西方と南方に移住し、そのあとでモンゴロイドの遊牧騎馬民が広がったと単純に考えると、西にいくほどコー力ソイドの血統が強く残っていることになる。一方、モンゴロイドという名称のもとになったモンゴル民族も、現代に至るまで、中央ユーラシアのさまざまな人種と混血してきたのだ。古代の遊牧民を、モンゴル系かトルコ系かに分類するなどということは不可能だ。

言語の系統の場合でも、分類の基準は、現代モンゴル語と現代トルコ語のどちらにより近いか、ということにすぎないのだが、中央ユーラシアに住む人びとの言語を、モンゴル系とトルコ系に分類したのは、十九世紀のヨーロッパの比較言語学者たちで、その研究の動機は、インド・ヨーロッパ語族に属する言語と区別するためだった。
わずかな単語が漢字に音訳されて残っているだけの匈奴のことばから、モンゴル系かトルコ系かを判断することはできない。十三世紀にモンゴル語が誕生した当時、今のようなトルコ語が存在したわけではない。長い歴史的経緯をへて、二つの系統に分かれたのだ。また、言語は生まれた後で習得するものだから、もともと人種とは関係がない。

そういうわけであるから、モンゴル高原で最初の遊牧帝国をつくった匈奴は、文化的にはまちがいなく、のちのモンゴル帝国の祖といえるが、血統がそのまま後世に伝わったとは考えにくい。…匈奴は、南方へ、あるいは西方へと何度も移住をしているし、そもそも遊牧帝国の支配集団と、被支配集団が、同じ人種だったとは限らないのである。」

この文章の中では、「民」・「人種」・「集団」と「民族」という用語を注意深く区別しているようであり、民族を考える上での示唆となる。

# by satotak | 2006-01-25 11:47 | 民族 | Trackback | Comments(0)
2006年 01月 24日
黒海の東部周辺 -グルジア、アルメニア、トルコ-
(産経新聞 1/24朝刊から)
ガス・パイプライン連続爆破露とグルジア関係悪化
ロシア南部で22日、グルジアとアルメニア向け天然ガス・パイプラインなど3ヵ所で連続爆破テロが発生し、両国へのロシアからのエネルギー供給が全面的に止まった。…
…連続爆破は、北カフカス全体の政治・経済の不安定化をもくろむチェチェン独立派武装勢力を含む反政府勢力のほか、グルジアに反発を強めるロシアの…
グルジアは、同国から分離独立しようとしている南オセチア自治州やアブハジア自治共和国などをロシアが支援し、…とロシアを批判。…」

グルジアのような小さい国の中で対立抗争する民族とは...?
日本には縁のないことと思っていたら、同紙1面のコラムに「沖縄では日本からの独立論が根強いらしい。...県民の4人に1人は独立すべきだと考えていた。...」とあった。「単一民族の日本」などと言って安住していると、独立を主張する沖縄人に台湾、中国が絡み大事になるかも。



「アルメニア人虐殺」史実発言 トルコ作家の起訴取下げ
トルコの人気作家オルハン・パムク氏が、20世紀初めのオスマン・トルコ帝国末期に起きたとされる「アルメニア人虐殺」は史実だと述べて国家侮辱罪に問われた裁判で、…イスタンブールの裁判所がパムク氏に対する起訴を取り下げたと報じた。
欧州連合(EU)加盟交渉を進めるイスラム国家トルコが、…EU側の反発を回避するため政治判断を下したと見られる。…」

「トルコに民族問題は存在しない」というのがトルコ政府(国民)の公式見解のようだが、アルメニア人やクルド人についての真実は?

大相撲の黒海からとんだ脱線をしてしまった。

# by satotak | 2006-01-24 09:08 | 民族紛争 | Trackback | Comments(0)
2006年 01月 23日
朝青龍、琴欧州、そして黒海は?
今年の初場所は久しぶりに日本人力士が優勝したが、外国人力士の活躍が目覚しい。
中でも…
朝青龍…言うまでもなくモンゴル人

琴欧州…ブルガリア人。ブルガリアは彼のしこ名のとおり欧州に含まれるが、14世紀末から長い間オスマントルコの支配下にあった。これはイスタンブルがオスマントルコ領になったよりも古い。
そもそも「ブルガリア」は「ブルガール」から派生したもののようだが、ブルガール人はテュルク系遊牧民族で、7世紀後半にドナウ川下流域にブルガリア帝国を建てたという。
琴欧州にもテュルクの血が?

黒海…はグルジアの人。グルジアは黒海を挟んでブルガリアと東西に対峙している小さい国だが、民族的には複雑。彼の一家も民族対立から起こった内戦で苦労した。
13-14世紀にはタタール、チムールが侵攻、16世紀以降はオスマントルコの支配を受ける。北にロシア、西にペルシャが控え、その支配は安定しなかったようだが…
黒海にもテュルク/モンゴルの血が流れている可能性は?

国際化した大相撲を見るとき、民族を想うのも面白い。

# by satotak | 2006-01-23 09:52 | 相撲 | Trackback | Comments(2)
2006年 01月 21日
民族:自分の関心は…
モンゴルに何が?
学校では試験の対象でしかなかった世界史に、主体的(?)関心を持ったのは社会人になってから。
断続的にあれこれ読み、聞き、そして見てきて、特に興味を覚えたのが民族移動と民族の起源。
・ 秦、漢を震撼させた匈奴
・ ゲルマン民族大移動の原因となったフン族
・ モンゴル帝国を築いたチンギスハーン
・ そして、さまざまな民族が東から西へ、北から南に動いていった
これらはいずれも元を辿れば、北(東)アジア、バイカル湖の南、現在のモンゴル国から起こったらしい。一体そこには何があったのか。民族が湧き出る不思議な泉でも…

テュルクとモンゴル
民族に関して、「テュルク(チュルク、トルコ)系」と「モンゴル系」という用語がよく出てくる。テュルク系とモンゴル系を分けるものは何なのか?
テュルク系はイスラム教を受容したもの、モンゴル系はチベット仏教、と単純に理解しようと思ったが、そうもいかないようだ。「匈奴はテュルク系か、モンゴル系か」といった議論があるが、匈奴が活躍するのはイスラム教成立以前のこと。

東トルキスタン独立運動と民族自決
中華人民共和国に含まれるとされている東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)では、民族自決を標榜した独立運動が根強く続いているという。
その中心はウイグル族…しかし彼らが己を「ウイグル族」と自覚したのは19世紀以降のことらしい。
現在の国際政治の中で、民族、民族自決、さらには国家(国民国家)の持つ意味は?そしてそれは永久不変の真理なのか?

# by satotak | 2006-01-21 12:58 | 民族 | Trackback | Comments(0)
2006年 01月 20日
iPowerWebに申込む
(1/16) レンタルサーバとして、iPowerWebに申込む。使用料95.4USD/年。
・ クレジットカードと身分証明書のコピーをFaxで送れとの連絡があり、BiglobeメールのFax送信サービスで送る。
・ iPowerWebにしたのは、以前トルコにいる友人からHPの作り方について相談を受けたが、彼が使っていたのがiPowerWebだったから。それに調べてみると有力サービスでもあるようだ。

(1/17) Invoice(請求明細)は届くが、セットアップ情報が来ない。

(1/18) 未だ セットアップ情報が来ない??...と思ったが、調べてみると何故か「迷惑メール」ホルダ」に入っていた。ともかく一安心!
・ ディレクトリとメールアカウントの設定、仮トップページの作成は簡単にできた。
・ ブログツール(WordPress)も備わっているが、使い方を調べるのが億劫。ブログは暫時Exciteを使うことにする。

(1/19) サブドメインを申込む。これが有効になるのは24〜48時間後とのこと。

(1/20) サブドメインが有効になる。
 ・「テュルク&モンゴル」サイトのアドレスは: http://ethnos.takoffc.info

# by satotak | 2006-01-20 11:18 | サイト運営 | Trackback | Comments(2)
2006年 01月 19日
Webサイトを準備中
「テュルク&モンゴル」と称して、「民族」をテーマにWebサイトの準備を始めた。
民族とは何か。
民族はどこから起こり、どこに行くのか。
そして国家との関係は?
これらについてテュルク系民族とモンゴル系民族を中心に見ていく。

これまで長い間疑問に思っていたこと、そして最近の民族問題などについても自分なりに整理してみたい。

このブログではまずは当サイトの準備状況を記録していく。テーマとは直接関係ないが…

# by satotak | 2006-01-19 12:48 | サイト運営 | Trackback | Comments(0)