2007年 03月
マナス -クルグズ共和国の英雄叙事詩- [2007-03-27 09:02 by satotak]
ソ連解体後のクルグズスタン [2007-03-20 13:10 by satotak]
ウイグルの中のキルギス [2007-03-05 16:03 by satotak]

2007年 03月 27日
マナス -クルグズ共和国の英雄叙事詩-
英雄叙事詩と「国家」-「アルパミシュ」と「マナス」を例に- 」(坂井弘紀 2003)より:

1. はじめに
ソ連崩壊後、新国家が独立した中央アジアでは、「民族文化」の「復興」が様々な分野で顕著になった。そのような「民族文化」の代表に英雄叙事詩がある。英雄叙事詩の主人公は「民族英雄」になり、叙事詩を讃える国家行事が行われた。それは、新国家建設の途上にあるこれらの国々における国威発揚や国民団結を目的としている。…もとより、集団の団結を歌う英雄叙事詩は、国家・民族・部族などのシンボルとなりやすく、それら集団のあり方を映し出す特徴を持っているのである。

…中央アジアの代表的英雄叙事詩である「アルパミシュ」と「マナス」の二つの作品を取り上げて見ていくことにする。現在、「アルパミシュ」はウズベキスタンの、また「マナス」はクルグズスタンの「国民(民族)文化」とされており、…

2. 英雄叙事詩の特徴
2.1. 口頭伝承の特徴
2.2. 英雄叙事詩の内容とテーマ


2.3. 英雄叙事詩「アルパミシュ」と「マナス」
…英雄叙事詩「マナス」は勇士マナスの生涯をうたった作品であるが、彼の息子セメテイと孫セイテクについてうたった作品を含めた三つの作品を一括した「マナス大系」を「マナス」と呼ぶのが一般的となっている。…「マナス」は、類似するモチーフやエピソードが近隣の中央アジア諸民族に見られるものの、もっぱらクルグズにのみ伝わる民族叙事詩として知られている。「マナス」の語り手はマナスチュといい、彼らによって「マナス」は語り伝えられてきた。とくに有名なマナスチュは、サグムバイ=オロズバコフとサヤクバイ=カララエフである。サグムバイは約18万行、サヤクバイは約8万行にもわたる「マナス」を語っている。先に触れた[中国・新疆ウイグル自治区に住むクルグズの語り手]ジュスプに至っては、20万行以上もの「マナス」を語るなど、その規模の大きさが「マナス」の特徴のひとつとなっている。

 「マナス」が生まれたのはいつかという問題についても諸説ある。古代ウイグルの時代と深いつながりがあるとする説や9-11世紀、契丹(キタイ)と戦った時代と関係があるという説、古い様々な情報を含みつつも、15-18世紀の出来事を表しているとする説など様々である。いずれにせよ、現在のクルグズの原型となる集団が形成されていた18世紀ころには、「マナス」はすでに存在しており、クルグズの形成と意識の強化に寄与したと考えられている。

 クルグズ民族の英雄マナスは、クルグズスタンの象徴としてすっかり浸透している。クルグズスタンの首都ビシュケクの国際空港の名称はマナス国際空港であり、国立コンサートホールの前にはマナスの像がそびえている。

3. 帝政ロシア・ソビエト時代の英雄叙事詩
3.1. トルキスタン・ナショナリズムと叙事詩
3.2. ソビエト政策と叙事詩
3.3. 叙事詩の「復権」と新たな局面


4. 新独立国家と英雄叙事詩
4.1. 新国家に「復活」した英雄叙事詩
ソ連崩壊にともなって誕生した新独立国家では、新しい国づくりのために英雄叙事詩が取り上げられ、新たに形成された国民の文化的象徴となった。中央アジアでは、ソ連時代、共産主義のイデオロギーがこの地域の「統合原理」として機能していたが、新国家独立後、新た「統合原理」の一つとして「民族文化」の役割が大きくなった。そして、とくに民族文化の中心的存在である英雄叙事詩が注目されるようになったのである。…

…クルグズスタンのアカエフ大統領は、すべてのクルグズ国民に「マナスの7つの教訓」なるクルグズ国民のなすべき原則を発表している。先行研究から以下に引用しよう。

 《この「マナスの7つの基本方針」は人々を驚かせた。なぜなら、誰もそのような方針を聞いたことがなかったからである。やがて、それは大統領自身が創作したものであることが分かった。大統領によれば、「7つの方針」は、国家の統一、寛容・寛大な人道主義、国内における友情と協力、自然との調和、愛国主義、勤労と教育、クルグズの国家体制の増強と防衛である。
これらの方針は、現在クルグズの学校教育で教えられている。それらは、若者が叙事詩から学ばなければならない課題を気付かせる公式ガイドとなっている。実際、アカエフ大統領はこの叙事詩を再生した国家のための精神的指導の中心的な拠り所にしたのであった。
クルグズ共和国政府はマナスを社会的・文化的象徴として形付けるために、イデオロギー的部分(これはソビエト時代からある位置である)の特徴を利用しているのである》(Prior 2000: 37)。

 叙事詩そのものには見られない「教訓」が現職大統領によって「捏造」されたということは、「マナス」が叙事詩の本来のあり方の枠を越え、いまや完全に政治的に利用されていることを示すのである。…

4.2. 英雄叙事詩と国家的記念祭典
 1995年8月、クルグズスタンで「英雄叙事詩『マナス』千年記念祭」が開催された。この記念祭には、中央アジア各国やロシアなど旧ソ連諸国をはじめ、トルコ、アメリカ、日本など各地から研究者たちが招待された。「マナス」や口承文芸に関する学術シンポジウムや騎馬アトラクション、競馬など様々な行事が行われた。アカエフ大統領も積極的に関連行事に参加する盛大な国家行事となった。…

…アカエフ大統領は、今年(2003年)を「クルグズ国家2200年記念年」として記念すると発表した。「2200年」の根拠は、紀元前3世紀にクルグズの国家があったとする中国史料に求められているようだが、それには懐疑的な意見も多く、「マナス千年祭」に見られたような強引な年代設定が行われているようである。…

4.3. 教科書に現れる英雄叙事詩

5. おわりに
…叙事詩にたいする国家の姿勢は、政治的利用と学術活動の間に大きな温度差が存在するのである。その一方で、学術研究が政策の補完的役割を果たそうとする例も現れている。たとえば、クルグズスタンで目下進行中の「クルグズ2200年記念」にたいしては、懐疑的な見解を持つクルグズの研究者もいるものの、「「2200年記念祭」は歴史的に裏付けある結果である。そこに疑問の余地はない。(クルグズ国家が2200年前からあったことは)古代中国の史料にも記されている。」…と国策に追従しようとする研究者も存在する。現在の中央アジアにおいて、「民族の歴史」や「民族文化」に関連する研究は、政治と密接な関係をもっている。今後もこの地域の国家と「民族文化」・「歴史」を巡る動きに目が離せない。…

# by satotak | 2007-03-27 09:02 | キルギス
2007年 03月 20日
ソ連解体後のクルグズスタン
旧ソ連イスラーム諸国における体制移行とイスラーム」(中村友一 2006)より:

はじめに
本論は、…「旧ソ連イスラーム諸国」における権威主義体制の成立過程とそれに対抗する反対派、特にイスラーム主義運動の動態を分析することを通じて、ソ連解体後の各国における秩序や規範の創出過程への理解を深め、…「新たな紛争管理論の展開」に貢献しようとする試みである。…

本論で分析の対象とするのは、旧ソ連イスラーム諸国における様々な体制移行のかたちである。ここで言う「旧ソ連イスラーム諸国」とは、かつてのソ連の連邦構成共和国のうち、イスラーム教徒(ムスリム)が国民の多数を構成する国、具体的にはカザフスタン、クルグズスタン(注1)、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの中央アジア5ヵ国にアゼルバイジャンを加えた6ヵ国を指す。これらの国々はソ連解体の後、現在までに大統領が強大な権力を持つ一見類似した政治体制に移行した。
しかし、その移行が行われた時期、及び大統領への権力集中の程度は、国ごとに相当の違いがある。一部の国では独立初期に急速に権力が強化される傾向が観察されたのに対して、他の国では一定水準の民主化が進む兆しも見られた。…

[拡大図]

第2章 旧ソ連イスラーム諸国の体制移行の特徴
(1)権威主義体制
従来、旧ソ連諸国の多くの体制移行は、「権威主義体制」への移行として語られることが多かった。本来、権威主義体制はスペインの政治学者J.リンスがフランコ体制を分析する際に用いた概念であり、ファシズム体制やスターリン体制に代表される全体主義体制でも、あるいは民主主義でもない体制を指したものである。リンスによれば、権威主義体制の最大の特徴は「限定された多元主義」だといえる。現在、旧ソ連諸国の多くでは、現政権に反対する集団の政治システムへの参入がしばしば制限され、時にはその活動には圧力が加えられる。これらの国々では、多元主義を特徴づける複数政党間の政権交代や利益集団の影響力が十分確保されているとはいえない。また、権威主義体制では、イデオロギーに代わり、伝統的な規範に由来する規律・秩序などのメンタリティーが重要な意味を持つ。旧ソ連諸国では、独立直後に生じた社会的混乱の影響もあって、変化よりも安定を志向する意識がしばしば相対的に安定していたソ連時代へのノスタルジーをもたらし、権威主義体制の安定の基盤となっている。

旧ソ連のうち、イスラーム諸国の政治体制は、権威主義体制モデルへの類似性をとりわけ多く有している。各国のうち、アゼルバイジャンを除く中央アジア諸国では、独立はソ連解体という情勢の変化にともない、いわば受け身で獲得されたものであった。そうしたなか、クルグズスタン、タジキスタンを除く旧ソ連イスラーム諸国では、ソ連時代の共和国共産党第一書記が、いわば横滑りのかたちで大統領に就任した。これらの国では、従来の政治的エリートの多くが政治的権力に引き続き参画し、従来のような統治スタイルを維持する道が開かれた。…

また、旧ソ連イスラーム諸国において、大統領や政府が発表する政策プログラムは、ソ連時代とは異なり、体系的なイデオロギーによるものではない。各国の指導者は、イデオロギー的には共産主義から徐々に離れ、従来、共産主義が果たしていた統合機能を補うために、新たにナショナリズムに基づいた統合を図ろうとした。ソ連末期に共産党中央による地方党組織への統制がゆるむ中で、各国政府は名称民族の言語を国家語とし、スターリン時代に追害された知識人の名誉回復を掲げて自己の地位補強を図った。その際、独立国家の正統性を確保するため、たとえばウズベキスタンはティムール帝国を自民族の歴史の中に位置づけ、クルグズスタンは英雄叙事詩「マナス」を民族統一のシンボルとした。さらに、それぞれの民族的シンボルをデザインした国旗を採用したり、主権宣言や独立宣言の日を祝日に定めたりすることで、各国の政治エリートは支配の正統性を維持・強化しようとした。

以上のような特徴に対し、旧ソ連イスラーム諸国の政治体制には、権威主義体制の理念型から逸脱する側面も存在する。各国において、確かに官僚機構は一定の強さを保っているが、政治を動かすのはむしろ大統領の親族や同郷人・友人などによって構成される非公式のネットワークである。ソ連時代から、これらの国々においては、政治エリートが個別の利益を実現するために、地縁・血縁・人脈を基盤とした非公式のネットワークに基づくパトロン=クライアント関係を築き上げ、公の人事も、しばしばこうしたネットワークによって動かされてきた。…

第3章 旧ソ連イスラーム諸国の体制移行の諸相
(1)独立時、国内の反対派が弱体だった諸国
旧ソ連イスラーム諸国のうち、独立した時点で国内の反対派が、体制に対して比較的穏健な姿勢を示していた国、あるいは弱体であったカザフスタンとクルグズスタンにおいては、当初、言論や出版の自由がある程度容認されるなど、反対派の活動に一定の自由が認められた9。しかし、これらの国々でも、経済政策においてロシアの改革に近い急進的ショック療法を基本的に採用し、90年代前半で国内総生産が半減するなど急激に経済活動水準が低下する現象が起こり、社会の不満を反映して大統領や政府に対して反対する動きが次第に強まってきたことに対応して、90年代後半以降、急速に権威主義化が進行した。…

●クルグズスタン
クルグズスタンでは、90年6月の「オシュ事件」への対処で当時のマサリエフ共和国党第一書記が失脚し、同年10月に学者出身のアスカル・アカエフが大統領に選出された。アカエフは反対派にも寛容で、当時のクルグズスタンでは「民主主義の島」にもたとえられるほど自由な政党活動が行われた13。カザフスタンと同様、クルグズスタンにおいても反対派への寛容が一定期間保たれた背景には、政府に対して深刻な脅威をもたらしかねない強力な野党や野党リーダーが不在だったことが挙げられる。


しかし、95年12月の大統領選挙では対立候補に圧力が加えられ、アカエフが再選されると、96年2月の憲法改正によって大統領の権限が大幅に強化され、反体制的な新聞や反対派政党のリーダーがそれぞれ有罪判決を下されるなど、反対派への圧力が強まっていった。
その後、2000年2月の議会選挙では、1年前までに政党として登録していなければ選挙に参加できないという選挙法が導入され、合計3つの党が参加を阻まれた。続いて、同年10月の大統領選挙でも、議会選挙中に横領などの容疑で逮捕されていた有力候補のクロフ元副大統領が立候補できず、他の立候補者の一部をクルグズ語の試験でふり落とすなどした結果、アカエフは大差で再選された。

クルグズスタンでも、政府による抑圧や政治家自身の汚職などの影響で、複数政党制の発展は足止め状態にある。95年2月に行われた議会選挙では、12の政党から1000人以上の立候補者が出たが、2000年の議会選挙での立候補者数は大幅に減少した。しかし、依然としてクルグズスタンでは比較的強い野党勢力が存在している事実は、野党の反政府運動でアカエフ政権が崩壊した2005年3月の事件を見ても明らかである。(注2)

クルグズスタンの政治では、北部と南部の地域対立が重要な意味を持ってきた。ソ連時代から、北部の工業地域と南部の農業地域は、予算やポストの配分などをめぐって対立をくり返してきた。北部のチュイ州出身のアカエフが就任後に北部出身者を重用したことによって、南部地域の不満はさらに高まっていった。例えば、2002年3月には、南部のジャララバード州で、アカエフ辞任を求めるデモ隊と警察が衝突し5人の死者が出る事件が発生した。

アカエフヘの反対は、政党だけではなく、クルグズスタンのさまざまな民族グループからも起こった。独立後、高い技術力をもつロシア人住民の出国が相次いだためは、アカエフはスラブ大学を設立し、99年にはロシア語にクルグズ語と同じ地位を与えた。しかし、ロシア人に対するこのような譲歩は、クルグズ人側からの反発を招いた。他方、クルグズスタン南部では、ウズベク人とクルグズ人の間の対立が続いている。

第4章 権威主義体制とイスラーム
前章で具体的に示したように、旧ソ連イスラーム諸国のすべての国は、各国ごとに移行時期に違いが見られるとはいえ、現在までに権威主義へと政治体制を転換させ、大統領への権力集中、官僚制や非公式のパトロン=クライアント・ネットワークの強化、新しいナショナリズムの高揚などを推し進めてきた。これに対し、各国の反対派は、政党組織や民主化運動、地域主義的な動き、ナショナリズム運動やイスラーム主義運動のかたちで対抗していった。本章では、旧ソ連イスラーム諸国における反対運動のもう一つの形態であるイスラーム主義運動の実態を明らかにし、各国がそれにどのように対応しているのかを検討してゆく。

(1)イスラーム主義運動の現状
…独立後の旧ソ連イスラーム諸国では、民族文化の見直しにおいてイスラームは最も重要な対象のひとつとされ、各国政権も基本的にそれらを黙認、公認、あるいは利用してきた。しかし、そのような公認のイスラームと並行して、「純粋なイスラーム」の時代への回帰を志向するイスラーム主義運動が、ウズベキスタンやタジキスタンを中心に政権への反対を強めていった。このようないわば「非公認のイスラーム」が急成長した背景には、独立後期待していた民主化・政治的自由化の停滞・後退、貧困の拡大、失業などのフラストレーションなどの要因が存在している。そうしたイスラーム主義の潮流は、90年代末に至って、アフガニスタンの混乱、タジキスタン内戦やチェチェン紛争などの直接、間接の影響を受けて過激化、暴力化し、旧ソ連イスラーム諸国の各政府に大きな脅威を与えるようになった。

現在、特に中央アジアにおいて活発に活動している代表的なイスラーム主義組織としては、ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)と解放党(ヒズブッタフリール)が挙げられる。IMUは、タヒル・ヨルダシュとジュマ・ナマンガニーの両名を指導者として、96年に結成された組織である。この運動は、フェルガナ盆地に統一イスラーム国家を樹立するという目標を掲げて、ウズベキスタンのカリモフ政権に対してジハード(聖戦)を宣言した。ヨルダシュは、99年2月にタシュケントでカリモフを狙ったと思われるテロの首謀者とされ、ナマンガニーは同年ルグズスタン南部で起こった日本人4人を含む人質事件に関与した。アフガニスタン空爆のなか2001年11月にナマンガニーが戦死したことが伝えられ、その後のターリバーン政権崩壊によってIMUの動向は不明となっている。

おわりに
以上の分析で、旧ソ連イスラーム諸国は独立後にすべて権威主義体制へと移行していったこと、そして各国の移行の時期や過程にはそれぞれ相違が確認できることが明らかになった。このような相違が生じた背景として、先に述べたように各国における反対派の強さと政権交代の有無が考えられる。…

次に、各国における反対派の構成については、この地域の権威主義体制がもつ3つの特徴、すなわち大統領への権力集中、パトロン=クライアント・ネットワークの強化、ナショナリズムの高揚のそれぞれに対して、対抗する動きが見られた。このうち、大統領への権力集中に対抗する政党活動や民主化運動が伸び悩んでいること、後二者にそれぞれ対抗する地域主義やエスニック・マイノリティのナショナリズム運動が各国を分裂に導きかねない可能性を持っていることが明らかになった。

また、ナショナリズムの高揚に関連して、独立後の旧ソ連イスラーム諸国ではイスラーム主義運動が活発になっている。これに対して、各国政府は、それぞれ公認のイスラームと非公認のイスラームの間に線を引き、前者をナショナリズムの一部として組み込んで、国内統合をはかる手段としてきた。また、後者に対しては、いまだ政権に対抗するだけの力を有していないにもかかわらず、徹底的に弾圧し、その活動を制限する政策をとった。
これは、各国の政権がイスラーム主義の潜在的な可能性に対して、しばしば過剰な脅威を感じていることを示している。

このように、旧ソ連イスラーム諸国のすべての政権が、ひとしく権威主義的な傾向を示しているのは事実である。最近、アゼルバイジャンとクルグズスタンで政権交代が行われたが、選挙を通じての移行か反政府運動の高揚によるものかという相違こそあれ、依然として権威主義体制を志向する傾向については変化が生じていない。しかしながら、各国の政治的安定を脅かす地域主義やナショナリズム、イスラーム主義などの動きも依然根強く残っているのも確かである。例えば、クルグズスタンの政変やウズベキスタンの反政府暴動などには、国内の地域間対立が色濃く反映していると考えられる。そのような不安定要素が今後、各国の権威主義体制にどのような影響を与えるかについては、今回言及できなかった国際的な要因も含めて、今後の研究課題としてゆきたいと考える。

(注1) クルグズスタン中央アジア南東部の国。正称はクルグズ共和国だが、〈共和国〉を省く場合はクルグズスタンと呼ぶ。日本ではキルギスないしはキルギスタンともいう。

(注2) アカエフ政権崩壊後
:2005年2月末の議会選挙をきっかけとして、野党勢力により南部で開始された混乱が首都に及ぶと、3月にアカエフ政権は崩壊(チューリップ革命)、野党勢力指導者のバキエフ元首相が首相兼大統領代行に選出され、7月の大統領選挙で当選し、8月に就任を果たした。
バキエフ政権の下、政治・経済改革は遅々として進まず、政情は不安定。特に2006年11月、憲法改正(特に大統領権限の縮小)を巡る大統領と議会野党勢力との対立が激化し、野党側による反政府集会が大統領支持派と衝突する危機が生じたが、双方間で妥協が成立し、大統領権限を縮小する(首相の実質的選任権を議会が得る等)新憲法の採択により一応の収束を見せた。しかし、その後、大統領側と議会側のかけ引きを経て、大統領権限を再度拡大する憲法修正案が採択され、1月15日に大統領が署名。

# by satotak | 2007-03-20 13:10 | キルギス
2007年 03月 05日
ウイグルの中のキルギス
秋野深・新疆ウイグル紀行-タクラマカンの砂・パミールの空-」より:

自治区の中の自治州
 私がクチャを発って一気にカシュガルへと向かわず、アトシュで列車を下りたのには訳がある。それは、新疆ウイグル自治区の中の「自治州」を訪れてみたかったからだ。

 中国には現在5つの自治区がある。内蒙古自治区、寧夏回族自治区、広西チワン族自治区、チベット自治区、そして新疆ウイグル自治区。…
 そして、さらにこの新疆ウイグル自治区の中には、昌吉回族自治州、ブルタラ・モンゴル自治州、バインゴルン・モンゴル自治州、クズルス・キルギス自治州、イリ・カザフ自治州という自治州が存在する。

 私がクチャの次に訪れたアトシュという街は、クズルス・キルギス自治州の中心都市である。そしてかつてはソ連の一部だったキルギスタン共和国が、そのアトシュからは目と鼻の先の距離にあって、クズルス・キルギス自治州とキルギスタン共和国は、国境線で接している。…

 …クズルス・キルギス自治州の民族構成については、キルギス族が約30%、ウイグル族が60%強、漢民族が約5%となっている。ちなみにアトシュでは、キルギス族が約13%、ウイグル族が約80%、漢民族が約7%。
 ウイグル自治区の他の地域に比べれば、キルギス人口比率は圧倒的に高いのだけれど、言うまでもなく、クズルス・キルギス自治州の中ですら、キルギス族は多数派ではないのである。…

 つまり、「○○族の自治区あるいは自治州」という名称を目にした時に、その○○族がそのエリアで多数派であり、そこにはその民族固有の文化を守る環境がある、と考えるのは、場合によっては実に現実離れした偏見に過ぎないかもしれない、ということだ。

「自治」PR
 民族構成比がどうあれ、多民族国家が自治エリアを設けることは、少なくとも対外的には大きな意味を持つものなのだと思う。国家としては対外的に、実情はともかく、少数民族が住むエリアで民主主義が実践されていること、さらには民族自決の下で少数民族が各自の伝統を保持していることを示す必要があるだろう。…

 …郊外のモスクへ向かう道を尋ねたことがきっかけで、私は偶然にも2人のキルギス族の高校生に街を案内してもらうことになった。
 2人は私がこの旅で出会う、初めてのキルギス族だった。

少数の中の少数
 アトシュの街を案内してくれることになった2人のキルギス族というのは、高校生の女の子だった。2人の名は、グルマンブとアイジャルクン。…

「中国の少数民族、ウイグル族」と紹介されることの多いウイグル族も新疆の中では少数派なわけではない。ウイグル族は少数民族、というのは中国という国家の枠で捉えた場合の話で、個々人が日常生活の中でどれほどマイノリティ意識を持って生きているのか、ということとは別の次元の話だ。…

 私がクズルス・キルギス自治州のアトシュを訪れてみたいと思ったのは、少数派の中の少数派であるキルギス族の人々に、この新疆のことを聞いてみたかったからでもある。

 …アトシュの街を歩きながら2人は私にいろいろなことを話してくれた。
 キルギス語のこと。目と鼻の先にありながら国境で隔てられている旧ソ連のキルギス共和国のこと。そして彼女達から見たこの新疆ウイグル自治区やウイグル族のこと……。
 その全てが、これまでの旅の中では一度として耳にすることのなかった話ばかりだった。

キルギス語とウイグル語
 …私がこれまでの旅の中で覚えてきたウイグル語など、もちろんスムーズに会話をするのに役に立つというレベルではない。…きっと私たちの会話を続けさせてくれたものは、彼女たちが持っている「コミュニケーションをとろう」という強い意思だったのだと思う。…

 キルギス語は、ウイグル語と同じトュルク系(トルコ系)の言語で、トルコ語、ウズベク語、カザフ語などとも同系統であるため類似点が多い。…
 この新疆ウイグル自治区においては、漢民族を除く各民族間では、ウイグル語が共通語のように使われている。つまり、キルギス族もカザフ族もその他の少数民族も、ウイグル族と話す時にはウイグル語を使うことになる。
 それでは、同じトュルク系(トルコ系)の言語であるキルギス語とウイグル語はどれくらい似通っているのか……。…

 グルマンブとアイジャルクンの説明によると、ほんの一部、単語が違ったり、発音が少しだけ違う部分があったりするだけで、キルギス族がウイグル語を使いこなすのには全くと言っていいほど苦労することはないという。
 文字についても、新疆ウイグル自治区のキルギス族の間では、ウイグル語と同様にアラビア文字を転用した文字が使われていて、ウイグル語で使われる文字と「ほとんど同じ」だという。…
 あえてその違いを日本語の平仮名に例えて説明するならば、いくつかの文字だけは、点(、)の有無や、点や線の位置の違いがある、といった感じだ。
 言葉にせよ文字にせよ、わずかに違う部分を覚えさえすればよいだけなので、ウイグル族に接する時だけウイグル族に言葉を合わせることはキルギス族にとっては問題ないということのようだ。

 「でも、ウイグル族はウイグル語とキルギス語の細かい違いは多分わからないと思う」
 グルマンブがそうつぶやくと、隣でアイジャルクンがうなずく。
 「ウイグル族の人がキルギス語を話すことはないの?」
 私が尋ねてみると、2人は「ない、ない」と苦笑いしながら、首を横に振った。

 考えても見れば、ウイグル語を話す漢民族はまずいない。いたとしても極めて例外的で、私が簡単な挨拶レベルのウイグル語を話した時のウイグル族の人々の反応からもそれがよくわかる。…
 そして、ウイグル族とキルギス族の関係を見てみると……、キルギス語とウイグル語の微妙な違いがわかるウイグル族などまずいない……。

 このことは、単なる言語事情だけでなく、新疆ウイグル自治区における各民族の立場や関係というものを、ある意味で如実に表わしてもいるのである。

立ち位置と視点
 新疆ウイグル自治区において、近年になって漢民族の人口が増加する前までは、当然のことながらウイグル族の人口比率は今よりも高いものだった。つまり自治区内に限れば、ウイグル族は"多数派"であり、ウイグル族以外の少数民族が街へ出ていけば、必然的にウイグル語を話さなければいけない環境に囲まれていたことになる。
 そして漢民族人口が増加してきた昨今、ウイグル族を含む少数民族の人々は、都会へ出て会社で働いたり、商売をしたりする以上、中国語を操ることが要求される。
 その結果、必然的に、都会で暮らす少数民族は中国語の習熟度が高く、一方で同じ民族だけで暮らしている農村などでは、中国語が全くと言っていいほど話せない人々が多い、という状況が生まれてしまっている。

 言語環境が象徴しているそんな民族間の立場の違いは、高校生のグルマンブとアイジャルクンの会話にも表われていた。…
 彼女たちは、少なくともウイグル族に対してはあまり良い印象は持っていない、というのだ。
 キルギス族の立場からすれば、漢民族が近年増加してきたという事実はともかく、それ以前に、ウイグル族が自分たちの目の前にいる多数派の民族だったということになる。別の言い方をすれば、キルギス族の少数派意識は、ある意味ではウイグル族に対して形成されてきたものだということにもなるのかもしれない。ちょうどウイグル族の少数派意識が漢民族に対してのものであるように。

 「漢民族が増えてきて何か変わった?」
 私のそんな質問に、グルマンブはしばらく「うーん」と言って考えた後、
 「ウイグル族が前よりおとなしくなった…かな?」…

 2人のキルギス族の高校生とアトシュの街をゆっくりと歩きながら、私はこの新疆ウイグル自治区における民族関係の複雑さというものを実感せずにはいられなかった。…

 実態は1つかもしれないけれど、結局どの立ち位置で、どの方向を、どんな立場で見ているのか……、そしてどの方向は見ていないのか。それによって実態の認識はいくらでも違ってくる。…

中国語と人民意識
 …しかし、考えてもみれば彼らの置かれた環境は大変だと思う。
アラビア語の転用文字を用いるトルコ系の言語、右から左に読み書きする言語に囲まれて育ってきた人々が、小学校に入学して初めて文字も文法もまるで違う中国語を学び始めるのである。しかもそれは外国語としてではなく、自国語として身につけていかなくてはならない。どれほど民族意識が高く、自分たちはトルコ系のウイグル族なのだ、キルギス族なのだ、という意識を持っていても、どの国の国民なのか、と問われれば、やはり中国の人民ということになる。…

 私がアトシュで出会った高校生のグルマンブとアイジャルクンも、中国語の勉強には力を入れているのだという。
 私が英語の勉強についても彼女たちに尋ねてみると、
 「英語なんてとてもとても。中国語だけでも大変なんだから・・・」…

 私は、中国語の習得についての質問を様々な人にしたのだが、こんなニュアンスの答えが返ってくることも少なくなかった。
 「中国語はわかるかって? 当たり前だよ。私は漢民族ではないけど中国人なんだから」

 民族意識の中でどんな形で並存しているものなのかはわからないけれど、そこに教育で育まれた"人民意識"のようなものを感じることが度々あったのも、私の偽らざる印象である。

民族の国、民族の言葉
 アトシュの街から目と鼻の先にある国境を越えれば、そこはキルギス共和国。その距離はわずか100キロあまり。
 キルギス族という民族は、主にこの新疆ウイグル自治区の天山山脈西部からパミール高原にかけてのエリア、そしてキルギス共和国に暮らしている。…
 アトシュから十分に日帰りで行き来できる距離にあるキルギス共和国だが、その間の国境線が隔てているものは大きい。

 …2人[の高校生]はまだ、キルギス共和国へ行ったことはないと言う。経済的、政治的な理由など、事情は様々だが、新疆で暮らすキルギス族の人が決して自由にキルギス共和国を往来できるわけではないというのが実情だ。
 …キルギス共和国の話をする時は、ことさら楽しそうだったのが強く印象に残っている。やはり、一番行ってみたい外国はキルギス共和国なのだと言う。
「キルギス共和国はどんな国だと思う?」
 私のそんな問いに、2人は
「緑の草原がたくさんあって、とてもきれいで …… キルギス族がたくさんいて……」
と答えながら、楽しそうに想像を膨らませているようだった。

 そんな…様子からは、何よりも、「自分たちの民族が国を作っている」ということに対する大きな憧れのようなものが感じられた。
 中国という国家の中での漢民族に対するマイノリティ意識。そして新疆ウイグル自治区内でのウイグル族に対するマイノリティ意識。それらを"無意識"のうちに携えて生きていて、さらに日常の様々な場面でもそれを実感させられる環境にいる人々にとって、その感覚を持たずに生きていける場所は、理想郷のように感じられるのかもしれない。

 もっとも、キルギス共和国もキルギス族のみで構成されているわけではない。キルギス族の人口比率は50%強であり、ロシア人が20%以上、ウズベク族が10%を占める多民族国家である。しかし、…自分と同じ民族が多数派となって国家が成立しているという事実は、ある意味ひっそりと生きる新疆のキルギス族の人々にとって、誇りでもあり、精神的な支えでもあるようだった。

 しかし、国境という行政区分の境界線が、民族に与えている影響は決して小さなものではない。現に、長い間、その国境の向こう側ではソ連時代からロシア化が進められ、国境の手前では漢民族化が進められてきたのである。
 国家政策の強化や、経済的理由による他民族への同化が進めば進むほど、民族意識が強くなる傾向はあるかもしれないけれど、実際の生活はそれぞれ違う方向へ変わっていく。
 国境を越えて民族の精神的な一体感を堅持することは、やはり容易なことではないようにも思われる。

 言語事情はそれを象徴している例と言えるかもしれない。
 キルギス共和国のキルギス族も、新疆ウイグル自治区のキルギス族も、当然民族内ではキルギス語を使っている。様々な方言があるので全く同じではないものの、グルマンブもアイジャルクンも、「たぶんキルギス共和国のキルギス族とは会話なら普通にできると思う」と言う。しかし、文字がまるで違うのである。
 キルギス共和国では、ロシア語の影響で、キルギス語表記はキリル文字(ロシア語で使う文字)で行われている。一方、新疆ではキルギス語は、アラビア語の転用文字を使用している。
「だから私たちがキルギス共和国に行っても、残念だけど、読み書きは全然わからない」
 グルマンブがそう言うと、隣でアイジャルクンが口を「へ」の字に結んでうなずく。…

カシュガルへ
 クズルス・キルギス自治州のアトシュを後にして、私はカシュガルへと向かう。中国の最西端に位置する都市カシュガルは、アトシュから40キロほどしか離れていないが、クズルス・キルギス自治州ではなくカシュガル地区という行政区分に属している。…

# by satotak | 2007-03-05 16:03 | キルギス