2006年 06月
「民族自決」は普遍的正義か ? マルキストの見方 [2006-06-27 17:54 by satotak]
少女プージェー - 遊牧民の今 - [2006-06-23 20:56 by satotak]
モンゴルと日本と海 [2006-06-16 15:37 by satotak]
モンゴルの人口 [2006-06-07 16:36 by satotak]
オスマン帝国を生んだ世界 [2006-06-02 12:25 by satotak]

2006年 06月 27日
「民族自決」は普遍的正義か? -マルキストの見方-
丸山敬一著「民族自決権の意義と限界」(有信堂高文社 2003)より:

レーニン民族自決権論の意義
…数あるマルクス主義者の中で、レーニンが民族自決権の最も強力な主張者であることをみた。後にみるようにスターリンが途中でプロレタリアートの自決権の方にくらがえしてしまったのに対し、レーニンは生涯にわたってこの権利を要求し続けた。それでは、彼のいう民族自決権とは一体どのような性格の権利だったのであろうか。

レーニンは、民族自決権を諸民族が自由に分離して独立した国家を形成しうる権利として定義し、抑圧民族のマルクス主義者は、被抑圧民族に対してこの権利を無条件に承認しなければならない、と主張した。すると、我々はここで二つの疑問につきあたることになる。第一の疑問は、もしレーニンの民族自決権が文字どおり十全に実現されるとすれば、ロシア帝国は百数十の小さな民族国家に分裂してしまうはずであるが、レーニンは本当にそうなることを望んでいたのであろうかという点である。第二は、レーニンは、それではナショナリストだったのか、という点である。マルクス主義の本質はナショナリズムではなく、インターナショナリズムのはずである。彼がもし百パーセントの民族自決権を認めるとすれば、ナショナリストとどこが違うのであろうか。…

レーニンは、諸民族が真に民主主義的な基盤の上で結合していくためには、どうしても民族自決権の承認が不可欠であると考えた。彼によれば、この権利は離婚の権利と同じものであった。離婚の権利を認めるのは、離婚を義務づけるためでもなければ、うまく行っている夫婦に離婚を説いて勧めるためでもない。それは、両性の真に対等で民主主義的な結婚を保障するためのものである。離婚の権利が認められてはじめて両性は真に民主主義的な基盤の上で結婚生活を送ることができるのである。…

…いつでも離婚することができるにもかかわらず、あえて離婚を望まず、みずから進んでその結婚生活を続けるというところに自由意志に基づく真の結婚生活がありうるのであり、その方がかえって夫婦の結びつきは強まるのである。それとちょうど同じようにいつでも分離することができるにもかかわらず、分離せずにあえて大国家の中にとどまるというところに真に民主主義的でより強固な民族関係がありうるのである。つまり、分離の権利の保障が自発的な結合を促進するのである。そうレーニンは考えた。だから、彼は民族自決権の承認は、帝国を解体させるものではなく、逆に諸民族の結合を強化するものであると考えたのであった。それゆえ、レーニンの主観的意図の中では、私が上にあげたような二つの疑問ははじめから存在しなかったのである。彼は、民族自決権の承認こそが、中央集権的巨大国家の形成を保障し、諸民族の結束を強めてインターナショナリズムの精神に合致するものだ、と考えていたのである。…

民族自決権の限界
上述のように、レーニンは中央集権的巨大国家を維持するために、またプロレタリア・インターナショナリズムの精神に沿って民族問題を解決するために民族自決権を認めたのであった。彼には積極的に諸民族の分離独立を奨.励する気などさらさらなかったのである。だからこそ、彼は民族自決権の承認と、その実際の行使とを厳しく区別したのであった。

ところが、今日ソ連やユーゴスラビアなどで多くの民族は、レーニンがあまり望まなかったような方向で、つまり自由に分離独立するという方向で民族自決権を行使しようとしている。すでにみたように、民族自決権が、文言上は、自由に分離独立する権利を意味し、諸民族は無条件にこの権利を承認されているというのであるから、レーンの意図がどこにあったにせよ、こうした運動を上から押えることは決してできないであろう。

それでは、分離を希望するすべての民族を自由に独立させた場合に民族問題は完全に解決するのであろうか。民族自決権は民族問題を解決する万能薬であろうか。

まず、第一の問題点は、民族自決権は属地主義原則に立脚しているという点である。ある民族がある国家から分離独立するという以上、一定の領域を必要とする。各民族がそれぞれ一定の地域に純粋にまとまって住んでいれば、その地域のみを独立させることは比較的容易である。しかし、地球上には、いくつかの民族が混住している地域の方が圧倒的に多い。特に大都市はさまざまな民族の混住地である。そのような場合には、地域的な分離独立の原則を適用することができない。この点で民族自決権の実現は明白な限界を持っているといわなければならない。ここからオーストロ・マルクス主義者の属人的(=非属地的)民族自治論が出てきたのであった。彼らは属地主義を原則としながらも、民族混住地域の住民に対しては属人主義の原理でこれを補おうとした。すなわち、成人に達した市民は、みずからどの民族に所属するかを自由に申告し、この申告に基づいて民族台帳を作成し、居住地域にかかわりのない純粋に人的な結合体として民族団体を構成するというものである。そして、この民族団体が言語問題や教育問題など民族問題を独自に解決していくことになる。民族混住地域では、こうした解決策の方がより現実性を持っているのではあるまいか。

第二に問題となるのは、さまざまな民族の混住している所では、民族問題が重層的に存在しているという事実である。たとえば、グルジア共和国ではグルジア民族がロシア民族に対して強力に独立を要求している。もしグルジア共和国の独立が認められれば、グルジア民族にとっては問題は解決するかもしれない。しかし、グルジア共和国にはグルジア人だけが住んでいるわけではない。そこには、八十以上の少数民族が住んでいて、とりわけ、最近ではアブハジア人とオセチア人がグルジア人に対して独立を要求している。グルジア共和国の独立を認めただけでは、問題は何ら解決しないのである。…

…それゆえ、連邦構成共和国だけに民族自決権を認めても問題は何ら解決しないのである。だが、もし民族自決権の適用範囲を広げて、それらの共和国内に住むすべての民族に自決権を認めることになれば、ソ連邦は百数十の小さな民族国家群に解体してしまうことになろう。これは、バルカン化といわれる状況をソ連の中に作り出すことになる。

第三に、それではこのようなバルカン化は何をもたらすであろうか。そのような小さな独立国家は、まず経済的に自立できるであろうかという問題がある。ソ連邦の中で経済的に最も豊かであるといわれているバルト三国ですら、なかなか経済的に自立していくことは困難だと伝えられている。経済的自立の困難な小国家の分立は、ローザ・ルクセンブルクの恐れたように中世的小国家時代への逆もどりであり、全体としての経済の発展を著しく阻害することになるであろう。

次に政治的な不安定化があげられる。そのような小国は相互に争い、結局のところふたたび近隣の大国の支配下に陥ってしまうことになるであろう。これは、前述したように、オーストリア=ハンガリー帝国についてオットー・バウアーの危惧していたところである。

以上三点にわたってみたように、民族自決権の文字どおりの実現は決して好ましい結果をもたらすものではない。我々はやはりレーニンが望んだように大国家(=広域経済圏)の中に諸民族が相並んで平和のうちに共存していく道を追求しなければならない。それなくしては、民族問題の真の解決はありえないように思われる。

むすび
カウツキーやレーニンは、民族というものは、資本主義の発展とともにやがて接近し融合していくものであると考えた。社会主義はこの傾向をさらに一層押し進めるであろう。ソ連における百数十におよぶ民族もやがては融合して一つのソ連民族になっていくであろうというわけである。そこで、ソ連ではさかんに民族の移住や民族間の結婚が奨励された。だが、このことは必ずしも民族の融合を押し進めることにはならなかった。というのは日々ロシア人の数の増大を目にし、街にロシア語出版物のはんらんするのを目にした少数民族は、“これは大変だ、この国はいまにロシア人に乗っ取られてしまうぞ、このままでは自分たちの言語や文化は消失してしまうのではないか"という危機感をいだくようになり、それに対抗して自分たちの言語や文化を守っていこうとする文化的ナショナリズムを呼びさまされるからである。言語や文化は民族のアイデンティティの中核ともいうべきものであって、これを保持し、後世に伝えていきたいという欲求はどのような少数民族にもきわめて根強いものである。むしろ数的に劣勢に追い込まれれば追い込まれるほど、こうした願望はますます強く燃え上がるあとみてよい。…

このような現実をみれば、我々は、民族がそう簡単に接近し融合すると期待することはできない。民族という人間集団は今後も長期にわたって存続するものとみなければならない。社会主義になれば、民族は接近し融合して、やがて世界が一つの民族になるであろうというようなカウツキー=レーニン流の見方は、あまりに性急なものといえるであろう。

しかし、だからといって民族の間の差異を強調し、彼らの間に政治的ナショナリズムを高揚させていくことは、決してよい結果をもたらすものではない。ソ連やユーゴスラビアのような多民族国家で政治的ナショナリズムを高揚させれば、それは必ず民族間の不和、対立、やがては武力衝突を結果することになって、さまざまな悲劇を生み出すことになる。政治的ナショナリズムは、何とかして眠り込ませなければならない。そして、そのためには、諸民族の文化的ナショナリズムを十分に満たしてやることが必要なのである。かつてレーニンは、文化的ナショナリズムを認めることが政治的ナショナリズムをよび起し、強化することになるとして、オーストロ・マルクス主義者のレンナーやバウアーの民族自治論を激しく批判した。だが、レーニンの主張に反して、文化的ナショナリズムを押えることが、かえって政治的ナショナリズムを強めるのである。諸民族が文化的ナショナリズムを十分に充足する機会を与えられながら、大国家の中で相並んで平和のうちに共存していく道を追求することこそが、民族政策論の今後の課題であろう。…


# by satotak | 2006-06-27 17:54 | 民族 |
2006年 06月 23日
少女プージェー - 遊牧民の今 -
「文化/映画 モンゴルの少女、覚えてますか?」(産経新聞 2006.6.6)より:

探検家の関野吉晴が人類の足跡を逆にたどった「グレートジャー二―」(平成14年までフジテレビ系で放送)の途上で出会ったモンゴルの少女、プージェーを覚えていますか? 彼女を主人公に「人と人との出会い」「自然も人間も変わる」ということの“重さ"を記録した映画「puujee」(山田和也監督、写真)が東京・ポレポレ東中野で公開されている。

関野が、モンゴルの大草原で自在に馬を操るプージェーと出会ったのは平成12年秋。当時、まだ6歳でありながら、遊牧民としてのプライドや誇りを強く持った彼女に魅せられた関野は以来、5年間にわたって再訪を重ね、プージェー一家と家族同然の仲になる。

だが、この間にモンゴルの近代化は急速に進み、一家も馬の盗難、家畜の餓死、最愛の母の死など、押し寄せる時代の波の影響を次々受ける。一方、プージェーは関野との交流を通して日本に興味を抱くようになり、「将来は日本語の通訳になりたい」と目を輝かせていたのだが…。

プロデューサーの大島新は「モンゴルの少女が自立して“格好よく”生きられる社会が失われつつあるという現実は、われわれが経験した社会の変化と根が同じだと思う。人間を取り巻く環境の一端を、より多くの人に伝えることができれば」と話している。  (安藤明子)


(参考) [プージェー puujee Official Site]参照


# by satotak | 2006-06-23 20:56 | モンゴル |
2006年 06月 16日
モンゴルと日本と海
ザンバ・.バトジャルガル著「日本人のように不作法なモンゴル人」(万葉舎 2005)より:

遥か700年前に来日した初めてのモンゴル使節
…モンゴル人はいつ初めてこの地[日本]に渡来したのでしょうか。モンゴルという名の部族集団は13世紀に明らかになったので、それ以前にはモンゴル人の祖先が別な名前で日本に来ていたのかもしれません。…
しかし、モンゴルという名前で日本列島に渡来した資料の存在は、後の13世紀に下ります。鎌倉にモンゴル人の碑があると聞いていましたが、行ったことはありませんでした。…

神奈川県藤沢市の常立寺(注1)という小さなお寺にその立派な石碑は建っていました。フビライ・ハーンが遣わしたトーシジン(杜世忠)、ケウェネヌゥ(何文著)、ソ・チャン(徐賛)など5名の使者の記念碑で、彼らが斬首される前の辞世の詩も刻まれています。大きな記念碑の前にある小さな五つの石碑の中央にあるのが使節団長であったモンゴル人の碑であろうと推測できます。30歳を過ぎたばかりのモンゴル人、高麗人、漢人、ウイグル系の人で構成された使節団であり、団長のトーシジンは34歳の教養の高い勇敢な若者であったと研究者は記しています。使節団は、出発時には4人でしたが、1275年3月(注2)に高麗に到着すると、そこで日本語をよく解するソ・チャンが加わり、4月に長門の国の室津(山口県豊浦町)に到着しました。彼らが行き先を変更して室津に来たことに日本側は疑いを強め、3か月間の監視の後、8月に鎌倉に移送しました。そして北条時宗の命により、1275年9月7日、竜ノロで首を刎ねられたのです。

「モンゴルなどという国は聞いたことがない」
彼らはフビライ・ハーンが遣わした初めての使節ではありませんでした。フビライ・ハーンは、初めての全権使節を1266年11月に日本に送っています.しかし彼らは対馬の近くのコジェ(巨済)島で嵐に遭い、年が変わるまで待機していましたが、嵐がやまないので1267年1月にカンファ(江華)に戻りました.

日本の地に初めて足を踏み入れたのは二度目の使節で、1267年11月に対馬に到達し、守護代宗助国の案内で1268年7月に太宰府に着きました、彼らは1266年8月付のフビライ・ハーンから日本の天皇に宛てられた国書を携えていましたが、返書を得ることはできませんでした。日本側は友好関係締結を提案する背後に威嚇とも思える内容を含んでいるとし、国書も贈物も認めなかったのです。
フビライ・ハーンの国書は奈良の東大寺に保管されており、2000年2月にモンゴルのトムルオチル国会議長(当時)訪日の際、その写しが公式に手渡されました。

フビライ・ハーンの3回目の使節は1268年に遣わされました。当初8名で出立しましたが、高麗で4名が加わり、さらに十数名の従者を含めたこの使節団は1268年12月に高麗を出発し、翌年初めに対馬に着きました。この使節団の目的は日本の軍事力の偵察であったことを日本側は気づいたようで、さらなる移動を制限し、受け入れを拒否しました。彼らは対馬の塔二郎、弥二郎という二人の住民を連れて帰りました。当時の都であったハーンバルガス(現在の北京)で2人を迎えたフビライ・ハーンは「日本人とは化け物と聞いていたが、貴方たちは私たちと変わらない顔の、赤い皮膚をした人間ではないか」と述べたと言われています。その後、2人はハーンバルガスの街並みや宮殿を案内されました。思うに偉大なる皇帝であったフビライ・ハーンは、自分たちと変わらない顔つきの日本人を見て親近感を感じたのではなかったでしょうか。

この二人の日本人を含めた第四次使節団は1269年7月に高麗のカンファに来ました。その年の9月に対馬付近の小島に到着し、対馬の守護職がフビライ・ハーンの国書を鎌倉幕府に届けました。興味深いのは京都の朝廷がフビライ・ハーンの国書に返書を起草していたことです。返書には「我が国は天照皇大神から今上天皇まで神に護られ、国が造られてから外国の支配に屈したことはない(中略)。武器を持って闘うことを望まない。貴国はよく考慮されたし」と記され、また「かつて我が国は中国と友好関係にあったが、モンゴルの名前は聞いたことがない」と、一方で説得を試みながら、他方で一瞥もくれないような内容で起草されましたが、鎌倉幕府はこの返書を使節団に送ることを拒否しました。注意深かったのか、必要無いと思ったのかはわかりません。…

しかし、フビライ・ハーンはすでに侵攻を決めていたので、1271年12月に偵察のための第五次使節を遣わしました。この使節は女真族の官吏であったヂャオ・リャンビ(趙良弼)を団長として、以前に捕らえられた2人の日本人が通訳として加わっていました。この頃、日本国内は混乱しており、京都の朝廷は単独での問題解決能力をほぼ失い、鎌倉幕府の支配が一層強まっていました。幕府では全ての権力を、20歳を過ぎたばかりの若き執権、北条時宗が握っていました。著名で影響力の強かった僧侶日蓮が捕らえられたのもこの時期です。日蓮が捕らえられた理由は、モンゴルの襲来を予言したからでしたが、モンゴルと柔軟な政策で交流することを提言したことが怒りを買ったという人もいます。この度の使節も返書を受け取ることはできませんでしたが12名の日本人に案内をさせて帰途につきました。帰国した後に彼らは日本の使節団であると語ったそうです。使節団長ヂャオ・リャンビは、1273年5月にハーンバルガスでフビライ・ハーンに謁見し、「日本の領土は美しく、山には木や水が多くあり、土地は肥えており、人々は勤勉、食べ物は豊富」と報告しました。…

海上での戦闘の準備は、モンゴル人自身がしたわけではないだろうという理解が広くされています。しかし、戦争のための船の建造や、戦闘に参加するモンゴル兵の拠点づくり、その場所の選択などに、朝鮮の歴史ではフートン(忽敦)として有名なホタクト将軍が指揮していました。ホタクト将軍は、開かれたプサンではなく、有利な点が多い閉ざされたマサン(合浦)を選び、そこで3万人以上を働かせて、3か月の間に9百隻の船を造らせました。

海を持たない海洋民
…フビライ・ハーンは遊牧騎馬民族のモンゴルが手中に収めていた陸の道海の道に繋いで、広大な帝国全土に陸海の交通網を張り巡らせ、経済活動を活発にするという壮大な構想を抱いていました。モンゴル時代の史実を記した明代の歴史書『元史』には、国が交易のために船と資本を商人に貸し与えたとあります。これは、南宗までの歴代の中国王朝には無かった、まったく新しい発想でした、

フビライ・ハーンは遊牧農耕航海という、人類の活動の三つの大きな流れを総合しようとしましたが、これを象徴するのが大都の建設です。大都は、海まで150キロメートル近くもある内陸に建設された都市でありながら、市街の真ん中に港を持っていました。人工的に造られた運河と自然の川を組み合わせて水運を可能にしたのです。運河の開通によって、遠くアフリカ、中近東、インドなどから多くの物資が大都に運ばれました。

こうして内陸の遊牧民族モンゴルの皇帝フビライ・ハーンが、古代文明の中心のひとつであるアジアの中国を水路によって他の大陸と結ぶ道を開き、後にモンゴル遊牧民の子ボローが、ピョートル大帝の治世に勢力を強めたヨーロッパの大国ロシアの首都を内陸および外部世界と水で結ぶ道を開いたということは、たいへん興味深い史実ではないでしょうか。

モンゴル帝国は海軍を強化し、1292年から1293年には太平洋諸国、ジャワ・スマトラにまで到達しました。同時に海上交通・貿易を促進し、東アジアとインド洋の東半分、スリランカに至るまでの広大な地域の国々と友好関係を結びました。モンゴル帝国の庇護の下にアジアの大陸と海を含む巨大なシステム化された交易圏が作られたのです、

歴史家によれば、モンゴルはフビライ・ハーンの治世の後半から、はっきりと「海上帝国」の性格を持ちます。この大帝国の二段階にわたる成長は世界史上の驚異であり、今もその意義は色褪せていません。

ですから今日のモンゴルは海に出口がないと嘆くのではなく、頭を使い、賢明な政策で国際海洋条約その他の国際法規に基づいて海に進出し、海上輸送や海洋資源の利用のチャンスを活かすべきなのです

(注1) 「常立寺の伝元使塚」参照

(注2) 1275年は、元寇と言われる「文永の役」(1274)の翌年に当たり、二度目の元寇「弘安の役」は1281年であった。



# by satotak | 2006-06-16 15:37 | モンゴル |
2006年 06月 07日
モンゴルの人口
ザンバ・バトジャルガル著「日本人のように不作法なモンゴル人」(万葉舎 2005)より:

人口の変動
…1990年代初頭、モンゴル自然環境省や大臣宛に自然保護に関する手紙が外国から、主にアメリカからよく届きました。その中には「モンゴル政府はユキヒョウの狩猟を外国人ハンターに許可しているが、世界的に稀少なこの美しい動物の狩猟は許されない、強く抗議する」という内容の手紙がたくさんありました。…

研究者によれば13世紀のモンゴル大帝国時代にモンゴル民族の人口は約200万人であったとされています。それ以降800年が経過した今日のモンゴルの領土に居住する人口は、200万を大きく超えることがありません。その間に世界の人口は数倍に増えているにもかかわらずです。国境を接する二つの超大国は大きく人口を増大させ、ロシアはモンゴルの約60倍、中国は約530倍の人口を養っています。日本の人口もモンゴルの53倍です。…

1920年代の史料によると、当時のモンゴルの地に生活していた人はたったの60万人、そのうち約10万人は妻を娶ることが許されない僧侶で、結婚していない成人女性が9万人以上いたそうです。そのため、20世紀初頭には、モンゴル人は絶滅への道にかなり近づきました。17〜18世紀に強大な勢力を持ち漢民族やモンゴル・チベットを支配し、後に消え去ってしまった満洲民族の後を追う悲壮な運命が迫っていたのです。

このような時期にモンゴル民族の滅亡について、ユキヒョウと同じように心配してくれた人がいたでしょうか? 外国人はともかく、モンゴル人自身がこのことにどれだけ敏感であり、竈(かまど)の火と民族の未来を絶やさないためにどれほど闘ってきたでしょうか?

モンゴル人の歴史を、史実や社会現象の面からだけでなく、地理的な存立条件、環境・気候変動に関連づけて研究したロシアの研究者であるレフ・グミリョフは、国家や民族を人間と同様な寿命(生まれ、育ち、死ぬ)を持つとして、モンゴル人にはすでに500年の寿命しか残っていないという興味深い仮説を1980年代に発表しました。…

モンゴル民族をふり返れば
かつてモンゴルの地に居住していた人々は、原始共産制として数千年間を経た後、紀元前1000年代の末頃に階級制社会に移行し部族集団が形成されました。その社会生活は互いに同様ではなく、森の狩猟民、川の漁民、草原の遊牧民などでした。彼等がそれぞれの発展段階を経て13世紀を迎えます。1206六年にモンゴル統一国家が建てられたことにより、モンゴル人たちの間で戦争の危機が収まり、ばらばらであった状況が一転し、民族としての発展の道に入る可能性が開かれました。そのとき以降、ひとつの祖国とひとつの言語、共通の生活習慣を持つモンゴル民族となって確立していったとされます。しかし、その後、東西南北に分断し、その一部は遠くボルガ河(今日のロシア領)、青海(今日の中国領)付近を領土としました。独特の言語方言・生活習慣・知的文化を持つ多くの部族となり、それら全てをモンゴル系諸族と呼ぶようになります。

現在のモンゴル民族
現在のモンゴル国には20以上の部族を含むモンゴル民族が約240万人います。中国に400万人、ロシアに50万人、アフガニスタンに3万人、アメリカに2千人、フランスに千人など、世界中の国々に居住しているモンゴル民族の人口を合計しても650万人を超えません。
それでも、現在のモンゴル国の人口は、1920年代と比較すると4倍に増加し、今後も増加する傾向にあるので、モンゴル民族の寿命が500年で終わることはないと思われます。このことは天の神様に委ねることではなく、私たちモンゴル人自身に関わる問題です。「当人が努力すれば、運命も努力する」とモンゴルのことわざに言われるのは根拠のないことではありません。…

チンギス征西時には
...[チンギス・ハーンは]1218年には450名からなる大通商団をホラズムに派遣し、ムハンマド・シャーに「和議を結び、通商を拡大する」内容の申し入れをしました。しかし国境の町オトラルの長はムハンマド・シャーの命令により通商団の商品を没収し、通商団員を惨殺しました。450名のうちひとりだけが帰国してその事実をチンギス・ハーンに報告したため、チンギス・ハーンは怒りに震えましたが、殺害された団員を悼み、詳しい理由を知るために再びムハンマド・シャーにひとりのイスラム教信者と二人のモンゴル人からなる使節を派遣しました。ところがムハンマド・シャーは使節団長のイスラム教信者を殺害し、二人のモンゴル人の髪を剃って追い返したのです。…

1219年、チンギス・ハーンは大クリルタイを開きホラズム攻略を協議し、大軍を自身が率いることが適当であるとの決定を出しました。当時のモンゴルではひとりの考えによって全てが決定されていたのではなく、国家政策や精緻な行動体系が備わっていたことがわかります。人口200万に満たないモンゴル2千万の人口と40万の軍隊を持つホラズムを攻撃するとは、どんなに勇敢かつ知恵を必要としたことであったでしょう。この戦争に参加したモンゴル精鋭軍は8万、兵站任務にあたるなどの他民族の軍が6万、合計14万人でした。モンゴル軍はオトラルを廃墟にし、ブハラを占領し、職人以外の人々を殺害して寺院を破壊しました。さらにサマルカンドを征服し、多くの鍛冶職人を捕虜にしました。
これはその後の大遠征の序章でした。こうして人類史に「モンゴル時代」と名づけられる歴史のページが開かれ、戦争と抵抗、和平と破壊の時期が代わる代わる訪れることになります.この時代について書かれた本や芸術作品は無数にあります。…

仏教と人口
…元国の時代にフビライ・ハーンが国教と定め、16世紀にはモンゴルの中心的宗教になっていたチベット仏教は、モンゴルの運命にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。この問いにモンゴル人はさまざまな回答を与えています。

仏教の教えは、モンゴル人に激しさや荒々しさでなく(もともとそうであったわけではないでしょうが)、平安・寂静・忍辱(にんにく)など慈悲深い思想を備えさせるのに重要な役割を果たしました。もともと人口が少なく、生けるものが生存していくことが容易ではない厳しい自然や気候の中で生活している人々にとって真に適した哲学です。
しかし、貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴などの堪え忍ぶべき煩悩の中に、この世の成立する最も根源的原理である子孫を残す法則、男女の行為をも含めて、僧侶の妻帯を禁じたことは、モンゴルにとって良い結果をもたらしませんでした。

1921年の革命が始まった時期の外モンゴルの人口はわずか60万人で、そのうち10十万人が僧侶、9万人は成人独身女性であったというデータがあります。このような状況が長く続いていたなら、今日、モンゴルはいわんやモンゴル民族なるものが残っていたかどうか定かではなく、あるいは満洲族と同様の運命を辿っていたかもしれません。

いずれにしろ、私がモンゴル国を代表して日本に赴任し、読者諸氏と言葉を交わすような素晴らしい機会が得られたかどうかは疑問です。その意味で、「宗教はアヘンである」と言ったマルクスの言葉に従っただけでなく、モンゴル人へ及ぼした欠点も考慮して、1921年の革命後にモンゴルの党と政府は宗教に対して相当厳しい対応をしたのかもしれません。

しかし、反革命の温床として多くの僧侶を殺し700以上の寺院を破壊したことは、数百年間にわたるモンゴル民族の物質・精神文化の遺産を根こそぎ消し去りました。外国からの影響があったとはいえ、モンゴルの寺院はモンゴルの気候に適したモンゴルの資材を利用し、モンゴルの職人の知恵が詰まったモンゴル芸術建築でした。.寺院ではお経を読んで祈りを捧げるのみならず、写経・翻訳・出版、さらに文字の学習、薬の処方も行なわれていました。寺院は今日における学校・病院・コミュニティセンターの役割を果たし、人々が知的充電を行ない、心を清浄化する場所であったことは間違いありません。…

# by satotak | 2006-06-07 16:36 | モンゴル |
2006年 06月 02日
オスマン帝国を生んだ世界
林佳世子著「世界史リブレット? オスマン帝国の時代」(山川出版社 1997)より

オスマン帝国史の課題
オスマン帝国は巨象のような国家であった。しかも、とても長命の。日本史でいえば、鎌倉時代に産声をあげたオスマン帝国が史上から姿を消したのは大正時代、第一次世界大戦のあとである。どの時点をとっても、バルカンから西アジア、北アフリカに広がる東地中海世界には、オスマン帝国の強烈な存在があった。

しかし、このオスマン帝国の実像は、あまりにその存在が.長期にわたったために、なかなかはっきりとはみえにくい。これまでの歴史記述では、短い特定の期間のオスマン帝国像をつないでいくことで全体が語られてきた。とくに、ヨーロッパにとってオスマン帝国が脅威であった十六世紀と、オスマン帝国の遺産をめぐる争いがヨーロッパ列強の政治問題となる十九世紀に関心が集中していた。そこにヨーロッパの視点が色濃く反映していたことは間違いない。

オスマン帝国史が、その重要性にもかかわらず十分に明らかにされてこなかったもう一つの理由は、その広大さと、その後に生まれた多くの「国民国家」のおかれてきた複雑な立場にある。オスマン帝国のかつての領土から生まれた現在の国家は、30力国をこえる。近代から現在にいたるまで、さまざまな政治状況におかれ、今日まさに紛争の絶えない中東・バルカン・黒海沿岸の国々である。

これらすべての国々の「国史」において、「オスマン帝国史」は近世から近代にかけての重要な一部をなすはずである。しかし、それぞれの「国民国家」が誕生した経緯がオスマン帝国からの独立史にほかならないという事情に影響され、近代以後の歴史学の発展のなかで、オスマン帝国史はあたかも「トルコ」という国の歴史のようにあつかわれてきた。…トルコ以外を対象とする歴史研究において、「オスマン帝国支配時代」はあたかも暗黒時代のようにあっかわれてきた。一方、トルコ史研究の側では、イスタンブルとアナトリア以外の土地への意識・目配りが希薄なままオスマン帝国史を語ってきた傾向が強い。こうした事情から生じた欠落がオスマン帝国の全体像をみえにくくしているといえよう。
このような欠陥の克服には、まだまだ時間がかかると思われる。…

…じつは、オスマン帝国は「16世紀を頂点とし、その後体制は変化せず、国力は衰退を続けた」わけではなく、16、17、18世紀をつうじて、国家体制のうえでも経済構造のうえでも、独自の変容をたどっているのである。16世紀興隆期の勇姿と19世紀の「東方の病人」イメージだけでオスマン帝国を語ることは克服される必要がある。

オスマン国家の誕生
14世紀に異常な早さでバルカン半島に拡大した新国家(のちのオスマン帝国)の勃興を、宗教心に突き動かされたイスラム勢力の台頭、あるいはトルコ人の侵略、とみる見方は依然根強い。イスラム教徒対キリスト教徒、トルコ(オスマン)対ヨーロッパ(ビザンツ)というあいいれない二つの勢力の対立の構図は、現在のわれわれだけでなく、当時間近で観察していたヨーロッパの人びとにもわかりやすいものであった。なぜなら、宗教戦争に明け暮れ、続いて絶対王政間の紛争に血を流し続けた同時代のヨーロッパの人びとにとって、人間は宗教と民族で識別され、それに従うならばオスマン帝国はトルコ人によるイスラムの国と考えるのが自然だったからである。それゆえ、彼らは「恐ろしい敵」はトルコ人であるとし、彼らの国をトルコ帝国と呼んだ。

しかし、近年の研究が明らかにしているオスマン帝国の姿はこうしたイメージとは大きく異なる。そこでは多宗教が共存し、多民族から支配層へ人材が供給された。「何々民族の国」という考え方も実態ももたない国家がオスマン帝国であった。たしかにイスラムは支配者の宗教でありその絶対的優越性は守られていたが、キリスト教徒やユダヤ教徒の存在は自明のことであった。

このような特徴は、オスマン帝国理解の常識になりつつある。しかし、こうした多宗教・多民族国家がどこから生まれ、だれによってつくられたのかという「起源」にかんしては、依然として誤解が残っているようだ。

のちのオスマン帝国は多宗教・多民族国家となるにしても、スタート地点において国をつくり出したのは、アナトリアの辺境の地に生き、キリスト教世界ヘの聖戦に燃えたトルコ人の騎士たちであるという説は、「キョプリュリュ=ヴィテック説」として永らく支持されてきた。トルコ系遊牧民出身のオスマンのもとにガーズィーと呼ばれた騎士や神秘主義教団の戦士などが参集し、ビザンツ領への侵入を繰り返し新国家を建設したというものである。

しかし、じつは、「キリスト教世界への聖戦」などという単純な構図は存在せず、事態はより混沌としたものであったことが近年強調されてきている。オスマン帝国を生んだ世界は、イスラム世界とキリスト教世界、トルコ世界とビザンツ世界、あるいは遊牧民の世界と定住民の世界、異端的信仰と正統派の信仰、忠誠と離反が複雑にまじり合う世界であった。支配的な価値観のない流動的な辺境の世界では、宗教も民族も排他的ではありえず、人びとはたがいの境界をこえて日常的に接触を繰り返していたと考えられるのである。

ビザンツ世界とトルコ・イスラム世界のはざまから
アナトリアの変容は11世紀に遡る。1071年のマラズギルトの戦いの勝利に端を発するトルコ系遊牧民のアナトリアヘの流入は、大規模な人口変容を引きおこし、ビザンツ帝国の旧領のうえにイスラム世界の最前線をつくりだした。12世紀中葉〜13世紀前半にはイラン的な伝統を引くルーム・セルジューク朝がアナトリア高原のコンヤやシヴァスを中心に繁栄したが、1243年のモンゴルの侵入をへて、中央アナトリアはイル・ハン朝の宗主権下におかれた。13世紀後半には、…ベイリキ(侯国)と呼ばれる小国家が周辺部に自立し始める。政治的なカオスはとくに西部地域において顕著であったが、経済的にはむしろ活発な時代であったとみられる。

この時期にかんする客観的な史料は極めて乏しいが、混乱期のアナトリアに起きたできごとを題材とし、後代にまとめられた…英雄叙事詩や聖者伝説の類は、当時のアナトリアのさまざまな勢力の結びつきやカオスに生きた人びとのメンタリティを微かに浮かびあがらせている。これらの「物語」の主人公たちは、いともたやすく、トルコ・イスラム世界とビザンツ・キリスト教世界の境界を乗りこえて活躍する。主人公はガーズィーと呼ばれ、イスラムのための戦い(聖戦=ガザー)は物語の基調にあるが、決して異教徒を「異教徒であるが故に」殺したり改宗を強要することはない。トルコ人の騎士はキリスト教徒の勢力と同盟し、固い約束を交わし、しばしばその娘と恋に落ちる。あるいは、キリスト教徒の騎士が、宗教を守ったまま(あるいはいとも簡単に改宗し)イスラム教徒とともに戦う。イスラム勢力間の戦いも当然のモチーフである。

これらの物語に反映している「聖戦」のイメージは、イスラム教徒対キリスト教徒という対立の構図ではなく、騎士の名誉と戦利品の富を賭けての日常的な戦いであったと理解される。…

このような状況で台頭した勢力の一つがトルコ系遊牧部族出身のオスマンに率いられた一グループであった。彼らは13世紀後半以来北西アナトリアの一角に根拠地をおく遊牧部族であったとみられ、周辺のキリスト教徒の領主たちと良好な関係のなかに生きていた。

しかしオスマンのグループは1290年代から戦士集団として頭角をあらわしはじめる。いくつかの小都市を獲得、1301年ころに対ビザンツ戦ではじめての勝利をえて、多くの騎士や神秘主義教団員などがそのもとに集まるようになったとみられる。このころ以後、オスマン侯国と呼ばれるようになるが、小侯国にすぎなかった。やがて西アナトリアの都市ブルサの征服に成功する(1326年)。イスラム世界の最前線にうまれたオスマン、そして次代のオルハンの軍には、多数のキリスト教徒騎士が参加している。…

このように、宗教・民族の別が、彼我を分ける複数の差異の一つにすぎない社会のなかからオスマン帝国が生まれでたことは注目に値する。差異を乗りこえることは容易であり、むしろ評価された。だからこそ、のちのオスマン帝国はイェニチェリ軍という改宗者軍団を軍事力の中核にすえたのである。オスマン帝国の本質は、すでにその芽のなかにうめ込まれていたといえるだろう。

# by satotak | 2006-06-02 12:25 | テュルク |