2006年 12月
東トルキスタン独立運動の原点とその精神的系譜 [2006-12-31 12:57 by satotak]
カシュガル 1933年 -ある大英帝国外交官の印象- [2006-12-25 16:41 by satotak]
カシュガル 2005年 -中華人民共和国の中で- [2006-12-08 13:05 by satotak]

2006年 12月 31日
東トルキスタン独立運動の原点とその精神的系譜
王 柯著「東トルキスタン共和国研究 中国のイスラムと民族問題」(東大出版会 1995)より:

「近代ウイグル文化啓蒙運動」
「近代ウイグル文化啓蒙運動」は、19世紀の末からウイグル社会の外国との交流を拡大するために、「自己のアイデンティティに対する深刻な危機感」をもつようになった「新しい知識層」と「一部のウラマー」が、新式学校教育 −イスラム教育のほかに歴史・地理・数学・化学など近代科学知識も教える− の普及を中心にしてはじまったものであり、第一次世界大戦末期の世界各地の民族意識の覚醒に伴い、1910年代後半に高揚期を迎えた。

我々の関心を引くのは、近代ウイグル文化啓蒙運動の際、ウイグル人の「外国留学」と「外国人教師の招聘」が盛んに行われたことである。注目すべきなのは、ここでの「外国」はほとんどオスマン・トルコと帝政ロシアに限られていることである。たとえば、アルトシュウの大商人バウドン・ムサバヨフ兄弟は数人のトルコ人教師を招聘し、50人以上のウイグル人青年をトルコとロシアへ留学させた。
実は「国」という表現もここでは不適切といえ、大きな誤解を引き起こしてきた。つまり、ロシアへ留学したウイグル人はすべて、ロシアのカザン地区に集中し、ロシアから招聘された教師はみなタタール人であったからである。
山内昌之によると、「学校教育の改革は、19−20世紀初頭のタタール社会で死活の性格を帯びていた」。この改革を通じてカザンは、「1905年革命後になるとロシア・ムスリムの政治・文化の中心地としてイスラム世界のなかでもイスタンブル、カイロ、ベイルートと優劣をつけがたい役割を演じることになった」。近代世界において、ウイグル社会が特にタタール社会と交流を深めたのは、「抑圧された民族」として活路を求める接点を二つの社会が共有し、しかも成功したタタール社会がウイグル社会ヘモデルを提供し、また活力を与ええたからであろう。

一方、近代ウイグル文化啓蒙運動においてトルコ人が果たした役割も確認できる。新疆南部の新式学校に多くのトルコ人教師がいたことは、複数のウイグル人によって証言されている。トルコに留学したウイグル人も啓蒙運動のなかで活躍した。第一次世界大戦後にトルコからカシュガルへ戻ってきたアブドゥカディルは、後にカシュガルの啓蒙運動の精神的指導者の役割も演じた。これらに照らしてみれば、近代ウイグル文化啓蒙運動の精神的系譜が、オスマン・トルコとカザン・タタール社会にまで遡れることはほぼまちがいない。

「タタール・トルコはオスマン・トルコとともに近代トルコ民族主義の発祥地であった」。この近代トルコ民族主義はすなわち「汎トルコ主義」である。ウイグル人はまさにこの二つの地域との交流を通じて、汎トルコ主義の影響を受けたといえよう。トルコに留学したイリのマスウード・サブリは新式学校で、「我が祖先はトルコである」と小学生に教えたとも言われている。特にタタール社会で誕生した「汎トルコ主義」の場合は、「抑圧された」トルコ系民族として、他のトルコ系民族と密接な関係をもち、近代世界において民族として存続することを目的としていた。それは民族抑圧を受け、深刻な民族危機感を抱いているウイグル人に歓迎されたことは想像に難くない。

1933年に第一次東トルキスタン民族独立運動が発生した当時、トルコ留学の経験をもつアルトシュウの新式学校の教師が学生を動員して運動を支持した事実から、トルコに留学したウイグル知識人と近代ウイグル文化啓蒙運動との、そして東トルキスタン民族独立運動との緊密な関係がうかがわれる。特に、近代ウイグル文化啓蒙運動の主要メンバーが、後にほとんど東トルキスタン民族独立運動の指導者になったことから、二つの運動の直接的な関連は明らかである。

民族独立運動の思想的原点
第一次東トルキスタン民族独立運動の幕を開けたのは、1931年3月の「ハミ蜂起」であった。ハミ蜂起の引き金は、当時の新疆省政府主席金樹仁が権力増大を狙った「改土帰流」であった。「改土帰流」とは、かつて清朝によって任命されたウイグル人の王を廃止し、王府に属する農民を一般官吏による管理システムへ移すことであり、ウイグル農民がハミ王制を廃止するために2回も蜂起したことから考えると、この行動はウイグル農民の要求にしたがったものともいえる。しかし同時に、王府関係者には政治的な特権の喪失をもたらし、ウイグル農民にも駐屯軍による圧迫や漢民族入植者の増加などの生活環境の不安をもたらしたこともあって、二つの次元でウイグル人の不満を引き起こした。

蜂起参加者が漢民族入植者を全員殺害したことから、蜂起は最初から「反漢」の性格をもっていたといえよう。しかし若干の回想文から、蜂起指導部の構成員はみな旧王府関係者であったことがわかる。おのおの異なる動機をもつ二つの階層の人間が、漢民族に対する闘いにおいて連帯した事実は、ウイグル人にとって、地域社会における民族抗争は、民族内部における階級対立以上の意義をもっていたことを物語る。

実際のところ、1930年代のウイグル民族運動はハミ蜂起を経て新疆南部まで発展してから、「東トルキスタン」という言葉を使いはじめたのである。ハミ地域がときとして「東トルキスタン」という概念から除外されることにはすでに言及したが、この地域は中国内地と新疆南部のウイグル人地域との中間に当たる地域である。その地理的位置のため中国内地との交流が盛んで、この地域に移住した中国人の人数も疑いなく他の地域より多かった。このような歴史と住民比率をあわせもつハミ地域のウイグル人が、当時「東トルキスタン」意識をどの程度抱いていたかは、実に疑問である。

ハミ地域に比べ、新疆南部はまた完全なウイグル民族社会を保持している。「トルキスタンはトルコ系の人びとの故郷であるので、当然トルコ系の人びとの地域となる」や、「我々の土地を長い年月にわたって汚している」漢民族を「彼らの故郷へ追い返す」といった東トルキスタン民族独立運動中の発言をみると、東トルキスタン民族独立運動の発生は、ウイグル人の強い領土意識とつながることがわかる。つまり、東トルキスタン民族独立運動の思想の原点は、ウイグル人の「民族の土地の解放」・「中国の支配の打倒」という民族独立にあり、よって、東トルキスタン民族独立運動発生のもっとも重要な特徴は、階級を問わず全民族が結束して中国と戦うことであった。

運動の組織的特徴
ここでは、「ハミ蜂起」から1933年11月の「東トルキスタン・イスラム共和国」が成立するまでの、第一次東トルキスタン民族独立運動の経緯を詳しく説明する余裕はないが、第一次東トルキスタン民族独立運動の失敗の原因は、敵の攻撃よりも指導部内の対立にあったと筆者は考えている。1934年5月、「東トルキスタン・イスラム共和国」の大統領のホジャ・ニヤズが新彊省政府と妥協し、総理のサウド・ダームッラと司法部長を拘禁して省政府に引き渡し、「東トルキスタン・イスラム共和国」を事実上つぶしたのは、省政府軍がまだカシュガルへ到着していない時期のことであった。この意味で、ホジャ・ニヤズは第一次東トルキスタン民族独立運動を葬り去った人物である。

ホジャ・ニヤズ(中央)とサウド・ダームッラ(その右)

注目すべきは、ホジャ・ニヤズとサウド・ダームッラとは同じ「東トルキスタン・イスラム共和国」の行政府の首脳であったとはいえ、事実上別々のグループを指導していたことである。ホジャ・ニヤズは新疆東部地域からしだいに西へ敗退してきた戦闘集団を指揮し、サウド・ダームッラはタリム盆地の南側のホタン地区から北側のカシュガル地区まで展開してきた民族独立政権の樹立を目指すグループを指導していた。したがって、主に東トルキスタン民族独立運動を担ったのは、サウド・ダームッラのグループであったと言わざるをえない。

二つのグループのうちに、ともにトルファンの出身者およびウラマーが活動していたことから、地域別あるいは宗教意識の概念で、グループの性格を規定することはできない。サウド・ダームッラはカシュガル地区のアルトシュウの出身で、ウラマーでありながらトルコなど外国へ留学し、「近代教育と政治的洗礼を受けた」知識人であり、彼に追随する者も「外国へ留学した青年たち」であったと言われている。したがって、サウド・ダームッラのグループは近代教育を受けたウイグル知識人のグループといえよう。運動の担い手がウイグル知識人であることは、運動の「近代ウイグル文化啓蒙運動」との深いつながりを示し、東トルキスタン民族独立運動発生の一つの重要な組織的特徴といえる。

「東トルキスタン・イスラム共和国」の建国の父とも言われるサウド・ダームッラはインドのイスラム青年組織への手紙のなかにおいて、率直に近代世界から大きく遅れたウイグル社会の現状を認めた。「東トルキスタン・イスラム共和国」は宗教と政治の分離を行わなかったが、ウイグル社会の政治形態を「共和制」に、政府の運営方式を「合議制」にするなどの主張が「建国綱領」に盛り込まれている。さらにまた、「東トルキスタン・イスラム共和国」の建国綱領には、「政府を担当する者は、コーランと現代科学を熟知する者である」と明記されている。ここからは、東トルキスタン民族独立運動の政治理想は、漢民族独裁者による民族抑圧を滅ぼすことだけではなく、同時にウイグル社会の近代化も目指していたことがわかる。

ところが、ハミ蜂起の煽りを受けて新疆南部の各地で次々と起こった蜂起においては、イスラム精神の鼓舞あるいはウラマーの働きかけがみられる。トルファン蜂起の際に指導部から一般参加者にまでイスラム的情熱が満ちていたことは、指導部にあった者の回想からうかがえる。一方、ホタン蜂起に先立ち、サウド・ダームッラがイスラム聖戦の理論でホタン地域のウイグル人を動員・結集していたことも伝えられていた。「東トルキスタン・イスラム共和国」の建国綱領にも、コーランを謹んで遵守する」ことが明記されている。たとえ一時的なものであったにせよ、各地の蜂起グループが「共和国」に統合されていたことは否定できない。

このような統合様式は、蜂起参加者の多様性によるものと思われる。抑圧する民族に対する恨みにおいて各階級は一致したが、その動機と目標には差がある。特に各地域が個別に自給自足的なオアシス農業自然経済を営んだことによって、ウイグル人のあいだには地域意識と地域間対立が濃厚に存在した。また、蜂起にはソ連・アフガニスタンから入ってきたウズベグ人の姿もみられる。このさまざまな蜂起参加者を政治的に統合するうえで、「ムスリムの大義」こそが共通の受け皿となりえたというのが、ウイグル社会の実状であった。つまり、イスラムを通じて民族の政治的統合を図ることは、東トルキスタン民族独立運動発生のもう一つの重要な組織的特徴である。


# by satotak | 2006-12-31 12:57 | 東トルキスタン |
2006年 12月 25日
カシュガル 1933年 -ある大英帝国外交官の印象-
今谷明著「中国の火薬庫−新疆ウイグル自治区の近代史」(集英社 2000)より:

…今回の動乱は新彊のハミ(哈密)から起こった。1930年、ハミの回王シャー=マクスド(沙木胡索特)の死後、[新疆省主席・]金樹仁がシャーの領地を没収し、ハミを分割し、哈密・宜禾(ぎか)・伊吾の3県を設置し、徴税に当たって回民を差別して漢人を優遇したのみか、甘粛から流れてきた漢人難民に肥沃の地を与え、欠所された回民には沙漠に近いやせ地を宛行(あてが)ったのである。
ハミの人々は憤激したが、東干(トンガン)(注1)でない彼らはさほど好戦的ではない。この土地問題が直接の引き金となったのではなかった。騒動の発端は「金樹仁の同郷者であり、…張」なる男がハミの徴税吏に就任し、あまつさえ「回教徒の少女に手をつけた」事件が原因であった。
回教社会では教外者との通婚は厳禁されており、通婚を阻止し得なかった回教僧阿?(アフン)らは、責任上、蜂起に立ち上がらざるを得なかったのである。1931年3月のことであった。…
ハミ国王の重臣であった和卓(ホージャ)ニヤズとヨルバルス汗は国民の窮状を見かねて、甘粛東干の英雄、馬仲英に救援を要請したのである。馬仲英…はこの時、20歳を出たばかりの若さであった。

…六城(アルティシャフル)地方の状況に触れておく必要がある。これについては、たびたび引用した呉藹宸(ごあいしん)の『新疆紀遊』と、タイクマンの『トルキスタンの旅』が簡潔に伝えており、それらによって以下略述する。

1935年11月、タイクマンはカシュガルを訪れて次のように述懐している。
「喀什?爾(カシュガル)は、過去5ヶ年間、嵐の時代を通過して来た。その物語はアラビヤン・ナイトのトルキスタン話のやうであり、もしくは土耳其斯坦(トルキスタン)の悪夢のやうである。」
しかし、呉藹宸の記述はやや異なっており、1933年の早春までは「道台馬紹武(東干人)の有能かつ正しい支配の下にあった。彼は自分の本分を守って、偏頗(へんぱ)に陥ることがなく、いかなる外部勢力にもはなはだしく影響されることがなかった」と、小康状態を保っていたことが述べられている。

反乱は1933年初め、ホータン(干?)西郊のピシャン(皮山)で起こり、同時に馬占倉なる東干(トンガン)がカラシャールからクチャへ進撃し、ここでチムールを擁立し、ベク(拝城)・アクス(阿克蘇)も占拠した。金樹仁から勦匪(そうひ)後方司令に任じられた馬紹武は鎮圧に忙殺され、ついに窮して慓悍(ひょうかん)なキルギスの援を仰ぐこととした。
しかし、キルギス首領のウスマン(鳥斯曼)は、チムールと款を通じて寝返り、カシュガル回城(疏附)を襲撃して「財産のある者は一人残らず略奪をうけ、漢人はたいがい見つかり次第に虐殺された」(『新疆紀遊』)。
こうして一時はウイグル、東干、キルギス、タジクの諸民族の連携が成ったが、キルギスの凶暴に手を焼いた人々はチムール以下団結してウスマン一派をカシュガル一帯から追い払い、回城(疏附)では1933年9月、東トルキスタン[・イスラム]共和国の独立宣言が行なわれた。首長にはホータンのサビト=ダ=ムラーが擁立された。

一方、漢城(疏勒)では省政府に忠実な馬紹武が馬占倉によって軟禁されていたが、東干兵がチムールを暗殺したことからウイグルと東干は決定的に対立し、さきの諸民族連携はここに雲散霧消した。
結局、馬占倉と馬紹武らが籠る漢城(疏勒)は1年近くウイグル軍の包囲攻撃をしのぎ、1934年春、馬仲英(注3)の一軍が到着してようやく囲みが解かれ、ウイグルは駆逐され、漢城(疏勒)に東干政府が樹立された。この騒乱で英国領事館が被害を受け、2名の死者を出した。

さて独立を宣言した疏附(回城)の共和国であるが、サビトの使節がインドを訪れたためソ連が硬化し、タス通信は新国家は英国の傀儡(かいらい)と宣伝した。困惑した英国政府は、新共和国にはいっさい関知しない旨を表し、「新疆は支那の一部」である故に、新共和国の人々に、南京政府に忠誠を尽くすよう申し入れた。結局、ヤンギサール(英吉沙)に籠城していたサビトは、馬仲英軍に追われてホータンに逃走した。
敗走を重ねてきた馬仲英は、すでにカリスマ性を失っており、カシュガルのソ連領事の勧誘もあって、亡命客としてソ連領内に逃げ去った。回教徒大反乱はここで終幕したが、なおホータン・チェルチェン(且末)など西域南道は、馬仲英の遠縁に当たる馬虎三が依然叛徒として支配していた。…

永い内乱の収拾後の新疆の新体制はどう変わったのであろうか。1935年秋、英国公使タイクマンがウルムチ(烏魯木斉)を訪れたとき、省主席はバリクル(巴里坤)生まれの漢人李溶、副主席が例の和卓(ホージャ)ニヤズ(1932年ハミ反乱の首謀者)で辺防督弁が盛世才であった。名目上、督弁は主席の下位であるが、最高権力者は督弁である。タイクマンはカシュガルの体制にも言及し、「三頭政治」と表現している。
三頭政治とは、共に満州出身の支那人の将軍と道台、それに纏頭(ウイグル)部隊を指揮する纏頭の将軍とこの三人であって、一応表面的には、三人は互ひに友好関係を持していた。だが、烏魯木斉(ウルムチ)からの厳重な統制下に置かれてゐる。」
その陣容は、満州人将軍が東北軍出身の劉彬(りゅうひん)、道台が北京の大学教授あがりの徐廉、纏頭将軍がトルファンの商人出身のマームードであった。このように新疆の行政は中央地方とも、三頭の一角に回教徒が参加する、民族融和を看板とするかたちにはなったのである。

ところで、血なまぐさい内乱の総決算であるが、ハミの蜂起に始まった戦争も、後半は馬仲英の独り舞台といってよい状況で、新疆各都市はかつてみない荒廃に陥った。戦争の主力は、北は白系ロシア人、南は東干(トンガン)兵で、とくに東干の凶暴さと無統制の掠奪には、さすがに援助を仰いだ側のウイグル側が根をあげてしまった。その事情はいち早く省政府側に寝返った和卓(ホージャ)ニヤズの行動によく現れているし、呉、ヘディン、タイクマンらもくり返し言及している。

この大争乱の評価は容易ではないが、30余年も中国に滞在し、国際状勢も知悉(ちしつ)しているタイクマンの総括が最も説得的であるように思われる。彼はまずウイグル人について、
「支那人がかくも何世紀にもわたって、この遠い地域に在る異民族を、これまで支配し続けて来たし、今なほ支配してゐるとは、奇妙なことだ!土耳其斯坦(トルキスタン)は、支那と民族的にも文化的にも相通ずるところのある蒙古(モンゴル)や西蔵(チベット)とは異なり、中国とは少しも連関を持たないやうに見える。」
と、一見、中国の支配下に入っていることの不思議さに驚いてみせる。しかし続けて、
「だが、纏頭(ウイグル)は、他民族の支配を受くべき運命にある、辛棒強い満足せる従順な民衆なのである。(中略) これに反し、古代匈奴の後裔たるカザフ人やキルギス人は、もっと勇敢で、好戦的な態度を持して居り、これを統治することが容易ではないことは疑ひない。しかし、支那領中央アジアの政治において主要な役割を果しつつある三民族の中では、支那人は生れながらの支配者であり、一人前の抜目ない優秀分子であり、東干族は闘士であり、纏頭は神によって、被支配者と定められているのだ。」
と運命論的な裁断を下す。タイクマンの見方は現代からみれば問題もあり、当時の英国的立場からするものであるけれども、なお一面の真理も含まれていることは否めない。かくして大馬逃亡に終わる大反乱のタイクマンによる総括は、次の文章で結ばれる。
「纏頭(ウイグル)が支那人の支配を歓迎したのは興味あることである。支那人の施政の方法は、われわれのそれとは非常に異なってゐる。新疆における支那人の統治法は、他の習慣を見慣れてゐる、土耳其斯坦(トルキスタン)の外人旅行者からは、盛んに非難されてゐる。だが、全体として見れば、支那の官人(マンダリン)は植民地行政に独特の天才を持ってゐる。纏頭の農民は、恐らく、同胞の回教徒の支配を受けるよりは、支那人の治下にある方が暮しよいであらう。」

(注1) 東干(トンガン):漢族のイスラム教徒(回族)

# by satotak | 2006-12-25 16:41 | 東トルキスタン |
2006年 12月 08日
カシュガル 2005年 -中華人民共和国の中で-
NHK「新シルクロード」プロジェクト編著「新シルクロード<5> カシュガル・西安」(NHK出版 2005)より(筆者:国分 拓):

【長老、アブリズバックム (77歳)】
…今回はそれがイヤだったので、申請書には「典型的な老城で暮らす人びとの生活。例えば、商人、雑貨屋、アクサカル、アホン、小学生、職人など」みたいに書いておいた。それはそれで相当アバウトには違いないが、事前取材ができなかったので、個人名を書き込むことはできない。
だから、彼らが用意する「普通の家族」を紹介されることはなかったのだが、現場で「正規ルートから再度申請せよ」と言われる羽目になったのだ。…

そうして出会ったのが、アブリズバックムだった。
アブリズバックムは町内一の高齢者だった。カシュガル生まれのカシュガル育ち。
今年で77歳になる。会うなり、友達は皆死んでしまったと言って笑った。…

「60歳を超えた頃から、近所の人にアクサカルと呼ばれるようになった。思えば、働き盛りの三、四十代に、よくみんなの悩みを聞いたものだった。忙しいには忙しい頃だったが、人びとの問題を解決するために面倒を厭(いと)わなかった。アクサカルと呼ばれたいから、そんなことをしたのではない。コーランに書いてある通りのことをしただけだ」
アブリズバックムは、いくつかの職業を転々としたが、今は雑貨屋を営んでいるという。…

アブリズバックムは店に腰を掛けて、私たちの質問に丁寧に答えた。子どもの話、便利な世の中にした政府への称賛、カシュガルの果物の美味しさ。しかし、最後のひと言は、絞り出された一欠片(ひとかけら)の本音のように感じた。改革開放を謳歌(おうか)する現代、民族の分け隔てなく、人びとには商売の自由が保証されている。
若ければ、もっと儲けられたはずだ……。

もっとアブリズバックムの話が聞きたかった。日を改めてもう一度インタビューをさせてほしいと頼むと、彼は快諾した。
日取りは彼の方から連絡してくれることになった。
しかし、待てども待てども返事は来ない。痺(しび)れを切らして外事職員に電話をかけてもらうと、その職員は電話口で渋い顔をしている。何かあったのか? と聞いてもなにも答えない。ただ、アブリズバックムの家に行って来ると言って、その場を立ち去った。
結局、最後のインタビューはNGとなった。外事職員はその理由を語ろうとしなかった。ただ、すまないと何度も言った。何度聞いても私たちには口を割らなかった。

帰国する直前になって、私たちのコーディネーターと飲み明かした職員はチラつと本当の事を語った。
「漢民族とウイグル族が理解しあうのは難しい……」
私たちが取材をした翌日から、大勢の人がひっきりなしにアブリズバックムの家に押しかけ、文句を言ったのだという。
「なぜ、漢民族と仲良くするのか」
異口同音にそう抗議したらしい。彼らには私たちが外国人であるという意識はない。説明はしたのだが、意に介さないか、興味がないようだった。彼らから見れば、私たちは漢民族か、その取り巻きにしか見えないようだった。私たちと仲良くするのは民族の恥だというのである。

おそらく、抗議に来た人たちと、私たちは現場で何度も出会っている。コンニチワ程度の会話も交わしているはずだし、彼らの子どもたちとも遊んでいる。その時、母親たちは、目が合うと親切そうな微笑を私たちに向けたものだった。とても、そこに怨嗟(えんさ)があるとは思えなかった。あるいは、島国日本、しかも飽食日本で何不自由なく育った世代である私たちに観察眼がなかっただけなのかもしれない。しかし、私たちには、彼らのわだかまりを少しも感じることはできなかった……。
あのたばこ売りのロザアジムが義母を重病にしてまで取材を嫌がったのも同じ理由だという。漢民族(実は私たち)と親しくしていることを近所の人たちに咎(とが)められたのだ……。

…カシュガルの街を歩いていると、とても数年前に暴動が起きたとは思えない。分離独立運動の存在など少しも感じることができない。のどかでゆっくりと時間が流れているだけだ。
あるいは、巨大な中国の力の前に、人びとは諦(あきら)めているのかもしれない。いや、経済発展の著しい中国と一緒にいた方が得だと思う人が増えているのかもしれない。
または、複雑な気持ちを歴史が厚くした皮膚に隠して、日々を懸命に生きているだけなのかも知れない。
たかだか1ヵ月そこにいただけの私たちには、民族の表層をなぞるだけで、その深層を見ることはできない。もちろん、アブリズバックムの心の中も……。

【踊り子、マフブーベ (14歳)】
その少女もひと言では語れない複雑さを持っていたに違いない。
マフブーベ、14歳。チャサーで一、二を争う美人一家の次女。その自宅は、観光客に常時公開されている。彼女は「公開ハウス」の看板娘だった。…

そこに、着飾ったマフブーベが登場する。民族衣装に民族帽。その出で立ちには、少女だけが持つ無敵の可憐さがある。人びとの視線はマフブーベに集まる。ツーショットの写真を撮る者。隣に座りなさいと招き入れる者。ウイグル語での会話を試みようとする者。
マフブーベはほぼ完璧(かんぺき)な中国語を話す。学校の特別クラスで学んだのだ。流暢な中国語に皆が驚く。しばらくして、マフブーベはラジカセを持ち出し、民族音楽をかけると、優雅に踊りだす。カメラのフラッシュが途切れることなく光る……。

観光客は30分近くいたのだろうか。ほぼ全員がマフブーベと写真を撮り終え、退出の時間となる。マフブーベは退屈そうに欠伸を一つする。
別れ際、数人がマフブーベに近付き礼を言う。そして、紙幣を手に握らせる。額は最低で10元、多い人で20元だった。マフブーベは100元近い紙幣を母親に渡す。お金というより、新聞でも渡すように何気なく、そして、無造作に。
わずか30分で、マフブーベは、アクサカル・アブリズバックムの5週間分の収入を手にした。
―― 1日にどれくらい観光客が来るの?
「多い時で200人ぐらい」
―― お金もずいぶんもらうんでしょ?
「時々は」
(p.78)
―― 大変だね?
「ちっとも。中国語の勉強になっていいわ」
―― 将来、何になりたいの?
「学校の先生。ウイグル族の子どもたちに中国語を教える」
―― じゃあ、10年後は何をしているかな?
マフブーベは少し考えて、しかし、真剣に、その問いに答えた。
「分からない……」

学校の先生になる。マフブーベはしっかりとした目標を持っている。彼女の語学力や家庭の経済力を考えれば、実現はさほど難しくないように思える。
しかし、彼女はこう言った。
「十年後は何をしているか分からない:…」
どういうわけか、私には、「なぜ?」とは聞けなかった。


番組の取材が終わりに近付いていた。私たちは、そのラストシーンを何にするか、連日深夜まで議論を続けていた。当初目論んでいた新郎新婦へのインタビューは断られた。アクサカルの語りで全編を包む構成も不可能になった。
誰かが、例の少女にもう一回話を聞こうと言った。…

9月21日。マフブーベもその母親も取材のお願いを快諾してくれた。思えば、老城の人たちに快諾されるのは久しぶりのことだった。
それにしても、どうして彼女だけが度重なる取材を受けてくれたのだろう。周囲の人たちに何か言われないか、私たちは心配もした。でも、そのことは彼女には聞かない。ただ、真剣にインタビューをするだけだ。

―― カシュガルは好き?
「大好き」
―― なぜ?
「果物は美味しいし、街は綺麗(きれい)だし、すべてが好き」
―― 昔ながらのカシュガルと変わりつつあるカシュガル、どっちが好き?
「両方好き」
―― カシュガルにずっと住みたい?
「一生住みたい」
―― なぜ?
「私たちのふるさとだから。私たちはずっとここで生きてきたから」

あるいは、昔ながらの街が好きなのは「民族の誇り」からなのかもしれない。変貌する街も好きなのは、それが「豊かさの象徴」だからなのかもしれない。
しかし、14歳の少女は、そのどちらも好きだときっぱり答え、なぜなら、ここは「私たち」のふるさとだから、と言ったのだ。

文明の十字路と称され、今、「中国化」という激動のなかにあるカシュガル。
少女の言葉には、ここで生き抜こうと覚悟を決めた、凛(りん)とした響きがあった。
そう、彼らはそうして生きてきたのだ。今までも、そして、これからも。


# by satotak | 2006-12-08 13:05 | 東トルキスタン |