2006年 08月
モンゴル旅行の記憶 -社会主義・プージェー・音- [2006-08-29 12:10 by satotak]
新しいタタール知識人 -第一次ロシア革命後の民族意識- [2006-08-22 18:17 by satotak]
韃靼の志士 -日本で活躍したタタール人たち- [2006-08-15 08:47 by satotak]
1990年代、タタルスタンの政治と民族意識 [2006-08-08 10:31 by satotak]
タタルスタンとバシュコルトスタン -モスクワからの自立は?- [2006-08-03 08:55 by satotak]

2006年 08月 29日
モンゴル旅行の記憶 -社会主義・プージェー・音-
社会主義の廃墟
7月上旬に1週間ほどモンゴルに出かけた。今年はモンゴル建国800年、そして7月はナーダムの時節であったが...私の目当ては、歴史の本などに良く出てくるカラコルムとオルホン・トーラ両川。カラコルムの地に自分の足で立ち、オルホン川の水を掬い、トーラ川を間近に眺めることができた(下の写真:トーラ川)。 残念ながらカラバルガスンには行けなかったが。
しかし今度のモンゴル旅行で一番印象に残ったのは、あちこちの町や村に放置されている工場跡。社会主義時代の工場の多くが社会主義崩壊後に操業できなくなった、とは聞いていたが。実際にその荒廃ぶりを目の当たりにすると、何とかならなかったものかと、痛ましい気分にさせられた。
体制変更後15年。悪路に揺られ、廃墟と化した工場跡を眺めて、この国の困難さを思い知らされたような1週間であった。

プージェー
映画「プージェー」については前に紹介したが、この映画のことを現地の女性ガイドに話したら…「シーズンオフになったらプージェーの家を探してみたい。ウランバートルからそんなに遠くはないようなので。…私には、本当はプージェーが生きているように思える。」と話してくれた。帰りの空港で私のメールアドレスを伝えて、何か分かったら教えて」と言って別れたのだが…

8月12日(土)21:00からフジテレビで「新グレートジャーニー 日本人の来た道 北方ルート」放映...やはりプージェーが交通事故で亡くなったのに間違いはないようだ。ことの成り行きを見ると、プージェーと彼女の家族にとって関野吉晴は「疫病神」ではなかったのか?! 彼が現れてから、この家族には次々と不幸が襲う...失礼!

モンゴルの音
この旅行で取った(盗った?)音をやっと整理した。残念なのは、ツェンケル温泉からツェツェルレグ経由でカラコルムに戻る悪路の途中、車の中で聞いたカセットテープの音を取り損なったこと。整理したコンテンツの中の「ブルドのナーダム_3」の3’15”あたりから、同じような音がかすかに聞こえている。何とも懐かしい日本民謡のような節回し...

日本民謡のことは全然詳しくないが、帰ってきてから調べてみると、「江刺追分」や「長持唄」に良く似ているような気がしたが、どうだろうか?
モンゴルの音      (参考) 宮城長持唄

# by satotak | 2006-08-29 12:10 | モンゴル |
2006年 08月 22日
新しいタタール知識人 -第一次ロシア革命後の民族意識-
長縄宣博著「ヴォルガ・ウラル地域の新しいタタール知識人」より:


 2002 年の国勢調査は、ロシア連邦にすむタタール人にとって、自らが何者なのかを改め
て問い直す契機となった。タタールスタン共和国大統領政治顧問のハキーモフは、地元紙に「お前は誰だ、タタール人か」なる連載を発表したが、それは大きな反響を呼んだ。その際、彼が常に参照したのは、20世紀初頭のジャディードたちによる自民族の説明であった。
それは偶然ではない。ソ連の公式史観で「ブルジョワ民族主義者」の代名詞であったジャディードに属する知識人の名とその言説は、ソ連崩壊後、急速にタタールスタン共和国における公式史観を構築するに至ったからだ。本稿の目的は、このジャディードと分類される人々による「民族」の言説が、それが語られていた時代にどのような意味を持っていたのかを考察しようとするものである。それは、過去十年で「正統派」の位置を獲得した「ジャディディズム」をもう一度見直す可能性を開くだろう。…

二つの民族論
 …ヴォルガ・ウラル地域におけるムスリムの統合を志向する者は、カザン方言に基づいた文章語を共有する「タタール人」を「民族」と呼んだ。他方、第一次革命(注1)後の「ロシア・ムスリム」の運動の高まりを意識する者は、「共通トルコ語」に基づく「ロシア・トルコ人」の一体性を主張した。

 以下では、このそれぞれの立場に立つ「民族論」を取り上げて、論争の中で断片的に表明された見解をより具体化してみたい。分析する文献は、ジャマレッディン・ヴァリドフの『民族と民族性』とガズィズ・グバイドゥーリンの『民族主義の若干の基礎』である。着目する論点は、彼らの民族の定義、宗教の理解、「民族史」観に加え、彼らが「民族」とロシア帝国との関係をどう理解していたのかということにある。
 グバイドゥーリンの著作には史料としての説明が必要である。この著作は、…1913 年から1917 年にかけて彼が断続的に発表した論説に基づいているが、1917 年末から1918 年初頭に、…大幅に書き加えられたと考えられる。…このため、彼の著作を1914 年のヴァリドフの著作と同時代的に比較することは困難である。しかし、十月革命後の領域的自治論の基礎にあるそれ以前の「民族」の思想を読み取ることは可能だと考える。

 では、両者の民族の定義から見てみたい。まずグバイドゥーリンは、миллEт(ミッレト)の語がイスラムと共にもたらされた時には宗教的な意味を帯びていたが、今日、西欧人がいうnation の意味で使われ始めていることを指摘する。これは、ヴァリドフが民族名論争の背景を説明した時にも言及されていた。…

 …グバイドゥーリンは、言語こそが人種を分けるのであって、人種と民族が対応することが理想だとする。この観点からすれば、「今日では共通の言葉を話しているが、元来は別の民族と数えられていた人々を統合することは望ましいと考える。」彼は、…共通の言語、歴史、慣習を共有するトルコ諸集団はすでに一個の民族(миллEт)として統合されているので、「パン・トルコ主義」といった運動さえ不要だと言うのであった。

 …ヴァリドフは、グバイドゥーリン同様、言語を宗教よりも重要な民族の要素だと見ている。しかし彼は、統合ではなく分裂することで民族が生まれると考える。これは彼が、土地を民族の要件に加えていることと無関係ではない。彼は、帝国内部に少数者としてムスリムが生きる土地を、諸民族が互いに影響を及ぼしあい、民族の根幹さえ失いかねない民族闘争の場として捉える。
つまり、民族は実生活に基づくべきだ、という考えが彼にはあったのである。この観点から彼は「トルコ人」統合の思想を批判する。

 彼は、当時のトルコ人世界は分離と統合が同時に進んでいると見た。当然、世界各地に広がり、各々が政治的あるいは自然の境界で分けられ、生活さらには言語においてさえも遠く隔たったトルコ系諸民族が、一つの民族として統合することは全く不可能である。かといって、血の親近性、宗教の一体性、言語の類似性によって結びついたこの偉大な民族(кавем)が互いを全く忘れてしまう可能性もない。しかしながら、民族性が無益な夢や感情、学問的なものから成っているのではなく、実生活において機能する社会的な要素だとすれば、民族としての分離は不可避である。...ヴァリドフがトルコ人世界の統合を見るのは、ただ知識人の文化的な関係だけである。
 ここでも彼は「タタール人」の範囲に言及するが、それは民族名論争での主張と同じである。(注2)...

 次に宗教観に着目してみたい。言語を民族の根幹と捉えるグバイドゥーリンからすれば、たとえ一つの宗教を信仰しているとしても、様々な人種や民族文化の下に発展した人々が一個の民族を成さないのは当然である。彼によれば、全人類のためにあった宗教が、ある民族のなかに入ると、その精神状態に合致する側面だけが受容されて、宗教は民族化する。彼は、アフマド・ヤサヴィーやバハー・アッディーン・ナクシュバンドを「民族的な聖者たち」と呼び、彼らは馬肉や馬乳酒を禁じるどころか奨励した、というのである。

 ヴァリドフの宗教観は、新しい知識人のイスラム理解を例証するものとしてすでに見た。(注3)
ここでは彼は、民族がその知、思想、文化において発展するにつれて信仰の持つ凝集力は弱まり、その代わりを歴史の中で形成された宗教的な組織、文学、教育といった社会的な力が担うようになる、と述べる。…

 二人の「民族」の理解が対照的であるので、その歴史をいかに理解するかにも大きな差がある。グバイドゥーリンの議論は、…トルコ民族史観に沿って展開される。彼によれば、5-6世紀以降に出現した大トルコ帝国、チンギス・ハンとチムールの登場、その後の諸ハン国の時代、ロシアの征服からドゥーマ開催までの歴史が、「ロシア・トルコ人を途切れることのない一つの紐で結びつけている。」
 その一方で彼は、ヴォルガ・トルコ人の歴史上の使命とその文明的な義務を論じる。彼によれば、彼らの祖先であるブルガールやハザールは独自の文明を作り出すというよりもむしろ、文明間を繋ぐ役割を果たしていた。ゆえに今日のヴォルガ・トルコ人も、トルコ民族の先頭に立って、東方・トルコ人世界をヨーロッパに近づける義務を負わなければならないのであった。こうしてグバイドゥーリンは、北のトルコ・タタール人には独立した一つの「民族」として生きる権利がある、と主張した。

 これに対してヴァリドフはトルコ民族史観を明確に否定する。「我々の歴史家たちは、民族愛にかられて我々に極めて偉大なトルコ文明があったことを示そうとしているが、そのような文明社会がいつどこにあったのかは確証できない。」彼は「民族」の起源をトルコ人の歴史ではなく、新方式の登場に見出した。
 ヨーロッパの中世を引き合いに彼は、宗教が民族性を抑圧すると述べる。思想、科学、技術の発展こそが、民族の基礎を強化するのであった。もちろんこれはムスリムにもあてはまる。よって、「無秩序がアッラーへの信仰によってタタール人の精神に根付いていることを考慮すると、新方式の貢献と義務が決して低いものではないことが自ずと理解されるにちがいない。」彼によれば、民族性のためにはまず全体的な覚醒が、民族意識が生じるためにはまず共通の意識が必要なのであり、新方式はまさにここに貢献したのである。

 注目すべきは、ヴァリドフが1905 年の革命を「歴史の始まり」と位置付けたことである。まさに第一次革命において「共通の意識」が生じ、精神が高揚し、思想が開かれ、その後は民族的な道に沿って運動が進んでいる、と彼は見たのだ。その背後には、第一次革命期の政治運動の反省があった。…
第一次革命後には、当時の国家制度に条件付けられる形で、階級の差よりも「ムスリム」の一体性を前面に出す大衆運動が出現したのである。まさにこれを捉えて、ヴァリドフは1905 年を「民族」史の始まりと位置付けたと考えられる。そしてそれは、革命時に一個の「民族」として団結した活動ができなかったことへの反省とともに、革命後の変化を捉えずに相変わらず階級闘争を主張する同世代の知識人への批判にもなっただろう。このことからすれば、ヴァリドフが第一次革命とそれがもたらした結果を極めて正確に認知していたことがわかる。しかし、彼はそうした事態を「ムスリム」の運動としてではなく、彼の提起する新しい「民族」、「タタール人」の運動として説明した。

 「民族」とロシア帝国の関係に関してグバイドゥーリンは、民族文明を発展させる領域を確保するという目的で「連邦制」を、「我々の祖国ロシア」のために「人民共和国」を提言している。先にも述べたように、ここには十月革命後の政治状況が反映している。当然、別の考察が必要ではあるが、革命以前のトルコ主義が「領域的自治論」と結びつく点は注目しておいてよいだろう。

 これに対して、ヴァリドフの立場は「文化的自治論」と言える。彼は自分たちがロシア文明の支配下にあることを認め、自身の道を保つためには、この文明にしがみつく力を我々は得なければならないと述べる。ここで彼は、民族性を維持することとロシア帝国の市民であることとの両立を説く。そのために彼は、政府がこの両立を目指した教育プログラムを作るべきだと考える。しかし、ロシア人の民族性に依拠したロシア帝国においては、異族人の願望は考慮されていないのが現状である。よって我々は、国家の法の範囲内で、文明化を促す民族的で社会的な運動に自ら着手しなければならない、と彼は訴えた。

 第一次革命後、政府の「異族人」教育への対応は一変する。1870 年の「異族人教育規則」
には、教育がムスリムをロシア社会に順応させるはずだという期待があった。しかし1910
年のストルイピンの特別協議会は、近代化されたムスリムの学校を脅威とみなし、そのロシア語教育すら禁止して、それを宗教的な領域に押し留めようとした。ヴァリドフが学んだボビィエ・マドラサが廃校になったのもそのためである。これに対して、世俗的な教師でもあった新しい知識人は、1870 年の「規則」に沿ってマドラサにロシア語クラスを設置することを求めた。また、マクタブやマドラサが公的な学校網に組み込まれることが、それらに法的な権利や財源の確保をもたらすと期待した。…地方の自治制度との協力が、新方式に次ぐ時代の到来として捉えられていたのである。

おわりに
 本稿では、第一次革命後の国家制度とムスリム社会の政治意識から、新しい知識人の「民族」の言説を解釈してきた。新しい知識人は、第一次革命後の自らの社会に階級を越える「民族」の存在を認めた。彼らの中には、国会のムスリム・フラクションを核とする「ロシア・ムスリム」という「民族」を「ロシア・トルコ人」として捉える者がいた。また他方で、カザンを中心とする文学の広がりを「タタールスタン」と呼ぶ者もいた。彼らは、その住民たる「タタール人」が民族性を維持し、なおかつ帝国の市民となるために、ゼムストヴォの活動に希望を見出すことができた。確かにヴァリドフが述べたように、彼らの民族論の根本が、帝国の中心部に位置することで「民族の根幹を失いかねない」という危機意識にあったとすれば、西欧の「民族」の概念を用いながらそれに合致するように「民族の根幹」を整理することは、「民族運動」を行なう上で不可欠だった。
しかしまさにそのことによって彼らは、信仰を実践する権利と制度の獲得を目指すムスリム民衆の動きを「実践的な力」として評価できなかったのである。

 現代のタタール知識人は、新しい知識人の「民族」の言説に欧米の「民族形成」の理論を接木している。さらに、「ヨーロッパ化したイスラム」がジャディディズム最良の遺産だと主張している。今日の「正統派」の思想が含まざるをえない限界と20 世紀初頭の新しい知識人による「民族」の言説が示すそれとの間に、共通性は見出せないだろうか。

(注1) 第一次ロシア革命:1905年1月22日、民衆が生活苦の打開、立憲政治の実施、戦況不振な日露戦争の即時停止などを、ロシア皇帝ニコライ2世へ請願するため、首都ペテルスブルクの冬宮に向かってデモ行進を行った。これに対して、軍隊が発砲を行い、3000人以上の死傷者を出した。この事件は「血の日曜日」と呼ばれ、第一次ロシア革命のきっかけとなった。

 この事件によって民衆の不満はいっそう高まり、1905年を通じてストライキが頻発した。6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の水兵がオデッサ市のストライキに呼応して反乱を起こしたが失敗している。10月にはゼネストが決行された。この間に、首都ペテルスブルクなどの大都市で、はじめてソヴィエトと呼ばれる労働者の代表機関が組織された。
 皇帝ニコライ2世は、こうした革命運動の高まりに対して弾圧を行ったが、ついに10月30日、立憲政体の採用と国会(ドゥーマ)の開設を約束し、政情不安も安定に向かった。
 1905年におけるこれら一連の動きを、第一次ロシア革命と呼ぶ。

(注2) ヴァリドフの「タタール人」:彼は、民族を分けるものを言語の違いに見る。しかし、「どの子音が違うと言い、いくつかの接辞が異なることによって言葉や民族を作るとすれば、世界には文章語も、文学を持つ民族も決して現れまい。」こうして彼は、ミシャルやバシュコルトもタタール人であり、さらにはクルグズ(当時はカザフ人を指す)の言葉までもが共通のタタール文学を成すことができると断言した。

 ここには、カザン方言に基づく共通の文章語を志向する新しい知識人の立場が打ち出されているのだが、それは彼らの出自とも関係する。つまり、多様な出自を持つ者たちが、カザンを中心に「タタール文学」を生み出そうとしていたのである。その広がりを「タタールスタン」と呼ぶ者もいた。

(注3) ヴァリドフの宗教観:新しい知識人は、イスラムそれ自体を理念にするイスラムの改革者とは異なり、「自身が信ずるものによって民衆を説得し、民衆を進歩の道に入れることがより容易であるように、イスラムを文明的な方法で武器にし、それを別の目的のための媒介とするためだけにイスラムに言及する。」では「別の目的」とは何か。

 ヴァリドフは、宗教が文明の基礎であり、文明へと上昇するための一つの段階だと捉える。よってイスラム世界においては、その文明の基礎であるイスラムこそがヨーロッパの新しい文明の受容を可能にすると断じる。彼によれば、この新しい文明こそが民族を死から救うのだった。ではいかにして受容が可能か。ヴァリドフは、イスラムを信仰、法、倫理の側面に分けて考察する。彼によれば、信仰の問題は従来から哲学に付すことが禁じられてきたために、理性から科学的に論じられない。他方、イスラム法の問題は現在、真の危機にある。それを今日の条件に適合させる努力にもかかわらず、シャリーアはその大部分を失い、人々がそれに基づいて判断することは全くなくなるだろう。つまりこの二つの側面には、「新たな知的、実践的な力として登場する可能性はない。」 ヴァリドフが可能性を見出すのは、倫理体系、そして聖なる制度としてのイスラムの性格である。彼によれば、民衆において多くが迷信と結びついた倫理は、その根本的な価値を維持する形で、強力な頭脳を持つ知識人が、文明世界の知と一致させることができるはずであった。倫理を知識人が規定できるとすれば、ヴァリドフが実質的に宗教から求めるのは、その聖なる媒介としての役割だけである。よって宗教は、民衆が民族となるための形を提供すると同時に、知識人がその理性で判別した倫理を伝える媒体でなければならないのである。そしてその調和こそが、ヴァリドフの考える理想的な宗教であった。

 彼の議論は明らかに、同時期に進行していた「ムスリム」の大衆運動の論理と異なる。なぜなら「ムスリム」は、ヴァリドフが「文明」の観点から切り捨てた、正しい信仰の実践とそのためのシャリーアの厳密な適用を求めていたからだ。先にも見たように、それは第一次革命を機にムスリムが得た法や制度に裏打ちされており、「実践的な力」を発揮していたのである。新しい知識人は、イスラムという行動原理から離れ、「自らが信じるもの」に基づいて運動を始めたのである。


# by satotak | 2006-08-22 18:17 | 民族 |
2006年 08月 15日
韃靼の志士 -日本で活躍したタタール人たち-
宇山智彦編「エリア・スタディーズ 中央アジアを知るための60章」(明石書店 2003)より:

ソ連の崩壊と冷戦構造の後退をうけて、日本は中央アジア諸国を支援するため積極的な「シルクロード外交」を唱えている。だが、日本がこのイスラーム圏へ関心を懐いたのは、これがはじめてではない。20世紀初頭の日露戦争に前後する時期から第二次大戦での敗北に至る半世紀に、この関心は、日本の大陸侵攻と関連し、対回教圏政策として展開した。この時期に、革命に揺れ内戦をへたロシアから日本にタタール人・バシキール人が流入し、「グレート・ゲーム」と第二次大戦に向かう国際情勢の急迫のなかで、彼ら在留ムスリム、そして大陸と東南アジアのムスリムに熱い視線が放たれた。この時期に来日し、政界や軍部、さらに民間の論客と関係をもち、ムスリムの組織化と日本の大陸政策に関わった人々がいる。アブドゥルラシド・イブラヒム(1857-1944)とガブドゥルハイ・クルバンガリー(1889-1972)であり、また、ガヤズ・イスハキ(1878-1954)である。
さて、彼らを輩出した帝政ロシアは、多様な民族・地域を支配し統合する帝国であったが、極東での日露関係の緊迫と開戦は、これら非ロシア系民族の日本への関心を引き起こした。帝国支配下のポーランドやフィンランドの活動家の来日、日本の特務機関との接触はつとに知られているが、帝国支配下のムスリムの来日と活動もこの時期に始まる。イブラヒムの来日は、このような状況でその先駆けをなした。イブラヒムは、1857年に西シベリア(トボリスク県)のタラという町に生まれた[タタール人だ]が、先祖は16−17世紀からシベリアの都市に住み着いたブハラ商人であった。中央アジアのイスラーム圏と結びつき、その知識人の通例として、彼はイスタンブル修学、メッカ巡礼を果たし、ヨーロッパとアジアを周遊し、ツァーリズム批判と汎イスラーム主義を唱えていた。1905−06年のロシアをとらえた革命のなかでは、全ロシア・ムスリム大会開催に指導的役割を果たしている。

このイブラヒムが、その後のストルィピン体制を逃れ、カザンからシベリア鉄道経由でウラジオストクに至り、1909(明治42)年の2月2日未明に敦賀に降り立った。6月半ばに東京を発つまでの日本滞在は、カザンの新聞をつうじロシアのムスリムにも伝えられ、後に『イスラーム世界』(2巻本、イスダンブル)にまとめられ、日本がイスラーム世界に広く紹介されることになった。彼は、この日本滞在で、徳富蘇峰らの文人、大隈重信、伊藤博文ら大物政治家にまみえ、軍部とも密かに接触している。また、スーダンのマフディー運動に参加したアフマド・ファズリー、新彊のトルグート王の息子バルタ・トゥラ、インドの独立を目指すバラカトッラーとも会っている。彼は、日露戦争後の日本の国際的威信の高まりに触れて日本人の自尊心を巧みにくすぐりながら、ヨーロッパ列強からのアジアの解放、キリスト教批判を唱えてまわった。彼は、日本でのイスラーム布教の可能性を確信しつつ、モスクの建設も視野にいれ、国際政治におけるイスラームの重要性を訴えて、日本の大アジア主義と大陸進出と呼応したのである。

第一次大戦が始まると、イブラヒムはドイツでロシア軍ムスリム捕虜の組織化にあたり、ロシア革命と帝政の崩壊のなかで中央アジアで活動した。彼が亡命をへてふたたび来日するのは、1933(昭和8)年の10月である。(注1)

他方で、この革命と内戦をへて、シベリアを東に逃れ満洲を経由し、タタール人・バシキール人を中心とするムスリムが大量に日本に到来する状況が生まれた。彼らはラシャの行商などで知られることになるが、この在留ムスリムの指導者としてクルバンガリーは積極的な活動を展開した。彼は、ウラルのチェリャビンスク地方のムッラーの家系に育ったバシキール人であるが、内戦でコルチャークの白軍に加わり、やがてセミョーノフ軍とともに満洲に逃れた。彼は、日本の大陸政策のなかで回教徒工作の重要性を訴え、日本の政界、軍部、右翼とも密接な連絡をとり、その支援を得つつ、東京回教団を組織した(1925年)。さらに、回教学校を開校し(1927年)、雑誌『ヤニ・ヤポン・ムフビリー(新口本事情)』をイスラーム圏に向けて発刊し(1933年)、東京の代々木上原に回教寺院の建立にこぎつけた。だが、その開堂式(1938年5月)を前に逮捕され、日本を強制退去させられ、彼は、活動の場を満洲に移すことになる。(注2)

クルバンガリーが追放された後、日本のムスリムをまとめたのはイブラヒムであった。彼は、その死に至るまでの10年を、井筒俊彦ら日本のイスラーム学者を育て、在日ムスリムの重鎮として過ごすことになる。

イブラヒムとともに、もう一人のタタール人指導者イスハキが来日しているのも見のがせない。イスハキは、カザン近くのタタール人村落でムッラーの家族に生まれ、タタール文芸で活躍し、ロシア革命のなかでもヴォルガ(イデル)=ウラル国家の実現をめざして闘ってきた。彼は、ヨーロッパを舞台に活動していたが、ポーランド軍参謀部の資金でイデル=ウラル運動を唱え、極東でのその展開に期待して来日した。やがて、ムスリム運動の方向をめぐりクルバンガリーと鋭く対立し、1934年2月11日に紀元節の祝賀に沸く「帝都」で、乱闘事件を起こすことになる。(注3)

1936年にイスハキが極東を離れ、1944年にイブラヒムが死去し、クルバンガリーは翌45年の夏に満洲でソ連軍特殊部隊に捕らえられた。彼らが活動の基盤とした日本、そして満洲、朝鮮をふくむ極東のムスリム社会は、戦後、新中国の成立、朝鮮戦争の勃発、冷戦構造の形成のなかで消失していった。ロシアの支配からの解放を求め北方からムスリムが来日し、彼らの組織化が計られ、その指導者が日本の政界、軍部、言論人と交流し接触した時代、日本の大陸政策とその一環としての対回教政策がこれらのムスリム組織と共鳴・反発しながら「グレート・ゲーム」のなかで展開した一時代は、終わりを告げた。(西山克典)

(注1) イブラヒム:アジアに広がるイスラームの戦略的重要性を認めた日本の招請を受け,33年再来日を果たした. 東京ではロシア革命後の亡命タタール人社会の長老として東京モスク(現,東京ジャーミィ)でイマーム職を務める一方,タタール語雑誌《新日本通報》にイスラーム世界と日本との連帯を呼びかける論説を書くなどして日本の対ムスリム政策に協力した. やがて来日するムーサー・ビギエフに先立ち,少壮のイスラーム学者井筒俊彦に個人教授を行ったことでも知られ,日本の敗色濃い44年8月東京に没した. 汎イスラーム主義の夢を追って,ロシア・ムスリムと日本とを結ぼうとした人物といえよう. (1857-1944)

(注2) クルバンガリー:33年秋にイスハキが来日すると,彼との対立を深めて乱闘事件を起こし,38年に東京モスク(現,東京ジャーミィ)の落成祝賀を前にして国外退去処分を受け,大陸に移った. 45年8月にソ連軍が満洲に進攻すると,セミョーノフとともに逮捕され,55年までヴラジーミル監獄に収容され,その後,ウファ,次いでチェリャビンスクに戻り,ムッラーとして活動した. (1889-1972)

(注3) イスハキ:一貫して反ボリシェヴィキの立場を堅持,ロシア内戦時にはコルチャークと行動をともにした. 19年から亡命,日本,満洲,ポーランド,ドイツ,トルコ等で民族解放運動を継続した. 作家としての代表的な作品には,自民族に警鐘を鳴らし覚醒を呼びかけた《200年後の絶滅》(1904),政府を批判したため1917年まで上演されなかった戯曲《ゾレイハ》,亡命期にタタール人の歴史を概観した《イデル・ウラル》(1933)などがある. トルコのアンカラで死去. (1878-1954)

(参考) 韃靼(だったん):本来,東北アジア内陸部の諸集団の総称と考えられるタタルtatarを,漢語で表記した名称. 突厥からの情報が漢地に入って音訳きれ,唐代より漢籍に現れる. 南宋・金代には,モンゴル高原東部のタタル部や北東部のモンゴル部を含む諸集団は黒韃靼,南部の諸集団は白韃靼と呼称された. モンゴル部のチンギス・カンによってタタル部が滅ぼされた後も韃靼の語はモンゴル高原の諸集団に対して用いられ,明・清代にも継承きれた. ただし,明代には漢語〈韃靼〉は狭義のモンゴルのみをさす用例もある. 清代には西トルキスタン等のムスリムも含めて,北アジア・中央アジアの諸集団は漢人に広く韃靼と称された.

一方,古ルーシではモンゴル帝国の継承諸政権を構成するテュルク系ムスリムをタタールと称したが,モスクワ・ロシアの拡大に伴い,南シベリアの非ムスリム諸集団までその名で呼ばれるようになった. このように,漢語の韃靼とロシア語の呼称タタールは概念の上でも重なり合うようになり,後者にも韃靼の字が充てられた. こうして日本でも,バシキール人のクルバンガリーやヴォルガ・タタール人のイスハキー,ブハラ系タタール人のアブデュルレシト・イブラヒムらは〈韃靼の志士〉と呼ばれたのであった.


# by satotak | 2006-08-15 08:47 | 民族 |
2006年 08月 08日
1990年代、タタルスタンの政治と民族意識
松里公孝著「タタルスタン政治体制の特質とその形成過程 1990-1998」)より:

ロシアの中の傑出した民族共和国
 タタルスタンがロシアの民族共和国の中でも傑出した存在であることは議論の余地がないだろう。タタルスタンは、?ロシア連邦と事実上の国家連合的関係にあり、?石油産出地であり、しかもこんにちではロシアから独立して石油輸出を行い、直接、外貨を獲得している。?軍事産業が集中し、しかもこんにちではモスクワの統制を離れて独立して武器輸出を行っている。?旧体制下でも強力な農業リージョンであったが、シャイミエフ政権の特殊な保護主義のおかげで1992 年以降も農業生産力をかなりの程度維持している。?カザン大学と独立した共和国アカデミーに代表される学術・科学技術上のポテンシャルを有している。…

 タタルスタンは、資本主義への移行において、ポピュリスト的・家父長的な住民保護政策を構成要素とする「市場経済への軟着陸」路線をとったリージョンの一例である。…シャイミエフ体制は、1998年8月の金融危機以降も盤石の強さを発揮している。…

いわゆる「タタールのくびき」
 モスクワ・カザン関係が過度に対立的に描かれる原因となっている歴史認識上のステレオタイプとして、「タタールのくびき」があげられる。[しかし]ロシア側の史学史においてさえ、…ユーラシア学派の再興により、この概念は説得力を失いつつあるが、現代タタルスタンの歴史認識・史学史においては「タタールのくびき」論の存立余地はほとんどない。…

 1944 年、こんにちのタタール人の祖先を金帳ハン国(注1)とする説はソ連共産党中央委員会決定により公式に否定され、それにかわって、モンゴル侵入以前のヴォルガ流域に高度な文明を築いていたチュルク系のイスラム民族、ヴォルガ・ブルガール人が現代タタール人の起源であると主張されるようになった。…

 戦後、ロシア民族主義が沈静化するにつれて、タタール人の民族起源説として、ヴォルガ・ブルガール人にウェイトを置きつつも、ヴォルガ・ブルガール−金帳ハン国−カザン・ハン国(注2)の3者をより連続的にとらえる説が主流となった。つまり、金帳ハン国の被支配民族であったブルガール人が…金帳ハン国をかなりの程度同化した、そしてこの混合の結果、こんにちのタタール人が生まれたと説明されるようになったのである。

 ペレストロイカ以降のタタルスタンでは、このタタール人の民族起源説はいわば両極化した。一方では、こんにちのタタール人をモンゴル侵入以前のヴォルガ・ブルガール人の直接の継承者であると考え、モンゴル・タタール的な要素の混合・介在を否定する、急進的な新ブルガリズムが生まれた。
この考え方からすれば、こんにちのタタール人にタタール人という名称が与えられていること自体が欺瞞であり、したがって本来の名称であるブルガール人に復帰しなければならないということになる。…
他方では、タタルスタンの国家性を正当化するために、現代タタール人の金帳ハン国からの継承性を強調する見解がタタルスタン史学において優勢になった。ただし、だからといって、現代タタール人とロシア人が過去の因縁から敵対的に解釈されるわけではない。なぜなら、この金帳ハン国派は、…ロシア帝国・ソヴェト連邦を(ビザンツやキエフ・ルーシではなく)金帳ハン国の後継者として考えるからである。

以上を要約すれば、新ブルガール主義者は、こんにちのタタルスタンの基幹民族は実は「タタール人」ではないと主張している。金帳ハン国派は、タタルスタンのみならず、ロシアそのものが金帳ハン国の後継者であると主張している。つまり、いずれの立場をとるにしても、「タタールのくびき」という考え方は起こり得ないのである。

 金帳ハン国派は主張する。こんにちのロシアのどこにキエフ・ルーシの痕跡があるのか。政治システム、文化はもとより、言語でさえも違うではないか。キエフ・ルーシがどれだけ貧しく混乱した国であったか忘れたのか。いったい誰のおかげで大国になれたと思っているのか。あなた方ロシア人が金帳ハン国から多くを学んだおかげではないか、と。強調に値することだが、シャイミエフの政治路線に哲学的な基礎を提供しているのは、チュルク・イスラム民族解放闘争的な発想ではなく、ロシア史そのものを金帳ハン国からの連続性において再解釈しようとする立場なのである。…

ミンチメル・シャイミエフ大統領

 ミンチメル・シャリポヴィチ・シャイミエフは、1937 年にタタルスタン自治共和国…の小村のコルホーズ議長の家庭に生まれた。9人兄弟の8番目(男子としては6番目)であったが、最初の4人の男児は全て死亡していた。そのため、両親は、彼の一つ上の兄と彼とに、生き延びるようにとの祈りを込めて、タタール語の「鉄(timer)」に由来する名を与えた。…ミンチメルは、この世代の常として、学校に上がる前から家畜を追い、農作業を手伝った。1959 年、若きシャイミエフはカザン農業大学を卒業、農機技術者となる。1967-69 年、タタルスタン州党委員会)勤務。1969 年、32 歳の若さでタタルスタン自治共和国土壌改善・治水灌漑大臣に抜擢され、1983 年(46 歳)までの14 年間、この職にあった。これは明らかに出世の停滞を意味しているが、…ただし、この大臣職にある間、シャイミエフは郡レベルでの指導者との面識を得、郡レベルでの統治システムを熟知したと言われる。
 1983 年にようやく自治共和国副首相に昇格、その後、州党委員会書記を経て、1985年から89 年まで自治共和国首相。1989 年、…党第一書記となる。1990 年4月、ゴルバチョフの兼任方針に従って、タタルスタン最高会議議長を兼任した。経歴から明らかなように、シャイミエフは典型的なテクノクラート、経営型指導者であり、「イデオロギーは私の守備範囲ではない」と公言する。対照的に、自治共和国党第一書記として前任者のウスマノフは、原則主義的な「典型的党指導者」であり、もし彼があと1、2年、タタルスタンの指導者の地位に留まっていたとしたら、民族運動に癇癪を起こして、タタルスタンの政治情勢はさらなる危機に瀕していただろうと言われる。…

連邦構成共和国への昇格
 …シャイミエフ体制の形成過程を検討しよう。この体制は、1990 年以前のエリートが生き残って比類ない結束力を見せていること、その反面、野党に影響力がほとんどないことによって条件付けられている。シャイミエフの対モスクワ政策と国内政策(民族間政策)の相互作用が、このような国内状況を生んだのである。
 なぜ旧体制エリートの延命がタタルスタンでは比較的容易であったか。やや逆説的なことであるが、…タタール民族がその「格」に相応した連邦構成共和国としての地位をソ連体制下で得られなかったことが第一にあげられる。

 歴史的民族(ロシアに併合される以前に国家を形成していた民族)としてのタタール人は、ロシア帝国・ソ連内で、おそらく東方民族としては唯一、「敬われるべき敵」としての栄誉ある地位を占めていたばかりではない。タタール人は、私の用語では、ロシア人、ポーランド人と並んで、ロシア帝国内の3大「帝国民族」のひとつであった。「帝国民族」とは、住民が支配宗教、支配言語、支配文化を受容することによって作られてゆく民族である。つまり、ロシア人がそうであり、ポーランド人がかつてそうだったように、タタール人として生まれるのではなく、タタール人になるのである。もちろん、近年の民族学は、民族とは概して不断に創造されるもの、主に集団心理的な作用の産物であると教えているが、帝国の実在または記憶は、この集団心理に決定的に影響するのである。ここでのポイントは、帝国民族は、(…カザン・ハン国のような)帝国そのものが滅亡した後も数世紀にわたって帝国民族であり続けるということである。まさにこの点で、タタール人は、バシキール人などの他のチュルク-イスラム系の民族とも区別されるのである。帝国民族は、その本性からして膨張的であり、周囲の住民を不断に同化してゆく。ここからタタール・ヘゲモニーの問題が起こる。タタール・ヘゲモニーの対象はヴォルガ中流域に限られず、歴史的には中央アジアを含むロシア帝国内イスラム圏の全域に及んでいた。ロシア帝国政府は、タタール人を警戒しつつも、中央アジアを「文明化」するために彼らを利用した。

現在でも、タタール人インテリの多くは、「中央アジアの諸民族に識字と民族意識を教えてやったのは我々だ」、「タタール人女性と結婚することは、中央アジアのエリートにとってつい最近まで大変なステータス・シンボルだったのだ」などと公言するのである。
 タタール民族のこうした「格」にもかかわらず、外国境を持っていないが故に、タタルスタンは連邦構成共和国になれなかった。自治共和国という二流の地位は、ソ連下のタタール人にとっては最大級のトラウマであり、自分たちを連邦構成共和国と比較して自分たちの優位を誇るのが彼らの習慣となった。「沿バルト3国の工業力を全部あわせてもタターリヤにはかなわないのだ」、「カザン大学に勤務する博士の数は、中央アジア5共和国の博士の数を全部足したより多いのだ」といった類である。たしかに、ロシア帝国で最も伝統ある大学都市のひとつであり、ヴォルガ中流域と中央アジアを結ぶ商工業中心地であったカザンに代表される旧カザン県のステータスは、ソヴェト政権下での石油開発、軍事産業の育成、巨大自動車工場の誘致合戦に勝ったこと(カマ自動車工場建設)、農業部門の発展などによって、一層強化された。…モスクワの側も、タターリヤの指導者と住民の不公正感を、部分的、物質的な特権を与えることによって癒そうとした。

 以上のような歴史的経過から、1988 年にソ連において民族主義的な主張が寛容されるようになったときに最初に出てきたのが、「タターリヤの連邦構成共和国への昇格」という要求だったのは当然だった。そもそもこれはタターリヤ共産党組織の伝統的な要求だったから、運動がこれを追求する限り、その主導権を旧体制エリートが握るのは困難ではなかった。現に、タターリヤ最初の民族主義的団体「タタール社会センター(TOTs)」は、1988 年秋、前出のハキモフをはじめとする州党委員会指導者の音頭で生まれたのである。周知の通り、1990 年6月まではロシア共和国共産党中央委員会が存在しなかったので、タターリヤ党組織は、誰に憚ることなく「連邦構成共和国への昇格」(つまり、ロシア共和国からの離脱)をソ連邦中央に要求することができた。

 こうして、タタール自治共和国の旧体制指導者は、1990 年春のビッグバンをさほど困難
なく乗り切った。4月11 日に招集された新しい共和国最高会議は、ゴルバチョフの兼任方
針に従って、州党第一書記シャイミエフを議長に選んだ。得票は、シャイミエフが151 票
(70.9%)、急進民族派の候補が38 票(17.8%)、親モスクワ民主派の候補が7票(3.3%)であった。

 「連邦構成共和国への昇格」が争点である限りは党指導部が情勢を容易にコントロールできるという事情が変わったのは、エリツィンがロシア共和国最高会議議長となった1990 年5月以降である。ロシアがエリツィン政権の支配下に入ったもとで「連邦構成共和国への昇格」を掲げることは、ゴルバチョフとエリツィンの闘争の文脈でゴルバチョフを支持することになる。これはタターリヤにおける親モスクワ民主派の許容するところではなかったので、彼らとタタール民族主義者の間の関係は極度に緊張した。1990 年8月30 日に共和国最高会議第2会期での激論の末に採択された「タタルスタン共和国の国家主権宣言」は、二つの要点からなる妥協の産物であった。第一は、タタール語とロシア語の国家語としての同権を宣言したことである。これは、民族主義者の顔を立てたものである。第二は、宣言が「連邦構成共和国への昇格」という伝統的な要求に触れず、その替わりに、「国家主権」なる、如何様にも解釈できる曖昧模糊たる概念を中心に据えたことである。同じ時期に他の自治共和国で採択されていた主権宣言は、当該共和国の遠心的な傾向を反映したものだった。ところが、タタルスタンの場合は、主権宣言は、エリツィンに逆らいたくないという親モスクワ民主派の顔を立てるために、連邦構成共和国への昇格という伝統的な要求から一歩退いたものだったのである。おそらく代議員たちの耳には、ほんの2、3週間前に、エリツィンがわざわざカザンまでやってきて発した有名な言葉、「どうぞ持てるだけ主権を取りなさい」という言葉がまだ残響していただろう。

 主権宣言はその後のタタルスタン政治体制の安定的な発展の礎石を置いた。第一に、二国語主義がとられたことで共和国内のエスニック・コンフリクトは顕著に沈静化した。第二に、エリツィン=ロシアとの関係でも「白黒はっきりさせる」ことに執着することで矛が収められないような状態に陥ることを避けるという、シャイミエフ指導部の一貫した対モスクワ政策を確立した。第三に、1990 年春の最初の民主的な地方選挙から8月の主権宣言までの数ヶ月間に、旧体制指導層が、急進タタール民族主義者と親モスクワ民主派の間の非和解的な関係を利用するエスノ・ボナパルティズムに習熟した。その反面では、民族主義野党と親モスクワ民主派の双方が政治的無能力を露呈した。この無能力は、ときが経つにつれますます一目瞭然となってゆくのである。

危機と均衡回復のサイクル
 1990年から1994年権限分割条約までのタタルスタンの政治過程は、「危機→合意形成・危機回避→8月クーデター、10月事件といった外的要因によって「合意」の前提が破壊される」というサイクルを3回繰り返した。…

 総じて、1990年から94年までの最も危機的な時期をシャイミエフ政権が凌ぐことができたのは、その対モスクワ政策が、内政、とくに民族間関係政策と密接に結合して展開されたからである。この過程に特徴的なのは、他の共和国においては分離主義的なニュアンスを持った主権宣言が、タタルスタン政治の文脈では、親露民主派を慰撫するためのものであったり(1990年)、タタール急進民族主義者を押さえ込むためのものであったりして(1992-93年)、抑制的(反分離主義的)な機能を果たしたことである。さらに指摘さるべきは、まさにこの「主権」なる言葉の使い方に象徴される、タタルスタン指導部の「能動的・法ニヒリズム」である。権限分割条約には法的には何の意味もない、これはロシア・タタルスタン両指導部の政治的な意志の表現なのだ、といったことをタタルスタンの指導者たちは平気で公言するのである。

彼らの関心は権限分割の具体的な内容に向けられたのであり、実利を獲得するために「政治の延長としての法」が駆使されたと言ってよいだろう。実際、タタルスタン指導部は、彼らが求めているのは連邦なのか国家連合なのか、また対称的連邦と非対称的連邦のいずれをより望ましいと考えているのかといった問いかけに、公の場で一義的な答えを与えることはしない。しても一文の得にもならないし、憲法学上のあれこれの理論的純粋性のために後ろの橋を焼き落とすようなことはしないというのが、彼らの鉄則である。これが、沿バルト型とも、チェチェン型とも異なる、タタルスタン型の紛争解決のアプローチの中核である。…

(注1) 金帳ハン国:ジョチ・ウルスの俗称、キプチャック・ハン国ともいう。13〜18世紀、中央ユーラシア西方のキプチャック草原を中心にチンギス・カンの子孫を王家に戴いて興亡した遊牧国家。(「チンギス裔の系図」の系図4-5参照)

(注2) カザン・ハン国:ヴォルガ川中流のカザンを中心に興亡したジョチ・ウルスの一政権。1438〜1552年。支配王家はチンギス・カンの長男ジョチの子孫だが、臣民は主にタタールなどチュルク系ムスリムとフィン・ウゴル系諸民族からなる。ジョチ・ウルスの遊牧集団の激しい離合集散のなかで、ウルグ・ムハンマドはウルスの主導権をめぐる争いに敗れ、かつてブルガル王国のあったヴォルガ中流域に逃れ、1438年カザンを中心に政権を樹立した。
モスクワ大公国の圧迫が続き、カザン戦争(1545−52)を経て、モスクワに併合された。この事件は、チュルク系諸民族の記憶に長くとどめられ、チュルク語英雄叙事詩《チョラ・バトゥル》を生み出す背景となった。


# by satotak | 2006-08-08 10:31 | 民族 | )
2006年 08月 03日
タタルスタンとバシュコルトスタン -モスクワからの自立は?-
宇山智彦編「エリア・スタディーズ 中央アジアを知るための60章」(明石書店 2003)より:

ソ連邦ロシア連邦共和国タタール自治共和国
ソ連崩壊によって多くの国々が独立したが、独立したくてもできずに取り残されたところもあった。ソビエト期に一「自治共和国」や「自治州」として位置づけられていた諸地域である。連邦を構成する共和国は、ソ連憲法によって形式的に認められていた離脱権を最後には実質的に行使して独立したのだが、自治共和国自治州には離脱権は認められていなかった。共和国と自治共利国の間にはその他にもさまざまな待遇の違いがあり、いくつかの自治共和国は以前から不満の声を上げていた。その代表格がタタルスタンである。

タタール人はロシア革命以前、経済・宗教・政治活動の面でロシア・ムスリムの中で大きな影響力を持ち、もっとも先進的な民族と自負していた。ところが1920−30年代に中央アジアの自治共和国が次々と共利国に格上げされる一方で、タタルスタンはロシア内の自治共和国のまま残された。外国と接する国境を持っていないことが主な理由とされる。その後何度も共和国への格上げ要求が行われたが、実現しなかった。

ペレストロイカ期、タタール自治共和国指導部は自ら民族運動を後押しするとともに、90年8月に主権宣言を発し、共和国への昇格を宣言した。もっともこの「共和国」がロシア連邦共和国から脱退してソ連邦を直接構成するとは明記されず、モスクワとの交渉の余地を残していた。ソ連が崩壊してCISが成立するとタタルスタンはCISに加盟する意志を宣言したが、これは当然実現せず、ロシア連邦指導部に対して存在感をアピールするという以上の意味を持たなかった。

ロシア連邦タタルスタン共和国
だがタタルスタン共和国の権限を向上させるための指導部のその後の立ち回りは、なかなか見事であった。ロシアは92年3月末に、国内の共和国や州などと権限分割条約(連邦条約)を結んだが、タタルスタンは直前に国民投票を行ってロシアと「対等な」関係を築くことを決め、連邦条約への参加を拒否した。同年11月に採択されたタタルスタン憲法は、ロシアとの関係を「連邦」よりも対等なニュアンスの「連合」と表現した。そして翌93年に行われたロシアの二度の国民投票(一度目はエリツィン大統領信任などを問い、二度目は憲法採択を問う)は、タタルスタンではわずかな有権者しか参加せず無効となった。タタルスタンの団結と指導部の投票操作能力を見せつけられたロシア側は譲歩し、94年2月に、ロシアとタタルスタンの権限分割条約が結ばれた。これは、連邦条約で各共和国に与えられたよりもはるかに大きな権限をタタルスタンに保証した。

モスクワに圧力をかげながら交渉を続けて有利な条件を勝ち取ったタタルスタンの手法は、独立運動が流血の戦争に転じたチェチェン共和国の場合と対比して、国際的に高い評価を受けた。もちろんこの二つの共和国の事情はあまりに違いが大きく、単純には比較できないが、たしかにミンティメル・シャイミエフ大統領らの交渉能力は際立っていた。権限分割条約締結後も、シャイミエフはタタルスタンの主権を強調しながら、ロシア大統領選挙の時などはエリツィンのために献身的に働き、信頼関係を強めた。

共和国内部では、モスクワとの交渉の下支えとして、モスクワ寄りのロシア人と強硬な独立派タタール人の中間点を探る努力が行われた。結局この中道路線が成功したことで、独立派民族運動は存在感を失い、シャイミエフの権力が強化された。タタルスタンは経済的に比較的豊かで、石油産業、軍需産業、農業(シャイミエフ自身ソビエト期は農業官僚だった)、自動車産業(ロシア最大のカマズ自動車工場がある)などが盛んだが、これらの産業の一致した支持を得ていることも、シャイミエフの強みである。

彼はロシア全体の政治でも存在感を発揮して、99年4月に政治運動「全ロシア」設立の中心となり、エリツィンの次の大統領候補と見られたプリマコフ元首相を支持したが、プーチンが大統領に就任したことでこの目論見は外れた。しかしプーチンはシャイミエフの政治力に一目置いており、シャイミエフもまたプーチンを強く支持するようになった。そしてロシアの法律では共和国大統領の三選が禁止されているにもかかわらず、なかばシャイミエフのために一部例外が認められ、彼は2001年3月に三期目の当選を果たした。

だがプーチンが掲げる中央集権化は、当初言われたほど性急に進められていないとはいえ、タタルスタンにとって試練であり、さまざまなせめぎ合いが続いている。共和国法をロシア法に合致させるという連邦側の方針のもと、タタルスタンは2004年4月に憲法を改正し、ロシア連邦の一部であることを明記せざるをえなくなった(まださまざまな独自の規定を残してはいるが)。共和国が徴収した税金も、以前より多く連邦に吸い上げられるようになった。タタルスタンが計画しているタタール語のラテン文字化も、モスクワの強い批判を受けている。また宗教面ではタタルスタン指導部は、タタールのイスラームは近代的な「ユーロ・イスラーム」であって過激主義とは無縁なのだと宣伝しているが、ごく一部にはチェチェン人武装勢力やアル・カーイダに加わるタタール人もおり、イスラームとテロが話題になるとしばしばタタール人に疑いの眼が向けられることも事実である。

バシュコルトスタン
さて、タタルスタンの東隣に位置するバシュコルトスタンも、独自の特色を持つ共和国である。遊牧民であったバシキール人は、16世紀後半にタタール人に続いてロシアの臣民となったが、その後18世紀後半に至るまでたびたび反乱をくり返し、土地所有などの権利を守った。モスクワと特別な関係を持つ重要な民族だという意識は、現在のバシュコルトスタン指導部の政治姿勢にも受け継がれている。ただ実際に取ってきた政策は、主権宣言を90年10月に行い、ロシア連邦との権限分割条約を94年8月に結ぶなど、タタルスタンから一歩遅れた後追いという性格が強い。共和国の人口の中で最大の集団はロシア人であり、バシキール入はタタール人に次ぐ第三位にすぎないこと、しかも北部のバシキール人は言語的・文化的にタタール化が進んでいて、ムルタザ・ラヒモフ大統領ら南部出身のバシキール人と微妙な対立があることが、状況を複雑にしている。ラヒモフはシャイミエフほど権力基盤が強くなく、言論統制など強圧的な手段に頼る部分がより大きい。

タタルスタンもバシュコルトスタンも、モスクワとの交渉で権利を確保するという面では、ロシア内の他の共和国よりも成功してきたと言ってよい。しかし結局独立国ではないため、中央アジア諸国と比べて国際社会からの注目度は低い。ソ連がいわば便宜的に設けた「共和国」と「自治共和国」の区別が、意外なほど大きな影響を現在まで残しているのである。(宇山智彦)


# by satotak | 2006-08-03 08:55 | 民族 |