2006年 09月
タタール 補遺 [2006-09-26 12:11 by satotak]
タタールの起源とその盛衰 [2006-09-19 19:46 by satotak]
ロシア帝国治世下のタタール -ディアスポラへの道- [2006-09-16 12:29 by satotak]
スルタンガリエフ -タタールのムスリム民族共産主義- [2006-09-05 09:40 by satotak]

2006年 09月 26日
タタール 補遺
タタールとバシキール
「タタール」と「バシキール(バシコルト)」はよく並べて記され、兄弟民族とも言われているが、タタールとバシキールを分かつものは何なのだろうか。何が同じで、何が違うのか。それぞれ別の国を建てる必然性はどこにあったのか。お互いが自分をどう認識し、相手をどう見ているのか。
山内昌之は「スルタンガリエフの夢」の中で、「タタール人とバシキール人は文化やエスニシティの面でしばしば区別できないほどよく似ている」と書いている。日本で言えば、薩摩と長州ほどの違いもなかったのではあるまいか?

民族があって国ができるのか、あるいは国境が民族を峻別するのか。
実際、1920年前後には様々な国家構想があったようである。
1920年のタタールスタンとバシキリア
20世紀のボルガ(イディル)・ウラル地方
最近、北大出版会から「ロシア帝国民族統合の研究 -植民政策とバシキール人-」(豊川浩一著)が出版された。読んでみたいが、値段が9,975円!…図書館で探してみよう。

タタール NOW
日本のメディアでタタール、特に現在のタタールが取り上げられることはほとんどなく、タタールと言っても、なかなか現実感が伴わない。タタールの人びとはどんな顔をしていて、どんな言葉を話しているのか?
そこでインターネットをあちこち探してみて、見付けたのがタタルスタン共和国の公式ホームページ(英語版)。
Official Web-site of the Republic of Tatarstan

[Videos]タブをクリックすると、テレビ放送のダイジェスト版のようなものにアクセスできる。多くのコンテンツがあり、各コンテンツのタイトルにタタール語版かロシア語版かの別も記されている。タタール語のコンテンツを視聴すれば、タタール語の実際を聞くことができる。(多分! 自分はタタール語もロシア語も分からない。)

ただし、私が使っているInternet Explorerでは、コンテンツをファイルに保存することはできるが、直接再生することができなかった。

コンテンツの中から数例を紹介する。
今週のニュース 2006.9.9
歌とスポーツの祭典 2006.7.14
カザンのサバンテュイ祭 2006.6.24
シャイミエフ大統領の年次教書 2006.3.3
シャイミエフ大統領の就任式 2005.3.26



# by satotak | 2006-09-26 12:11 | 民族 |
2006年 09月 19日
タタールの起源とその盛衰
山内昌之著「スルタンガリエフの夢 <新しい世界史A>」(東京大学出版会 1986)より:

タタールのエスニックな起源 (注1)
スルタンガリエフを生んだタタール人は、その兄弟民族バシキール人とともに、ヴォルガ中流域を核としながら同じ歴史的遺産と故郷を共有している。かれらの居住圏は、西のかなたオカ川やドン川の低地にいたり、東はウラル山脈をこえて西シベリア地方に広がっていた。また北はヴャートカ川に接し、南はヴォルガ中流域を中心にアストラハンまで伸びている。

タタール人とバシキール人は文化やエスニシティの面でしばしば区別できないほどよく似ているが、かれらの民族的起原は詳しく分かっていない。しかし、ヴォルガ川流域のフィン=ウゴール系先住民を基層部分としながら、かれらと、後から移動してきたチュルク(トルコ)系移住民との間のエスニックな混交から生れたことはまず間違いがない。フィン=ウゴール系先住民の血は、今日のモルドヴァやマリなど、ヴォルガ中流域のムスリムでないフィン系の民族集団に継承されている。この混交プロセスは、紀元後670−740年頃(一説では5−6世紀)にヴォルガ川とカマ川との間にある森林地帯に、ブルガールと呼ばれるチュルク系民族集団が定住した時から始まっている。このプロセスはキプチャクという他のチュルク系民族集団の到来とともにいっそう促進された。キプチャクがうちたてた支配権力は、11−12世紀に全盛期を迎えたという。最近の考古学調査の成果に依拠すると、キプチャクなど非ブルガール系の民族集団がヴォルガ中流域のエスニックな混交プロセスに果たした役割は、これまで想像されていた以上に大きいようである。

この混交プロセスの転換点となったのは、13世紀のモンゴルの到来である。1230年代からブルガール国家はモンゴルの国家を構成する自治的要素として認知されていたが、後者がキプチャク・ハーン国と呼ばれているように、ヴォルガ中流域の住民に占めるキプチャクの比重が高くなっていた。

ところで、ブルガールはヴォルガとカマの二つの川に挾まれた土地に移住してきたが、その地での定住化を決意した。かれらは、チュルク系民族集団のなかで初めて遊牧生活を放棄した種族といわれている。ブルガールは、早くも8−9世紀になると、通商交易を経済力の基盤としていたが、これはやがて末裔のタタールにも受けつがれる才能の前ぶれであった。かれらが通商交易に従事した理由としては、定住化した土地がどちらかというと森林地帯であり、農業や家畜の飼育にあまり適さなかったことが考えられる。そのうえ、かれらの土地がアジア・中東と東・北欧を結ぶ交通の十字路に位置しており、ヴォルガとカマの河川交通を利用した中継貿易に最適の立地条件に恵れていたことも忘れてはならない。また当のブルガール自身も、陶器・宝石細工・皮革・履物の加工にたけていた。ウラルの東沿いの地域では、かれらのつくった皮革製品が「ブルガーリー」と名付けられて、珍重されたほどである。

ブルガールの商人は、通商交易から富を獲得しただけでなかった。取引きの相手だった南方のアラブ商人からは、かれらの歴史を決定づけるイスラムを受容している。こうしてヴォルガ中流域は、ブルガール国家がイスラム文明圏の最北辺となったおかげで、発展の一途をたどるイスラム世界の「文化的植民地」として新しい世界史に合流したのであった。

ブルガールとヴォルガ中流域のイスラム化
西暦922年5月12日、ブルガール国家はイスラムを国教として受けいれ、遊牧民時代にさかのぼるアニミズムの多神論的伝統と訣別した。ブルガールの後継者タタール人は、スルタンガリエフなど後世のムスリム・コムニストも含めて、祖先のイスラム化が、剣や外交に強制されたのではなく、自発的なウンマヘの参加であると誇らしげに評価している。実際、ブルガールのハーンだったアルマスは、921年にバグダードのアッバース朝カリフ-アル・ムクタディルに使者を送って、モスクの建築や住民の教化を指導する使節団を派遣するように求めた。…アルマスはイスラムに改宗してめでたくジャファル・アブド・アッラーフとなった。

ブルガール国家の経済を潤す動脈が通商だったとすれば、その精神を支える脊椎はイスラムであった。しかし、ブルガールの繁栄はしばらく中断された。13世紀に東方からモンゴルが侵入したからである。やがてこの打撃から立ち直ったブルガールは、50年あまりキプチャク・ハーン国の内部で自治を享受しながら、河川を利用した毛皮貿易の集積地をつくりあげた。ブルガールの中心地は、北方の生産物を毛皮とともに東西に仲介するハーン国のなかで、首邑サライとならんでヴォルガ川流域で繁栄を謳歌した。イブン・バットゥータのいう「暗黒の地」からの毛皮は、イラク、シリア、エジプトなどの中東・中央アジア・中国・インド・ヨーロッパに拡がるユーラシア大陸通商網の拡大を促したのである。

しかし栄華を誇ったブルガールの首邑は、1395年にいたってティムールの荒涼のために烏有(うゆう)に帰した。ティムールの嵐を生きのびたブルガールの住民は、カマ川に沿った昔ながらの故郷を放棄して、新しくヴォルガ川右岸にカザンを築きあげて再出発した。この時いらい、かれらはしばしば「ブルガール・アルジャディード」(新しいブルガール)と称された。

ブルガールとタタール
「新しいブルガール」の名称が暗示するように、新天地カザンの国づくりに勤しんだのは、ほとんどがブルガールとモンゴルの混合結婚や文化的な混淆の結果から生みだされた人びとである。モンゴルは支配民族としてはキプチャク・ハーン国のエリートであったが、ブルガールやキプチャクなどの言語・文化・慣習を採用するなかで徐々に被支配民族に同化していった。この同化プロセスを促進したのは、1273年のキプチャク・ハーン国によるイスラムの国教化である。しかし、モンゴルが後世の歴史に最も重要な追憶を残したのは、民族の名称である。征服者の部族名である「タタール」(韃靼)が「ブルガール」の名にとってかわり、15世紀に入ると「ブルガール」の呼称はヴォルガ中流域からほとんど姿を消してしまった。ブルガールの方にはかれらなりの思惑もあった。かれらは、「タタール」を名乗ることによって、14世紀に広く人口に膾炙(かいしゃ)したモンゴル・タタールの軍事的名声や政治的能力の後継者を自負する機会を得て、自分たちの実力を誇示する狙いをもっていたともいう。いずれにせよ15世紀になるまでに、イスラム化したブルガールやキプチャクなどのチュルク系定住民、タタールなどモンゴル系遊牧民、フィン=ウゴール系定住民の一部は、「タタール」と自他ともに許すエスニック集団に溶解していった。

イスラム国家の都カザン
カザンは、1438年いらい新国家の中央集権化を推進したウル・ムハンメド(メフメト)のときからカザン・ハーン国の首邑となった。この国は、ブルガール国家の通商交易と工芸の伝統を継承するとともに、肥沃な土地を生かした農業の振興にも熱心であった。ハーン自身それにミルザとよばれる特権貴族階級、ワクフ(宗教寄進財産)をもつ大モスクが大土地所有者であった。園芸や家畜飼育と結びついた三.圃制耕作は、ヤサクという現物による貢租を納める農民によって維持された。しかし、かれらが耕す地条は狭いうえに農業技術の水準も低かったので、目をみはるほどの収穫はなかった。そこで、ヤサク農民は農耕以外に狩猟をも生業にせざるをえなかった。毛皮がヤサクの主要物品だったのはこのためである。

カザンのタタール商人は、皮革・宝石細工・陶芸などの手工業製品や毛皮・魚・奴隷などをモスクワ大公国やクリム・ハーン国との交易で取引きした。15−16世紀のカザンは、ヴォルガ流域最大の経済中心地となり、東・北欧とアジアとくにオスマン帝国との中継貿易の拠点となった。商人はモスクワとイスタンブルの毛皮貿易の仲介者として広く名声を博した。

カザン・ハーン国は通商交易と関税収入で富を蓄積しながら、ヴォルガ川のほとりに独特なイスラム文化を開花させた。有名なスユム・ビケ女王の摂政時代(1549−1551)を中心に、メクテブやメドレセと呼ばれたイスラム学術の教育・研究施設はじめ図書館や文書館も造成された事実は、1539年にムハンメディアルが書いた『人びとへの贈りもの』のなかに描かれている。この詩人が1542年に書いた『心の光』の623連を貫くモティーフは、人類愛・寛大さ・恥・戦争・忍耐・公正など、世界中どの地域の「文明国」であろうと妥当する「普遍主義」の詩境であった。ムハンメディアルの詩は、アラビア語とペルシア語の借用語に依拠しながら、タタールの言語を整備することにも貢献した。
その言語が彫琢(ちょうたく)されるにつれて発展した豊富な民俗文学と伝承は、16世紀のカザンが申し分なく文明化された豊かなイスラム都市だった面影を今日まで伝えている。

カザン汗国の内訌と衰亡
1390年代のティムールによるアゾフ、アストラハン、ウルゲンチなどの破壊、1453年のコンスタンチノープルの陥落と関連する大航海時代の開始などは、世界史上の通商パターンに画期的変化をもたらした。この変動は、カザンと中央アジアを結ぶユーラシア内陸ルートを衰退させる原因ともなった。しかも折も折、カザン・ハーン国は、内部の政治対立に加えてモスクワ大公国とクリム・ハーン国を軸とする新しい国際対立と勢力均衡の犠牲となって、1487−1521年にかけてロシア人による間接支配を経験する破目になった。ハーン国内部の「ロシア派」と「反ロシア派」が繰り返した内訌のあげくに、カザン.ハーンのシャー・アリーはひとまずクリム・ハーンの兄弟サヒプ・ギレイに王座を追われた。イワン四世のカザン征服もこの内紛に負う所が大なのである。

カザン・ハーン国は、わずか107年たらずのあいだ存続したにすぎない。しかし、ハーン国はヴォルガ中流域のムスリム住民の歴史に忘れえない想い出を刻みこんだ。そのイスラム文化と国家の枠組のなかで培われたアイデンティティこそ、後世の子孫に受けつがれてタタール人の自覚をいやがうえにもます民族意識の源流となったからである。

(注1)ヴォルガ=ブルガール国家とカザン・ハーン国の版図」参照


# by satotak | 2006-09-19 19:46 | 民族 |
2006年 09月 16日
ロシア帝国治世下のタタール -ディアスポラへの道-
山内昌之著「スルタンガリエフの夢 <新しい世界史A>」(東京大学出版会 1986)より:

正教化と四つの時期区分
ロシア国家の中央ユーラシア方面への膨張は、ロシア正教会がムスリムやアニミストにおしつけたキリスト教化と渾然一体となって進められた。ロシア史を通して聖俗両権力の複雑な関係はたびたび変化したが、神の福音とツァーリの恩寵をあまねく「しろしめす」という目的においては、正教会の布教活動はロシア国家のイスラム地域にたいする統合政策とたがいに補完しあっていた。その布教活動はタタール人ムスリムのばあいに、ロシア国家の政策と関連して大まかに四つの時期に区分できる。

まず第一は、イワン四世の時代からリューリック朝モスクワ大公国が衰亡に向かった16世紀末にいたる時期である。この間の教権は相対的に俗権から自立しながらタタール人の強制的同化を狙った (1552−1600年)。第二は、ピョートル一世などロマノフ朝初期の俗権優位の時代である。この時期も強制的同化が進められたが、行政的措置を伴ったのが特徴である (1600−1762年)。第三の時期は、啓蒙専制君主エカチェリーナ二世がイスラム信仰とタタール人の商工業活動に寛容な姿勢を示した時代である。そして第四は、エカチェリーナの寛容政策によるイスラムの活性化を危惧した俗権が正教会に布教活動を再開させて、教育や言語を手段に文化的同化を企てた時期である。時代と性格を異にしながら、この四つの段階を貫く太い糸がある。それは、自らの信仰と独自の生活様式を捨てまいとするタタール人ムスリムの不屈の抵抗力であった。

クリャシェンの誕生
カザン陥落直後、文武両権をもつ「ヴォエヴォーダ」と並んでカザンの植民地経営にあたったのは、1555年にカザン大主教に叙任されたグーリーであった。かれの宗務行政権限は、カスピ海にいたるヴォルガ全流域、ウラル山脈をこえてシベリアにいたる東方全域に及んだ。グーリーは、「異族人」の農民層のあいだに入ってねばり強く布教し、時には村や地域をまるごと正教に改宗させる成果をあげた。これは、かれがタタール語など地元語をよく駆使した賜物だったろう。タタール人改宗者の一団は、修道院と教会のすぐ傍に独自の共同体をつくりだし、ロシア語で「洗礼をうけた人」を意味する「クレシチョヌィ」またはタタール語で「クレシェン」とよばれた。かれらはロシア史上、タタール語が訛った「クリャシェン」の俗称で有名である。…

ディアスポラのはじまり
グーリーとちがい布教活動にアメよりもムチを用いた最初の人物は、1589年にカザン大主教に叙階されたゲルモーゲンである。かれはその主君フョードルの意を体して、ムスリムに苛酷きわまる措置をとった。1593年の勅書はロシア領土内のモスク新設と修復を禁止したが、この措置は現存するモスクの一掃を狙っていた。…

フョードルとゲルモーゲンの正教化政策は、ヴォルガ中流域のイスラム共同体にかなりの打撃をあたえた。カザンばかりか他の由緒あるイスラム都市でも人手を欠いたモスクがさびれはて、信仰の活力源であるワクフ収入は途絶えてしまうか公収された。イスラム文明の知の泉だったメドレセとメクテブも次から次へと閉鎖された。ウラマーは、ムスリム貴族ともどもロシアの聖俗両権力の憎悪の的となり、一身に弾圧を受けた。この試煉を運よく生き延びた者は、農村に難を避けて身を隠すか、自由を求めてはるか東方の地に亡命した。ムスリムのヤサク農民もロシア人との同化を拒んで、信仰を堅持するために集団で東方に脱出した。こうしてタタール人のイスラムは、「都市の宗教」の特性を失い「農村の宗教」として子孫に伝えられた。これは、イスラム史ではまったく新しい経験であった。

しかし、農村へのウラマーとタタール商人の浸透は、フィン系アニミスト住民のイスラム化とタタール化を促進する契機ともなった。もっと重要なのは、タタール人の東方への亡命や移住が、ロシア人も手をまわしかねた辺境地帯のカザフやノガイなどの半遊牧民や遊牧民のイスラム化を促したことである。また、中央ユーラシア各地の通商交易に活躍したタタール商人は、シベリア、トルキスタン、北カフカースに居留地をつくり、地元のムスリム住民との混合結婚や文化的混淆のおかげで独特な離散状態のエスニック共同体をつくりあげた。こうして16世紀末に早くも、のちにタタール人の目立った特徴となる「商業民族としてのディアスポラ」が始まったのである。ディアスポラ(離散)の状態にありながら、タタール人が民族的に凝集したアイデンティティを持ちつづけることができたのは、イスラム信仰と、文明語として熟していたチュルク=タタール語への執着のためであった。それにタタール人の民族意識をたえず覚醒させた別の要素も忘れてはいけない。ロシア人征服者にたいする憎悪と怨恨という心理的な要素も。…

ピョートル大帝の対イスラム政策
大帝ピョートル一世の即位から女帝エカチェリーナ二世の登極までの一世紀は、タタールにとって一番長く感じられる苦難の時期であった。ピョートルは1721年にモスクワ総主教を廃したかわりに、「最も聖なる統治権を有する宗務院」をつくって改宗布教活動を国家政策の必要性に従属させた。また、ムスリム地主の社会的凋落に情容赦なく追いうちをかけたのは、1713年に出されたピョートル一世の勅令であった。これは、カザンとアゾフのムスリム地主にたいして6ヵ月の猶予期間内に正教に改宗するか、それとも土地と農奴を国庫へ返還するか、いずれか一つの選択を命じていた。…

こうして、勤務タタールの上層部にいたムスリム貴族は急速に姿を消した。…改宗者はロシアの貴族層に吸収されたが、信仰を堅持した者は異族人身分の納税階級に身を落した。…

啓蒙専制君主と「啓蒙宗教」
エカチェリーナ二世の治世は、あらゆる面で「抑圧された民族」だったタタール人にとって息つぎの時代となった。ドイツ貴族の娘エカチェリーナが、イスラムを「啓蒙宗教」として評価したヴォルテールの影響をうけたことはよく知られている。彼女は、ロシアの東方膨張にあたり、タタール人がカザフ人やバシキール人など遊牧民・半遊牧民を「文明化」する役割を期待した。たしかに多民族帝国としてロシアが発展するのに、ロシア正教のみに依拠して各民族固有の信仰や誇り、慣習をふみにじるのはあまり賢明とはいえなかった。クリャシェンのプガチョーフの乱参加にみられるように、強制的な同化政策の行きつく結果を、現実主義者の女帝は案じたのかもしれない。

また、「不信の徒」たるロシア人との交易に背を向けがちな、中央アジアに広がる無限の市場もロシア経済には魅力であった。タタール商人はムスリム同信者としていともたやすく、ユダヤ教徒やロシア正教徒の商人を寄せつけない未知の土地に出入りしていたのである。タタール人の商いの才能と経験を帝国の富の蓄積に貢献させないでおくという法があろうか。こうして女帝は政策の転換にふみきったのである。

エカチェリーナは、即位後まもなく1764年に悪評の高い取扱局を正式に廃止し、67年にカザンを親しく訪れてムスリムの市街地居住とモスク建立を許可した。73年になると彼女は、帝国の全ムスリムにたいしても信仰の自由を与えただけでなく、メクテブ・メドレセ・モスクの建造をも公認した。1776年には、タタール商人の通商活動に加えられていた規制も撤廃されている。エカチェリーナの下で1783年に征服されたクリム半島のムスリムは、既得権をあまり失わずに済んだ。ヴォルガ中流域では89年に正教会による布教・改宗活動が制限をうけるまでになった。また驚くべきことに、99年になると、正教会によるムスリムヘの改宗活動が公けに禁止されている。これらは、ロシア帝国のムスリムの歴史において画期的な事件であった。あるムスリムが彼女の治世をロシア・イスラムの「黄金時代」と呼ぶ所以である。また、エカチェリーナの寛容政策がクリャシェンのイスラム再改宗を促した点も注目に値する。

しかし、タタールの歴史で画期的な意味をもつのは、ムスリムの生活全般にわたって法学的な解釈と適用に責任を負うムフティー職の設置が1782年に認められたことであろう。しかもこのムフティーは、信者たちによって選出されるきまりになっていた。ムフティー職の設置は、ロシアのムスリムが精神生活の上では公権力から自立した、ひとまとまりのイスラム共同体つまりウンマに属している事実をロシア帝国がはじめて認知したことを意味している。また歴代のムフティーはほとんどタタール人だったが、これはタタール人のあいだにイスラムの一体性への自信を再び植えつけ、自分よりおくれてロシアの支配下に入った同信者を「長兄」として指導する自覚をよびさますことになった。…オレンブルクのムフティー職は1788年にムスリム宗務協議会に再編成され、その権限はヴォルガ中下流域のタタール人とバシキール人を中心とする内地ロシアの全ムスリム及んだ。…

タタールの再生
ロシア経済の拡大とともに、18世紀末になるとカザンは、往年の経済中心地としての地位をタタール人の居留する別の新興都市に譲った。オレンブルクと「セイトフのポサード」、オルスク、トローイツク、ウラルスク、アストラハン、セミパラチンスクを結ぶタタール人の商業交易の密にして漏らさない網が中央ユーラシアの全域にはりめぐらされた。さらにタタールの居留区は、シベリア、トルキスタン、カフカースだけでなく、アルタイ、マンチュリア、東トルキスタン(新彊)、中国内陸部はては中・西欧や合衆国の各都市にも開拓された。ニューヨークで毛皮販売を一手に引きうけたのはタタール人であった。このような「ディアスポラ」の活力は、タタール人のあいだにパン・トルコ感情やパン・イスラム的気運を生みだす素地をつくりだしたのである。…

カザフ人にウラマーなどの宗教者を供給したのもタタール人であった。のちにスルタンガリエフは、「宗教に大義名分をかりて信心ぶかい」カザフ人を「たやすく搾取する」ためにタタール人のなかでも「意志薄弱なくず」ばかりが送りこまれたと皮肉っている(「ムスリムにたいする反宗教宣伝の方法について」)。いずれにせよ、西部カザフスタンを中心にタタール人の慣習法やシャリーアが広く普及し、タタール人のウラマーがカザフ人の食物・言語・衣服にいともたやすくなじむのを、正教の宣教師はただただ拱手傍観する他なかった。…

ロシア人とタタール人の経済競争
1860年以降になると近代技術の粋を集めたロシア人産業大ブルジョワの製品にたいして、相変らず中世的な手工芸の段階で足踏みをしていたタタール人手工業者の製品は大刀打ちできなくなった。また、蒸気機関を疾走させるロシア人の産業資本家と、勤勉と信用だけを頼りに牛馬で廻るタタール商人では勝負が目にみえていた。タタール人たちは新市場の積極的開拓に走りまわるどころでなく、これまでの通商交易網を守って自らの優勢を保持するのに汲々とした。それでもタタール人商業資本家のなかには、ロシア人の近代技術や取引方法を模倣しながら新しい試煉に立ちむかって成功を収めた者も少なくない。…

それでも全体としては、1880−90年代のタタール人商業・産業の衰退はおおうべくもなかった。そのうえ、エカチェリーナ死後の帝国の行政官は中央・地方を問わず、しばしばロシア人に依怙贔屓してタタール人にたいする露骨な差別政策をとりはじめた。…

ガスプリンスキーの「新方式」
ナースィリーの「タタール主義」と対照的な「パン・トルコ主義」もタタールのイスラム改革思想の水脈に合流するモダニズムの産物であった。パン・トルコ主義は、…ロシアで誕生した当時はむしろ文化的な改革運動を支える穏健な思想にすぎなかった。

その創始者イスマイル・ベイ・ガスプラル(1851−1914)またはガスプリンスキーは、クリム・タタールのムスリム貴族の家系に生れた。クリム・タタールは、ロシア帝国のヨーロッパ領土のなかでヴォルガ中流域のタタール以上に孤立したチュルク系の小さな共同体であった。このためにかれは、帝国の他のチュルク諸民族と密着しなければ、近代世界において民族として存続するのもおぼつかないとクリム・タタールの未来を危惧したのである。ガスプリンスキーはパン・スラヴ主義にならって、パン・トルコ主義こそクリム・タタールひいては似たような境遇にある中央ユーラシアのイスラム化されたチュルク諸民族に有益だと信じたのである。…

かれは、イスラム改革思想のどの先駆者にもましてチュルク諸民族の再生のエネルギー源を教育の革新に求めた。とくにかれは、『コーラン』の章句や教授の講述の暗記に終始する伝統的なイスラム教育を批判して、音声の理解を重視した新体系や世俗の諸学問の合理的な教育方法を導入しながらメドレセやメクテブの改革を試みた。これは、古色蒼然とした古典的教育の「旧方式」(ウスーリ・カディーム)と対照して、「新方式」(ウスーリ・ジャディード)またはたんに革新と新規を意味する「ジャディード」とよばれる学校の創立につながった。…

パン・トルコ主義における「タタール・ヘゲモニー」
ガスプリンスキーのパン・トルコ主義思想は、帝国の各地に散在するタタール人をたがいに有機的に結びつける手がかりともなり、タタールの居留地があったカザフスタン、トルキスタン、西シベリアなどのチュルク諸民族を統一する有力な武器であった。また、それは、ユーラシア大陸にまたがってロシアの公権力に庇護されたロシア資本と競合するタタール人の商業ブルジョワジーの経済的利益を代弁する思想でもあった。ロシア人の産業・商業ブルジョワとの死活をかけた経済的な競争に生き残るための切り札は、イスラムにもとづく宗教的一体性と、タタール人はじめチュルク諸民族に共通する言語的統一性であった。これこそタタール人の商業ブルジョワがガスプリンスキーのパン・トルコ主義の宣伝に援助をおしまず、「新方式」などジャディーディズムによるイスラムと民族の復興を激励した理由なのであった。タタール人などムスリムのチュルク諸民族のばあい、パン・トルコ主義とパン・イスラム主義は決して矛盾せず、イスラム改革思想のなかで琴瑟(きんしつ)相和するように結びついていたのである。

しかし、20世紀に入るとバシキリアとカザフスタンでは、タタール商人の経済力や「新方式」によるタタール文化の普及に支えられた「タタール・ヘゲモニー」は、同じムスリムのあいだでも他の民族から警戒されたり反感をかうことも珍らしくなかった。「タタール・ヘゲモニー」は、遊牧民や半遊牧民のばあいには「文化的に進んだタタール人がバシキール人を圧迫」したとスルタンガリエフが述べるように、ロシア人のタタール人抑圧に似た圧迫の構造をムスリムの内部で生みだしかねなかったからである。ロシア人の抑圧に劣らずムスリム諸民族内部の対立も考慮に入れなければ、1917年以降のウンマの分裂原因をさぐることができないであろう。

# by satotak | 2006-09-16 12:29 | 民族 |
2006年 09月 05日
スルタンガリエフ -タタールのムスリム民族共産主義-
山内昌之著「スルタンガリエフの夢 <新しい世界史A>」(東京大学出版会 1986)より:

スルタンガリエフ (1892-1940)
タタール人のムスリム民族共産主義者. カザンのタタール人師範学校に在学中,ロシアの革命思想から大きな影響を受けた. ウファやバクーにおけるジャーナリストなどの活動を経て,1917年のロシア革命を機にカザンに戻る. そこでムスリム社会主義者委員会やムスリム共産党の組織化にあたり,17年6月に,のちのソ連共産党の前身ボリシェヴィキの党に加盟した. まもなくレスターリンに抜擢されて,中央ムスリム軍事参与会議長,民族問題人民委員部参与会員,《民族生活》紙編集長,赤軍政治総本部東方局長,連邦土地委員会議長など,20以上の常勤の役職を務めた. これは,ムスリム・コムニストとして最高の栄位に昇りつめたことを意味する.

彼は,イスラーム東方世界における社会主義の独特な性格を強調した. 階級闘争とプロレタリア独裁に関するマルクス主義の古典理論を修正することによって、〈第三世界〉の意味と重要性に初めて着目した非ヨーロッパ出身の社会主義者であった. とくに,主要著作《ムスリムに対する反宗教宣伝の方法について》(1921)の中で,イスラームがまるごと反動的な宗教だという誤った説を斥けて、個人と集団を進歩的な社会原理に基づいて統合する規範としてイスラームを積極的に評価した. また,抑圧されたプロレタリアートとのアナロジーで抑圧された民族を〈プロレタリア民族〉と考える独特な視点を打ち出した. コミンテルン(共産主義インターナショナル)がヨーロッパ中心主義に堕していると批判して,アジア・アフリカの抑圧された民族からなる〈植民地インターナショナル〉の結成を呼びかけた.

スターリンの党運営を批判したこともあって,23年5月に逮捕され,まもなく〈民族主義的偏向〉として党から除名された. 28年12月に2回目の逮捕. 31年1月〜34年3月,白海のソロフキで服役. 釈放後,37年に3回目の逮捕,40年1月28日に処刑された.
ペレストロイカの下で90年6月に名誉回復. 彼が活躍したカザン市にはスルタンガリエフ広場がつくられて,タタールの人々がその往事を偲んでいる.
[以上は「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より、筆者:山内昌之]

スルタンガリエフの生い立ち
ジャディーディズムに象徴されるイスラム改革思想で重要なのは、特異なタタール人社会主義者の一群を生みだしたことである。スルタンガリエフの生い立ちと政治的経歴は、かれらの軌跡の縮図であった。

タタール名ミール・サイッド・スルタン・ガリーウグルは、1880年頃に、現在ではバシキール共和国に入っているステルリタマク郡のクリムサカル村に生れた。1892年生まれという説もあるが…かれの父は村の小さなメクテブの教師つまりムアッリムであった。
スルタンガリエフの父は、ムアッリムの御多分に洩れず、ロシア政府から俸給をもらわなかったので貧しく、その家族もつましい生活をおくっていた。…村の名士会が定めた安い報酬に甘んじていたのであろう。…

クリムサカルは100戸ほどをかかえる集落であった。村のメクテブは「新方式」の影響を多少は受けていたらしい。スルタンガリエフも父の薫陶をうけながら、音声や字母を基礎にしたタタール語とアラビア語の訓練はもとより、算術・地理・歴史の初歩の手ほどきをうけたことは間違いない。メクテブの外観がたとえみすぼらしかったにせよ、ムアッリムや生徒の教育水準は隣村のロシア人学校よりもはるかに高かった。…

スルタンガリエフの父が息子にロシア語を学ばせたことは、当時の心あるムスリム知識人の常とはいえ、開明的な人柄をしのばせる。…スルタンガリエフの家系は、父親の控え目な職業が示唆するよりもはるかに由緒ある血筋を引いていたのかもしれない。スルタンガリエフの名前のミール・サイッドは、親がこの子どもに託した期待と野心のほどを想像させる。というのも、ミールとは「アミール」(王侯)を意味し、サイッドは他ならぬ預言者ムハンマドの末裔にのみ許される名称だったからである。

スルタンガリエフは、父のメクテブで8-9年間にわたって、初等教育を授けられた。その内容は同時代の若いタタール人の仲間と変らなかったはずである。すなわち、古典アラビア語を少しかじり、オスマン=トルコ語とペルシア語にもなじみ、宗教諸学を学び、そのうえにシャリーアの初歩にも関心をもって、たぶん『コーラン』の朗唱術(タジュウィード)の手ほどきも受けたと考えるのが自然である。

こうしてメクテブ生活を終えたスルタンガリエフには、同じムスリム・コムニストたちの幼少年時代と似て、かなり熱烈なタタール民族への愛情とややファナチックなムスリム青年になる素地がつくられていた。しかも、かれの場合は、父親の職業や生活環境の所為で信仰上の禁忌を厳格に守っていた。…しかし、1895年にかれがメドレセではなくカザンのタタール師範学校の門をたたいたことは、後年のスルタンガリエフに素晴しいロシア語の知識を与える下地をつくっただけでなく、メクテブの級友の大多数には考えられもしなかった新しい人生への門出ともなった。

カザンに出たスルタンガリエフ
タタール師範学校は、その当時タタール人に唯一開かれていた国立の中等教育施設であり、ヴォルガ中流域のロシア・タタール学校の訓導の養成を目的としていた。そこでは官許の宗教の時間を除けば、全授業がロシア語でおこなわれていた。1891年に帝国内務省がタタール人ウラマーの公的資格としてロシア語を必須にすると、この学校への入学者が急増するようになり、そこから後年の著名なムスリム民族運動指導者を輩出した。…

スルタンガリエフが師範学校に在学したとおぼしき1895―1900年の5年間は、かれの成長に画期的な印を刻みこんだ。かれは先輩や同級生との交遊を通じて、マルクス主義を含むロシアの社会思想を初めて知ったことであろう。そのうえ重要なのは、スルタンガリエフが父の薫陶により培ったイスラムヘの信仰から徐々に離れるようになったことである。確証はないが、スルタンガリエフが「抑圧された民族」としてのタタール人を救済するために、イスラムを狭い信仰や精神の宇宙から解放してその政治的ダイナミズムを蘇生させようと思いついたのもこの学校の卒業前後ではあるまいか。…

スルタンガリエフは、…1900年にウファ市立図書館に司書として奉職していた。この頃になると十二分にロシア語に習熟していたので、トルストイの作品やザサディムスキーの児童文学のタタール語訳にもあたったようである。その傍、折から澎湃としておこったイスラーフ運動にも参加した。

イスラーフ運動
イスラーフ運動は、1904年頃にカザンのムハンメディエ・メドレセから始まり、…メドレセの学生たちはイスラーフ運動のなかで、文化的改革が政治的自由の獲得と不可分に結びついていることに自覚を深めながら、ツァリーズムやスラヴ主義への反発を深めるようになった。こうしてイスラーフ運動は、「ジャディード改革主義の最も急進的かつ革命的な示威」となったのである。…

しかし、イスラーフ運動の最も重要な意義は、1917年2月革命後に創立されるカザンのムスリム社会主義者委員会に多数の活動家を送りこんだことであろう。そのなかにはスルタンガリエフも含まれていたが、かれの歩みは同輩たちと比べても驚くほど慎重で遅々としていた。…

「異端」と「偏向」
「スルタンガリエフ主義」とよばれるムスリム民族共産主義は、一朝にして成ったわけではない。…だが、1917年2月に共産党に加入したときから、スルタンガリエフがイスラム世界など植民地・従属地域における民族革命と社会主義のあり方について、「正統」的なマルクス主義とは異質な考察を進めていたことだけは間違いない。それがレーニンに代表されるボリシェヴィキの革命理論の「修正」につながったことも明白である。しかし、かれの思想の発展は、1917年の入党から23年の除名をへて29年の逮捕と追放にかけて首尾一貫して連続していたわけではない。
ソヴェトの当局者が公式に「反革命」と定義したスルタンガリエフ主義は、1923年の除名以後に形成されたということになっている。党員当時のかれの思想傾向に「異端」や「偏向」とおぼしき要素が含まれていたのは事実だが、それらをただちに「反革命」と考えるには相当な無理がある。…

それでも、スルタンガリエフの思想のなかに、入党から追放にいたる全時期を通じて終始一貫する糸のような三つの関心があったことは否定できない。やがて「偏向」と烙印をおされるかれの関心は、対立しあう「階級」に分解していない前資本主義的ムスリム社会における社会主義の性格、イスラムと社会主義の関係、国際革命におけるイスラム・東方地域など植民地世界の位置づけ、の三点にむけられていた。…

複合革命論
スルタンガリエフは、タタール人などムスリム諸民族に代表される「抑圧された民族」を民族資本主義と外国帝国主義の消滅を通して解放しようとした点では、ボリシェヴィキの見解にさして異議をさしはさまなかった。しかし、かれとボリシェヴィキとのあいだには、「複合革命」としての10月革命の評価をめぐって無視できない相違があった。
ボリシェヴィキは、10月革命の基本的性格をプロレタリア革命として評価したうえで、それを側面から強化する要素として副次的に農民革命・兵士革命・民族革命を位置づけていた。他方のスルタンガリエフは、「タタール人労働者・貧農が革命には参加しなかった」と、10月革命がタタールスタンで果たした社会革命としての役割をあまり評価しない。スルタンガリエフにしても、10月革命が「地元搾取者」や反動的ウラマーにたいする社会革命と、「民族の牢獄」の解放に冷淡なロシアの臨時政府と対決する民族革命の性格を併せた複合革命だった点をおそらく否定しないであろう。

両者の違いは、複合革命のどの要素をとくに強調するかにある。ボリシェヴィキは、首都ペトログラートの変革が内地ロシアの周縁都市部に外延的に発展して、プロレタリア革命が拡大すると考えた。労働者階級が存在する限り、プロレタリア革命はどの地でも普遍的性格を獲得するのであり、その階級内部に存在する民族間の矛盾や対立は自然に解消するマージナルな問題にすぎなかった。しかし、ムスリム地域のように、労働者階級が存在するにしても、帝国の時代いらいの入植につづく農業プランテーションの発展、鉄道・土木・建築工事の拡大から生れたロシア人労働者が大多数を占め、ムスリム・プロレタリアートが皆無に等しい所では、プロレタリアート独裁は「大ロシア排外主義」の利益と重なることが珍しくなかった。地方党組織やソヴェト権力がプロレタリアート独裁の名にかくれてムスリム地元民の権利をふみにじった例は枚挙にいとまない。…

スルタンガリエフは、ムスリム・プロレタリアートが「階級」として組織化されるまでの過渡期の性格を重視した。かれは複合革命論に立脚しながら、「階級」の区別も定かでないムスリム地域では「抑圧された民族」内部の社会革命よりも民族的差別の解消とロシア人との平等な権利の獲得を目ざす民族革命が優先すると強調した。「民族意識と階級意識の発展をあれもこれも同時に促進することは、問題の正しい理解を混乱」させる原因だと批判した。

スルタンガリエフは、何をおいても民族解放をまず優先させる根拠としてムスリム社会構造の特殊性を二つあげている。第一に、階級分解が緩慢かもしくは存在しないムスリム社会の全体として均質な性格。第二に、プロレタリアートや貧農が質量ともに弱体なので、ソヴェト権力を指導する力量を欠いていること。しかし、スルタンガリエフは、ムスリム地域に社会主義が成立する可能性を否定したわけではない。それどころか、かれの思想で独特なのは、民族の解放こそ、社会主義の達成に不可欠な条件とみなしたことなのである。

プロレタリア民族
スルタンガリエフは、ムスリム諸民族のようにプロレタリアートを欠く民族が、資本主義発展の段階を飛びこして「非資本主義的発展」の道を経由しながら、直接に封建制社会や前資本主義社会から社会主義に移行できると考えた。

これを証明するために、スルタンガリエフにより提示されたのが、「抑圧された民族」を「プロレタリア民族」ととらえる独特な定式である。スルタンガリエフは、1918年3月のロシア共産党カザン県委員会で、ムスリム社会が植民地主義者に抑圧されていたことを理由にほとんど全部の階級がプロレタリアートとよばれる資格をもつことを論証しようとしている。…

そこでイスラム世界では、社会主義の実現を目ざす「階級闘争」は、「生産諸関係」における異なった階級間の闘争というよりも、異なる歴史的条件におかれた「抑圧する民族」またはその特定の階級にたいする「プロレタリア民族」の闘争としても理解されるのである。たとえば、タタールスタンにいるロシア人やドイツ人の中農は、「もっとも恵れた」タタール人の富農よりも豊かなので、タタール人の富農による貧農への圧迫を批判する前にまずタタール人の農民全体に共通する貧困こそ問うべきなのである。…

スルタンガリエフの遺産 (注1)
…ソ連の国外でスルタンガリエフは「復権」した。しかも、時にはソ連では予想もできない名声を外国で博している。いったい、スルタンガリエフ主義とは何であったのだろうか? また、そもそもスルタンガリエフとは何者だったのだろうか? 忘れられた預言者、その理論がついに第三世界の革命のなかで正当化された先駆者、イスラム世界に初めて独特な社会主義連動を移植した人物、現実からやや遊離したロマンチックな革命家、あるいは「ムスリムのトロツキー」……。

ムスリム・コムニストの犠牲者たちの大半は、今日、「名誉回復」を受けて復権した。…スルタンガリエフは相変らず異端のままであり、「反革命」の烙印をおされつづけている。…
しかし何故に、死んだムスリム・コムニストにたいする、妥協を知らない批判が半世紀も続いているのか? かれの思想はそもそもソ連の市民から完全に忘れ去られたのではないのか?

スルタンガリエフは、ロシア人の植民地主義やボリシェヴィキによる「普遍主義」の強制とたたかったが、それらを打ち負かすことはついに出来なかった。しかし、スルタンガリエフは、やがてムスリム民族共産主義とよばれるダイナミックな政治思想や行動の原型を、自らの生命を代償に遺産として後世に残した。アルジェリアやイランの例で見たように、この遺産はムスリム社会に特有のダイナミズムを引きだすことに成功した以上、ソ連のムスリム諸民族にとっても潜在的な反体制のエネルギーとして蓄積される可能性がある。このエネルギーの顕在化を阻げることこそ、ソ連当局によるスルタンガリエフ批判の主な動機なのである。

スルタンガリエフが提示したムスリム民族共産主義は、植民地化されたイスラム世界にとっての革命的な戦略であった。名目が何であれ帝国主義や無神論者の公権力のもとで「抑圧された民族」が存在し、植民地主義や「普遍遍主義」による同化政策がみられる地域では、スルタンガリエフの名をかぶせなくてもムスリム民族共産主義の支持者を必ず見いだすことができる。それは、抽象的な政治思想の領域と社会運動の沃野をつなぐ展望を人びとに与えてくれるからである。

この点にこそ、スルタンガリエフとその思想が、民族のおかれた運命を積極的に変えようとする意志と勇気をもちあわせる者たちに訴えかける魅力があるのである。あたかも、スルタンガリエフ自身が1917年にこう告白したように。
「私を社会主義に導いたのは、自分の心に重くのしかかる民族への愛であった」。

―――「もしトルキスタンがツァリーズムの支配下にあった時のように、実際に植民地であるならば、…その時には、われわれがスルタンガリエフをさばくべきでなくて、スルタンガリエフがわれわれを、ソヴェト権力の枠のなかで植民地の存在を許している人間として、さばかねばならない。」(スターリン 1923年6月)―――

(注1):本書が出版されたのが1986年であることに留意されたい。


# by satotak | 2006-09-05 09:40 | 民族 |