2006年 07月
ロシア連邦タタルスタン共和国 [2006-07-26 15:24 by satotak]
モンゴル人の描くチンギス・ハーン即位 ?モンゴルの新作映画から- [2006-07-22 13:46 by satotak]
サッカーW杯と民族同化 ?ドイツの中のトルコ人- [2006-07-16 12:57 by satotak]
国家主権と自決 -国際法の視点から- [2006-07-08 04:55 by satotak]

2006年 07月 26日
ロシア連邦タタルスタン共和国
「大ロシア紀行 13/14」(産経新聞 2006.7.17/24)より:

タタルスタン共和国  ウラル山脈の西、ボルガ川中流域に位置し、面積6万8000平方?、人口約376万人。
10〜14世紀にはボルガ・ブルガール国、15〜16世紀には侵入したモンゴルによるカザン・ハン国が置かれた。1552年、ロシアのイワン雷帝がカザン・ハン国を占領し、ロシア帝国の支配下に入る。ソ連時代はタタール自治社会主義ソビエト共和国。
カザン・ハン国の遺民で、イスラム教スンニ派のトルコ系タタール人が人口の約53%、ロシア人が約40%を占める。2004年の1人当たり国内総生産(GDP)は10万9000ルーブル(約46万7000円)。1998年の5.8倍に増えた。
運命を決める機会が訪れた -連邦へのアンチテーゼ-
…ロシア連邦を構成し、欧州部にあるタタルスタン共和国の首都、カザン。街のホールでは、「女性の美」コンテストの決勝戦が最高潮を迎えていた。
出場資格者は家庭を持つ職業女性で、美しさだけでなく、仕事や家庭に対する考え方、生き方も重要な評価対象という。コンテストの目的はずばり、「家族制度を強化し特に若い世代に女性の役割や社会的地位に関心を持ってもらうこと」(実行委員会)にあった。

これまで見た通り地方の深刻な経済低迷と全体的な人口急減に悩まされているロシアにあって、イスラム教徒が多いタタール人が人口の半数を占める同共和国は都市部の人口も増えており、ソ連崩壊後も比較的安定した経済成長を続けている。
人口維持への期待を込めたコンテストひとつにも、連邦を"反面教師"に独自路線を歩もうとの共和国の気概がにじむ。

カザンは、昨夏の建都1000年に合わせて地下鉄も開通、…活況を呈している。歴史的に有名なロマシュキノ油田を抱えているから、世界的な原油高で潤っているに違いない−。
てっきりそうだと思い込んでいたら、共和国の若き大統領補佐官、マラト・サフィウリン(35)
の答えは想定外だった。
「原油が高騰しても、また、技術的に可能だとしても、年間3000万トン以上は採掘しない」

共和国として力を注いできたのは、原油の生産・販売ではなく、合成ゴムやポリエチレンの製造といった石油化学工業の発展であり、そのために日本企業を含む外資の導入も進めてきたという。
さらにいえば、ソ連崩壊後の1990年代半ば以降、タタルスタン共和国は「原油価格に左右されずにいかに生きるべきか」(サフィウリン)を追求してきたのである。

「ロシア(連邦)は原油価格が高いという条件なくして自らの(国家)機能を果たせない。われわれは石油の利益がなくてもそれができる」という補佐官の連邦批判もそんな"共和国の哲学"に根差したものといえる。

ロシアが90年代、やみくもに推し進めた国有企業の民営化は、金融業者や入札情報に接し得た一握りが国家資産を破格の値段で買い占めることを許して、オリガルヒ(寡占資本家)の台頭を招き、…
対照的に、タタルスタンではこの時期に市場経済化を漸進的に進め、公共投資主導で産業基盤の復活を図ったことが、石油に依存しない体質づくりにつながっている。

そのタタルスタンもしかし、ソ連時代は、産油地帯であるにもかかわらず製油所を持つことすら認められてこなかった。…

好機到来とばかりに、タタルスタンはロシア製航空機の代表格、ツポレフを製造する「ゴルブノフ記念カザン航空機製造合同」に投資してきた。
今年2月にプーチン政権がボーイングやエアバスに対抗する国産機を開発しようと国内メーカーを新たな国営企業に統合する決定を下したとき、「侮辱的だ」(サフィウリン)との怨嗟の声が上がった…

タタルスタンがこうしてロシアヘの“アンチテーゼ"を果敢に繰り出してこられたのも、共和国内で深刻な民族対立がなく、政治的な安定があったからにほかならない。

2つの宗教が並び立っていた
?チェチェン化避けた知恵-
ちょうどイスラム教のイマーム(指導者)のラミリ・ユヌソフ(36)が礼拝を終えたときだった。ロシア正教の若いロシア人女性が「(正教だけでなくイスラム教の)あなたの考えも聞きたい」と駆け寄ってきたのを目にし、ハッとさせられた。
もっと意表を突かれたことに、ここロシア連邦タタルスタン共和国の首都、カザンのクレムリン(城壁)の中では、このメチェーチ(イスラム寺院)と、ロシア正教の教会が並んで建っていた。…

イスラム教徒のタタール人が半数余りを占める同共和国では、信仰に対するソ連共産党の封印が解かれた15年前から、多数のメチェーチやメドレセ(イスラム神学校)が建設されてきて、イスラムの復興が目覚ましい。
ユヌソフは「1917年の十月革命後、コーランなど宗教関連の本は焼かれ、メチェーチやメドレセは破壊された。民衆は70年間、無宗教状態に置かれたが、それでも、その心の中に宗教と信仰は生き残った」と話す。
そのうえでの宗教・民族の融和と協調である。「イスラム教とキリスト教が平和に共存している現状は世界の模範となり得るはずだ」と、ユヌソフは誇らしげだった。

そのタタルスタンにもソ連崩壊後の90年代前半には、“もうひとつのチェチェン"になると懸念された時期もあった。…
タタルスタンは90年に独立を宣言し、92年3月には、同様にイスラム教スンニ派が多数派のチェチェンとともに、連邦中央との権限区分条約への調印を拒否している。
チェチェンがその後、独立派と親露派の分裂状態に陥って、ロシアの軍事介入を招いていったのに対し、タタルスタンは2年越しの交渉で連邦との条約を締結し、一触即発の事態を回避できた。

…ロシア人とタタール人の「利益のバランス」(ハキモフ)を取る政策で乗り越えた。タタール、ロシア両語を"国語"とし、イスラム教とロシア正教を対等に扱うことがその柱である。

タタルスタンが、…比較的安定した経済発展を維持してこられたのも、民族・宗教の共生を背景にある程度独立した地位を得て、連邦もそれに一目置いてきたからにほかならない。
ハキモフは「タタルスタンのイスラム教自体にも共存を可能にしたカギはある。約200年前、(タタール知識人が中心に進めた)改革を経て穏健で寛容なイスラム教だからだ」とも指摘する。

ここにもしかし、イスラム原理主義の波はヒタヒタと押し寄せている。
ロシア・イスラム大学の総長、グスマン・イスハコフ(47)は「ソ連崩壊後、(宗教上の覚醒に伴い)多くの若者がサウジアラビアなど中東諸国で教育を受け、イスラムを異なった風に理解して戻ってきた」と嘆く。
98年の同大創設も、復古主義的立場でイスラム純化を目指すワッハービズムに海外でさらされることがないよう共和国内に若者をつなぎ止め、穏健イスラムの教育者を自前で養成する狙いからだ。

…一方で、同政権[プーチン政権]下で進む中央集権化の力学は“タタルスタン・モデル"の足を引っ張っている。
連邦憲法に抵触するとして共和国憲法の改定を余儀なくされ、タタール語の表記をキリル文字からラテン文字に変える方針も却下されて、「タタール文化を守るには(真の)連邦制が不可欠。この点ではどんな妥協もできない」(ハキモフ)との反発も生まれている。

13〜15世紀にロシアを支配したモンゴルのキプチャック・ハン国の末裔であるタタール人は、モンゴル撃退後の帝政ロシアで“離散の民"となってロシア化政策の矢面に立たされている。「共存」の行方に鈍感ではいられないのも、そんな苦難の歴史ゆえかもしれない。…
(遠藤良介、…)

多民族国家  ロシア連邦は160余の民族を抱える世界有数の多民族国家。
帝政時代は領土拡張とともに「異民族」を版図に抱え込み、ロシア正教への改宗やロシア語教育といったロシア化政策を推し進め、「諸民族の牢獄」とまで呼ばれた。ソ連時代は、諸民族平等の建前の下で、自治共和国や自治州の形成を許された所もあったものの、ロシア人とロシア語優位は明らかだった。スターリンは第二次大戦期、対独協力のかどでカフカスやクリミア、ボルガ流域などの少数民族をそっくり中央アジアやシベリアに強制移住させ、自治共和国を抹殺する苛烈な弾圧策を敷いた。


# by satotak | 2006-07-26 15:24 | 民族紛争 |
2006年 07月 22日
モンゴル人の描くチンギス・ハーン即位 -モンゴルの新作映画から-
「モンゴル帝国を宣言する」(MIATモンゴル航空 機内誌 2006夏)より:

1206年のモンゴル国
当時のモンゴル国に36ヵ国と72の諸部族が服属し、優れた兵士は30万人以上、人民は700万人以上に達し、大地を持つ巨大帝国となったのである。

チンギスハーンの母オウルンさんが70歳になる
その年の一番重要な出来事はチンギスハーンの母であるオウルンさんが70歳になったことだった。この記念日をモンゴル国全土で正式かつ盛大に執り行ったのである。
さらにこの儀式がテムジンをチンギスと命名し、モンゴルをモンゴル帝国と宣言するまで一年中続く。テムジンがチンギスハーンに即位され、モンゴル帝国が築かれたことはまるでチンギスハーンからのお母さんへの恩返し、親孝行だった。
オウルンさんの70歳を祝う集会がこの年の4月に開かれたのである。

1206年4月の大集会の決定
チンギスハーンの大将軍と大臣らが話し会い、以下の3案をチンギスハーンに提案することを決める。
1.オウルンさんが今まで苦しみの中でチンギスハーンを育てあげ、モンゴル国のことを心から心配してきたこと、また70歳になることも含め祝うこと。
2.王子を結婚ざせること。
3.兵士らの能力を検定する、兵士らの功績を把握すること。
上記のことを理由に集会を開くことをチンギスパーンに提案した。

更に古代モンゴルの中央部に当たるヘルレン川の上流、大草原のオアシスに集会を開くことを決め、チンギスハーンの宮殿をオノン川岸に建てたのである。ここは集会を開き、色々を話し合うには最適な場所で、8月まで留まる必要があることをチンギスハーンに伝える。チンギスハーンは特にお母さんの70歳のお祝いの話を快く引き受け、自分の宮殿をまずそっちに移すよう指示し、10歳以上なら男女問わず集会に参加するよう指令を発した。
大勢の官吏は指令を持ち、オウルンお母さんの誕生日を4月1日に祝うことを各地に届けたのである。

オウルンさんの70歳のお祝い
そこでモンゴル国全体がまるで山が動き、海が移るかのようにオノン川上流に移動して行った。モホリ大将軍が最初に着き、5千人の軍隊でチンギスハーンの宮殿を建てる。次にオウルンさんとボルトさんの宮殿も建てはじめる、このようにチンギスハーンとご家族用の9つの宮殿を建て、そこから1キロのところで軍隊が見えるよう舞台を建て、チンギスハーンのために銀製の22棒からなる大ゲルを組み立てる。
そのゲルの天井に凡そ3メートルの金製の雷神を造り、121メートル長いフエルトを被せ、周りに13メートル幅の9色の幕を張り、宮殿の後ろに北極星を描いた旗と左右に太陽と月を描いた旗を立てた。
官吏らが集会の準備が完全になったことをチンギスハーンに伝え、チンギスハーンはオウルン母さん、家族とともに3回大砲で撃ち大音を出した後、オノン川岸に向かって出発した。モホリ大将軍は先走り、途中でチンギスハーンを9人の官吏が9回出迎えるよう指示していった。更に36ヵ国と72諸部族それぞれの旗が立てられ、各地にラッパと笛を準備し、チンギスハーンを迎える大砲の音を待ち全兵士が並んでいた。

その様にチンギスハーンはブルハンハルドンから大移動し、チンギスハーンに付き添う何万人の流れがオノン川に到着したところ、次々に3回大砲で撃ち、音楽も流れ、9人の高官がチンギスハーンを迎える。
チンギスハーンが到着された際に、両側から音楽が流れ、チンギスハーンは馬から降りテントに入り座った。
まもなくオウルンさん一行が到着し、チンギスハーンは将軍と官吏らと脆いて出迎え、中央テントの中でハダグ(神聖な布)を差し上げてからオウルンさんは宮殿に向かった.
翌日4月1日に官吏らと将重達はチンギスハーンにオウレン母さんのために天と土に線香を差し上げるよう申し上げ、チンギスハーンは聖なる水でうがいし、線香で全身を清め、大ゲルに白いハダグを持ち入り、お母さんの長生きを祈った。
その後、突然静まり返り、ソルホンシャルが脆いてオウルン母さんの偉功を大声で読み始めた。そこでチンギスハーンに向けてハーン(天皇)に即位するよう依頼を申し上げた。今まで断ってきたテムジンはみんなの意見に賛同し依頼を受けいれた。オウルン母さんは大いに喜ぶ。

モンゴルという新名前
チンギスハーンは〈我が国は北国と知られている。ただいま外国の20ヵ国以上を支配している我が国に新しい国名が付く必要がある〉と考え、デイセツンとソルホンシャル等に新名検討を任せる。彼らは相談し、ヘルレン川に沿って生活してきたモンゴル人の祖先であるモン国の“モン”を取り、“最高に尊敬される青いモンゴル国”と名づけた。こうしてモンゴルという新国名が出来たのである。

チンギスハーンという新称号
新国名を考えている最中に、奇跡的に鳥が大ゲルの上に座り、9回チンギス、チンギスと鳴いて飛んで行ったのである。全員でこのことを相談し、デイセツンはチンギスハーンに“最も優れた人間をチンギスハーン"と命名することを伝えたという。
この話は伝説とも考えられるが、歴史に残された誠実な説明である。

1206年の12月1日の朝
12月の1日の朝、ソルホンシャルが先頭となり3回にわたって大砲を撃ってから音楽が流れデイセツン、ソルホンシャル、モホリ、ボールチ4人はチンギスハーンの宮殿に行き“人民が集まり、チンギスハーンをお待ちしているので皇帝の位置についてくださいませ"と申し出る。
チンギスハーンは身体を清め、新しい服を着て、宝石付きの帯を締め、仏塔の形をした帽子を被り王冠を載せ、耳に真珠をつけた金製のイアリング、9つの宝石を取り入れた首飾りをし、赤い靴を履いて出てきた。
全員が静まり返る。

この時夜が明け、大地に9種の楽器の音が響き渡り、チンギスハーンは天と土に向かい線香を持ちながら祖先に祈り、オウルン母さんに向かい脆いて敬意を表した後、全身を清め、ソルホンシャルとデイセツンに手伝わせて皇帝の位置についた。その時、全員チンギスハーンに3回脆いて9回頭を下げ、大声でチンギスハーンが長生きできるようにと祈った。
オウルン母さんにチンギスハーンまた将軍、官吏ら全員が一緒に脆いて敬意を表した。その時オウルン母さんは息子に対し〈ハーンとなった私の息子。国の全員を自分の子供のように気遣い、全員を自分のように許してあげてくだざい。私の45年の苦しさは無駄とならず我が息子がハーンとなり親孝行している〉と涙ながら喜んで言った。そしてチンギスハーンはボルトさんに向かいお互いにハダグを交わした後に、全員チンギスハーンとご家族に脆き敬意を表した。
このようにモンゴル帝国が宣言されたのである。

(参考) 映画「大帝国の真髄」  歴史的事実に基づく映画は、監督のみならず、出演キャストや製作スタッフにとっての挑戦である。モンゴル人は歴史映画の大作を製作することに関して豊富な経験を持っている。例えば「高貴なツォクトタイジ」、「賢明なマンドゥハイ女王」、「無限の天空の力のもとで」など。

J.ソロンゴ監督はこの映画を、昨年9月から始めて、比較的短期間で撮影した。この映画には他の歴史映画と比較していくつかの特徴がある、と監督が語っている。この映画は「モンゴル秘史」に基づいており、約40人の出演者が247人の中から選抜された。

この映画では、ジャムハをより写実的に描くことを目指した。彼はチンギスハーンを強調するために重要な役柄である。何故なら、彼らはかって親友であったが、後に敵対するようになってしまった。

あの時代を特徴付ける要因の一つである戦闘場面が、モンゴル兵士の武芸を強調して撮影された。チンギスハーンの妃たち、彼女たちの衣装と生活様式に関して、新しい試みがなされている。この映画で主張したいことは、チンギスカーンとモンゴルの繁栄は無敵の蒼い天空の力によるものである、ということである。(テンギス劇場で 7月10日初日)
(「MIATモンゴル航空 機内誌」(2006夏)の「大モンゴル国800周年記念 イベント」欄から)

# by satotak | 2006-07-22 13:46 | モンゴル |
2006年 07月 16日
サッカーW杯と民族同化 -ドイツの中のトルコ人-
「ドイツ:トルコ系住民 文化統合弾み」(産経新聞 2006.6.25)より:

ドイツ国内にある欧州最大のトルコ人社会でサッカーW杯を機に“異変"が起きている。これまでドイツ社会との接触が少なかった多数のトルコ系住民の間で、ドイツ代表を応援する光景が見られるようになってきたからだ。関係者はトルコ人社会の微妙な変化を関心をもって見つめている。(ベルリン黒沢潤)

トルコの民族音楽が流れ、中東風のたたずまいをみせるベルリンのクロイツベルク地区。大勢のトルコ系住民が住むこの街では、ドイツがゴールを決めるたびに大歓声がわき、ロケット花火が派手に打ち上げられる。
「ドイツの試合日には車で街に繰り出しクラクションを鳴らす」。雑貨屋に勤務するトルコ系2世カバト・ラズガさん(22)はこう話す。

ドイヅ人を驚かせているのは、クロイツベルクだけでなく、少し南方のノイケルン、北部のウエディングなどのトルコ人街全体でも同様の現象が起きていることだ。ベルリンで生まれた2世の輸入業シャヒン・ヤルチンさん(33)は「ドイツ国旗をトルコ人が1日に計10本も応援用に買っていく。こんなことは初めてだ」と驚きを隠さない。

ドイツに住むトルコ系住民は270万人(独国籍取得者80万人)。ドイツの高度経済成長を支える労働者として1960年代に流入してきたのが始まりで、ベルリンには約15万人が住む。クロイツベルクは「小イスタンブール」とも呼ばれる。
ただ、トルコ系住民は独自の文化と宗教を尊重するあまり、独政府の統合(同化)政策が十分に成功してこなかった。

それにもかかわらずトルコ系住民が今回、ドイツ代表に熱心に声援を送るのは、母国トルコがW杯に出場していない事情に加え、前回大会で3位に入賞したトルコを多数のドイツ人が応援したことなどが背景にある。
ベルリンのトルコ人協会の広報担当者、クマリ・カンガル氏(51)は「トルコ系住民は昔、ドイツ社会から隔離されていると感じていた。しかし今では、時代の流れとともにドイツを第2の故郷とみなす人が多くなった。独チームに向ける熱狂的な支持は、異なる言葉や文化的な差異を縮める『橋渡し役』となっている」と指摘する。
著名なドイツ人指導者がトルコのサッカー発展に尽力していることも大きい。独元代表ユップ・デアワル氏は80年代、トルコの名門クラブ、ガラタサライの監督を務めたほか、トルコ代表の指導にもかかわってきた。

ドイツ社会の間ではトルコ系住民に関し、「統合は(サッカーなどではなく)もっと深い次元で行われるもの。住民はドイツの歴史や文化について熟知し、独語も完壁に話すべきだ」(IT関連社員)との厳しい指摘もある。
だが、独西部デュイスブルク・エッセン大学トルコ研究所のファルーク・シェン所長(58)は、「W杯は(統合にとって)重要な岐路になり得る。2世、3世は母国との関係も薄く、独政府が的確な政策を実施するなら、(統合が)いい方向に進むのは間違いない」と話している。


# by satotak | 2006-07-16 12:57 | トルコ |
2006年 07月 08日
国家主権と自決 -国際法の視点から-
越路正巳編「21世紀の主権、人権および民族自決権 -21世紀の民族と国家 第2巻-」(筆者:内田久司)より:

国連憲章のもとで自決は「人民自決」と呼称されている。ここに「人民」とは民族や国家も含み、したがって「民族自決」よりも広い概念として使われているが、その内容は必ずしも明らかではない。その自決には外的自決と内的自決があるといわれる。前者は人民が国際社会における地位を自由に決定する権利であり、後者は人民がその政治的地位を決定し且つ経済的、社会的および文化的発展を追求する権利(国内問題不干渉原則と関連)である。

自決権は冷戦期には植民地独立という外的自決を中心に展開したが、冷戦後は民主主義、人権および法の支配を基調とした内的自決がクローズアップされている。…

(1)外的自決
第二次大戦後における外的自決の典型は植民地の独立であるが、現在非植民地化がほぼ達成された状況のもとで、…

(2)内的自決
国際人権規約は、「すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発表を自由に追求する」と規定している(AB 1条1項)。
この条項は外的および内的自決を含み、主としては植民地住民に関わるが、すべての人民に普遍的に適用される権利と解する余地もある。友好関係原則宣言も同様の規定をもつが、… しかし、友好関係原則宣言ですべての国の内的自決に関するものはむしろ次の規定である。いわく、「上記の各項のいずれも、上に規定された人民の同権と自決の原則に従って行動し、それゆえ人種、信条又は皮膚の色による差別なくその領域に属するすべての人民を代表する政府を有する主権独立国家の領土保全又は政治的統一を全部又は一部分割しあるいは毀損するいかなる行動をも、承認し又は奨励するものと解釈されてはならない」。この規定は分り難いが、…要するに無差別の基礎の上に、「すべての人民を代表する政府」を有する主権国の領土保全を期するという趣旨である。

そうしたなかで、規約人権委員会はB規約第40条に基づく政府報告、とくに内的自決とからむ第22条(結社の自由)および第25条(選挙)に関する政府報告の審議に際し、当初は社会主義国や途上国の一党独裁制も代表民主主義と両立するものと見なされてきた。しかし、冷戦後は複数政党のなかから代表を選ぶ真に民主主義的な意思決定のプロセスを要求するようになっている。…

(3)国内における分離
内的自決と外的自決が交錯する局面として、主権国内において一部の人民による分離独立が認められるか、という問題がある。これを無条件に認めると当該国の国民的同一性や領土保全を害することになる。そこで、友好関係原則は一定の条件のもとに歯どめをかけていることは前述した。同項の準備作業からすれば、「人種・信条又は皮膚の色による差別なしにその地域に属する人民全体を代表する政府を有する」場合には内的自決が認められ、それを通じて領土保全をはかることを趣旨としており、同宣言の前文が「国家又は国の国民的統一及び領土保全の一部若しくは全部を毀損することを目的・・・・・・としたいかなる企図も、憲章の目的及び原則と両立しないことを確信し」と述べていることもそのことを表明している。しかし、その規定からすれば、例えば人種差別に基づきすべての人民を代表しない政府が大規模重大な人権侵害を行う場合には、分離独立を許容するものと反対解釈する余地もないではない。冷戦後は人権尊重を基礎にそのような学説が有力になりつつある.

分離を認めた実際の事例は冷戦期にはほとんどない。国連はコンゴ動乱におけるカタンガ州やナイジェリア内戦におけるビアフラの独立を認めなかった。わずかに東パキスタン(現バングラデシュ)の分離独立が注目される程度である。

ソ連・ユーゴの解体は連邦に関する点で共通しているが、それぞれの憲法が脱退を認めていたことは、それだけでは国際法上の理由にはならない。旧ソ連の有力国際法学者ミュレルソン(現ロンドン大学教授)は、ソ連が自由意志に基づく連邦ではなかったこと、ユーゴではセルビアの強圧的態虜に問題があったことなどから、両者に共通して認められる植民地主義的性格を指摘した上で、友好関係原則宣言第7段をも援用しながらこの間の事情を説明している。しかし、ソ連の場合には、バルト三国はともかく、他の構成国は協定に基づき分離独立したのであり、格別の説明はいらない。チェコスロヴァキアもそうである。ユーゴの場合には他の構成国の分離を認めないまま、武力行使にでたが、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルッェコヴィナ、マケドニアが事実上独立し、「分離権の問題」にはふれることなく国連やEC諸国が承認したということであり、これはいわば革命的な事実を承認の問題として処理したといえよう。

(4)自決と武力行使
体制選択をめぐる問題は冷戦下において米ソ両超大国によって抑制され、そうしたなかで革命ないし反革命の事態が発生すると、両超大国の軍事介入を招いた。…法律論としては集団的自衛権の他、正統政府の要請を正当化理由として援用した。一国で内乱が発生した場合、第三国が叛徒を援助することは国内問題への干渉となって違法だが、正統政府の要請の下に介入するのは協力(cooperation)または招請による干渉(intervention on invitation)として合法だとする一般国際法上の法理によるものである。…いずれにせよ、米ソ両超大国は衛星国の革命ないし反革命を前にして、体制擁護的にこの法理を援用してきたということができる。しかし、内乱の規模や介入の程度如何によっては当該人民の自決権行使を封ずることになりかねない。そこで、内乱が国内騒動にとどまる場合はともかく、内戦にまで発展した場合の介入は自決権の侵害になるとして違法説があり、他方で双方の場合を通じこの一般的違法説があるが、この問題は自決権との場合ばかりでなく、国連憲章の武力行使禁止条項(2条4項)とも関連し、同条項(とくに国連の目的と両立性)の観点から見れば、後者の方が妥当な説であろう。しかし、前者も根強く主張されている。

…友好関係原則宣言によれば、「すべての国家は……人民から自決権と自由及び独立を奪う、いかなる強制行動も慎しむ義務を有する」。これは、自決権をもつ人民に対する強制行動はもはや国内問題ではないことを意味する。また、続けて「人民は、自決権行使の過程において、このような強制的な行動に対する反対行動及び抵抗において、国際連合憲章の目的及び原則に従って支持を求めかつ受ける権利を有する」。この点で、東側や南側の国では自決権実現のための武力行使は自衛権の行使であり、第三国による援助は集団的自衛権の行使とみる見解もあった。しかし、同じ宣言が「国際連合憲章の目的及び原則」に従ってと規定している点からみても、第三国による軍事力による援助は認められないであろう。同様の対立は武器を含む物質的援助についてもあり、東側や南側はこれを肯定するのに対し、西側は否定し、外交的、人道的援助にとどまるとしてきた。

# by satotak | 2006-07-08 04:55 | 民族 |