テュルク化の進展 -天山ウイグル王国- [2006-02-27 08:05 by satotak] ウイグル帝国の崩壊、そして南遷・西遷 [2006-02-24 12:42 by satotak] 「ウイグル」という名前 [2006-02-22 08:39 by satotak] ウイグル帝国 起つ [2006-02-20 08:55 by satotak] 現代モンゴルの悲哀 [2006-02-17 04:30 by satotak] 突厥からウイグルへ [2006-02-15 15:01 by satotak] 「西遊記」考 [2006-02-13 11:50 by satotak] 突厥帝国の繁栄 [2006-02-10 12:33 by satotak] 突厥、鉄勒、突騎施…? [2006-02-08 20:38 by satotak] トルコの現地ガイドに脱帽! −アタチュルク精神は今も健在 − [2006-02-06 09:33 by satotak] 突厥帝国 −テュルクの勃興− [2006-02-03 20:58 by satotak] バーブル −テュルク/モンゴル、インドへ− [2006-02-02 21:42 by satotak] テュルクの起源 [2006-02-01 20:56 by satotak] 2006年 02月 27日
「中央アジアの歴史・社会・文化」(放送大学教育振興会 2004)より(筆者:間野英二): …移動したウイグル人らのうち,天山東部に向かった者たちは,850年代には天山北麓のビシュバリク(かつて唐の北庭都護府が置かれた都市)を占領し,60年代にはトルファン盆地一帯をも支配下に収めた。彼らはさらにその勢力を西方に伸ばし,カラシャフル,クチャなど天山南麓のオアシス都市をも制圧し,これらの地方を支配する天山ウイグル王国(あるいは西ウイグル王国)を樹立した。もっとも,天山ウイグル王国の支配がクチャなどよりも,さらに西方にまで及んでいたとする説もある。この天山ウイグル王国は,12世紀にカラキタイ,13世紀にモンゴルの支配を受けたものの,13 世紀末まで存続し,中央アジアのテュルク化(注1)に大きな役割を果たした。また,この天山ウイグル王国のウイグル人たちが,前代のソグド人の交易活動を継承して,国際的な商人としても活躍した… この天山ウイグル王国の時代に中央アジアのテュルク化が進んだことを最も明瞭に示すのは,天山ウイグル王国の領域から発見された多数の古ウイグル語の文献である。なお,この古ウイグル語という名称は,現在の新疆ウイグル自治区でウイグル族によって使用されているウイグル語(新ウイグル語)と区別するために使われる名称である。 この古ウイグル語について…草原時代のウイグル人達は,自らの言語を表記するのに突厥と同じ突厥文字を用いていた。しかしこの突厥文字は,本来,碑文など石に刻みこむ目的で考案された文字で,紙などに書くには不便であった。…移住後のウイグル人達はウイグル文字と呼ばれる新しい文字を使用し始め,この文字で書かれた多数の文献(ウイグル文献)を残した。このウイグル文字を使用して書写された言語を古ウイグル語と呼ぶのである。もっとも古ウイグル語はブラーフミー文字など,他の文字で書写されることもある。 このウイグル文字はウイグル人が自らが作り出した文字ではない。この文字は,遊牧国家ウイグルの内部に進出し,ウイグル人の文化に大きな影響を及ぼしたソグド人のソグド文字を借用したものであり,その意味では新ソグド文字と呼ぶこともできる。そしてこのウイグル文字がやがて13 世紀のモンゴル民族にも採用されてモンゴル文字となり,さらに17世紀には満州民族にも伝えられて満州文字となるのである。… 天山ウイグル王国の貴人たち 宋の使節が見た天山ウイグル 「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974) より(筆者:護 雅夫): …982(太平興国7)年、宋の使節団の一行がこの王国を訪れた。その団長王延徳は、『使高昌記』 などとよばれる旅行記を残したが、…「その都城高昌では雨や雪は降らず、大変暑い。だからここの住民は、暑さがきびしくなるごとに、地面に穴を掘って住み、烏も熱気で飛べない。屋室は白っぽい土でおおわれ、雨が五寸も降ると、多くの家屋は崩れてしまう。天山から流れだす水を引いて高昌のまわりをとりまき、田畑を濯概し、水車を動かす。五穀は何でも産するが、蕎麦だけはない。」…「アジアの井戸」と称されるトゥルファン盆地の高昌、そこでのオアシス灌漑農業の姿がみごとに描きだされているではないか。…「貴人は馬肉を食べるが、ほかの住民は羊肉と鳥肉を常食とする。音楽を奏するには多く琵琶・ハープを用いる。農産物以外には、もめんその他の布を産する」。… …「仏教寺院は50余カ所を数える。それらにはみな唐朝からの賜額が掲げられ、寺院内には大蔵経を始め唐韻・玉篇・経音など、中国の書物がある。・・・・・・また、勅書楼があり、そこには唐の太宗の詔勅が謹んで所蔵されている。マニ教寺院があり、『波斯僧』 がいて、おのおのその法を厳重に行なっている」…彼が、「その国内には貧民がおらず、食糧に苦しむ者があれば、みながこれに施してやる。」と述べるのは、その国人の宗教心の篤さを示すものでもあろうか。 王延徳らが高昌に到着したときには、可汗の獅子王(アルスラン・ハン)は、天山北麓の北廷(ビシュバリク)へ避暑に赴いており、…そこで、使節一行ははるばる天山の険を越えて北廷に着き、羊馬の肉でもてなされた。王延徳は、天山山脈の北方にひろがる「北廷川(ビシュバリク草原)」について、…「王・王后・太子は、各々に、馬を飼い、それらを草原百余里にわたって放牧し、毛色によってそれぞれの群に分けているが、その頭数は数えきれぬ。ビシュバリク草原は数千里にも広がって、そこには様々の烏類が住み、美草が茂っているが、それらは花をつけない。砂鼠がいて、人々の食物となっている」…「旧来の遊牧の風習」が「こんな形で王族にまで保持されていた」ことはこれで明らかである…。しかし、ここで、遊牧において最も重要な家畜、羊に言及されていないのは、彼らがすでに典型的な遊牧民ではなかったことを物語るものではあるまいか。 …使節団がうけた接待の模様からも、可汗一族を中心とする貴人たちの生活が想像される。これらの貴人が、オアシス農民を支配したウイグル人であることはいうまでもない。彼らは、避暑地の草原では馬を放牧してはいたものの、すでに、かつてのモンゴル高原におけるごとき典型的遊牧生活を忘れ、定住的オアシス都市 −「〔ビシュバリク〕城中には楼台・卉木多し」という− に住み着いていたと見てよい。... (注1) 「テュルク化」とは「中央アジア オアシス地帯の、ソグド人・サカ人・トハーラ人といったアーリヤ系定住民が、従来彼らが使用していた印欧語系統の諸言語に代わって、テュルク語を話すようになる現象」をさす。 2006年 02月 24日
杉山正明著「遊牧民からみた世界史」(日本経済新聞社 1997)より: …きっかけは、ウイグルと中央ユーラシアであった。840年、しばらくまえよりモンゴル高原には天災が頻発し、それに起因する牧民の動揺と内乱で、ウイグル帝国は騒然とした状態におちいった。連合体の結束に、ひどくゆるみが生じたところを、西北モンゴリアのキルギス連合が、オルコン・トーラの中核地域を急襲した。 肝心の中枢部が壊滅したウイグル遊牧帝国は、信じられないほど呆気なく崩壊した。「ウイグル時代」と呼んでもいいほどの栄華は、けっきょく100年にも満たずに消えうせた。 ウイグルという名のもとに、重層構造の連合体をつくっていた各部分は、それぞれ自分のために走りだした。…遊牧連合体の主軸であったウイグル国人たちは、混乱・疲弊するモンゴル高原を離れ、中華本土の北境や河西廻廊、天山方面へと、数個の群れをなして移住していった。これが、大変動のひきがねであった。 ウイグルという軍事庇護者が解体したうえ、その潰残部隊の一部が援助をもとめて北辺に到来した唐朝では、…キルギスと組んで追討に決した。しかし、キルギスは草原世界をまとめることはできず、ウイグルの代役とはなれなかった。ウイグル連合体の外延部にいた諸族も、自立化への道をえらんだ結果、アジア東方全域が政治混乱した。なお、こののちモンゴル帝国の出現まで、およそ三世紀半、ユーラシアの東方草原に統一勢力はあらわれない。 …中華本土にも、やがて塩の闇商人の黄巣の大反乱がおこり、もともとジリ貧だった唐朝は、とどめを刺されて滅亡にいたる(907年)。これを皮切りに、唐帝国の刺激と、その国家システムに影響されて形成された新羅、渤海、南詔なども、10世紀はじめ、一斉に交替した。… [拡大図] 「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974) より(筆者:護 雅夫): 甘州ウイグル王国 西走したウイグル十五部について、「西のかたカルルクに奔り、一支は吐蕃に投じ、一支は安西に投ず」、つまり、彼らがさらに三派に分れ、それぞれ別の運命を切り開いていったことが伝えられている。 西進したウイグル国人の一派は、南下して、まず、ガシュン・ソゴ両湖(ノール)近辺に拠り、そこから河西に入ろうとしていたらしい。 …河西地域は、まだ吐蕃の勢力範囲と見なされていたのであろう。上に引用した「吐蕃に投ず」の一句中の「吐蕃」とは、河西を指すと思われる。… ゴビの西南辺 −ガシュン・ソゴ両湖(ノール)近傍− で遊牧することほぼ半世紀、890年代に、張氏政権内部で叛乱が生じたのに乗じて、これら「吐蕃に投ず」と称されたウイグルの一派は、エチン-ゴール川沿いに南下して甘州(張掖)を占拠し、さらに粛州(酒泉)に進出するにいたった。かつてモンゴル高原で遊牧していたウイグルの一部が、これらの地域の原住オアシス農耕民を支配し、ここに、草原ならぬオアシス都市に拠る王国を建設したのである。甘州回鶻(ウイグル)と呼ばれるものがこれである。この結果、河西地域には、東の甘州を中心とするウイグル人王国と、西の沙州を本拠とする張氏の漢人王国とが並び立つことになった。 この甘州ウイグル王国の可汗は、モンゴル高原におけるウイグル遊牧国家のそれと同じくヤグラカル氏から出ていた。前述のごとく、遊牧ウイグルの可汗位は、795(貞元11)年、エディズ氏に占められた。しかし、…甘州に建国するにいたったウイグルが、依然、ヤグラカル氏一門のものを可汗として奉じているというこの事実のなかに、…かつて支配氏族として君臨した同氏族の権威がいまなお失われていない証拠をみてとらねばなるまい。(注1)… 甘州ウイグル王国の可汗はその張掖県城の内部に住み、「常に楼居す」と伝えられるが、「カガンのみならず多くの貴族層はすぐ城市生活になじんだであろう」…。婦人が高さ五、六寸の髻(もとどり)を結って髪飾りをつけ、…という中国史書の記述は、敦煌の壁画に描かれた甘州ウイグルの貴婦人像がこれを証明する。彼らは、その地が「オアシス-ルート」の要衝を占めたため、西方諸国と宋・遼・金などとの間の仲継貿易、隊商からの貢納徴収などによる商利を重要な経済的基礎としていたらしい。 「農村周辺の牧地はもちろん、遠くガシュ-ノール方面で遊牧生活を送るもののいた…」が…、一般住民の主要生業はやはりオアシス農業と商業とで、これらに従事する農民・商人のなかには、かつての遊牧民の子孫の姿も見られたにちがいない。 この甘州ウイグル王国と、その西方、沙州を本拠に建てられた漢人王国 −初め張氏、のち…曹氏の− とのあいだには通婚も行なわれ、だいたい友好的な関係が保たれていた。 しかし、11世紀になると、東方からチべット系のタングート −のちに西夏王国を建設する− の攻撃を受け、甘州は陥落して、そのウイグル王国は瓦解し(1026年)、まもなく沙州の曹氏王国も命脈を絶たれた。今日、青海地方に残るサリフ-ウイグルは、甘州ウイグルの後裔であるといわれる。 (注1) 他の資料には、「ヤグラカル氏率いる一派は、中国の辺境・伊州へ逃亡。間もなく甘州・沙州をも占領、「甘沙州ウイグル」を建国した。…王族エディズ(アティ)氏一派は、トルキスタン方面へ西走、トゥルファン盆地の要衝ビシュバリクンに権力を確立(「西ウイグル国」または「高昌ウイグル王国」)。…」とあり、こちらの方が説得力あるように思われる。 2006年 02月 22日
ウイグル人のエリキン・エズィズ氏(Erkin Ezizi、カシュガル出身、現在トルコ在住)が2000年に書いたもの。分かり難い言い回しがあるが、原文のまま掲載する: 歴史家が20世紀の20年代から「ウイグル」と言う名前について研究を始めた。 1. 20世紀の20年代にRadlof先生は: ...彼ら(ウイグル人、伝説のトルコ語で話す民の祖父)は「神様」を信仰する為に自分の叔父さん達、友達など多くの部族と戦争しなければならなかった。戦争中にその民の一部は祖父に協力し、一部はそれに反対して戦って負けてから服従した。彼らは勝利を勝ちとってから、勝利式を行って自分の民と部族のアクサカル(知事、リーダー)、戦士達を誉めて、統一したこの部族等の名前を「ウイグル」と呼んでいた。この名詞は「連合した人達」、「協力した人達」と言う意味を表していた。それからこの名前を部族連合に参加した民だけではなく、彼らの部下、子孫なども自分の名前として用いてきた。... Radlof先生はこの定義を、西暦16世紀に書かれた「Tarihi Rashidiye」(ラシード史)の第一章を参考にして、「Kut Atgu Bilik」(中国語に「福楽智恵」と翻訳された、意味は幸せを与える知識)の為に書いた「前書き」を通して発表していた。その後、この定義を証拠とする人が増えた。 2. 上述の定義の前に、17世紀の歴史家のObulghaziさんは「Shejere’i Turk」(突厥部族史)と言う本に: ...Oghuzhan(オグズハン)は彼らに「ウイグル」と名前を付けた。これは突厥語で、「ウイグル」ということはみんな知っている「集まる」、「固まる」と言う意味である。ミルクは固まったらヨーグルトになる。それに似ていることだ...と説明していた。 3. 上述の定義以前に、西暦11世紀に言語学者Mahmut Kashgariが書いた「トルコ語大辞典」に: Zulqerneyin(アレクサンダー大王)がトルコ国に近づいた時に、トルコ王はそれに抵抗する為に4000人の兵隊を派遣した。彼らの帽子は鷹の翼に似ていて、弓の弾を前方と同じように後ろにもその水準で上手く打っていた。Zulqerneyin(アレクサンダー大王)はこれを見て驚いて、「Inan Huz’hurend」(意味は、彼らは(他の)人に依らず、自分の食料品を取って食べられる人達だ、彼らの前から野生動物は逃げられそうもない、好きな時に取って食べられる。)と述べていた。 「トルコ語大辞典」にMahmut Kashgariさんは「Huz’hur」という単語の音便規律について説明している:「H」は「i」に、「z」は「y」に、「h」は時には「gh」に変わることも常にある。そして「Huz’hur」は「Uigur」,「Uyghur」)になっている。 2006年 02月 20日
杉山正明著「遊牧民からみた世界史」(日本経済新聞社 1997)より: ...東突厥は、744年、ウイグル族を中核とするトクズ・オグズ(九姓鉄勒)連合によって倒された。トクズ・オグズも、テュルク系であった。ありようは、300年の伝統をもつ旧来の支配者の阿史那氏から、ウイグル王族のヤグラカル氏を頂点とする体制へ、テュルク族の連合体の組みかえがおこなわれただけともいえる。 ウイグル遊牧帝国がモンゴル高原を本拠地に出現してから10年後、755年に唐朝中国に大動乱がおこった。いわゆる「安史の乱」である。... 崩壊しかけた唐朝の支配は、新興のウイグル遊牧国家の援軍によって救われた。ウイグル側からすれば、たんに唐朝からの救援要請にこたえたというだけでなく、自分達が倒した東突厥が、安氏王朝と姿を変えて、中華帝国として復活するのを座視できなかった面も考えられる。... これを機に、アジア東方における主役は、交代した。 すでに、唐は、「安史の乱」にさきだつ751年、天山北麓のタラス河畔で、東進してきたアッバース朝のムスリム軍に敗れ(紙の製怯が西伝したことで有名)、なんとか中央アジア方面で保持していた地盤も失っていた。唐朝の威信は、これに内外両面で傾いた。 以後の唐朝は、急速に弱体化・無力化した。...王朝断代史風にいえば、290年にもおよぶ唐王朝は、そのじつ無力になってからのほうが少し長いくらいの政権なのであった。 下降線に入った唐とは反対に、ウイグル遊牧国家は、唐もアッバース朝も、結局は手を引いた中央アジアにも手を伸ばした。おなじくテュルク系の遊牧集団カルルクなどを服属させたウイグル連合体は、一気に東方世界の最強国として君臨することになった。 ウイグルは、事実上で庇護下においた唐朝とは、軍事力とそれによる安全保障を提供する見返りに銀を中心とする巨額の経済支援をうける和親関係をむすんだ。これは唐朝中央政府の財政を極度に逼迫させ、... 唐朝中国に、ティベット高原の吐蕃が進攻すれば、ウイグル騎馬軍団が出動した。…ウイグルは、アジア東方における「国際警察力」となったといっていい。 ウイグルの主導は、政治・軍事にとどまらなかった。突厥いらい、テュルク国家とのえにしを深めるソグド商業勢力とむすんだウイグルは、ソグド人の隊商たちを使い、庇護国とした唐朝中国に、馬を運び絹をもちかえる「絹馬貿易」をくりひろげた。長安には、常時、千人をこすソグド商人団が駐在したという。もちろん、国際商品の絹は、ソグド商人の通商網に乗せられて、中央アジアやそれ以西に転売された。 かくて、ウイグルは、唐朝中国からの経済提供とソグド商人と一体化した国際貿易とによって、かつてない軍事力と資金力をかねそなえる遊牧国家となった。これを、「帝国」と呼んでも、さしつかえないだろう。 ウイグル遊牧帝国のユニークさは、それだけではなかった。ウイグル中央権力が直接に遊牧移動圏とするエリアのただなかに、けっして大きくはないが、それでもそれなりの規模と機能をもつ都市を、みずからすすんでしつらえたのである。すなわち、ウイグルは、匈奴帝国いらいモンゴル高原に根拠する遊牧国家の伝統どおり、オルコン・トーラ両河の上流草原に、「王庭」をおいていた。そのなかに、テュルク-モンゴル語で「オルド・バリク」(本営の町の意)と呼ばれる城郭都市をきずいたのである。 城内には、おもにソグド商人などの「定住民」が入居し、支配者のウイグル王族以下の人びとは、必要がない限り入城せず、周辺の草原で天幕をかまえて暮らした。政治・経済装置としての側面に、いちじるしく傾斜した「人造都市」であったといえる。 こうしたありかたは、これより500年ちかくのち、モンゴル帝国のはじめころ、オルド・バリクのごく付近に首都カラ・コルムが営まれたが、じつはそれと大きくは変わらないだろう。ともに、「草原のメトロ・ポリス」ではあったものの、支配者が住むためでなく、政権を保持するために集められた官僚・商人・工匠が住み、各種の物資・食糧・兵器が備蓄された都市だったからである。 なお、ウイグル帝国のオルド・バリクの遺構は、モンゴル時代にも、ほとんど往昔の姿のままで佇んでいたことは、当時の数多くのペルシャ語・漢語・ラテン語の記録にみえる。さらに、近現代では、モンゴル語で「カラ・バルガスン」(黒い城市、さらに廃墟となった都市の意)と呼ばれ、いまは城壁もなだらかな隆起(マウンド)と化しているが、なんと今世紀初頭の報告書では、なお高々とした囲壁がのこっていたらしい。 ...遊牧国家が小規模な集落や固定施設を営むことは稀れではなかったが、政権中枢が直下の幕営地に、政権としての必要から本格都市をかまえたことの意義は、やはり大きい。中央ユーラシアに興亡した遊牧国家の歴史を通観すると、ウイグルをもって、あらたな時代が始まったといっていい。 ひるがえって、744年の突厥・ウイグルの交替、750年のアッバース朝の「革命」、751年のタラス河畔の戦い、そして755年からの「安史の乱」と、八世紀なかばのユーラシアは、いくつかの激震と再編があいつぎ、それなりの画期ではあった。しかし、よりマクロな目で歴史を眺めわたすと、つぎにくる大変動にくらべれば、なおささやかな組みかえにすぎなかった。 8世紀後半の世界[拡大図] ウイグル部族連合体国家 間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史?」(講談社 1977)より: いま、この遊牧国家の構造を、8世紀末以前のウイグル国家を例に説明してみよう。ここに示した図からも明らかなように、ウイグル遊牧国家は、ハガンを出すヤグラカル氏族をはじめとする、九つの氏族から構成されたウイグル部族が、他のボクト、フンといった八つの部族と連合して、ウイグル部族連合体(九姓鉄勒ともいわれた)を形成し、この部族連合体が、連合体の外に存在したバシュミルなどの他の部族ないし部族連台体を、支配下に収めることによって成立していた国家であった。そして、このウイグル国の国会(クリルタイ)に参加する遊牧貴族たちとは、ウイグル部族をはじめとする、九つの支配部族の支配者たちであったに相違ない。 ところで、このような基本的構造を持った遊牧国家では、各遊牧部族は、また同時に、その国家の軍隊を構成するもっとも重要な単位となった。普通、遊牧国家の軍隊は、ハガンを警護する親衛隊を別にすれば、十人隊、百人隊、千人隊、万人隊という、十進法にもとづく軍事組織を所有した。しかし、これらの大小の軍団は、兵時にあたって特別に編成された軍団ではなく、それらは、平時における氏族・部族組織そのものであった。 つまり、百人程度の氏族員を持つ氏族の長は、その氏族をひきいて百人隊を形造り、千人ほどの部族員をもつ部族長は、その部族をひきいて千人隊を構成する。すなわち、遊牧国家の軍隊は、日常的な社会組織を、ほぼそのままの形で軍事組織として利用することによって成り立った軍隊であった。そしてその意味において、平時における氏族長とか部族長は、同時に、遊牧国家の軍隊の、大小の単位の指揮者としての任務をも常にかねそなえた人物たちであったといってよい。このような、兵と民との完全な一致が、遊牧国家の軍事的エネルギーの根源であった。 2006年 02月 17日
小長谷有紀著「モンゴルの二十世紀 社会主義を生きた人びとの証言」(中央公論新社 2004)より: 13世紀以来、モンゴル高原の主人公であったモンゴル人たちにとって、20世紀とは明確な国境によって同胞がソ連、中国、モンゴルの三つの国に分断された時代である。 1911年の辛亥革命によって清朝の支配がゆらぐとともに、民族を統一する動きが起こる。 にもかかわらず、中国、ロシア、日本などの列強の干渉によって統一は容易ではなく、先がけて庫倫(クーロン)(現在のウランバートル)で1912年にモンゴル人民党による政府が樹立された。そして1924年、それまで名目上の首座に居た活仏が寂滅すると、これを契機として、モンゴル人民共和国の成立が宣言された。大国のはざまにあって唯一、民族自治の果たされる独立国家として「モンゴル」が成立したのである。 現代モンゴル図 [拡大図] 中国からの直接的な干渉は、その後に中国内蒙古自治区となる地域のモンゴル人がもっぱらひきうけた。また同様に、ソ連からの直接的な干渉は、後にブリヤート共和国になるモンゴル人がひきうけた、と言えよう。いわば南北双方に緩衝地帯が存在したのである。それゆえに、モンゴル人は国境によって分断されながらも、唯一の独立国家としてモンゴルを維持することができたように思われる。 こうして20世紀初頭、モンゴル人民共和国は、ソ連につぐ世界で二番目の社会主義国としての道を歩みはじめる。 ・・・1939年に東部国境付近でハルハ川戦争(日本ではノモンハン事件と呼ばれている)が起きると、国土を守るという目的のために、ソ連から大量の軍隊が投入された。第二次世界大戦が終結してもなお、そうしたソ連との協調は変わらず、…実質的にはソビエト連邦の十六番目の共和国である、とさえ言われた。… …1989年、ソ連におけるペレストロイカの影響を受けてモンゴルでも民主化運動が活発になり、1990年に人民革命党による一党独裁制が放棄され、1992年にモンゴル国に生まれ変わった。すなわち、モンゴルにとって二十世紀とは「社会主義の選択とその放棄」という大きなうねりを経験する時代なのである。… …「未開地の開墾」というスローガンのもとで、1960年に20万ヘクタールだった農地は30年間で80万ヘクタールに増加した。こうした本格的な開拓期を率いた若手の一人が、ゴンガードルジ氏である。… 彼がその半生を傾けて作り上げた農業部門、とりわけ穀類の生産部門は、現在ほぼ壊滅状態にあると言っても過言ではない。20世紀を通じて粉骨砕身してきたことが、国の前で瓦解したときの悲しみは計り知れない。… …社会主義を背負って国づくりにいそしんできた人びとにとって、過去はあくまでも美しいにちがいない。しかし、その過去には、背後にいつも危険がひそんでいた。社会の幸福という名目のもとに、個人を不幸におとしめる、そんな大いなる誤りをおかす危険性は、つねにここかしこに潜在しており、そして実際に、いくつもの過ちがくりかえされた。… 社会主義の建設という名目のもとで、半世紀をかけて得られた実りも、失うには一瞬で事足りる。失ったものの大きさは、いまや政治的立場の違いを超えて、多くの人びとに共通する喪失感を生み出している。 創造に没頭した過去をどれほど礼賛したところで、失ったものはもはや戻らないし、破壊に傾倒した過去をどれほど批判したところで、やはりもとには戻らない。そしてまた実は、創造と同時に破壊は一方で並行して存在していたし、だから破壊もまた創造の一過程であるのかもしれない。… 第5章 ...人民作家...プレブドルジは語る ...何世紀ものあいだ、ほとんど何の関係もなかった日本とモンゴルが敵対する歴史はそこからはじまったのです。このような状況は長年のあいだ続きました。そして、両国の関係がよくなる発端が「ゴビ・コンビナート建設」で拓かれたというわけです。 新しい時代には、かつての敵だった日本人が、モンゴルに来るようになりました。単に来るのではなくて、私たちを助けるというのです。いまや私たちはまったく異なる関係になりました。 これは、まったくもって、たった一世紀のあいだに起こっていることで、...そもそも、モンゴル人が日本人を助けたという証拠は歴史にありません。また私たちモンゴル人もまた日本人の助けなしにここまで来ました。それなのに、今はどうして一方が援助国になり、一方が被援助国になっているのでしょうか? これは誰のために必要な助けなのでしょうか? この援助はモンゴルに必要なものなのでしょうか? 私はときおりいぶかしく思います。私は援助なしに生活したいものだと思います。しかし、援助しようという日本人の善意を私たちは受け取らなければなりません。私のように考えるモンゴル人は多いのです。人の助けで生きるのではなく、人を助けて生きているのが遊牧民の性質です。どうして日本政府はモンゴルを援助すべきだとみなすのでしょうか? 私はこの問題に対して今まで解答を得ていません。 日本とモンゴルの関係は良い方向に変化しているでしょう? 日本人はどう見ているのでしょうか? 私はこの点についてわかりません。関係がさらに悪化するということだってありえるでしょう? モンゴル人が日本人と会ってはならない時代があったくらいですよ。... 2006年 02月 15日
「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974) より(筆者:護 雅夫): 西突厥の中央アジア支配 西面可汗が亀茲(クチャ)の東北、大ユルドゥズの渓谷に拠っていた…が、中央アジアの突厥が独立して、いわゆる西突厥となってからも、しばらくのあいだ、その可汗はここを本拠としていた。… …統葉護(トン・ヤブグ)可汗…の治世、七世紀の前半に、西突厥は黄金時代を迎えたが、それは、彼の即位が中国における隋末唐初の動乱期にあたっていたことと無関係ではあるまい。彼は、即位の当初、その本拠を大ユルドゥズの渓谷から引きはらって、これを、…千泉に移したが、のちに、西部天山山脈の北方、チュー川流域の砕葉(スーイ・アーブ)を基地とし、千泉は、これを避暑地として保持したと考えられる。要するに、彼は、砕葉からその西方千泉にかけて点在するオアシス群に拠るにいたったのである。 …何時のころからか明らかでないが、西突厥諸部は十部に分けられ、それぞれの首領はそのシンボルとして一本の矢を与えられていた。突厥碑文で、西突厥が「十本の矢」(オン・オク)と称されているのはこれに由来する。これら十部は、…咄陸(とつりく)五部と、…弩失畢(どしつひつ)五部との二群に大別されていた…。これらの二大群は、やがておのおのの可汗を擁立して対抗し、弩失畢五部の可汗のなかには、唐の冊立をうけ、一時は、イリ川以南の天山山脈中から焉耆(カラシャフル)を東端とするタリム盆地、ソグド諸国、さらにはアフガニスタン北部にまで勢力をおよぼしたものもいた。しかし、西突厥の衰勢はもはや誰の眼にも明らかであった。 突騎施(チュルギシュ)、西突厥を倒す …天山山脈の北方では新しい事態が生じていた。上述のように、西突厥の阿史那氏一門の可汗が威信を失い、その地位が唐に左右されるようになると、西突厥十部、とくにその東方の咄陸(とつりく)五部の一つとしてイリ川上・中流域に遊牧していた突騎施(チュルギシュ)の烏質勒(うしつろく)なるもののもとにしだいに台頭して、本拠を砕葉に移し(703年ごろ)、唐がその傀儡として冊立していた西突厥の可汗を中国内地へ駆逐するにいたったのである。この結果、阿史那氏を支配氏族とする西突厥国家は崩壊し、唐の勢力はここから撤退して、突騎施がこれに代わり、その支配圏は、東方では亀茲の東北方にまで達した。… 突騎施の烏質勒が砕葉に拠ったのが703年ごろ、そして蘇禄の死が738年ごろ。このほぼ35年間が、突騎施の全盛時代と見てよかろう。 蘇禄が暗殺されると、突騎施では内紛がつづき、唐は、これに乗じて、740(開元28)年、西突厥のかつての王族の一人、阿史那?を可汗に冊立し、突騎施の遺衆を招撫させようとした。…この処置にたいして突騎施では不満が爆発したが、結局、突騎施は、「みな、相率いて〔唐に〕降る」にいたった。 東突厥国家崩壊す …登利(テングリ)可汗(「天可汗」)が即位すると、玄宗は、735(開元23)年、これとも父・子関係を結んだ。さらに、登利は、740(開元28)年、唐の冊立をうけ、その上表文中で玄宗を「天可汗」、みずからを「奴」とよぶにいたった。… 登利可汗が年少で即位したためもあって、…彼の治世は、その初期から国政が乱れていた。そしそのゆきつくところ、可汗は支配者層 −阿史那氏一族− 内部の権力闘争にまきこまれ、冊立うけたその翌年、早くも殺されるにいたった。… 突厭国家の崩壊も間近い。果せるかな、こうした気運に乗じて、九姓鉄勒に属したウイグルが、カルルク・バスミルとともに反乱を起し、やがて、744(天宝3)年、ウイグルのクトルグ・ボイラが自立してクトルグ・ビルゲ・キョル(「天の幸もち、賢明にして、智慧湖のごとき可汗」)と称するにおよんで、突厥第二帝国は瓦解し、「その地、尽くウイグルに入れり」。つまり、モンゴル高原には、突厥国家に代わって、ウイグル遊牧国家が成立したのである。 2006年 02月 13日
今年正月からテレビで「西遊記」が始まり、意外にも(?)けっこう人気があるという。 私にとって、テレビの「西遊記」といえば、夏目雅子と堺正章なのだが。 ところで、「西遊記」を民族の色眼鏡で見ると、何が見えるか。 西遊記の三蔵法師のモデル、玄奘が唐の都・長安を出発したのが628年。まず西行して高昌国、亀茲(クチャ)を経て、天山山脈を北に横断、西突厥の砕葉城(スイアーブ)へ。そこにしばらく(数日?)滞在し、それから南行してインドへ…長安に戻ったのは644年だった。そして行く途中でまず孫悟空、次に猪八戒、さらに沙悟浄が供に加わる。 とすれば、孫悟空はテュルク系だったのではないか…と妄想が広がる。 三蔵法師が岩山の下から孫悟空を助け出したのは、両界山(別名五行山)。両界山の東側が唐の地で、西側が韃靼(だつたん)の地だという。あれこれ考えると、孫悟空はテュルク系というよりは、ソグド人の方がよりピッタリくる。 ソグド人は、ソグディニア(アラル海の東、アム川とシル河の間)を故地とするイラン系民族。自らは大国を建てたことはないが、当時の中央アジア、北東アジアで商人として広く活躍していた。いや商人としてだけではない。突厥など各国の政治、経済に深く関与していた。近現代の欧米におけるユダヤ人のような存在か。 10日に書いた突厥から東ローマ帝国へ赴いた使節団の団長もソグド人だった。7世紀以後、伊吾(ハミ)、タクラマカン砂漠の東南端等にソグド人集落のあったことが知られている。 孫悟空の次に一行に加わったのが猪八戒。彼は烏斯蔵(うしぞう)国で婿養子になっていた。烏斯蔵とはチベットのことで、玄奘の実際のコースからは外れているようにみえる。しかし7〜9世紀は吐蕃(チベット)が大きく発展した時期で、その勢力は西域南道から安西四鎮に及び、シルクロードを支配したこともあった。とすれば、チベットの猪八戒が三蔵法師と接触しても、それほど荒唐無稽とは言えない!!??(もともとが荒唐無稽な話なのだが)。 そして沙悟浄が住んでいたのが流沙河(りゅうさが)。河とあるが沙漠のことだとする説もあるようだ。いずれにしてもタリム川あるいはタクラマカン沙漠の西の方か。当時西突厥の支配はタリム盆地のオアシス地帯にも及んでいた。沙悟浄こそテュルク系か。 [拡大図]
2006年 02月 10日
「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974)より(執筆:護 雅夫): …マニアク(注1)使節団は、…コーカサスを越えて黒海に出、コンスタンティノープルに到着した(568年)。一行は東ローマ皇帝ユスティヌス二世の歓待をうけ、友好のちぎりを結んだ。これは、サーサーン朝に対抗する攻守同盟であったが、そのなかには、サーサーン朝の仲継を経ず、突厥と東ローマ帝国とが直接に絹取引を行なう旨の確約もふくまれていたと思われる。マニアクたちは、その同じ年、ゼマルコス将軍を団長とする東ローマの使節団を伴って帰途につき、シルジブロス(木汗(ムカン)可汗の叔父)の本拠、大ユルドゥズ渓谷(注2)に到着した。 この地における突厥の可汗シルジブロスの贅をこらした生活は、ゼマルコスたちを驚かせるに十分であった。メナンドロスは伝える。「ディザブロス(シルジブロス)は天幕のなかで、黄金づくりの椅子に腰かけていた。それは二輸車で、必要なさいには馬で曳けるようになっていた。・・・その天幕の内部には、見る眼あざやかに刺繍された多彩な絹がかけめぐらされていた。・・・別の大天幕も同様に立派な絹の掛布で飾られ、それには、さまざまの文様が刺繍されていた。ディザプロスは黄金の長椅子に着座し、天幕の中央にはいくつかの酒杯・大瓶・大壷が置かれていたが、これらもみな黄金製だった。・・・ これらは、わが国のものに決してひけをとらない」と。ゼマルコス一行は、東ローマ皇帝のそれに優るともおとらぬ、突厥の可汗の「 東洋的豪奢」からうけた感銘を胸ふかく秘めつつ、突厥の使者たちとともに、ふたたび「ステップ-ルート」をとって、コンスタンティノープルへ帰着した。… 東ローマ帝国の使節団が、天山の山なみをめざして旅をつづけていたころ、モンゴル高原では、木汗(ムカン)可汗、および彼をついだその弟佗鉢(タスパル)可汗が大可汗として在位し、華北では、北周と北斉とが対立していた。 この北朝の両国は、ともに突厥の歓心・援助を得ようとし、突厥はこれを利用して双方から厚幣をむさぼりとった。中国史書は、佗鉢可汗の即位をしるしたのち、ほぼつぎのように伝える。「木汗可汗の治世いらい、突厥は富強をきわめ、中国を凌ごうと意図するにいたった。わが北周朝廷は、すでにこれと和親して、木汗可汗の娘を娶り、毎年、?絮錦綵(ぞうじょきんさい)などさまざまの 絹織物十万段を突厥に贈った。それに止まらず、わが朝廷は、京師に在住する突厥人を優遇し、錦をまとい、肉を食する突厥人は、常に千人を数えた。そこで、北斉は、突厥の寇掠を懼れ、これまたその府蔵を傾けて突厥に贈物をした」と。そうだとすれば、佗鉢可汗の、「わが国の南方の二児 ―北周と北斉― がわれに孝順でいてくれるかぎり、どうして、わが国に物資欠乏の心配があろうか」という言葉は、あながち無稽の倣語とばかりはいいきれまい。… (注1) マニアク:かってエフタルに支配され、いまや突厥に属するにいたったソグド人の首領 (注2) 大ユルドゥズ渓谷:亀?(クチャ)の東北、中部天山山脈中の交通の要地で、しかも絶好の牧地 2006年 02月 08日
間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史?」(講談社 1977)より: …6世紀の半ばになると、突厥(とっけつ)と呼ばれる新たなトルコ族の遊牧国家が建設され、高車を併合し、柔然を滅ぼして、アジアの草原地帯の統一に成功した。突厥とは、チュルク(=トルコ)という、この国家の国号の音訳に他ならない。この突厥の勃興したころ、東はバイカル湖の南岸から、西はカスピ海の北岸に至る広大な地域には、中国人によって鉄勒(てつろく)と呼ばれた遊牧民族が広く分布していた。この鉄勒という言葉も、またチュルクという言葉の同音異訳に他ならない。つまり鉄勒が、トルコ人を指す一般的な名称であったのに対し、突厥とは、これらのトルコ人の一部を支配者として建設された一遊牧国家の呼称であった。そして、このトルコと自称した国家の支配者となったトルコ人は、他のトルコ人たちを、オグズとかチュルギシュ(突騎施)、さらにキルギズというそれぞれの呼称で呼んで自分たちとは区別した。これらの区別は、おそらく同じトルコ語を話しながら、支配者であるトルコ人、より具体的には阿史那(あしな)と呼ばれる氏族に属するトルコ人を中心に話されていたトルコ語とは、少しく異なったトルコ語を彼らが使用していたために、存在した区分であったのであろう。... [「増補版 標準世界史地図」(吉川弘文館 2005)より]
2006年 02月 06日
昨年(2005年)6月に、行こう行こうと思っていたトルコ旅行にやっと出かけた。ごくありふれたパッケージ・ツアーで。 コース自体は観光地巡りの一般的なものだったが、お世話になった現地ガイドのNさんには感心してしまった。 日本語の達者さはさて置くとして、その博識、愛国心、宗教心...トルコを理解して欲しいというその熱意... 観光案内のほかに、麻薬、宗教、軍隊、結婚、女性、そして民族問題、国際関係と話題は広範多岐にわたった。 彼の熱のこもった肉声はこちら:http://ethnos.takoffc.info/ThemeFrm.html 2006年 02月 03日
「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974)より(筆者:護 雅夫): 阿史那氏おこる 5世紀の初頭いらい、モンゴル高原を支配してきた柔然国家に止めを刺したもの、 −それは突厥であった。 突厥遊牧国家の支配氏族阿史那(あしな)氏は、アルタイ山脈の西南、東部天山山脈の北麓、ジュンガル盆地で柔然に服属し、鍛鉄に従事していたという。してみれば、阿史那氏は、高車諸族 −ジュンガル盆地の鉄勒(チュルク)− に属したと考えられる。…アルタイ山脈は、金・銀・鉄・石炭・銅などの重要な鉱物資源の埋蔵で古くから知られていた。のみならず、同山脈から北行すればイェニセィ川上流域、ケム川流域に出るが、この地域に匈奴時代いらい占住してきた黠戞斯(キルギズ)について、その国が金・鉄・錫に恵まれていたと伝えられる。 イェニセィ川上流域にあって、鉄の採鉱・精錬・加工がかなり盛んに行われていたことは、考古学的発掘の成果からも明らかである。… このイェニセィ川上流域の鉄は、キルギズから突厥へ移出された。… 阿史那氏の拠ったアルクイ山脈の近辺が鉄鉱に富み、また良鉄の産で知られた北方のイェニセィ川上流域と結びついていたことが、以上のとおりであるとすれば、その阿史那氏がすぐれた鍛鉄技術を会得していたとしても怪しむに足るまい。彼らは、その技術を用いて鉄製武器をつくり、それによる武力が阿史那氏の勃興をたすけたと思われる。 それにとどまらぬ。…モンゴル高原から西してアル夕イ山脈の西南、ジュンガル盆地に達し、そこからイリ川流域、シルダリア、アラル海の北方にひろがるカザーフスターン草原を横断して、カスピ海とウラル山脈との中間を通り、黒海の北岸に至りつく。要するに、アルタイ地域は、北すればイェニセィ川上流域に通ずるだけでなく、東はモンゴル高原から西は黒海の北、南ロシア草原に達する −中央ユーラシア大陸を東西に横断する− 「ステップ-ルート」の一中枢にあたっていたといえる。 阿史那氏が、その族長土門(チュメン)(「万人長」)に率いられてしだいに強大化していった理由は、主としてこれらに求められるであろう。 阿史那氏はいまだ柔然に服属してはいたものの、その使節が長城地帯にいたって中国の絹を買い、西魏との通商を願いでた。西魏では、545(大統11)年、…答礼使節団の長とし、はるかアルタイ山脈、阿史那氏のもとへ派遣した。阿史那氏はここにいたって中国(西魏)と通商 −絹馬交易− 関係に入ったのであるが、これは、阿史那氏のものたちが、西魏使節団の到着に接したさいさけんだ語「いま大国の使い至れり。我国、まさに興らんとするなり」に示されているごとく、突厥建国の幕開を意味した。何となれば、これによって、阿史那氏は、中央ユーラシアにおいてほとんど一種の通貨として用いられていた絹を入手しやがては西方へのルートを支配して、ほかの諸族の経済を制し、おのれを支配氏族とする遊牧国家を建設する足掛りを得たからである。そしてそのさい、「絹の道」として大きく浮びあがって来たのが、さきに述べた「ステップ-ルート」…であった。 突厥帝国の成立 土門(チュメン)は、西魏から使節が到着すると、その翌年546(大統12)年、使者を西魏に送るとともに、ジュンガル盆地の鉄勒 −柔然政権に反乱を企てた− を討って、「その衆五万余落」 を服属させ、この地域をほぼ完全に支配下においた。勢いに乗じた土門は、柔然の可汗にたいし、その娘との結婚を求めて拒絶されると、柔然からの独立を宣言して、551(大統17)年には西魏から公主を降嫁された。そして、その翌年、土門は、柔然の軍隊を破って、ついにその可汗を自殺に追いこんだ。モンゴル高原の遊牧国家における正統の君主位である可汗の位は、ここに、柔然から突厥へ、より正確には郁久閭氏から阿史那氏へ移る。果せるかな、土門は、この直後、みずから伊利(イリグ)可汗(「国家(イル)を支配する可汗)と号し、その妻は可敦(カトン)と称した。 突厥(チュルク)遊牧国家はこうして成立した。ときに552年。1952年、トルコ共和国で、突厥建国1400年を記念して祝典が催されたのは、今日のトルコで、この突厥がそのはるかなる祖先と見なされていることを物語る。 ひとたび遊牧国家が成立すると、その勢力は国際貿易路にそって伸びてゆく。突厥もその例外ではなく、…シルジブロス(ディザブロス) −伊利可汗の弟− は、西方に発展して中央アジアの征服に着手した。このシルジブロスは、…突厥碑文ではイステミと称され、… 突厥が、その本拠を、ジュンガル地方から北モンゴル高原のウチュケン山に移したのは、柔然撃滅の直後のことであったらしい。ウチュケン山とは、オルホン、セレンガ両河が流れだすハンガイ山脈東南部の諸連峯を中心とする地域で、その近くには、トルコ遊牧民が尊崇・畏敬してやまぬ聖山があった。木汗(ムカン)可汗が、その国家の政治的、「俗」的中心を、この、いわば信仰的・宗教的、「聖」的中心へ移したのは、シャーマニズム信者たるトルコ遊牧民の、可汗・阿史那氏への隷属 −強制的服従− ではなく恭順 −自発的服属− を得るためであったに違いなく、…ウチュケン山が「軍事的にも経済的にも好条件の場所」だったことは確かであるが、その地への遷都の理由を、ただそのことにだけ求めるのは一面的たるをまぬがれない。 一阿史那氏の族長土門(チュメン)のたてた阿史那政権は、こうして、遊牧帝国に成長するにいったのである。 この突厥の可汗位は、阿史那氏一門の出身者によって独占されていた。つまり、突厥国家の支配氏族は阿史那氏であった。したがって、突厥国家は、…一氏族、…阿史那氏の「家産」「共同的財産」という性格を有していた。この 阿史那氏は阿史徳(あしとく)氏と通婚関係を持ち、この両氏旅が、突厥の支配層であった。そして突厥国家とは、この阿史那・阿史徳両氏族を中核とし、そのまわり、その下に、時によって違いはあれ、鉄勒(チュルク)諸部、キルギズ、突騎施(チュルギシュ)、カルルクのようなトルコ系部族・部族連合、さらに、柔然、契丹、奚(けい)その他の非トルコ系諸族を、被支配部族・部族連合として従えあつめた、いわゆる部族連合国家であったのである。 2006年 02月 02日
「地域からの世界史 第6巻 内陸アジア」(間野英二・他著、朝日新聞社 1992)より: サマルカンドの陥落 バーブル(正式にはザヒールッ・ディーン・ムハンマド・バーブル)は1483年、ティムール朝(注1)の王子として中央アジアのフェルガナに生まれた。父はティムール朝フェルガナ領国(ヴィラーヤト)の君主で、母はチンギス・ハーンの血をひくモグーリスターン・ハーン家の王女であった。1494年、父が谷底へ転落するという事故で急死したため、バーブルは11歳の若さで父の位を継ぎ、フェルガナ領国の君主となった。 時は歴史の一大転換期であった。バーブルの属したティムール朝は、中央アジアの草原地帯に勃興したウズべク族のシャイバーニー・ハーンに対抗することができず、1500年にサマルカンド、1507年にへラートと、二つの首都を相次いで征服され、建国後137年にして滅び去った。 この間、バーブルは若年にもかかわらず、ティムール朝の栄光を回復すべく孤軍奮闘した。… ムガル朝の建国 ウズべクの勢威は日増しに強くなり、中央アジアでの活動に見切りをつけたバーブルは、1504年、アフガニスタンに転戦してカーブルを制圧、この地に自らの小王国を築いた。彼は1511年、シャイバーニー・ハーン死去の機会をとらえ、三度目のサマルカンド入城をはたしたが、翌1512年ウズべク軍に敗れ、故地中央アジアでの政治活動に完全な終止符をうたれたのである。 カーブルに帰ったバーブルは、以後活動の舞台をインドに移し、前後五次にわたるインド遠征を企てた。1526年、ついにパーニーパットの戦いでロディー朝軍を粉砕して、アーグラを本拠とするムガル朝を建国 。翌1527年にはカンワーの戦いにも勝利してインド支配の基礎を確立した。しかしそれからほどなく、1530年には病をえて、アーグラで死去した。47歳であった。 これだけの生涯であれば、バーブルはアレクサンドロス、チンギス・ハーン、ナボレオンなどと同様の優れた軍人、卓越した政治家であるにとどまるであろう。しかし、バーブルは異なっていた。彼は同時に優れた文人でもあったのである。 文人としてのバーブルの名声は、彼が残した不朽の名著『 バーブル・ナーマ』 (『 バーブルの書』 )に由来している。この書は、15・16世紀の中央アジア・トルコ民族の問で発達した文章語、すなわちチャガタイ・トルコ語を用いてバーブル自身が著した回想録である。 内容は、1494年の即位から病没の前年すなわち1529年にいたる約35年間の出来事を、ほぼ年代順に綴ったものである。全体はバーブルの活動地域の変遷を反映して、フェルガナ(中央アジア)章、力ーブル(アフガニスタン)章、ヒンドゥスターン(インド)章の3章からなり、各章には興味深い地誌や伝記なども織り込まれている。 ただ残念なことに、バーブル自筆の原本は散逸し、現在、写本を通じて知られるのは、本来存在したはずの約35年分のうちの約19年分にすぎない。… 勇猛な精神と繊細な感情 『 バーブル・ナーマ』 (注2)は、多くの東洋学者が指摘しているようにトルコ文学史土の傑作である。簡潔で的確無比の文体は、すべての事象を明瞭に、いきいきと描き出す。そればかりか、この書の中でのバーブルの語り口は、実に率直である。イスラーム世界では禁じられていた飲酒についての数多い体験の告白をはじめとして、麻薬、恋愛、心配、喜び、疑心、憎悪など、その時々のバーブルの体験や心境が、飾ることなく、ありのままに書き記されているのである。 このような書物は、おそらく剛直な精神とナイーブな情感をあわせもつ、稀有な人物によってのみ著されうるものであろう。 バーブルは見事な散文の作者であると同時に、また優れた詩人でもあった。彼の詩を集めた『 バーブル詩集』の冒頭は、ふつう次の対句で始まる。 わが心よりほかに頼るべき友なし わが魂よりほかに信ずべき朋なし なんと繊細な、孤独感にあふれた詩であろうか。これがいくたびも修羅の巷をくぐりぬけた勇壮な武人の手になるとは、信じがたいほどである。しかし、これがバーブルであった。… (注1)チムール朝:チムール(1336-1405)が起こした王朝。彼は、13世紀初頭チャガタイ・ハーンとともにモンゴリアから中央アジアに移住したモンゴル人貴族の子孫であった。移住後5世代を経るうちに、言語面では完全にテュルク化し、宗教面でもイスラーム化していたが、勇猛果敢なモンゴル遊牧民の血をなお失っていなかった。 (注2) 『 バーブル・ナーマ』:この興味深い回想録には間野英二による邦訳として、『 バーブル・ナーマの研究 ? 訳注』(松香堂 1998)がある。 2006年 02月 01日
「中央アジアの歴史・社会・文化」(放送大学教育振興会 2004)の中で間野英二は言う。 …テュルク民族がもともとどこに住んでいたか,つまりテュルク民族の原住地がどこであったかという問題はなお未解決である。原住地が少なくともウラル山脈以東の草原地帯であろうという説が有力ではあるが,ウラル以西にも古くからテュルク民族が活動したとする説もある。つまり残念ながら,テュルク民族の原住地がどこであったかは確かではないのである。 ただし,テュルク民族として最も古くその活動が確かめられる集団として,紀元前3 世紀,匈奴の支配下にあった丁零と呼ばれる集団がある。この丁零という漢字がどのような音を写したものであるかは不明である。ただ前3 世紀,彼らがモンゴル高原の北部,バイカル湖畔で匈奴の支配下に遊牧生活を送っていたことは確実である。 この丁零は,紀元後1 世紀,匈奴の衰退に乗じてその支配下を脱し,2 一3 世紀の鮮卑の時代にはその北方に居住して勢力を蓄え,3 世紀前半,鮮卑が崩壊すると高車丁零と呼ばれる存在としてモンゴル高原の支配権を握った。高車丁零とは高輪の車両を使用する丁零の意味である。彼らは4 世紀半ばの中国史料には,人口10 余万,馬13 万匹,牛羊億余万を持つ強大な丁零勅勒(ていれいちょくろく)として登場する。…ここに見える勅勒はテュルクという音を写したものである。彼らは5 世紀の初頭柔然の支配下に入ったが,5 世紀の末,柔然が衰退すると,丁零勅勒の一部が西方の中央アジア草原地帯(ジュンガル草原)に移動して高車国を建てた。 また,6 世紀の中央アジアの草原地帯には鉄勒と呼ばれる遊牧民が広く分布していた。この鉄勒も,勅勒と同様にテュルクという語を音写したものである。したがって,6 世紀の中央アジアの草原地帯にはすでに広くテュルク系民族が分布していたことが明らかである。… |