2007年 01月
19世紀中国における聖戦 ?韓国人著作の書評から- [2007-01-24 20:01 by satotak]
カシュガル概観 [2007-01-21 13:36 by satotak]
1930年代中国人にとっての新疆問題 [2007-01-15 14:31 by satotak]
カシュガルの新方式学校 -ウイグル人の近代- [2007-01-05 16:43 by satotak]

2007年 01月 24日
19世紀中国における聖戦 -韓国人著作の書評から-
「紹介と批評 キム・ホドン著『中国の聖戦』」(筆者:菅原 純)より:

「中国領中央アジア」すなわち新疆(現在の中国新疆ウイグル自治区。南部の東トルキスタンと北部のジュンガリアを中心とする)地域の歴史において、1864四年のクチャ蜂起を端緒とする新疆ムスリム反乱からヤークーブ・ベグ政権期にいたる「動乱期」と、つづく新疆省の成立(1884年)にいたる前後の時期が、今日の当地域の状況を読み解く上できわめて重要な意味を有していることは、今更述べ立てるまでも無いことであろう。かつて濱田正美氏が明快に指摘したように、辺境であった当地はこの時期を境として「ヨーロッパ植民地主義との本格的遭遇」を経験し、中国の一部としての地域的・政治的枠組みを確定し、今日の状況に直結する人文的環境をもつに至ったのである。…

著者のキム・ホドン(金浩東Kim Hodong)は1954年生まれ。米国ハーバード大学で故ジョセフ・フレッチャー(Joseph Fletcher)の薫陶を受け、現在はソウル大学校の教授として、韓国の中央アジア史学を率いる気鋭の研究者である。…

以下、まず本書の要旨を紹介する。


はじめに、新疆の地理的、歴史的背景が示される。モンゴル侵入以後の当地域を扱った歴史研究が他の地域に比べ不十分であること、その理由としては史料の不足に加え、当地域が「シルクロード」の衰退によりユーラシアの「動的要素」であることを停止した、と言う思い込みに基づく関心の薄さによることを指摘する。ついで本書が扱う「動乱期」が、当地にとっては史上初めて独立国家のもと住民が統合され、その経験が住民のなかに民族主義と歴史意識の醸成とをもたらしたこと、また同時に中国にとっては今日の領域概念を形成する契機となったという点において歴史的に重要であることを強調する。つづいて当テーマの研究史が概観される。従来この「動乱期」に関しては中国・ソ連(当時)の研究者たちにより注目され、現地史料を用いた研究が少なからず著わされた。しかしそれらは概ね両国の政治的立場を色濃く反映しており、当事者である新疆住民に対する視点が決定的に欠けていた。それゆえ当事者が書きあらわした現地史料を駆使し、史料にひそむ当事者たちの「メッセージ」に耳を傾け、彼らを主体に置く叙述を試みるべきだという、本研究の基本方針が打ち出される。つづけて『ターリーヒ・アムニーヤ』などの代表的なムスリム側の史料および清朝史料、欧文史料の紹介がなされる。各章の内容が概観され、最後にこれら膨大な史料・文献の諸情報を統合・分析することによって、将来のより詳細な研究に対する基礎を提供できるような総合的な記述を提示しようという本書の大枠の目的が示される。

第1章 背景
本書の扱う諸事件の発端である1864年新疆ムスリム反乱の原因が検討される。まず反乱のさきがけとなったクチャ蜂起の経過が詳述され、その直接的な原因が検討される。クチャ蜂起をはじめ新疆各地で勃発した蜂起は、当時清朝駐留軍の一翼を担っていたトゥンガン(西北回民)の蜂起を緒とし、それに主体住民であるテュルク系ムスリムの参加を見て拡大した。著者はトゥンガン蜂起を促した最大の要因として中国内地からもたらされた流言を指摘し、陝西・甘粛の反乱におけるトゥンガン殺戮の報が新疆にもたらされ、それが「清朝皇帝によるトゥンガン殺戮の勅令」など根拠の無い流言、更にはローカル・レヴェルでのトゥンガンの武装解除の試みや現実の殺戮へと発展した事情を明らかし、それがクチャ等でのトゥンガンの突発的な蜂起の直接的な引き金になったとする。

続いて当反乱の間接的な原因が検討される。18世紀中葉以来の清朝の新疆統治政策が検討され、その間接統治体制の限界(中央からの協餉の断絶とその補填のための増税、ベグと清朝官吏双方からの過酷な搾取を促した二重構造)、カーシュガル・ホージャ家の失地回復運動を利用したコーカンド・ハン国の数次の干渉による当地域の安定の阻害などがまず指摘される。コーカンドの干渉に対し清朝は一八三二年にコーカンドと条約を締結し、カシュガル地方における課税権等の特権を賦与する事で地域の安定を図ったが、その後清朝、コーカンドともにそれぞれの国内事情により新疆への影響力を弱めるに至った。著者はこうした事情に鑑みて、反乱前夜の一八五〇年代には当地の統治体制がほぼ破綻していたものと結論する。

第2章 新疆蜂起
1864年6月のクチャ蜂起を皮切りに、ウルムチ、ヤルカンド、カシュガル、ホタン、イリなどで次々と発生した各蜂起の具体的状況と経過が個別に検討される。これら蜂起は突発的に発生したもので、各都市の蜂起勢力は相互の協力関係も連絡も有してはおらず、それゆえにクチャ・ホジャの遠征活動に顕著に見出されるような深刻な闘争が地域間、あるいは地域内部で展開されることとなった。著者は、この混乱状況で各勢力が一義的にはそれぞれ異なった動機を有していた一方で、イスラームの信仰を共有し、異教徒の支配者である中国への「聖戦」と言う行動に出た点で共通した特徴を見出すことが可能であること、それが各政権が個別の事情に差異があったとはいえ宗教人士を蜂起指導者とせざるを得なかった理由であったとする。この新疆蜂起で成立した諸勢力は結局闘争に終始し、当地統一のタスクは次の段階で外部から到来したヤークーブ・ベグにより達成されることとなる。


第3章 ヤークーブ・ベグ政権の出現
コーカンドから到来した外来者であるヤークーブ・ベグが当地域の統一指導者・独立国家の創設者となるまでの歩みが詳述される。まず従来少なからぬ現地史料や西欧文献で描かれ続けた「伝説的な英雄」や「内陸アジアの冒険者」としてのヤークーブ・ベグ像にメスが入れられ、出自、履歴の検討を通じてその人物像の虚実が明らかにされる。実際のヤークーブ・ベグが下級官吏から身を起こし、数名の有力者やハンに仕え堅実にキャリアを積み上げていった人物であったこと、カシュガル方面への到来も当時のコーカンドの実質的な支配者モッラー・アーリム・クルのコントロール下にあり、ヤークーブ・ベグの立場がコーカンド・ハン国の伝統的な東トルキスタン政策の執行者、いわば「道具」としての範囲を出るものではなかったことなどが明らかにされる。

続いて「転機」としての1865年半ばのモッラー・アーリム・クルの死、コーカンドの新しい支配者フダヤールと袂を分かった7千人に及ぶコーカンド人亡命者たち(大半は軍人)の合流を見てヤークーブ・ベグが独自の道を歩み始め、1872年には全東トルキスタンとウルムチ地区を統一するに至る過程が述べられる。

第4章 ムスリム国家とその統治機構
ヤークーブ・ベグの「新国家」の統治構造が検討される。すなわち、ヤークーブ・ベグの権力基盤、行政・軍事機構、社会・宗教政策そして徴税システムが個別に検討される。前述の如くヤークーブ・ベグは外来者であり、血統的な正統性も宗教的な権威も有してはいなかったこと、そういったカリスマの欠如を補うために政権の各レヴェルのコーカンド人のモノポリー、およびヤークーブ・ベグ個人への権力の集中が強く推進された事情が示される。地方行政区の長であるハーキム、経済官僚はおおむねヤークーブ・ベグとの個人的な関係から任じられたコーカンド人が多数を占めており、4万人からなった軍隊も百人長クラスまでヤークーブ・ベグ自身が任免権を掌握していた。さらに、社会宗教政策としてイスラーム法の履行を強化し、宗教施設の保護を強く打ち出したのは、すべてカリスマの欠如を自覚するヤークーブ・ベグの意志の現われであったとする。最後に税制として、通常税、臨時税の実際と、過酷と言われた収税事情が説明される。以上、ヤークーブ・ベグへの権力の一極集中を目指した諸政策は、総体的にはある程度成功を収めたとしながらも、他方、軍隊維持のための重税、コーカンド人の権力掌握、軍事遠征による多大な支出、多民族からなる雑多な軍の構成などはカシュガリアの民衆の反発、また軍隊の士気の低下をもたらし、ヤークーブ・ベグ国家の致命的な欠点であったと結論される。

第5章 新たな国際関係の形成
ヤークーブ・ベグ国家の国際社会への接近と、それに対する諸外国―英国、ロシアそしてオスマン朝の対応の推移が概観、検討される。ヤークーブ・ベグにとり外交関係は、外交行為を通じて住民たちの目に彼の統治の正当性を誇示して脆弱な権力基盤を強化させることと、国際社会における彼自身の政治的なステータスを高め、軍事援助を得るためのチャネルを見出すためのものであり、不断の努力の結果1872年にはロシアと、1874年には英国と通商協定を締結することに成功した。そしてサイイド・ヤークーブ・ハンの外交努力の結果1873年にヤークーブ・ベグの国家はオスマン朝を宗主国とし、その見返りとしてヤークーブ・ベグはアミールに封じられ、武器、軍事顧問の供与を受けることに成功する。このヤークーブ・ベグの確立した外交関係は、中国世界(東)、遊牧世界(北)、イスラーム世界(西)という三方との関係を軸としていた当地の伝統的な対外関係の枠組みを打ち破るものであり、当時の当地をめぐる国際関係を鋭敏に察知したヤークーブ・ベグの主体的な活動の所産であった。著者はこうした認識に立って当時そして現在も盛んに用いられる「グレート・ゲーム」(内陸アジア地域を大国のパワーポリティックスのせめぎあうチェスボードに見立てる視点)という術語について、ヤークーブ・ベグ外交の主体的側面、さらには新疆回復をめぐる清朝の主体性に鑑み、この術語の不当性を主張する。

第6章 ムスリム国家の崩壊
陝西・甘粛のムスリム反乱平定とそれに続く新疆回復論争のプロセス、左宗棠による新疆再征服着手、ヤークーブ・ベグの急死とその国家崩壊の過程が順を追って説明される。まず左宗棠が新疆再征服にとりかかるまでの紆余曲折が述べられる。1867年から1873年までの陝西・甘粛での活動、李鴻章との「塞防」・「海防」論争、続く軍費捻出・軍需物資調達の事情が示される。次に清軍によるジュンガリア〜新疆東部の再征服過程、ヤークーブ・ベグの急死の経過が述べられる。ヤークーブ・ベグが死の直前に発した清軍との非交戦命令、英国の仲介のもとロンドンで行われていた和解工作の詳細が明らかにされる。最後にヤークーブ・ベグ国家の最終局面、すなわちヤークーブ・ベグの突然の死によって発生したムスリム陣営の混乱、内紛、そしてついには清軍の進駐により13年ぶりに新疆が再征服されるまでの過程が述べられる。この新疆再征服は、ひとり清軍の強力な軍事力によってなされたのではなく、それ以上にヤークーブ・ベグの交戦忌避による士気の低下などまず政権内部に問題があり、ある意味において自滅的なものであったと結論される。

結論
各章の要点が順を追って述べられる。そして本書で扱った時代、すなわち1864〜77年の間に起こった政治的な出来事が、その後の新疆史に永続的な痕跡を残したことがあらためて指摘される。その顕著な結果として新疆の省制への移行がおこなわれ、今日に至る広範な中国人の殖民、すなわち新疆の本格的な中国化の開始へとつながることとなったこととする。さらに、この「動乱期」は当地のムスリム住民の内部にも消すことの出来ぬ痕跡を残し、以後政治指導者として宗教指導者が立つことはなくなり、ロシア領トルキスタン及びトルコにおける「新方式運動」に深く感化されたあらたな知識人たちの出現を見ることとなったこと、政治運動の指導理念も民族主義が重きをしめるようになり、「聖戦」がもはやスローガンとしてしか意味を持たなくなったことなどが指摘される。以上、19世紀後半の大変動ののち、政治、社会構造、民族構成、対外関係の領域に及ぶその変化は、強い力として20世紀における当地の近代史を形作るのに影響を及ぼし始めたものであると結論する。…

Kim Hodong, Holy War in China: The Muslim Rebellion and State in Chinese Central Asia, 1864-1877. (Stanford: Stanford University Press, 2004) 295p.


# by satotak | 2007-01-24 20:01 | 東トルキスタン |
2007年 01月 21日
カシュガル概観
「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:真田 安):

新疆(しんきょう)ウイグル自治区南西部のオアシス都市(人口33万5000人.2001年)とその農村後背地.
中国表記では喀什(喀什?爾).新疆南部のオアシス地帯(東トルキスタンに相当,歴史的地域名称としてはアルティ・シャフル,回部)にはテュルク系ムスリムのウイゲル族の社会が広がり,カシュガルはその中心的存在である.

市内はウイグル族の占める割合が78%(漢族は21%)で, 新疆全体の46%と比べてきわめて高く,ウィグル・ムスリムの伝統社会が堅持されている.新疆の最西に位置するため,西方の中東イスラーム世界・テュルク民族の先進地域や中央ユーラシア国際交易網に直結し,古くから現代に至るまで西方文物が新疆に最初に伝播され,新疆ムスリム地域の先進地となってきた.政治・経済のみならず,宗教を含む文化や民族意識などの精神面でもウィグル社会の中核の地位を占めている.このことは中国政府にとって,対ウイグル族行政のうえで最も考慮すべき都市の一つであることを意味する.

[歴史] その歴史は古く,前1世紀のこととして《漢書》西域伝には疏勒と記され,7世紀の玄奘は《大唐西域記》で?沙国として記し,仏教を信仰しインド系言語を使うイラン・アーリア系民族が居住していたことを伝えている.9世紀よりテュルク化,10世紀よりイスラーム化が進んだ.16〜17世紀以降スーフィズムが浸透し,ナクシュバンディー教団に連なるカシュガル・ホージャ家の権威が高まり,カシュガルはその中心となった.18世紀中葉の清の乾隆帝によるジュンガルとその属領東トルキスタンのホージャ討伐という征服により中国領新疆が成立すると,カシュガルは回部統治の拠点としての機能を担った.一方,コーカンドに.亡命したホージャの子孫たちが独立を夢見て幾度となく侵攻した際,カシュガル住民の一部は彼らに呼応して蜂起し,また1860年代の西北ムスリム大反乱を契機に,回部にムスリム独立政権を樹立(1864−77)したヤークーブ・ベゲがカシュガルを首都とするなど,地政学上の重要な地位を歴史的に占めてきた.

20世紀になると,汎イスラーム主義の思想と想と結びついた,オスマン帝国やロシア帝国内のテュルク系ムスリム知識人によって唱えられた民族主義的思想が,中央アジアのテュルク系商人を介して,新疆で最も早くカシュガルにもたらされた.新疆で最初のムスリムの新方式教育が,国際交易に従事する富商によってカシュガル北郊のアルトゥシュ(アトゥシュ)で開始きれた.またオスマン帝国のトルコ人が教師として招聘され,テュルク系ムス
リムのための師範学校が1914年に創設され,そのアイデンティティの形成や進歩的知識人の教育に寄与した(ジャディード運動).この結果,〈東トルキスタン〉および〈ウイグル人〉という意識が芽生え,東トルキスタンの独立を計画したホータンのムハンマド・エミン・ボグラらはカシュガルに進出して,33年イスラーム主義に基づく〈東トルキスタン・イスラーム共和国〉の樹立を宣言した.この共和国は瞬時にして滅んだが,カシュガルに長く〈東トルキスタン独立〉の意識を遺産として残し,同時に現在に至るまで中国に対する汎テュルク主義的独立運動の温床を提供してきた.

〔新疆の民族問題の象徴〕 中国共産党による新疆の〈解放〉と中華人民共和国の成立による〈民族区自治〉政策によって,55年新疆ウイグル自治区が成立した.ウイグル人は,ウイグル族として共産党の指導と国家統合の枠内での民族自治が認められたが,分離独立を意図する民族自決権を完全に否定した中国の民族政策のもとにおかれた.90年4月発生のカシュガル南郊のバレン郷事件は,1933年のカシュガルでの東トルキスタン独立運動に参画し,トルコ共和国に亡命中のアルプテキンの画策であると中国政府はとらえている.中国政府は,カシュガルにおける一部の独立運動の策動に対し,〈分離主義〉〈民族分裂主義〉として警戒している.とくに9・11同時多発テロ事件(2001)に端を発したアメリカのアフガニスタン報復攻撃以降,中央アジアのイスラーム主義の反応やイスラーム原理主義運動が新疆の〈独立運動〉を活性化させかねないことにいっそうの警戒を強めている.ウイグル族の人口比率が高く,西方からの思想的影響を受けやすいカシュガルは,中国政府にとって最も〈警戒〉すべき都市といえる.しかし,80年代以降の国是となった〈改革・開放〉政策を推進する方針から,分離主義・独立運動に発展しないという厳しい制限のもとであればイスラーム信仰とウイグル民族意識を保障し,ウイグル民族文化を奨励することによって,分離主義の拡大を防ごうとしている.カシュガルにおいて,もともとは土俗的イスラーム聖者のマザール(注1)が,11世紀バグダードで《テュルク諸語集成》を著したカーシュガリーのマザールに転用され,中国政府の援助で壮麗に改築されるなど,過去のテュルク系文化人をウイグル族の民族英雄として顕彰している背景には,このような民族意識慰撫の意図があると考えられる.カシュガルはウィグル・ムスリムにとっても中国政府にとっても,新疆の民族問題を象徴している都市である.

(注1) マザール:マザールとはアラビア語で〈訪れるべき場所〉を意味し、そこから通例、参詣の対象となる聖者の墓、聖者廟をさすようになった。また、聖者にゆかりの場所がマザールになる場合もあった。
新疆ウイグル自治区のウイグル人社会においてマザールへの参詣は、正統イスラーム信仰を中核とする信仰体系の中でも顕著な位置を占めている。1980年代後半以降、モスクなど宗教活動の場所に対する登録管理制度が施行されたが、当初マザールには適用されていなかった。しかし近年、宗教政策が厳格化されるに伴い、他地区からの参詣者の届出を義務付けるなど、マザールに対する統制が強化されている。
マハメッド・カシュガリのお墓

[参考]
カシュガル -ウィキペディア(Wikipedia)-
カシュガル地区 -ウィキペディア(Wikipedia)-
カシュガルあたり -タリム周縁 その3-

# by satotak | 2007-01-21 13:36 | 東トルキスタン |
2007年 01月 15日
1930年代中国人にとっての新疆問題
王 柯著「20世紀中国の国家建設と「民族」」(東大出版会 2006)より:

新疆の政治的独立を巡る国民政府の動き
1928年7月7日のクーデターを鎮圧して新しい最高実力者になった金樹仁に対して、国民政府は10月末まで「新疆省政府主席」の任命(実は追認)を発表しなかった。楊増新時代には省長が兼任していた「新疆辺防督?」の職に、1931年6月6日になってはじめて金樹仁を任命した。国民党長老…らが「回民」である広西省出身の軍閥白崇禧にあてた手紙から、蒋介石、汪精衛を含む何人かの南京国民政府要人には、この権力交代を機に、白崇禧が軍隊を率いて新疆に入り、新疆の政治的独立状況を打破しようとの動きがあったことが確認できる。
白崇禧の入新は結局実現しなかった。その理由は、金樹仁による懸命の反対と中国内戦の勃発とされている。しかし前述のように、新疆の政治的独立状況は単に一軍閥の権力欲から成立したものではなく、人為的な要因のほかに、当時の国民政府が新疆を支配するだけの実力をもっていなかったことや、交通の不備などの客観的要因もあった。…

当時は、ようやく北伐が終結し、全国が統一されたばかりの時期であった。国民政府は南京で正式に発足したものの、「しかし形の上では統一されたこの政権も、その内実は『革命軍将領』あるいは『国民政府委員・各省主席』の肩書をもつ新軍閥の不安定な連合にすぎなかった」。このような状況の下では、白崇禧が国民政府に要求していた新疆辺境防衛経費の支給なども、実現不可能なことは明らかであった。
このような状況におかれた中央政府は、新疆の支配権を地方軍閥から取り戻すとの望みを、新疆内部の状況変化にゆだねざるをえなくなった。1933年4月12日の新疆政変への国民政府の対応は、こうした態度に基づくものと言えよう。

当初、国民軍参謀本部は天山を境として新疆省を南北の2つの省に分けることを提案した。しかし、これは新疆問題の現実的な解決につながらないので否定された。そこで、1933年4月から7月にかけて、国民政府は、政変者側が選出した臨時省主席劉文龍と臨時督?盛世才の追認を口にせず、多数の各方面の専門家を随員にし、参謀次長黄慕松を「国民政府宣慰使」として新疆へ派遣し、新疆政権を接収する構えを見せた。その思惑は盛世才の反撃 −「二次政変」− によって不調に終わったが、その後、7月10日に行政院長汪兆銘は行政院会議で発言し、なお次のように盛世才に厳しい注文をつけた。「中央の新疆政策は、第一に外交の中央政府との統一、第二に軍事の中央政府との統一、第三に民族の平等と宗教信仰の自由を認めるものである。……中央政府による新疆省の新しい人事任命もこれを条件に、それを執行する人間を任命する」。

新疆問題を巡る中国知識人の提言
こうした国民政府の動きにともない、中国の知識人は活発な言論活動を行なった。彼らは新疆問題の発生原因を逐一分析し、解決策についても率直に提言した。
1930年代初めの新疆の社会的動乱を促した要因については、人によって諸々の異なった見解がとられているが、そのほとんどは新疆政治の腐敗、新疆経済の破綻、少数民族と中国人移民との対立、外国勢力の介入、交通の不備による内地との断絶状態などに集中している。そこに見られる一つの共通点、つまり、四・一二政変が発生した契機は新疆の民族抗争であり、民族抗争は政治腐敗によるものであり、政治腐敗の原因は金樹仁の独裁であるというものである。この共通の認識に基づいて新疆の政治改造が当面の急務として訴えられ、新疆の政治独裁状態を終結させて、中央の指令に従う新しい新疆省政府を作らなければならないという意見が一般的であった。

新疆の政治的独立を打破するために中央政府がとるべき具体策についての中国知識人の議論は、要員派遣論と軍隊派遣論に二分される。中央政府要員による「宣撫」を基礎にして新しい新疆省政府を作るという要員派遣論に対し、軍隊派遣論者は、軍隊による新疆制圧を基礎にして新しい新疆省政府を作るべきであると主張した。さらに、民族問題の解決においても、要員派遣論と軍隊派遣論の論争が展開された。
つまり、要員派遣論は同時に少数民族に対する「宣撫」によって民族問題を沈静化させると主張したのに対し、軍隊派遣論は、外国勢力の介入を防ぐ目的もあるが、少数民族に対する弾圧によって民族問題を解決するとはっきり主張していた。たとえば、孔祥哲は「愚かな民は恩返しを知らず、法をもって管理するしかない」ので、民族反乱を鎮圧するために軍隊を各地に駐屯させるべきだと話していた。だが、どちらの論議も民族問題の徹底的な解決には民族同化が必要であると意識していた。

政治問題に対し、民族問題、経済問題、交通問題および外国勢力の介入の問題などは、いずれも二次的な問題とみなされていたが、新疆問題を徹底的に解決するためには、政治問題の解決の優先が訴えられると同時に、これらの問題に対する解決策も打ち出された。「民智不開」(民衆が啓蒙されず)のため、新疆における学校教育の整備が訴えられてもいる。しかしその狙いは少数民族に対する文化的同化であった。新亜細亜学会は「文化の融和」を訴え、趙鏡元はムスリム住民の子供に漢文化と民族文化を共に教え、「冶漢回於一炉」(漢回(文化)を一炉において陶冶すべき)と唱えたのである。

当時の国民政府農村復興委員会主席である緒民誼は「新疆問題」の解決について、詳細な計画を提出している。そのおもな内容は、中央政府内に「西北建設委員会」を設置することであった。委員会のなかに国道局・勧業局・採鉱局・墾殖局を設け、それぞれ中国内地から新疆への交通の整備、新疆の工業・商業・金融業の育成、新疆地下資源の採掘利用、中国内地住民の新疆入植に努めるというものであった。
交通整備の重要性も訴えられた。当時の国民政府の外交部長羅文幹はこれについて「一石四鳥」の方法を考案した。それによれば、服役者を駆使して内地から新疆への道路を築き、道路が開通してから服役者を現地に定住させる。交通の整備、農業の開墾の利が得られるほかに、内地における犯罪者の消滅と新疆住民の民族構成の変換をも図るものであった。中国内地の利益に基づいて新疆問題を考えたと言わざるをえない。

以上のように、新疆問題の解決策はいろいろ提案された。しかし、その性格が新疆の政治的、経済的、財政的、民族的独立を可能にするすべての要因をなくし、新疆と中国内地、少数民族と漢民族との政治的、経済的、財政的、また人的な絆を作り上げることを目的としていたことは明らかである。このことから、当時の中国人が認識していた新疆問題は、決して新疆地域社会内部での政治問題、民族問題、経済問題ではなく、新疆のトルコ系イスラーム住民をいかに政治的に統合し、文化的に同化させるか、新疆をいかにして永久に中国の領土内にとどめるか、という問題であったことがわかる。…

日本と新疆
…1932年から、新疆に対する日本の脅威に言及する論文が現れ、また次第に増えつづけたことである。日本勢力は実際はまだ新疆に及んでいなかったのに、こうした緊張感が現れたことはなにを意味するのであろうか。当時の中国人の考え方について二つの例を取り上げてみよう。ひとつは…

「日本が東4省(中国の東北地域−筆者)を侵略してから、国際情勢はそれによって一変し、英露の対日態度は直ちに悪化した。日本は英国(の軍事行動)に備え、対露作戦の準備にも着手し、また中ソの連合を防ぐために、イギリスとソ連の争奪の対象となっている新疆に対して、敏感に注意するようになった」。
この例に見られるように、日本が新疆に関して脅威になっているという当時の中国人の認識には、まず、満州事変を出発点とした新しい日中関係という背景が大いに意識されている。このような意識の裏づけとなるものは、1931年の満洲事変以降の中国社会における「抗日運動」の高揚であろう。

もうひとつの例は、…「日本の計画としては、満蒙の独占および華北をその勢力範囲に収めることである。それに成功するために、新疆を侵略して、イギリスとロシアとの間に鼎立する侵略関係を樹立しなければならなくなった」と、日本がいつかかならず新疆の脅威になると警告を発した。
ここにおいて、日本の「新疆侵略」という表現は、明らかに新疆に対する軍事侵略を指している。これは、イギリス、ソ連が新疆省の民衆あるいは政府への影響・浸透を通じて政治的・経済的侵略を図っているという多くの人々の指摘とは対照的である。すなわち、日本が新疆に一層大きな脅威をもたらしたことを語っているのである。

二重の中国
…1870年代清朝政府における「海防・塞防論争」にしろ、1930年代における新疆論争にしろ、もっぱぼら列強の新疆進出が「中国」にどの程度の脅威を与えるかとの線で展開したことは注目すべきである。
1930年以降の新疆問題を論ずる中国文献において、新疆、チベット、モンゴルなどの地域は、その中国に対する重要性がとくに強調される際、しばしば「屏藩」(藩屏)と呼ばれていた。そもそも、ここにおいて浮かび上がってくる問題は、1928年に国民政府のもとにはじめて統一した中国では、中国人が考えた統一中国の全体像のなかにおいて、少数民族および彼らが住む辺境地域がいかに位置づけられていたかということである。

少数民族が住む地域は、中国国土面積の7割を占めているため、「中国」という国の国体にとって欠かせない存在であり、そして中華民国は漢族・満洲族・モンゴル族・同族(イスラーム民族)とチベット族の「五族共和」を国体としているため、少数民族である満洲族、モンゴル族、チベット族およびイスラム民族がいなくなったら、もはや中華民国という「中国」ではなくなると一部の人は説いていた。
しかし、「屏藩」という言い方は、少数民族が住む地域が中国の国体・政体にとって欠かせぬ存在であると同時に、方位上、政治上、また国防上において、中国の内地と平等に扱えないことも意味している。国民政府の高官を含め、当時の中国人が想像した中国は、「二重の中国」であり、はっきりと区別された二つの部分 −漢族が住む内地部分と、少数民族が住む辺境部分− によって構成されていた。二つの部分の関係は、地理的には前者が中心にあって後者がその周辺にあり、文化的には前者が後者より優れ、政治的には後者は前者に従属し、国防的には、後者は前者の安全のための存在であるというものである(下図)。

このような中国人の辺境認識は、前文で述べた「多重型帝国構造」、そして中国の昔からの「五服説」という天下観に似た構造である。「五服説」とは、中国本土各地あるいはその外側にある諸外国に住んでいる人達が、中国の都から500里離れるごとに「甸服」・「侯服」・「綏服」・「要服」・「荒服」に分けられ、それぞれ経済的・政治的・軍事的に中国王朝に仕え、あるいは文化的に中国王朝の権威を認めるというものである。そのなかで「綏服」は中央権力がもっとも遠く届ける辺境地帯の民であり、王朝の安全のために辺境防衛を務める。
1930年代における「二重の中国」という意識は、ある意味で、帝政を倒し、三民主義を標榜しているにもかかわらず、中華民国南京国民政府が依然として非近代的国家政権の性格をもっていたことと、近代中国人の民族思想が依然として伝統的「華夷思想」から完全に脱出できていなかったことを証明している。
ただ1930年代に南京国民政府や学界と言論によって代表された中国人の辺境意識は、決して伝統的「華夷秩序」に基づく世界観とは一致していない。「五服説」は、「世界中が原則的に中国の支配に服している」という観念に基づき、中国中央王朝が「王道」をもって異民族と接し、それを「徳化」するために取るべき政策を説明するものであった。しかし当時の中国人の辺境認識が1930年代に、辺境の国防における重要性がもっとも強調されたことから、基本的にいかに辺境地域を利用して列強諸国の侵略から自国を守るかという目的に基づいて成立していたことがわかる。これは、また近代以来、伝統的「華夷秩序」が国際社会から大きな挑戦を受けたため、中国人の辺境認識の変容が、始まったことを物語る。…

# by satotak | 2007-01-15 14:31 | 東トルキスタン |
2007年 01月 05日
カシュガルの新方式学校 -ウイグル人の近代-
「アジア遊学 No.1」(勉誠出版 1999)より(筆者:大石真一郎):

〈要旨〉19世紀後半から新疆のウイグル人は近代へと歩みはじめた。民族ブルジョアジーのムーサー・バヨフ家や改革派ウラマーのアブドゥルカーディル・ダームッーラーらは、ロシア・イスラーム地域で始まったジャディード運動を参考に、自ら教育改革に着手した。しかし、カシュガルでのジャディード運動は、保守派の反対と中国当局の弾圧を招いた。その挫折の経験は、ウイグル人をより急進的な運動へと向かわせる契機となった。

近代のはじまり
アジアを蚕食してきた植民地主義勢力は、19世紀後半になるとユーラシア大陸最奥の地、新疆に暮らすウイグル人の眼前にも、その姿を現しはじめた。新疆が最初に邂逅した「西洋」はロシアであった。カザフ草原の征服を完了し新疆北部と国境を接することになったロシアは、1851年にイリの清朝当局と締結した通商条約によってイリとタルバガタイでのロシア国籍人の交易とその免税を認めさせた。62年から始まる新疆のムスリム反乱を経て、コーカンドの武将ヤークーブ・ベクが新疆南部で政権を掌握すると、ロシアは71年に臣民保護と国境防備を口実にイリ地方を軍事占拠した。ロシアとグレート・ゲームを競ったイギリスも、60年代後半から新疆進出を試み、70年と74年にはヤークーブ・ベクに使節団を派遣してこれをロシアとの緩衝国とするべく支援した。イギリスの意図もむなしく、77年にヤークーブ・ベクが死に清朝が新疆を再征服すると、ロシアは、81年に締結されたサンクト・ペテルブルグ条約により、イリ地方を清朝に返還する代償として、新疆全域での商業特権を獲得した。…

一方、本格的に「中華」が新疆に進出するのもこの頃であった。確かに、清朝は、イリ地方に本拠をおくジューンガルを1755年に滅ぼし、ついで59年にタリム盆地の征服を完了して以降100年余り新疆を支配してきたが、それは軍事保留地として維持したにすぎなかった。特に、ウイグル人が多いタリム盆地周辺地域では、現地有力者のベクが民政官として任命され、自治的な統治が行われた。漢人との接触を極力避ける政策がとられたことも、ウイグル人社会の文化的な「独立」を維持させるのに与した。しかし、再征服後の1884年、新疆に内地と同様の省制を施行した清朝は、ベクのかわりに漢人民政官を任命してウイグル人の直接支配に乗り出した。彼らとともに多くの商人や農業移民が中国内地から新疆に流入した。

ウイグル人の伝統的なイスラーム社会は、外部から押し寄せる二つの異質な文明と向き合うことを余儀なくされた。これらの受容と拒絶を通じて、あるものは自らのイスラーム社会の改革を志向し、またあるものは伝統を固持しながら、近代へと歩みはじめるのである。

商業の発展
19世紀末の新疆情勢の安定とロシア商人の活躍とによって、ロシア・新疆間の貿易は飛躍的に発展した。…
新疆で活動するロシア商人にはロシア人も含まれてはいたが、その大半はウイグル人と同じトルコ系の言語を母語とするタタール人やウズベク人などのロシア国籍を持ったムスリムであった。なかでも、その後のウイグル人社会に大きな影響を与えたのは、ロシア支配のもとでいち早く近代化をむかえていたタタール人であった。…

綿織物などのロシアの工業製品と、羊毛や毛皮、棉花などの新疆の工業原料を主要な商品とするロシア・新疆間の貿易は、当初ロシア商人によってほぼ独占されていた。しかし、新疆の商品がロシアに広大な市場を得たことは、これを扱うウイグル商人にも多くの利益をもたらし、そのなかから民族ブルジョアジーと呼ぶべき富裕者層を生み出した。彼らは、富豪を意味する「バイ」という敬称で呼ばれた。従来ムスリム貴族として現地支配者層を構成してきたベクの制度が省制施行とともに廃止されると、彼らに代わってバイがウイグル人社会の有力者層を形成するようになった。

ムーサー・バヨフ家
バイの代表的な人物が、フセインとバハーウッディンの兄弟である。彼らの一族とその子孫は、兄弟の父ムーサー・バイにちなんで「ムーサー・バイ家」またはロシア風に「ムーサー・バヨフ家」と呼ばれている。
ムーサー・バヨフ家はカシュガル城市から北に20数キロメートルのところにあるウストュン・アルトゥシュの出身であり、19世紀末までにはカシュガル地方屈指のバイとなっていた。1895年、フセインとバハーウッディンは、「ムーサー・バヨフ家兄弟社」または中国名で「福咸行」と呼ばれる商社をイリ地方のクルジャに設立した。

ロシアの領事館や銀行、郵便局などがおかれていたクルジャは、ロシア・新疆貿易の商品が集結する新疆経済の中枢であった。ここに経済活動の拠点を移して、対ロシア貿易に本格的に.乗り出したのである。タタール商人を含むクルジャのムスリム商人のなかで、ムーサー・バヨフ家兄弟社は最も有力な商社の一つとみなされていた。…
ムーサー・バヨフ家は、商業だけでなく様々な工場の経営にも着手した。1909年12月にクルジャで竣工された皮革工場は新疆最初の近代的な工場であった。…
また、ムーサー・バヨフ家のフセインとバハーウッディンは、新疆で最初に教育改革に着手したことでも知られている。商業の国際化と工業の近代化を推進するためには、それに相応しい科学的な知識や技術を身に付けた人材が必要となるからである。彼らが特に重視したのは初等教育であった。

従来の初等学校
当時、ウイグル人のための初等教育施設として二種、地方によっては三種の学校があった。
最も一般的なのは、前近代のイスラーム地域に広くみられた寺子屋式の学校である。現在、これらは「旧式学校」とか「宗教学校」と呼ばれている。新疆では都市のマハッラ(街区)や、村落ごとに小規模なモスクがあるが、旧式学校は概ねそれらのモスクに附設されていた。…
1884四年に新疆に省制が導人されると、ウイグル人などのトルコ系ムスリムが人口の大半を占める新疆の内地化、すなわち「中国化」を促進するために「義塾」が建てられた。……1908年からムスリム子弟に漢語を教える「漢語学堂」が開かれた。…
また1892年からカシュガルとヤルカンドを拠点に新疆南部での活動を始めたスウェーデン・ミッションは、布教の一環として病院や印刷所とともに、貧民の子供や孤児を収容する学校を開設した。…

新方式学校
ムーサー・バヨフ家が最も身近な旧式学校を改革の対象に想定していたことは疑いないが、漢語学校やミッション学校による「中国化」や「キリスト教徒化」への危機感もまた、改革を動機付ける要因となった。奇しくも、彼らが教育改革を実践するために参考としたのは、ロシア支配の下で「ロシア化」と「キリスト教徒化」の危機を克服しつつ、西洋の科学文明とイスラームの価値観との共生を模索してきたタタール人たちの改革運動であった。

1884年、クリミア・タタール人の改革思想家イスマイル・ベイ・ガスプリンスキーは、ロシアの同化政策によって危機に晒されたムスリムの文化的自治を堅持しつつ、伝統と因習に沈滞したイスラーム社会を改革するために、郷里バフチサライに新方式学校の模範校を創設した。新方式学校では、母語教育が重視され、宗教教育に加えて算数、理科、歴史、地理、ロシア語などの世俗科目が導入された。…新方式学校は、タタール・ブルジョアジーや改革派知識人の支持を得てロシア・ムスリムの間に急速に普及した。これを支持し、自らも改革運動に参加した人々は、新方式(ウスーリ・ジャッディード)にちなんでジャデイードと呼ばれた。…

クルジャ
…ロシア領トルキスタンでは、…1905年に最初の新方式学校が開設されたが、その直後には新疆にもウイグル人自身の新方式学校が誕生したのである。「慈悲の家」と呼ばれた男子の孤児学校では簿記やロシア語、中国語、女子の学校では手芸の授業も行われた。これらの科目を見るかぎり、ムーサー・バヨフ家は、ここで学ぶ孤児のなかから自身の商工業業務に従事しうる優秀な労働力を育成しようとしたことがうかがわれる。
新疆のなかにあっても、ロシアと国境を接し、タタール人が多く住むクルジャでは、比較的早くから新方式学校が開かれはじめた。…

アブドゥルカーディル・ダームッラー
一方、ムーサー・バヨフ家の郷里であるウストゥン・アルトゥシュでも、1900年代後半にはフセインが主管を務める慈善協会によって初等学校や図書館が設立されていた。しかし、それは彼らの郷里ウストゥン・アルトゥシュの境界を越えるものではなく、カシュガル地方の中心地であるカシュガル城市では依然として保守的な傾向が強かった。カシュガル城市に最初に新方式学校を開いたのは、彼らのようなバイではなく、ウイグル人の代表的な改革派ウラマー、アブドゥルカーディル・ダームッラーであった。

アブドゥルカーディルは、アスティン・アルトゥシュ(または単にアルトゥシュと呼ばれる)のマシュハド村で生まれた。郷里のマクタブを卒業した後、コーカンドで2年間学び、1891/2年から8年間をブハラのマドラサで学んだ。ブハラは、8世紀以来中央アジアにおけるイスラーム教学の中心地であったが、伝統に固執するあまり、その学問は権威主義と形式主義義とに冒されていた。
1907年にメッカ巡礼を果たし、その帰路イスタンブルを経て訪れたエジプトでの2ヶ月の滞在期間に、…アブドゥルカーディルは、…「ブハラでの学習によって生じた迷信や欺瞞の抑圧から、そして…詭弁によって生じた迷信の桎梏から、私の知性と思想を解き放った」と述懐している。…

アブドゥルカーディルは、カシュガルに帰郷すると城市にあるハーンリク・マドラサのムダッリス(教授)として進歩、革新、改革について人々を指導しはじめた。その後、保守派ウラマーの反対に遭い一時カシュガルを離れなければならなかったものの、1912年にはカシュガル城市最初の新方式学校を開き、自ら教師として初等教育に携った。当初、この学校は好評を博していたが、翌年から自身に代えて生徒の一人を教師に就けると学校の評判は急落し、3年後にはほとんど顧みられなくなった。彼が教師を辞めた理由は明らかではないが、ここにも保守派による圧力があったのであろう。

アフメト・ケマル
このような状況にあった時、新方式教育によってカシュガル地方のウイグル人に「トルコ精神」を喚起することを任務として、オスマン帝国の「統一と進歩委員会」から一人のトルコ人青年が派遣されることになった。
オスマン帝国と新疆の間の公の関係はヤークーブ・ベクの時代に遡るが、清朝による再征服後も民間レベルでは巡礼や留学、商売のために多くのウイグル人が両地域を往来した。…

1914年3月、アフメト・ケマルはウストュン・アルトゥシュに到着し、バハーウッディンの歓待を受けた。当初、…カシュガル城市に学校を開く可能性が探られたが、カシュガルの有力者ウマル・バイの後援を得られなかったために、やむなく学校はウストュン・アルトゥシュのイキサク村に開かれることになった。4月、アフメト・ケマルが校長を務める「統一師範学校」と、その運営のための「イスラーム慈善協会」が設立された。一方、カシュガル城市では、すでに彼の良き理解者となっていたアブドゥルカーディルや、青年実業家で熱烈なジャディードであったハージー・アリーらが中心となってイスラーム慈善協会の本部を設立した。

師範学校では、カシュガル城市や近隣の村落から集められた14、5歳から20歳頃までの60人ほどの男子が、3クラスに分かれて学んだ。…授業ではオスマン語の文法と正書法や、文学、地理、歴史、化学などが教えられ、体育実技やトルコの行進曲の練習も行われた。また、アフメト・ケマルは、サマルカンドの改革派ウラマー、マフムード・ホジャ・ベフブーディーの戯曲『父殺し』を師範生徒の配役で上演したり、「偉大なる信仰』という冊子を配布することによって、民衆への啓蒙活動にも尽力した。

ジャディードとカディーム
ジャディード運動は、ガスプリンスキーが新方式学校を開校した当初から、保守派ウラマーによって苛烈な反対を被ってきた。彼らは、伝統的な教育体系のうえに安座することで祉会的な地位と権威を保持していたからである。改革派のジャディードに対して、保守派の人々はカディームと呼ばれる。カシュガルでも統一師範学校に最初に反対の声を上げたのは、保守派ウラマーのセリーム・アフンであった。彼は「歴史や地理を学ぶことは禁忌である」というファトワー(法的意見)を出して、新方式学校がシャリーアからの逸脱であることを主張した。

しかし、カシュガルにおけるジャディードとカディームの対立で興味深いのは、ムーサー・バヨフ家と同様に商工業に従事するバイのなかから、カディームの指導者が現れたことである。先にカシュガル城市での学校設立に拒否の態度を示したウマル・バイは、ジャディードたちに関する誹謗中傷をカシュガル中に広めた。当時、カシュガルではカーディーやムダッリスなどの宗教的職務が、ウラマー間での選出によるのではなく、バイなどのムスリム有力者によって恣意的に決められていたといわれる。セリーム・アフンもまた、反ジャディードの立場を取るウマル・バイ子飼いのプロパガンダであった。

では、なぜウマル・バイはジャディード運動に反対したのだろうか。彼はムーサー・バヨフ家と並んでカシュガルで一、二を争うバイであった。この両者だけが、地方当局によってロシア領トルキスタンからカシュガルヘの商品買付を許可されていたといわれる。また、当時のカシュガル地方に二つだけ存在した工場のうち、一つはウマル・バイの綿花工場で、もう一つは慈善協会本部を設立したハージー・アリーのものであった。ムーサー・バヨフ家やハージー・アリーらと、ウマル・バイが経済活動の上でもライバル関係にあったことは疑いない。これとともに、当時のムスリムの間で起こる様々な係争事が出身地の違いに起因し、特にアルトゥシュとカシュガルの住民の間には根強い不信感があったともいわれる。ウマル・バイが師範学校に反対したのも、信仰の立場云々というよりは、ムーサー・バヨフ家やハージー・アリーらがこれを支持、援助していたから、というような感情的な理由が挙げられるのかもしれない。カシュガル地方の最有力者同士が反目していたところに、カシュガルでの新方式学校の運営を困難にする要因があったのである。…

中国当局とロシア領事
統一師範学校にたいするカディームの非難が高まるなか、カシュガル当局はバハーウッディンを事情聴取することになった。これもまた、ウマル・バイの働きかけによるものであった。…
カシュガル市内の慈善協会本部は、当局によって閉鎖されたのである。…

カディームの反対運動はその後も続けられた。地方当局への働きかけでは十分な成果を得られなかったウマル・バイは、次にカシュガル駐在のロシア領事に接近した。…ロシア領事にとっても、カシュガルにおける新方式学校の普及は好ましくはなかった。
ロシア帝国内でのジャディード運動は、保守派ウラマーによって反対されただけでなく、ロシア当局からも危険視されていた。ジャディードが掲げるトルコ系ムスリムの文化的統合は、ロシア当局からすればオスマン帝国が唱道する汎イスラーム主義や汎トルコ主義にほかならなかったからである。…

1914年10月にオスマン帝国が三国同盟側として第一次世界大戦に参戦したことは、さらに事態を緊迫させた。ロシア領事は、中華民国中央政府にトルコ人教師の活動について通報した。中央政府からの報告を受けた新彊省長楊増新は、カシュガル当局に調査を命じた。…1915年9月8日に学校閉鎖を、さらに21日には師範学校の卒業生を教師とすることを禁じ、あわせてバハーウッディンとハージー・アリーらの懲罰を命じた。
アフメト・ケマルが教育活動に関与しないという誓約書に署名して釈放された後、…その後も密かにジャディードたちとの接触を続けていたが、1917年に中独国交が断絶されると、当局によってカシュガルから追放させられた。

ジャディード運動から独立運動へ
中国当局が新方式学校に弾圧を加えたのは、それを「汎トルコ主義」、「汎イスラーム主義」の温床とみなし、そこから中国支配の安定に亀裂を生じさせる「危険な思想」の萌芽を危惧したからである。確かに、アフメト・ケマルは、ウイグル人にたいして「トルコ人」意識を喚起させ、オスマン帝国のスルタンが彼らにとってもリーダーであることを主張しており、彼が実施した教育は、汎イスラーム主義、汎トルコ室義という政治的イデオロギーが強いものであった。しかし、アフメト・ケマルにせよ、彼を支持・援助したカシュガルのジャディードたちにせよ、ウマル・バイが中傷したような中国からの独立を企図していたわけではなかった。…

アフメト・ケマルもまた回想録のなかで、非難すべきは中国当局にではなく、ウマル・バイや、保守派ウラマーのセリム・アフンらにあったと明言した。彼らが対決すべき相手は、同じムスリム住民の内部にこそあったのである。…

1924年、アブドゥルカーディルは、スウェーデン・ミッションが開業する病院への抗議を携え官署に向かって示威行動を先導した。しかし、逆に官患の弾圧を招き、その年の8月に彼は何者かに暗殺された。さらに年末には、これに同調した多数の知識人たちが一斉に逮捕された。辛うじて逮捕を免れた者たちは、ソ連領中央アジアの諸都市に亡命した。また、ムーサー・バヨフ家のフセインとバハーウッディンも1926年と28年に相次いで他界した。

…アフメト・ケマルの活動を支援したかつてのジャディードたちがいた。彼らはいう。
「(中国人は)人々に何もさせない。独立を求めることも、自治を求めることも、権利を求めることも。自らの言葉で教育する学校を開くことすら禁じている。新聞を出し、出版物を刊行し、印刷所を建てること、果てはトルコや西トルキスタン、ヴォルガ・ウラル、北カフカース、クリミアから書籍や新聞を取り寄せて読むこと、読ませることすら禁じている。何もない。かつて学問と文化の中心であった我が故郷を光なく、道なく、水なき荒廃に導いた。」

ハージー・アリーらは、かつてジャディード運動を推進することによって、無知の牢獄に閉じ込められたウイグル人同胞を解放しようとした。しかし、今やその門を堅く閉ざしているのは、ウイグル人内部のカディームではなく、中国支配そのものであることを認めざるをえなかった。彼らが初志を貫くためには、まず「イスラームを開き」、「不信者を殺し駆逐し、イスラーム国家を打立てる」以外に道はなかった。ハージー・アリーは志半ばにしてタシュケントで客死するが、彼らの一部は帰郷を果たし、1930年代のムスリム反乱と、その後の東トルキスタン共和国建設に参加するのである。


# by satotak | 2007-01-05 16:43 | 東トルキスタン |