2006年 05月
オスマン帝国末期の悲劇 -アルメニア人虐殺の真実は? [2006-05-30 09:02 by satotak]
新しいテュルク民族 -ウズベク、カザーフ、キルギズ、新ウイグル- [2006-05-26 08:40 by satotak]
蘇ったティムール -20世紀初頭のウズベキスタンで- [2006-05-16 00:00 by satotak]
ティムール -ウズベキスタンの象徴- [2006-05-12 12:45 by satotak]
モンゴル建国800年 -今、モンゴル人の意識は?- [2006-05-09 08:49 by satotak]
モンゴルの今 [2006-05-05 13:08 by satotak]
20世紀以前のモンゴル -モンゴル人の歴史認識- [2006-05-02 12:57 by satotak]

2006年 05月 30日
オスマン帝国末期の悲劇 -アルメニア人虐殺の真実は?
私の読書日記 アルメニア人大虐殺、文化大革命の闇 フランス文学者 鹿島茂」(週刊文春 2006.3.16)より:

×月×日
…フランスにはアルメニア系の人が30万人くらいおり、宝飾業界とか骨董業界などでは強固なアルメニア人脈を築いているのだ。芸能人でいえばシャルル・アズナブール。…

これらアルメニア系移民の多くは、第一次世界大戦中にトルコのアナトリアで起こった大虐殺を逃れて各国に散った難民の子孫だが、この100万人から150万人規模(アナトリアのアルメニア人人口総数200万人)のジェノサイドの詳細については、日本はもちろんのこと、フランスでさえあまり知られることはなかった。

アントニア・アルスラン『ひばり館』(草皆伸子訳 早川書房2500円+税)は、からくも虐殺を逃れてイタリアに辿りついた親族の物語を、アルメニア移民を祖父に持つ孫娘が語るという小説だが、われわれも、これによって初めて生々しいかたちでこの20世紀初頭のジェノサイド事件の真相を知ることができる。

イタリアに移民して医者として成功したイェーワントは、豪華な自家用車に乗って故郷アナトリアの小さな町に錦を飾る日を夢みている。いっぽう、町では、これまた薬剤師として成功し、大きな薬局を経営する弟のセンパッドが兄の帰りを待ち侘びて、「ひばり館」と名付けた別荘の飾りつけに余念がない。センパッドは異母妹のヴェロンとアズニヴ、それに妻シュシャニグとの間にもうけた七人の子供と幸せにくらしていた。

アルメニア人はキリスト教徒である上に、欧米におけるユダヤ人のように金融や商業に長けていたことから、トルコ人民族主義者の反感を買い、19世末にも大量虐殺の被害にあっていた。第一次大戦が始まると、トルコ政府に勢力を築いた《青年トルコ党》の将校団は、これを奇貨として、同盟国ドイツの軍事顧問団の「少なからぬ協力」…のもと、秘密裏にジェノサイドを用意する。まず軍関係からアルメニア人将兵を外して武装解除した上で、1915年4月24日からアルメニア人男子全員の検挙・処刑を開始したのだ。美女アズニヴに恋したトルコ人将校ジェラルの救出努力も空しく、センパッド一家にもついに運命の日はやってくる。

「兵士たちの剣が閃光を放つや、叫び声が上がり、血飛沫が部屋じゅうに飛び散った。シュシャニグのスカートに花のような赤い染みができた。それは切り落とされ、彼女めがけて投げつけられた夫の首だった」

描写は小説だから誇張されているということはないようだ。実際には、ナチのユダヤ人虐殺に負けず劣らぬ酸鼻きわまりない光景がアナトリア全土で繰り広げられたようである。男たちはほぼ全員処刑、女と子供は「強制移住」という名目で食料も水も与えず街道を歩かされて疲労死した。途中で、少数民族のクルド人がトルコ人憲兵の許可を得た上で彼らから金品や馬車を略奪したこともある。

妻のシュシャニグはそれでも一家を引き連れ、ギリシャ人の泣き女やトルコ人の乞食の手助けを受けて義弟のいるアレッポの町に逃げて海路イタリアに脱出する。「民族浄化」という思想は、1990年代の旧ユーゴ紛争に始まったわけではないのである。…



第一次世界大戦とその後
パット・イエール他著「ロンリープラネットの自由旅行ガイド トルコ」(メディアファクトリー 2004)より:

第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国はドイツとその同盟国に味方するという致命的な失敗を犯してしまう。この頃は、まだ皇帝が権力の座に就いていたものの、帝国は青年トルコ党(統一進歩委員会)の3人の幹部タラート、エンヴェル、ジェマルによって治められていた。彼らの権勢は強大だったが、その圧政と失政のため、すでに絶望的だった国情はさらに悪化していった。…

その頃、長年、相次ぐ戦闘に見舞われていたアルメニアは、ロシア軍の進軍を歓迎し、協力する姿勢を見せ始めていた。1915年4月20日、ヴァンのアルメニア人が反乱を起こし、地域のイスラム教徒を虐殺して要塞を陥落させると、ロシア軍が到着するまでそこを守り抜いた。反乱を起こしてから4日後の4月24日(現在、アルメニアの殉教者記念日)、トルコ政府はアルメニア人の住民の国外追放を始めた。この過程で数十万人のアルメニア人(ほとんどが男性.)が虐殺された。残された女性と子供はシリアまで徒歩での移動を強いられ、幾多の辛酸をなめた。

この出来事については、現在も激しい論争が続いている。アルメニア側は、1915〜1923年に120万〜150万人のアルメニア人が殺害されたと主張。しかし、トルコ政府は、その人数は誇張されており、実際に死亡したアルメニア人は“わずか”30万〜50万人だと主張し、責任はないとしている。

ロシア軍が戦いに勝利すると、アナトリア北東部に、短命のアルメニア共和国が創立された、そして、戦勝国のアルメニアは地域のイスラム教徒に、自分たちがされたのと同様の虐殺という報復行為に出た。ところが、トルコの民族主義者ムスタファ・ケマル率いる軍勢の攻撃で、アンカラ政府はカルスKarsとアルダハンArdahanを奪回したのである。

1920年12月3日、アンカラ政府は、イェレヴァンYerevanのアルメニア(ソビエト)政府と和平協定を締結した。戦争が終結するまでに、アルメニア人の人口は特に都市部で激減し、生存者はわずかだった。

大戦は同盟国側の敗北に終わり、オスマン帝国は崩壊した。イスタンブールとアナトリアの一部はヨーロッパの列強に占領され、皇帝は戦勝国の手に落ちた。……連合国は、…戦勝国の要求を満足させるため、アナトリアの分割を決めた。こうして、よりすぐった土地はキリスト教徒に分け与えられ、イスラム教徒のトルコ人は不毛も同然の内陸の草原へと追いやられてしまった。

アルメニアの悲劇
1915年にトルコ東部で起きた大事件をめぐって、90年近くたっても.論争と非難の応酬が現在も続いている。大事件を生き延びたアルメニア人(と離散したその子孫たち)は、トルコ人の行為をジェノサイド(民族の大虐殺)と呼び、非難している。逆にトルコは、大虐殺に政治的意図はなかったとし、戦時中、多くのアルメニア人が反逆行為を行ったと主張している。また、トルコ側は、多くのアルメニア人が死亡した事実を否定してはいないが、これは組織的殺害のみならず、内戦や病気、困窮によるところが多いとしている。その上、共和政体になったトルコは、親や祖父母の世代で、彼らがオスマン帝国打倒のため戦った点を挙げ、オスマン時代の活動は自分たちとは無関係だとしている。

双方は非難の応酬を繰り返し、犠牲者の数や、犯罪性を立証する歴史的資料の信憑性、相手の動機などについて言い争っている。1970年代には、トルコの外交官たちや、その家族、そして周りにいた人たちが暗殺され、非難と憤懣はさらに深刻の度を増していった。

アルメニアはトルコに対し、悲劇的な事実の認定を訴え、領土の獲得を視野に入れた補償を求めている。トルコ側は、過去に起きた出来事の責任を現在のトルコ人は負えないとし、補償する必要はないと訴えている。事態は泥沼の様相を呈し、今後、何世代にもわたって続きそうな気配だ。

(参考)トルコ人が語るトルコ・イスラム講座」の「国際関係(1)」の後半で、トルコ人旅行ガイドNさんが、アルメニア問題について解説している。

# by satotak | 2006-05-30 09:02 | トルコ | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 26日
新しいテュルク民族 -ウズベク、カザーフ、キルギズ、新ウイグル-
間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史?」(講談社現代新書 1977)より:

…16世紀初頭のティムール朝の崩壊に前後して、…中央アジアには新しい民族の民族形成が見られ、それにともなって、各民族の言語を中核とする、それぞれの民族社会が成立していった。ここにいう新しい民族とは、カザーフ、キルギズ、ウズベク、新ウイグルなどのトルコ系の諸民族であり、彼らがその後およそ500年を経た今日においても、中央アジアの主要民族として存在しつづけていることは、この時期が持った中央アジア史上における重要性をよく物語るものといえよう。

ウズベク民族の行動
…北方の草原地帯から進出してティムール朝を滅ぼしたウズベク人が、…キプチャク・ハーン国領域下のキプチャク草原に居住して、支配者のモンゴル人をトルコ化していった遊牧トルコ人たちの後裔であることは確実であり、14世紀前半の一キプチャク・ハーンの名にちなむウズベクという民族名も、すでに14世紀の末までには彼らによって使用されはじめていたらしい。

彼らは、15世紀中葉のアブル・ハイル・ハーン(在位1428〜68)の時代に国家形成をなしとげ、南下してティムール朝からシル川下流域の一帯を奪うと、この地域を根拠に、しばしばティムール朝領内に侵入した。1451年、ティムール朝の王子アブー・サーイードが、サマルカンドの支配者の位につくことができたのも、アブル・ハイルのひきいるウズベク軍の援助の結果であった。

ところが、このアブル・ハイルの統治時代、彼の統治に不満をいだく一部のウズベク人たちは、…天山西部に移動し、モグーリスターンのエセン・ブガ・ハーン(在位1432〜62)によって、チュー河畔に牧地を与えられた。そして、1468年、アブル・ハイルが没してウズベクの国が混乱におちいると、さらに多数のウズベク人が、ウズベクの本隊を離れてこの一団に加わった。ここに成立したウズベク人の一分派の集団は、やがてウズベク・カザクとか、単にカザク(「冒険者」の意)と呼ばれるようになる。これが現在のカザーフ人の直接の祖先であり、したがってその民族形成の時期を15世紀の中葉におくことができる。

このカザーフ人の集団は、16世紀初頭のカースィム・ハーンの時代には、30万とも100万ともいわれる多数の遊牧民を支配下におく強力な遊牧国家に成長し、バルハシ湖にそそぐ
カラタル河畔の本拠地を中心に、チュー・タラス地方にまでその勢力をのばした。

一方、カザーフの分離によって一時弱体化したウズベク人の国家は、15世紀の末、アブル・ハイルの孫のシャイバーニー・ハーン(1451〜1510)によって再統一され、1500年には、ティムール朝のサマルカンド政権を、ついで1507年にはヘラート政権を滅ぼして、ティムール朝にかわってマー・ワラー・アンナフルの支配者となった。…かくしてこの時以後、ウズベク人はパミール以西のオアシス地帯に移住して、徐々に定住民化の道をたどったが、彼らこそ現在のウズベク人の直接の祖先であった。

キルギズとオイラート
ウズベク人が、ティムール朝を滅ぼして定住地帯の住民となっていった16世紀の初頭、カザーフ人の隣人として、セミレチエ方面にキルギズ人の集団が明確にその姿をあらわす。この当時のキルギズ人は、なお弱小の集団であり、モグーリスターン・ハーンの支配下に入ったり、カザーフ人の支配を受けたりしていたが、彼らが現在のキルギズ人の直接の先祖であることは疑いない。

中央アジアの草原地帯で、ウズベク、カザーフ、キルギズといったトルコ系遊牧民の活発な活動が見られた時代、その東方の西モンゴリアには、オイラートと呼ばれる西モンゴル人の遊牧国家が建設され、15世紀中葉におけるエセンの統治時代(在位1439ごろ〜54)以降、しばしば天山からセミレチエにかけての一帯に侵入した。…
これらのオイラート人は、やがて17世紀の初頭、チョラス部族を中核にジュンガル王国と呼ばれる新しい遊牧国家に再編成されると、ますますその勢力を西方にのばし、…

モグーリスターン・ハーン国の盛衰
このような草原地帯における新たな遊牧勢力の拡大は、14世紀前半以来、チャガタイ・ハーンの後裔をハーンにいただき、遊牧民の伝統を保持しつつ、天山よりセミレチエにかけての遊牧地帯(モグーリスターン)を支配してきたモグーリスターン・ハーン国にも大きな影響を及ぼした。14世紀の中葉、モグーリスターンには16万人にのぼるモグールたちが遊牧していたという。ところが、16世紀の中葉になると、モグールの数はわずかに3万人に減少し、その居住地も、もはや従来の遊牧地帯ではなく、カーシュガル、トゥルファンを中心とするタリム盆地の定住地帯であった。このモグールの間におけるいちじるしい人口の減少と、その居住地域の変化は、草原地帯におけるウズベク、カザーフ、キルギズ、オイラートなどの新たな遊牧勢力の勃興の結果ひきおこされたものであった。

すなわち、草原地帯にこれらの新しい遊牧勢力が勃興すると、モグーリスターン.ハーンの支配下にあった多くのモグール遊牧民は、ハーンのもとを離れ、これらの新勢力に合流した。…これが、モグールのいちじるしい人口減少の最大の理由であった。…

かくして、モグーリスターン・ハーン、ユーヌスの次子アフマド(在位1486〜1503)は、タリム盆地東部のトゥルファン…に支配権を確立し、一方、アフマドの次男サーイード(在位1514〜33)は、カーシュガルに進出して、この地にカーシュガル・ハーン国を設立した(1514)。そして、このカーシュガル・ハーン国のハーンの一族は、少なくとも17世紀の初頭までには、トゥルファン・ハーン国をも併合して、タリム盆地のオアシス都市は、すべて彼らの直接的な支配下に置かれることになる。

ところで、モグーリスターンには、すでに14世紀の中葉以来、…イスラム神秘主義者たちが進出して、…16世紀の末、…神秘主義者がカーシュガルに到着し、…ホージャと呼ばれる彼らの教団の指導者たちは、ヤルカンドとカーシュガルを本拠にハーンの寄進を受けて経済的にも強力になり、17〜18世紀、彼らの権威は、タリム盆地のオアシス地帯で、ハーンの権威と並ぶほどであったといわれる。

このように、定住化したモグールのハーンと、イスラム神秘主義教団の首長を支配階級の最上部にいただいたタリム盆地のオアシス定住社会は、16世紀以降、徐々に新ウイグル語と呼ばれる共通のトルコ語を成熟させ、現代に連なる新ウイグル民族社会を形成していった。(注1)

各民族間での抗争
一方、パミール以西の定住地帯に進出したウズベク人たちも、この地域の先住トルコ人たちと混血しつつ、今日にまで連なる、定住ウズベク民族社会を形成していった。16世紀の初頭、シャイバーニー・ハーンによってこの地に建設されたシャイバーニー朝は、サマルカンドあるいはブハーラーを首都としておよそ一世紀間つづいたが、1599年、ジャーン朝(アストラハン朝)にとって代られた。…
ジャーン朝は1785年まで、200年近くブハーラーを中心に存続しつづけるが、1740年、ウズベクの一部族であるマンギット族出身の武将ムハンマド・ラヒームによって実質的には滅ぼされ、以後マンギット朝が1920年までつづく。このシャイバーニー、ジャーン、マンギットの三王朝は、主としてブハーラーを首都としたので、これらを普通ブハーラー・ハーン国と呼ぶ。

またアム川下流域のホラズム地方には、シャイバーニーの没後、その一族のイルバルスが、1512年に独立してヒヴァ・ハーン国を建てた。彼の一族は、この地域を約300年間にわたって支配したが、1804年には同じウズベク人のコングラト部出身の一武将が、その支配者の地位につき、その一族が1920年までこの地域を支配した。このコングラト部族の王朝もまたヒヴァ・ハーン国と呼ばれる。

さらに18世紀の初頭には、フェルガーナのホーカンドを中心に、ウズベク人のミン氏族出身のシャー・ルフ(1721没)によってホーカンド・ハーン国が建設され、1876年まで存続した。この結果、18世紀の初頭には、パミール以西にブハーラー、ヒヴァ、ホーカンドというウズベク人の三つの国家が存在することになった。しかし、これらの国家の間には領地をめぐっての紛争が絶えず、…この地域に政治的な安定をのぞむことは不可能であった。…

このように、ティムール朝崩壊後の中央アジアは、今日にまで連なる各トルコ系民族のそれぞれの民族社会を形成させたという意味において、歴史的に重要な一時代を現出させたが、その反面、その社会に見られた停滞性は、やがてこの地域を、清朝ロシヤという二つの先進国の掌中におとし入れることになる。

(注1) ウイグルはその後... - 学会の通説とウイグル人の主張 - 」参照
(参考)(テュルク&モンゴル / 年表・系図) チンギス裔の系図

# by satotak | 2006-05-26 08:40 | テュルク | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 16日
蘇ったティムール -20世紀初頭のウズベキスタンで-
小松久男著「革命の中央アジア あるジャディードの肖像」(東京大学出版会 1996)より:

トルキスタンの自治

…1917年7月から10月にかけて、フィトラト(注1)は「祖国嘆傷」と題する一連の韻文作品を『フッリヤット』にのせた。それは、トルキスタンを意味する古来の雅称「トゥラン」を多用しながら、愛国の情とトルコ主義の立場を鮮明にしているところに特徴がある。彼は書く。

おお、偉大なるトゥラン、獅子のくによ! お前に何が起こったのだ? (中略) おお、チンギス、ティムール、オグズの一族の栄えある故地よ! お前の気高き座はどこへいったのか? 奴隷の身に堕ちたのはなにゆえか? (1917年7月28日)

おお、わが神聖なるトゥランの夢よ、行くな、離れるな。わがそばに、目前に、わが心、わが良心の中に残れ、行くな。わがくに、わがトゥランよ、お前と離れることは、わが死。お前のために死ぬことこそ、わが生なり。(中略) おお、トルコ人の聖なる祖地よ! 汝の死を欲するものに死を、汝を葬り去らんとするものに憎悪あれ。(1917年8月18日)

さらに、十月革命の直後に発表された作品は、消耗しきったトルコ人が、ティムールの墓前を訪ね、トゥランの地を異国の支配者の手に委ねた自らの責任を悔悟しながら、英雄の聖廟の前で覚悟を新たにするという劇的な場面を描いている。その最後で彼はいう。

墓前に参りましたのは、ただ血の涙を墓前に流すためではありません。みずからの罪を認めんがために参ったのです。見捨てたもうな! ただ罪を認めるために参ったのではありません、トゥランに与えた害をつぐなうために参ったのです、わがハーカーン(君主の称号)よ。われを厭うことなかれ。
おお、獅子の中の獅子よ! わが罪を赦したまえ、われを助け、われを信じ、神聖なる祝福を与えたまえ! 汝の無限の力にかけて誓わん、トゥランのかつての栄光と偉大をとりもどすまで、歩みは止めないことを。
(1917年10月31日)(…)

隷属状態のトゥランに心を傷める作者の意図は、いまだに植民地の遺制から解放されてはいないトルキスタンの現状を告発するところにあったのであろう。このような作品をみると、『争論』では熱烈なブハラ・ナショナリストであったフィトラトが、1917年には明らかなトルキスタン・ナショナリストあるいはトルコ主義者として立ち現れていることがわかる。しかも、これ以降フィトラトはその著作のほとんどをペルシア語ではなく、中央アジアのトルコ語で書くことになる。…

…さて、トルキスタンの自治が宣言されると、12月5目フィトラトはこれを熱烈に祝福する文章を書いている。その要旨は次のとおりである。

トルキスタンの自治……ティムール大王の正しき子孫、トルキスタンのトルコ人の中にあって、これ以上に慶ばしく神聖な言葉はあるまい。われわれは50年来ロシアに隷属し、帝政の抑圧に苛まれた。しかし、ロシアの民主主義は正当な権利に基づいた革命を起こし、あらゆる民族にその権利を回復させた。ロシアは「連邦制の人民共和国」と宣言され、この宣言に基づいてウクライナ人やタタール人の自治が承認された。今度はトルキスタンの番である。それは11月27目の夜半、トルキスタンの歴史的な首都の中では第二に位するコーカンドのクルルタイ(大会)で宣言された。しかし、民族の自治はただ一度の大会宣言で成るものではない。自治を維持するためにはあらゆるものが必要である。ムスリムはこれに備えなければならない。(…)

フィトラトがこの時点でウクライナ人やタタール人の自治の実際をどこまで理解していたかは定かではない。しかし、この論旨からみて、彼が11月に新生のソビエト政府が発した「ロシア諸民族の権利の宣言」や、レーニンとスターリンとが連名で出した有名なアピール、「ロシアと東方の全ムスリム勤労者へ」を読んでいたことはほぼ疑いない。ここでのフィトラトは先輩のベフブーディーと同じく、トルキスタンの自治については、たぶんに楽観的な見通しをもっていた(…)。彼が自治の将来に一抹の不安を感じ、これを記すのは…

チャガタイ談話会
…この中でも「チャガタイ談話会」の精神をもっともよく表しているのは、『ティムールの廟』であろう。 1917年の作品「祖国嘆傷」のモチーフに呼応するこの戯曲には、現代に蘇ったティムールの次のような言葉があったという。

われは汝らに多くのものを遺した。しかし、いったいどうしたことなのだ。かつて栄光と勇気にあふれた民が、いまや異民族の圧政のもとにひれ伏しているとは。わがバーグ(庭園)から鳥を追ったのは何者か? 祖先の遺産はどこへいったのか? 汝らに求める、起て! 汝らに命ずる、起て、くにを立て直せ、わが民の自由を確保せよ! わが命に従わぬならば、くには巨大な墓場と化すであろう。(…)

『ティムールの廟』は、上演のたびに観客の感涙をさそったと伝えられる(…).、しかし、その脚本はついに出版されることはなかった。ティムールのメッセージは、ムスリムの観客には容易に理解することができたにしても、ソビエト当局にとっては明らかに容認しえない内容を備えていたからである。さらに、この時期のフィトラトの作品に流れる悲愴な響きは、後のソビエト文学批評家からは「十月革命に敵対するペシミズム」、あるいは「過去の理想化」の現れとして批判されることになった(…)。…


(注1):フィトラト[Abdurauf Fitrat 1886-1938]:中央アジアの改革思想家,革命家,文学者.
生地ブハラのミーリ・アラブ・マドラサでイスラーム諸学を修め,巡礼の後1910年イスタンブルに留学し,オスマン帝国における変革の実際を観察しながら,中央アジアのジャディード文学の代表作として名高い《争論》(1911),《インド人旅行記》(1912)などの啓蒙的な作品を書いた. ロシア革命後は青年ブハラ人運動を率いてブハラ・アミール国の改革をめぎしたが,18年の軍事クーデタの失敗後はソビエト・トルキスタンで文学活動に従事した.
初期の作品はペルシア語(タジク語)だったが,革命後はほとんどウズベク語を用い,18年末にはタシュケントに文学結社〈チャガタイ談話会〉を組織した. 多数の詩のほか,《ティムールの廟》《インドの革命家》などの愛国的な戯曲,反宗教的な伝奇作品《最後の審判》,中央アジアのテュルク語文学の精華を集めた《ウズベク文学精選》(1928)などが知られている.
しかし,チョルパンらととも20年代後半から〈汎テュルク主義者〉としてプロレタリア文学派の激しい批判にさらされ,38年スターリン大粛清の中〈人民の敵〉として銃殺された. ペレストロイカ期に名誉を回復され,独立後のウズベキスタンでは高い評価を受けている.
[「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:小松久男)]

# by satotak | 2006-05-16 00:00 | テュルク | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 12日
ティムール -ウズベキスタンの象徴-
間野英二著「中央アジアの歴史 新書東洋史?」(講談社現代新書 1977)より:

ティムールの出現
14世紀後半におけるティムールの出現と、彼による大帝国の建設は、中央アジア史上にかつて例を見ず、またその後にも例を持たぬ、文字通り稀有の出来事であった。中央アジアのオアシス地帯の住民は、ティムールの出現によって、そのながく苦しかった被支配民族としての立場から脱却して、広大な領域を持つティムール帝国の支配民族としての立場を獲得する。そして広大な帝国の中心地となったマー・ワラー・アンナフルには、世界の富と文化が集中し、そこにはモンゴルの侵入によってもたらされた怖るべき荒廃にかわる、未曾有の繁栄が見られた。…

ティムールは、1336年、サマルカンドの南、ケシュの近郊に、トルコ化しイスラム化したモンゴル族の一つ、バルラース部の一員として生まれた。彼の5代前の先祖はカラチャル・ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガタイ・ハーンとともにモンゴリアから中央アジアに移住し、チャガタイ・ハーンの輔佐役として、ハーン家内部の諸間題を取り扱った有力者であった。しかし、カラチャルの子のイジェル・ノヤンという者が、チャガタイ・ハーン国の領域を去ってイランのイル・ハーン国の領域に移住したりしたこともあって、この一族は、ティムールの曾祖父の時代になると、もはや昔日の有力者としての立場を失ってしまっていたらしい。

ティムールが生まれた頃…ティムールの父タラガイも、わずかに三、四人の従者をもつのみの小身であり、その結果ティムールもはじめは手元に四、五人の従者しか持たぬ貧しい遊牧民であった。そのためティムールは、その青年時代を、もっぱら羊とか馬の略奪を事とする盗賊として過ごしていたが、その間に、もって生まれた指導者としての才能を発揮して、自分につき従う盗賊団の仲間の数を徐々に増やしていった。こうして、300人とか500人といわれる盗賊団の首領として、各地を略奪してまわっていた頃、モグーリスターンから、トゥグルク・ティムール・ハーンが軍をひきいてマー・ワラー・アンナフルに侵入し、分裂していたチャガタイ・ハーン国の一時的な統一に成功した。

ティムールはこの機会をとらえ、1360年(または61年)、トゥグルク・ティムールに帰順して、彼の属するバルラース部の領地であったケシュとその周辺地帯の支配権を獲得した。これがティムールの政治的活動への第一歩であった。しかし、それ以降、1370年にいたる
およそ10年間は、ティムールにとってもっとも苦しい時代であった。すなわちこの10年間には、いったん帰順したモグールと袂を分って、モグールに対する抵抗運動に従事する一方、バルフを本拠とした有力者アミール・フサインと、時に同盟し、時に敵対するなど、変転きわまりない日々を送った。そして1363年ごろには、イラン東部のシースターンで右腕と右脚に終世の傷を受けるなど、苦難の日々を体験せねばならなかった。

しかし、この苦難の日々にも盗賊時代以来の彼の部下たちは、彼につき従い、彼を見捨てることがなかった。そして、これらの仲間を中核とする彼の軍隊は、ついに1370年、バルフにアミール・フサインの軍隊を打破り、フサインを殺害して、ティムールをマー・ワラー・アンナフル唯一最高の実力者として承認した。
ただしティムールは、自らがチンギス・ハーン家の出身者ではないことを考え、名目的なハーンの位には、ソユルガトミシュというチンギス・ハーン家の一王子を擁立し、自らはチンギス・ハーンの血をひく一女性をめとって、ハーン家の女婿(キュレゲン)としての立場に身をおくことで満足した。これは、チンギス・ハーン家の血を重んずる遊牧民たちの支持を得るためにとられた方策である。そしてこの時以降、ティムールは終世ハーンを称さず、常にアミール・ティムール・キュレゲン、あるいはアミール・サーヒブ・キラーンと呼ばれる…。

ティムール帝国の建設
1370年、マー・ワラー・アンナフルの統一に成功したティムールは、以後彼が死没する1405年までの35年間、絶え問のない遠征を敢行して、日の出の勢いのオスマン軍を撃破するなどの大戦果をあげ、東は中国の辺境から西は小アジアまで、南はインド北部から北は南ロシアの草原地帯に至る広大な世界帝国を建設する。このあいつぐ遠征によって成立したティムールの国家の領域の概要は、直轄地としてのマー・ワラー・アンナフルを中心に、彼の一族が分封されて直接支配に当ったフェルガーナ、アフガニスターン、ホラーサーン(…)、アゼルバイジャーン(…)の四大直接支配地と、小アジア、エジプト、シリア、南ロシヤ、アルメニア、ジョルジア、シールワーン、北インド、モグーリスターンなどの広大な間接支配地域(ティムールの宗主権を認める地域)より成り立っていた。

ティムールの遠征は、モンゴルの遠征に勝るとも劣らぬ破壊活動の連続であり、バグダードにおける9〜10万人の虐殺、…諸例が示すように、ティムールに対する抵抗は、あくことを知らぬ残虐さをもって報いられた。…

もっとも、ティムールの遠征を、ただ破壊活動の連続とのみ見なすことは、ゆきすぎである。なぜなら、ティムールは抵抗を示さぬ都市に対しては、その市民たちから生命保証金(マーリ・アマーニー)をとりたてることによって満足し、それらの都市を破壊・略奪することはしなかった。…アフガニスタンのカーブル付近における灌漑設備の整備など、その遠征地においても少なからざる建設事業を行なっている。

しかし、ティムールがもっとも力をそそいだのは、首都サマルカンドを中心とするマー・ワラー・アンナフルの充実であった。彼はサマルカンドに、モンゴルの侵入以来失われていた堅固な城壁を築く一方、征服地から連行した当代一流の職人、芸術家たちを駆使して、各地に大規模な建造物を建設させた。征服地からは、また当時のイスラム文化の精華ともいうべき、すぐれた学者たちをサマルカンドに移住させ、サマルカンドを文化的にもイスラム世界の中心地とすることに努力をかたむけた。…

ティムールは、…イスラム世界が生んだ最大の思想家イブン・ハルドゥーンの目にも、彼は「すこぶる知的で、すこぶる明敏な」人物に見えた。…そして何人も、その「稀有の気性と深み」の底にあるものにふれることはできなかったといわれる。

なぜ世界帝国をつくりえたか
…ティムールの驚異的な成功は、遊牧民の軍事力と、定住民の経済力という、二つの基盤の上にきずかれたと見ることができる。しかもティムールの時代、この二つの基盤は、北方の草原地帯と南方の定住地帯という、隔絶した二つの地域からではなく、マー・ワラー・アンナフルという一つの地域の中から調達することができた。つまり、トルコ化・イスラム化しつつも、なお遊牧民としての特性を失ってはいなかったチャガタイ人が、マー・ワラー・アンナフルの定住トルコ人、イラン人と交錯して存在していたという、その時代のもった特異性が、ティムールの成功をみちびきだした最大の原因であった。
その意味において、ティムールは、中央アジア史上に常に見られた遊牧社会と定住社会の相互依存関係を最大限に利用して、その関係の中から最大のエネルギーをみちびきだすことができた人物であったといえよう。すなわちわれわれは、ティムールの成功の中に、中央アジアの遊牧文化とオアシス文化の類まれなる結合を見る。...

象徴としてのティムール 
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:小松久男))

ティムール朝の滅亡後も,英雄ティムールの記憶は中央アジアの年代記や民衆文学の中に鮮明にとどめられた.20世紀に入ってムスリム知識人の間に民族的な覚醒が始まると,ティムールはナショナリズムの象徴として現れるようになった.ロシア革命期にトルキスタン・ナショナリズムを鼓舞したフィトラトは,その作品でティムールのイメージを効果的に用いたが,こうした作品は1920年代末から〈過去の理想化〉や〈汎テュルク主義〉の実例としてプロレタリア文学派からの激しい批判にさらされた…..ソ連史学では,〈侵略者〉や〈人民の抑圧者〉とされ,〈偉大な学者〉ウルグ・ベクや〈ウズベク古典文学の父〉ナヴァーイーとは対照的に否定的な評価を受けたが,ソ連からの独立後ウズベク人の民族的な英雄となった.独立2周年にあたる93年9月,タシュケント中央の公園にはそれまでのマルクス像に代わってティムールの勇壮な騎馬像が建てられた.〈独立国家理念〉の普及を図る政府にとって,かつてウズベキスタンの地を基盤に強大な国家を建設したティムールは,この上ない象徴なのである。

# by satotak | 2006-05-12 12:45 | モンゴル | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 09日
モンゴル建国800年 -今、モンゴル人の意識は?-
モンゴル高原を統一したテムジンが、1206年春、オノン河の水源地に部下とモンゴル高原の遊牧部族・氏族の代表者を召集して大会議(クリルタイ)を開催し、その席上、全員の支持を受けて最高指導者つまりハーンに選出された。そしてテムジンの義弟にあたる大シャマンが、「勇猛な」という意味の古いテュルク語「チンギズ」から借用して、チンギス・ハーンという称号を授けたという。

今年は、そのチンギス・ハーン即位からちょうど800年モンゴル国ではそのためのWebサイトも立ち上げ、様々な行事が行われている(左はそのロゴマーク)。
はじめは観光客を呼び込むためのキャンペーンかと思ったが、それだけではないらしい。行事予定を見ると、いろいろなイベントが目白押しである。

しかし、現在のモンゴル人にとって、チンギス・カーンとはどんな存在なのであろうか。そしてモンゴルの歴史をどのように理解し、感じているのだろうか。また学校教育の中ではどんな歴史が教えられているのか。
岡田・宮脇両氏の対談「モンゴルとは何か」では、一党独裁体制から抜け出したものの、「歴史を失った」とでもいうようなモンゴルの混沌とした状況が語られていたが、あれから3年。モンゴル人の意識に何か変化があったのだろうか。

駐日モンゴル大使館Webサイトの冒頭、「ご挨拶」の中でザンバ・バトジャルガル大使が、「遊牧民族であるモンゴル人は世界の文明の発展を二度にわたって大きく押し進めました」と述べ、「チンギス・ハーンが建設したモンゴル統一国家」のほかに、「モンゴル人の祖先である匈奴(きょうど)」を挙げているのが興味深い。

ところで、今から44年前の1962年は「チンギス・ハーン生誕800年」であった。そして当時のモンゴル人民共和国では…

モスクワと北京との間で (Ts・バトバヤル著「モンゴル現代史」(明石書店 2002)より)
…1962年1月に開催されたモンゴル人民革命党中央委員会第二回総会で、チョイバルサンに加えられたと同様の新たな非難がツェデンバル政権に突きつけられたことは明白である。1959年、ツェデンバルを含む党指導者たちを「新しい条件下で古い労働のやり方」で進めていると激しく批判した党の新星D・トゥムルオチルは、ツェデンバルの最大の敵と考えられていた。ツェデンバルはトゥムルオチルを引きずり降ろす好機を待っていた。

チンギス・ハーン生誕800年記念祝賀をめぐる論争がモンゴルの党内抗争に火をつけた。当時政治局員であったトゥムルオチルの積極的な参画で、この記念祭は1962年5月から6月にかけて全国的に慶賀するよう準備が進められた。記念碑が建てられ、記念切手が発行され、また学者たちの祝祭会議が行われた。しかし、ソビエト政府はある種の民族主義の危険な復活を懸念し、出来る限り祝賀を抑圧した。

ツェデンバルはこの状況を利用し、トゥムルオチルが「民族主義的」行動をとっていると非難した。トゥムルオチルは暗に中国寄りとされることで1962年9月に追放された。その当時、ツェデンバルはますます疑い深くなり、忠誠心の疑わしい人たちを相次いで追放した。…チョイバルサンとは異なり、ツェデンバルは彼らを迫害せずに辺境へ終身追放した。…

# by satotak | 2006-05-09 08:49 | モンゴル | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 05日
モンゴルの今
生駒雅則著「モンゴル民族の近現代史」(東洋書店 2004)より:

モンゴル民族の分布状況
古来、遊牧生活を送ってきたモンゴル民族は、ユーラシア大陸に広く分布している。現在の「モンゴル国」(旧モンゴル人民共和国、いわゆる外蒙古)には17部族250万人が居住し、総人口の70%余りを占めるハルハ族を除くと、大部分が西北部に住む。特にホブド地区には、カザフ族など非モンゴル系少数民族も居住する。モンゴル国以外では、ロシア領にカスピ海沿岸のカルムイク族(約20万人)やバイカル湖沿岸のブリヤート族(約50万人)が、中国領ではフルンブイル(呼倫貝爾、別名バルガ)を含む内モンゴル自治区(ダグール族約28万人、その他約400万人)や新彊ウイグル自治区(オイラート系諸族約16万人)、さらに雲南省やチベット自治区にも居住する(分布図参照)。

モンゴル国は西高東低の高原の国で、標高平均約1,500メートル、気候は典型的な大陸性・高山性で降水量もわずかであるが、西部ホブド地区と北部フブスグル地区ではシベリアの湿気と高山の雪解け水で河川や湖沼が多く、比較的水量に恵まれ、森林や草原が発達している。東部と対照的に水と動植物に恵まれた西部モンゴルでは、「林の民」と呼ばれた人々が、遊牧だけでなく狩猟や農耕にも早くから従事してきた。一般にラマ教(チベット仏教)の影響で農耕はタブー視されてきたが、西部モンゴルのトルベート族などは農耕に従事する。自然環境や生活様式・習慣の相違は、モンゴル民族の間に東西の差異を生み出す原因の一つとなった。

東部モンゴル人は、ハルハ族を中心に、北部のブリヤート族、バルガ族や南部のトゥメト族、チャハル族などに分かれる。現在のモンゴル国は大部分が東部モンゴル人、特にハルハ族から構成されている。…

西部モンゴル人は自称「オイラート」で、…ロシア人やムスリムは「カルムイク」と呼ぶ。清朝初期にはホショト、ジュンガル、トルベート(デルベト)、トルグートで「ドルベン(四)・オイラート」を形成したが、1676年に「ジュンガル王国」が成立すると、その強大化と相次ぐ戦争を避けて、17世紀前半にトルグート部はヴォルガ沿岸へ、ホショト部は青海へ走った。一方、乾隆年間にホイト部とチョロス部がドルベン・オイラートに入った。ジュンガル王国滅亡(1757年)後にヴォルガ沿岸から「イリ帰牧」を遂げたのが「旧トルグート」で、ヴォルガに走らなかったものは「新トルグート」と呼ばれる。
ここに西部モンゴル諸族間の対立関係が見てとれる。ジュンガル王国の支配者ジュンガル部とそれに従ったトルベート、ホイト、チョロス各部に対して、ジュンガルの支配を拒んだトルグート、ホショトが対立した。また新旧トルグート間の対立は清朝の支配下において一層深まり、1907年の「ホブド・アルタイ分治」で固定化される。

1918年の「自治モンゴル」第1回国勢調査によれば、中国人100,000人とロシア人5,000人を除く総人口542,000人の内訳は、ハルハ492,000人(90.7%)、トルベート39,000人(7.2%)、ザハチン4,500人(0.8%)、エルート3,000人(0.6%)、ミンガト2,000人(0.4%)、ホトン(カザフなど回族)1,500人(0.3%)である。ハルハとホトン以外はいずれも西部モンゴル人であり、主として西部辺境ホブド地区に居住していた。

西部モンゴルの複雑な住民構成が清朝の支配に利用され、その分割統治によって強化・固定化された民族・部族聞の対立は、モンゴル人民共和国の形成に種々の問題をもたらすことになる。特にトルコ系ムスリムの存在は1924年のモンゴル人民共和国成立後も民族問題として残り、…1990年代に多数のカザフ族がカザフスタン共和国に移住した。...

民主化運動の高揚と「モンゴル国」再興
1952年から1984年まで30年あまりにわたって独裁体制を維持してきたツェデンバル政権時代が、ペレストロイカの流れの中でようやく終わり、1989年の米ソ冷戦終結とその後のソ連邦解体によって、モンゴル人民共和国でも民主化運動が進展し、民族意識も高揚し、ソ連離れが進む。

1989年12月にゾリックを長とする「モンゴル民主同盟」が「シネチレル(ペレストロイカ)」と民主化・人権尊重を要求して立ち上がり、初めて反政府デモを行った。民主同盟には学生、作家、芸術家など知識人が結集していた。「モンゴル民主化の星」といわれたゾリックは当時27歳の大学院生で、次期首相候補と期待されていたが1998年10月2日に何者かに虐殺され、未だに犯人が逮捕されていない。

1990年1月21日に当局の禁止令を無視して7,000人の市民がスフバートル広場に集まり、2月18日に初の野党「モンゴル民主党」が結成された。これを契機に「社会民主党」など新しく政党が続々と誕生する。1990年3月12日のモンゴル人民革命党中央委員会臨時総会でその全政治局員が辞職し、オチルバトら4人の新政治局員を選出した。21日の国民大会議で議長にオチルバトを選出し、一党独裁の放棄、複数政党制の新憲法を採択、新選挙法を承認した。

第1回総選挙が1990年7月に実施された結果、小選挙区制による国民大会議は、定数430に対して、人民革命党が357人(83%)を占めた。政党別の比例代表制による国民小会議は、定数50に対して、…野党が約4割の票を得た。
1990年9月の国民大会議で初の大統領選挙が行われ、人民革命党のオチルバト人民大会議幹部会議長が選ばれた。新首相ビャムバスレンは国営企業の民営化を手始めに市場経済化に着手した。…

1991年4月21日にツェデンバル元国民大会議幹部会議長・人民革命党書記長がソ連で死去した。ツェデンバルは1952年1月のチョイバルサン死去により、同年5月首相に就任し、1974年から国民大会議幹部会議長を務めた。国際派・親ソ連派として知られた彼は1958年に民族派・親中国派を追放し、1979年には国防会議議長も兼務して党・国家・軍を掌握したが、1984年8月に解任され、ソ連で暮らしていた。彼の死は、独裁から民主化へ向かう新生モンゴルを象徴するものであった。

1992年2月発効の新憲法で、マルクス・レーニン主義の放棄、「モンゴル国」への国名の変更、国旗・国章のデザイン変更、大統領の直接選挙制、一院制議会、私有財産・市場経済の保障などが規定された。国名の変更は1912年の「モンゴル国」再興を意味する。
新憲法に基づく1992年の総選挙では、定数76に対して人民革命党が71名を独占した。1993年の大統領選挙はオチルバトが60%の得票で再選されたが、今度は野党統一候補としてであった。
人民革命党が初めて野党に下ったことで、民主連合政府は急速な民主化を推進しようとしたが、少数与党のために改革は混乱続きであった。…政治の腐敗も次々と暴露され、改革の鈍化と経済の混乱は、国民大衆に、民主改革に対する情熱を薄れさせ、生活の安定を求めるようになった。

1996年の第2回総選挙では野党民主連合が国民大会議で多数派を占めたが、1997年の大統領選挙では人民革命党候補バガバンディが勝利した。さらに2000年の第3回総選挙では人民革命党が圧倒的多数を占め、2001年の大統領選挙で人民革命党候補バガバンディが再選されて、議会も大統領も人民革命党が権力を握ることになった。今や一時の民主化熱が一段落し、高いインフレに苦しむ国民が現実路線を選択した。

1997年7月制定の「1997〜2000年の国有財産私有化プログラム」により1999年6月時点で864企業と286の不動産の私有化が実施されたが、人民革命党の抵抗で同年10月に「私有化保留国有財産リスト」が作成されるなど、民営化はあまり進んでいない。

粛清追悼記念館の創設
民主化のテンポは緩和されたが、もはや政治的民主化の波を押しとどめることはできない。…
モンゴルで大粛清が開始された1937年9月10日を記念して、9月10日を「政治粛清被害者追悼記念日」と制定し、1993年…「粛清追悼記念館」創設が決定された。…
粛清追悼記念館創設の目的は、共産主義独裁期に祖国を追われスパイの汚名を着せられて殺された…人々の無罪・名誉回復と歴史的真実の正しい理解、人権・自由尊重精神の育成にあるとされる。
展示の概要を紹介すると、?故ゲンデン首相の使用品と政治思想を示す文書などを展示する部屋、?粛清された約12,500人の名前を金文字で刻印するホール、…

人民革命党は、自らが粛清の被害者であり、ソ連の圧力で粛清が行われたとして責任逃れの発言を繰り返してきたが、2000年9月10日の粛清記念日にエンフバヤル人民革命党党首・首相が初めて正式に謝罪し、補償事業の継続を表明した。モンゴル最大の『日刊新聞』(2000年9月9日)は、1990年から10年間に30,000人の名誉が回復され、10,324人に総額86億2,400万トグルクの補償が支給されたと報じている。…


# by satotak | 2006-05-05 13:08 | モンゴル | Trackback | Comments(0)
2006年 05月 02日
20世紀以前のモンゴル -モンゴル人の歴史認識-
Ts・バトバヤル著「モンゴル現代史」(明石書店 2002)より:

…遥か昔の話ではなく、最近までのひどくゆがめられた歴史を振り返ってみよう。…後に「世界の征服者」と呼ばれる有名なチンギス・ハーンが、13世紀にすべてのモンゴル民族を統一し、初めてモンゴル国家を成立させ、仏教を取り入れたことを知っているであろう。その子孫は、やがて朝鮮半島からハンガリーに至る広大な帝国を築きあげた。彼の孫フビライ・ハーンは中国に元王朝(1279−1364)を建国した。

しかし、モンゴル勢力の絶頂期はそれほど長くは続かなかった。14世紀の半ば頃に、この一大帝国は分裂を始め、モンゴル人は万里の長城の北方の故土へ撤退せざるを得なくなった。モンゴル人がたやすく撤退できた大きな理由の一つは、彼らすべてが乗馬に優れていたことによる。その上、彼らの広大な領土は、北からの脅威のないゴビの北にあり、まだ安全であったからである。しかし、17世紀も終わり頃になると、モンゴル人はロシアによる東方への勢力拡大に脅威を感じはじめ、間もなく彼らの移動の自由は大幅に制限されるようになる。

元王朝崩壊後、モンゴル人は暫らく故土に引き下がり、北元を建国した。その後、大きく二つの集団に分かれ、東部は東モンゴル(ハルハを含む)、西部はオイラト・モンゴルと呼ばれた。両者は自分たちこそがハーン王位の正当な後継者であると主張しあい、その紛争解決のために内戦が長引いた。東モンゴルの支配者ダヤン・ハーンの軍は1500年前後、オイラトを破り、暫くの間モンゴルを再統一した。敗れたオイラトは北西に移動し、アルタイ山脈の周辺で名高いジューンガル帝国を樹立した。

ダヤン・ハーンと彼の孫たちは伝統的な支配体制を引き継ぎ、東モンゴルの南部地帯からゴビの南部に神経を集中させた。ダヤン・ハーンが、人民と領地を息子たちに封土として分け与えたが、その多くは南モンゴルであった。ただ、末子のゲルセンゼだけにはゴビの北方にある遠隔地を与えた。そこは後に北モンゴル、あるいはハルハ・モンゴルとして知られるようになる。ハルハは南モンゴルに比べて弱体で後進的であった。だが、17世紀になると、満州族がモンゴルの東部で蜂起し、モンゴルを行政的に二分割することになった。満州族は中国に清王朝を樹立し、1636年、まず南モンゴルを従属させ、1691年までに北のハルハ・モンゴルを服従させたのであった。

ハルハ・モンゴルはトゥシェート、ザサクト、セツェンの三つのハーン領から成っていた。東部と西部との間で絶えず内紛が続き、弱体化していた。…満州皇帝はハルハとオイラトの争いを、いずれは併合しようとして関心を持っていた。…その戦闘(1688−1691)で[オイラトの]カルダン・ボショグトに敗れたハルハの統治者たちは、南モンゴルの国境周辺に逃れた。

なぜハルハの統治者たちがロシアでなく満州帝国[(清朝)]に同盟を求めたのかという伝統的な理由は、第一代ジェプツンダンバ・ホトクトの主張によると言われている。それは満州人が同じ信仰を持つラマ教徒であり、モンゴル人と似た衣服を着ていたのに対し、ロシア人は異なる信仰を持ち服装も異なっていたからである。その当時、ロシア人とモンゴル人とでは伝統、習慣、言語、宗教に大きな違いがあったことを理解されたい。一方、満州人はモンゴル語に近い言葉を話していたし、また、満州語のアルファベットはモンゴル文字を採用した。ハルハの統治者たちが、満州皇帝と同盟(1691年のドロンノールの条約)を結ぼうとしたのは、自分たち独自の遊牧文化、民族的特質と宗教が保持出来ると考えたのは明白である。

モンゴルが公式に、南部(ウブル・モンゴル)と北部(アル・モンゴ)とに分割されたのは17世紀末にモンゴルが満州人の清朝の一部になった時である。その結果満州の統治者は、この二つのモンゴル全土を別々に取り扱った。その基準は、満州人が最初に服従させた当初のモンゴル諸侯の協調の度合いによる。南部モンゴル諸侯の協調はより強かったために、満州の統治者は彼らを内区(内蒙古)として扱い、それを49の旗(ホショー)に分けて満州軍と同様の募兵組織とした。北部モンゴルの諸侯は長い間抵抗したので外区(外蒙古)として取り扱い、34の旗に組織した(ハルハは後に86の小さな旗に分割された)。

内モンゴルの49旗と外モンゴルの86旗は、満州当局から任命された世襲諸侯によって統治された。満州人は、内、外両モンゴルの行政を監督する最高機関として、北京に理藩院(満州国の少数民族管理機関)を創設した。…彼らの忠誠心を最も確実にする方法は、満州皇帝一族の女性と結婚させることであった。

南モンゴルのトゥメドのアルタン・ハーンがチベット仏教の黄帽派を取り入れ、この宗派をモンゴル人の共通の信仰として支援した16世紀末以来、仏教の教えや戒律は、モンゴル遊放民の習慣や社会、その他さまざまな活動に大きな影響を与えた。チベット仏教のモンゴル版はラマ教と呼ばれ、その僧侶はラマ僧として知られている。
満州皇室の寛大な政策のもと、モンゴルの教会組織は大きく成長し、国家の中の国家と言われるほどになった。ハルハだけについて見ると11人の上位ホトクト(高位のラマ僧)とおよそ50人の下位ホトクトがいた。ホトクトは、世俗の封建貴族と同様に封建制度の特権を享受し、自分の領地内で権力をふるった。その結果、高位のラマ僧たちは、封建貴族とともにモンゴル社会の二大中心勢力となった。この両者間の権力争いも、また、モンゴルの近代史における主流である。

ラマ教徒の管理は、少なくとも一部分は理藩院の管轄下に置かれた。新しく転生したホトクトの承認、その公式任命、地位、称号、寺院の僧侶の数、あらゆるラマ教大寺院の管轄権といったすべての事柄について、理藩院が権限をもっていた。著名な転生した高位ラマ僧は、すべて6年ごとに自ら北京へ出頭し、順序に従って皇帝に対し忠誠の宣誓をするよう命じられた。ラマ教庁が北京に設立され、理藩院の指導のもとにラマ教行政を監督した。

北部、即ちハルハ・モンゴルの最高のラマ僧はジェプツンダンバ・ホトクトであることは良く知られている。その第一代と第二代の転生者は、ハルハ・モンゴルの四人のハーンの中で最も影響力のあるトゥシェート・ハーン家に現われた。つまり彼らはチンギス・ハーンの子孫だということになる。彼らはモンゴル政界で高い威信を持ち、モンゴルの精神的な指導者であった。その結果、満州宮廷は彼らの指導力のもとでモンゴルが再統一されることを恐れた。このモンゴルの再統一を阻止するため、満州皇帝は不文律の規制を発布した。この規制で、ジェプツンダンバ・ホトクトの三代目とそれ以降の転生者は、モンゴルではなくチベットで求められることになった。

問題の鍵は、なぜモンゴル人が200年以上も満州族、漢族に支配されながら、中国化されなかったのかということにある。辺鄙な場所、過酷な気候といった地理的要因を除外しても、文化や宗教が重要な要因であることに注目すべきである。文化面では、モンゴル人は彼ら自身、チベット仏教界の一部をなすと常に考えてきた。その結果、モンゴル文化には中国の儒教との共通点が多くない。さらに満州人は、モンゴルと強力な同盟関係を維持しようと考えたので、様々な反漢的な法律を採択し、かつ実施した。それらの法律は20世紀初頭まで効力があった。満州人は中国人がモンゴルの国境を越えたり、モンゴルで耕作したり、モンゴル女性と結婚することを禁じた。

ロシア帝国満州帝国[(清朝)]は、18世紀と19世紀の間、アジア内陸部への勢力拡大を図った。両国は17世紀に征服した大モンゴルのそれぞれの地域に境界を定めることが得策であると考えた。そこで、1689年のネルチンスク条約と1727年のキャフタ条約でその実現を図った。後者はモンゴルを分割して、清朝の支配地域とロシア支配地域に国境を設定した。

1850年代後半は、中国商人や北方モンゴルに定住しはじめた中国人に対して、満州宮廷は、その厳しい政策を次第にゆるめていった。…中国商人は、ホブド、ウリヤスタイ、ウラーンゴム、イフ・フレー[大庫倫、今のウランバートル]に集中した。ある推定では、19世紀末の北部モンゴルには、およそ500軒の中国人商店があり、10万人の中国人定住者がいたと言われる。彼らはモンゴル全域で商売をし、彼らの金融業はモンゴル国家財政をも脅かすほどのものになった。中国人の通商組織は全モンゴルを支配し、貿易額は北方モンゴルで1905年には5000万ルーブルと見込まれた。これはロシアの対モンゴル貿易額の6倍に当たる。

19世紀後半には、ロシアの商業勢力が北方モンゴルの全土に及び、かってないほど強力になった。1860年11月、ロシアと清当局との間で締結された北京条約によって、1861年イフ・フレーにロシア領事館が設けられた。ロシアの貿易商はイフ・フレーや張家口は言うに及ばず、遥か北京に至る地域での通商権を手にした。…1881年のサンクト・ペテルブルグ協定により1905年、ロシアはモンゴル西部のホブドに領事館を開設した。ロシアの対モンゴル貿易額は飛躍的に増加し、中国貿易との競争は激化した。モンゴルとロシアの貿易額は1861年にわずか10万ルーブルだったのが、1885年には170万ルーブルに増加し、1900年には1690万ルーブルにもなった。


# by satotak | 2006-05-02 12:57 | モンゴル | Trackback | Comments(0)