2007年 04月
キルギスの歴史 [2007-04-25 11:57 by satotak]
キルギズの起源 [2007-04-22 20:41 by satotak]
マナス第一部 [2007-04-13 17:40 by satotak]
マナス概観 -八部の叙事詩- [2007-04-05 21:49 by satotak]

2007年 04月 25日
キルギスの歴史
若松 寛訳「マナス 少年篇 -キルギス英雄叙事詩-」(東洋文庫 2001)より:

キルギス人は悠久の歴史をもつ古い民族である。その先祖は“堅昆”(けんこん)と呼ばれ、彼らは最初南シベリアのイェニセイ川上流の森林地帯に居住して、紀元前3世紀には匈奴に服属していた。西暦3世紀に至って、堅昆はかなり強大となって、彼らは丁零、鳥孫、康居の諸民族と隣り合っていた。このころの史書ではキルギス人は“堅昆”、“?骨”、あるいは“契骨”と称された。

唐代に至って、キルギス人は"黠戛斯”(かつかつし)と呼ばれた。648年(唐、貞観23年)、黠戛斯首領失鉢屈阿桟(しつばつくつあさん)が唐に入朝して以来、キルギス人は初めて唐と直接に関係をもち、一時はその支配をうけ、唐の堅昆都護府が名目的ではあるが設けられた。

9世紀、キルギス人の勢力は東、南方向に向かって拡張し、モンゴル高原のウイグル・カガン国を倒して(840年)、キルギス・カガン国を創建した。キルギス・カガン国が存在した百余年は、キルギス史上の繁栄時代であり、キルギス人はゴビ砂漠以北に雄を称(とな)え、国強く兵は壮(さか)んで、人口は百万を超えた。

10世紀初め、内モンゴル東部に契丹(遼朝)が興り、キルギス人に取って代わってゴビ砂漠以北の高原をも支配した。ここにさしも強盛を誇ったキルギス人も契丹の隷属民と変わり果てた。

10世紀後半頃からキルギス人はしだいに東、西両グループに分かれ始めた。東方グループが主力で、イェニセイ川上流の森林地帯に拠って牧畜兼狩猟の生活を送っていた。西方グループは若干の西遷したキルギス人で、彼らはアルタイ山と天山の一帯に遊牧していた。

12世紀20年代、遼朝の王族耶律大石が王朝の滅亡に際して中央アジアへ逃れ、1132年、カラハン朝を滅ぼして、チュー河畔のベラサグンを都としてカラ=キタイ(西遼)朝を開いた。カラ=キタイ朝は80余年と短命であったが、キルギス人にとっては苦難の時代となった。カラ=キタイの軍はキルギス人の牧地を占領し、キルギス人の家畜・財産を掠奪して、彼らに流浪をよぎなくさせた。

モンゴル族が台頭すると、1218年チンギス・カンはキルギス人を征服し、キルギス人西方グループ地区はモンゴル西征の基地となった。元朝もまたキルギス人に強力な支配権をふるったが、この頃からキルギス人西遷の動きも顕著となった。

明代に入ると、チンギス・カンの時代からイェニセイ川の西方、イルトィシ川の上流にいて、キルギス人とずっと隣り合ってきたオイラト人が急激に勃興し、その勢力をモンゴル高原とアルタイ山以南に伸ばした。オイラト人は西モンゴル族であり、キルギスとその他のテュルク語系民族からはカルマクと呼ばれ、漢文史料では瓦刺(わら)と称される。

1439年オイラトの首領となったエセンは一代の梟雄で、東は朝鮮から西は中央アジア、北はシベリア南辺から南は長城に至る大領土をひらいた。彼は49年大軍を率いて明の北辺に侵入し、長城の土木堡で明の正統帝を捕らえ、その後まもなく大ハーン位についてオイラトの全盛期を現出した。しかし彼は54年部下に殺され、ゴビ砂漠以北の草原は一時混乱状態におちいった。このあともオイラト人の勢力は衰えず、西北モンゴリアはひきつづきその勢力下にあった。

キルギス人の東方グループが大挙して天山一帯に西遷したのもエセン・ハーンの支配期とその死後の混乱期のことだったらしい。キルギス人は新たにモグーリスターン・ハーン国の支配下に入った。この国は、14世紀前半以来、チャガタイ・ハーンの後裔をハーンにいただき、天山からセミレチエにかけての遊牧地帯(モグーリスターン)を支配してきた遊牧国家である。キルギス人はモグーリスターン・ハーンの苛酷な統治とカルマク人の侵攻にあえいだが、16世紀に入ると、彼らはカザフ人と同盟を結んで、モグール人(モグーリスターン・ハーン国人)およびカルマク人と抗争を行った。

17世紀前半、オイラト人の中のチョロス部族が他のオイラト諸部族を統合して、天山・アルタイの間の大草原にジュンガル王国を建設した。以後、この王国の勢力は、東はモンゴル高原にまで伸びて、このため清朝と北アジアの覇権を争い、西は中央アジアのシル川東岸にまで達してタシュケント、サイラムの両都市をも占領し、北はシベリア南辺でロシア帝国と境を接し、南は天山以南のタリム盆地全域を奪った。キルギス人もこの王国の支配下に組みこまれ、天山以北にいる者は東ブルート、天山以南にいる者は西ブルートと呼ばれた。1757年ジュンガル王国が清朝に滅ぼされると、東西ブルートはジュンガル王国の70年の久しきにおよぶ統治を脱して、清朝に服属した。

一方、16世紀ごろから中央アジアのフェルガナ地方に移住した一部のキルギス人は、その後ウズベク人のホーカンド・ハーン国の支配下に入ったが、1864年からはロシア帝国に服属した。(注1)

以上のような歴史をキルギス人はたどってきた。そこに目立つ現象は絶え間ない外患と遷徙(せんし)である。紀元前3世紀匈奴への隷属を皮切りに、彼らは唐代に至るまで北方異民族の属部となってきたが、西暦9世紀にキルギス・カガン国を樹立して、ゴビ砂漠以北の高原に百余年にわたって万丈の気を吐いた。しかし10世紀からは連続して彼らは契丹人、モンゴル人、カルマク人、モグール人、ジュンガル人の支配下にあった。こうした逆境の中から民族を外敵から守り独立を勝ち取るあこがれの民族英雄が模索され、それが叙事詩の中で結実したのであろう。したがって英雄マナスはあくまで実在の人物ではなく、民族の夢と希望の所産なのである。

(注1) クルグズスタンは18世紀後半から19世紀前半にかけてコーカンド・ハン国の支配下にあったが、1855−76年にロシア帝国に併合され、北部はセミレチエ州、南部はフェルガナ州の一部となった。1916年反乱の際、北部ではクルグズ人とロシア人農民の大規模な衝突が起きた。
ロシア革命後にトルキスタン自治共和国の一部となったが、24年にロシア連邦共和国の一部としてクルグズ(1925年までのロシア語名カラ・キルギズ)自治州が成立し、26年にクルグズ(キルギズ)・ソビエト社会主義自治共和国、36年にソ連邦を構成する共和国に昇格。ソ連時代後半に活躍を始めた作家アイトマトフは世界的な名声を得た。
1990年にオシュ事件の悲劇を経験。90年12月にクルグズスタン共和国に改名して主権を宣言し、91年8月にソ連からの独立を宣言した。93年5月にクルグズ共和国に改称。
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)

# by satotak | 2007-04-25 11:57 | キルギス |
2007年 04月 22日
キルギズの起源
護雅夫・岡田英弘編「民族の世界史4 中央ユーラシアの世界」(山川出版 1990)(筆者:加藤九祚)より:

…キルギズの起源については、一般にイェニセイ・キルギズと天山キルギズの二つに分け、その相互関係について諸説がある。イェニセイ・キルギズに関する資料は、漢代に匈奴の北にいたという堅昆(けんこん)、鬲昆(かくこん)にはじまり、南北朝時代の結骨(けっこつ)、契骨(けっこつ)、唐代の黠戞斯(キルギス)、?斯(キルギズ)、古代トルコ語碑文のqyrqyzとしてあらわれている。『新唐書』では農耕民として登場している。『史記』匈奴伝の堅昆は、ソ連の考古学者L・キズラソフによれば初期テュルク(トルコ系)のタシュティク文化の担い手であるとしている。そして本来のイェニセイ・キルギズ(彼はハカスと称している)の文化は6世紀以降とし、ソ連の考古学では南シベリアのトゥーヴァとミヌシンスク盆地の6−12世紀の考古学的遺物を「イェニセイ・キルギズの文化」として総括している.

つぎに「天山キルギズ」であるが、これは現在天山、パミール・アライ方面に居住しているキルギズ人、つまりソ連のキルギズ共和国のキルギズ人のことである(注1)。この天山キルギズと歴史上のイェニセイ・キルギズとの関係はどのようなものであろうか。民族学者S・アブラムゾンはこの問題について三つの仮説があることを指摘している。

第一は天山地方を調査した考古学者A・ベルンツュタムの仮説とそれを発展させたものである。ベルンシュタムは、天山地方には前3−前1世紀までサカ、烏孫など東イラン語系の人びとが住んでいたが、前1世紀ごろから紀元4−5世紀ごろまで匈奴を主力とするトルコ語系の人びとが進入した。「この地域の東イラン系諸族はしだいにその立場を失い、トルコ語系の人びとがそれにとってかわった。キルギズもその一つである。」 ベルンシュタムは、キルギズがはじめて天山地方に現われた時期を、前49−前47年 匈奴が?支(しっし)単于に率いられて天山地方に入り、一部はタラス川流域に住みついたときと考えている。彼の調査したケンコール古墳は匈奴の残したものとされている。ベルンシュタムの説はその後一部修正され、イェニセイ・キルギズは匈奴以後千三百−千四百年の長期間、幾波にもわたってイェニセイ川上流域から天山方面に移住したとの説になっている。

第二の説。キルギズは遠い古代から天山およびパミール・アライの山地に変わることなく居住したとするものである。この見解はN・ビチューリン、Ch・ワリハノフ、N・アリストーフらの研究者たちがこれに属し、近年はカザーフ共和国の学者A・マルグランによって発展させられた。彼は9−10世紀におけるキルギズの政治的連合の中心はウルムチおよびトルファン北部地域にあったとの結論に達した。キルギズはここからいくつもの方向へ移動したが、天山方面へ移動したグループの一部がこの地域に残って、キルギズという名称をえたというものである。

第三の説。これはK・ペトロフの見解で、後代にキルギズというエトノス(民族を構成する要素)を形成した人びとは、イェニセイ川とイルティシュ川の河岸地帯からのキマク(キプチャク)・キルギズ、さらにはキマクに近い東部キプチャク諸部族であるとするものである。彼らははじめ(13世紀中ごろ)イリ川とイルティシュ川の河間を占め、ついで天山中央部に進出した。天山方面への移動は、はじめいくつもの小グループによっておこなわれ、他のモンゴル・トルコ系住民と混じりあった。しかしティムール時代以後(15世紀)になると大移動となり、キルギズ民族形成過程のはじまりと時を同じくするにいたった。

アブラムゾン自身の見解はおよそつぎのとおりである。キルギズの物質文化、伝承、部族名などはアルタイ、イルティシュ川上流部、モンゴル、東トルキスタン、チベット周辺の諸民族に近い。こうした事実からして、現代のキルギズの形成過程は主として天山東部およびそれに隣接する地域において、トルコ系譜部族を基盤にしてなされた。これら諸部族の大部分は、おそらく6−10世紀の突厥国家時代の諸部族にさかのぼると考えられる。いくらか時代が下がると、キルギズの民族形成にモンゴル起源の部族もくわわった。キルギズの中央アジア移動はモンゴル時代以後と考えられるが、このころになると、キルギズは、一面ではカザーフ・ノガイ的要素、他面ではウズベクおよび部分的にはタジクに代表される現地の中央アジア的要素によって補充されるにいたった。要するに、アブラムゾンは、イェニセイ・キルギズと天山キルギズの間には、間接的関係はありうるけれども、直接的関係はみられないとの見解に立っている。この点、ベルンシュタムのイェニセイ・キルギズ移住説とは根本的にちがっている。

イェニセイ・キルギズは、17世紀にロシア人がシベリアに進出した当時、四つの小部族連合に分かれて狩猟と牧畜に従事していた。農耕はなかった。18世紀初頭、キルギズの2500家族がカルムィク人によって南シベリアから連れ去られた。これ以後シベリア諸民族のなかでキルギズの名は消滅した。しかし一部のキルギズはその住地に残り、自称、言語、生活様式などの特徴を失い、ハカス、トゥーヴァなどの民族に溶けこんだことは確かであると考えられている。

(注1) クルグズ[人]:中央アジアの天山山脈西部・パミール高原地方に居住する民族。 キルギスともいう。
テュルク系諸民族の一員で、クルグズスタンでは最大人口を占める。同国には約333万人(2003年クルグズ共和国統計)が、その他中国・新疆ウイグル自治区に十数万人(中国語名は柯爾克孜)、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン等に分かれて数十万人が暮らすと推定される。テュルク諸語キプチャク語群に属すクルグズ語を話し、大多数はスンナ派イスラームを信仰している。
〈クルグズ〉は自称で、いくつかの起源伝説がある。おもなものに(1)〈ハンの娘の40人の侍女〉=〈40 kirk〉+〈娘kiz〉の子孫、(2)〈40の部族〉=〈40 kirk〉+〈部族uruu〉の子孫、(3)〈連峰kir〉に住む人々=〈クルクルラルkirkirlar〉または〈クルキスレルkirkisler〉の子孫といった伝説が挙げられる。
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)

# by satotak | 2007-04-22 20:41 | キルギス |
2007年 04月 13日
マナス第一部
若松 寛訳「マナス 少年篇/青年篇/壮年篇」(東洋文庫 2001-05)より:

《少年篇》
第1章 不思議な夢
老人の嘆き〉老妻の見た夢〉ジャクィプの見た夢〉若妻の見た夢〉失踪した少年の捜索〉夢判断〉

第2章 勇士誕生
ジャクィプの兄弟たち〉チュウィルディの懐妊〉難産〉ジャクィプ外出〉男子誕生〉“スユンチ(吉報)”〉盛大な祝宴〉マナスと命名〉

第3章 オシュプル老のもとでマナスを鍛錬
放牧見習い〉四十チルテンの出現〉カルマクの老人とけんか〉サラマトの四人の子とけんか〉オシュプル音を上げる〉

第4章 カルマクの乱暴者どもを制裁
帰途でのできごと〉気丈な母〉ジャクィプ、救援にのりだす〉母と子、無事家に帰る〉

第5章 アルタイのカルマク勢を撃退
カルマク人の内輪もめ〉アルタイのカルマク勢を撃退〉凱旋〉

第6章 エセン・ハーンの密偵団を制裁
皇宮取りゲーム〉エセン・ハーンのたくらみ〉隊商とマナスのけんか〉

第7章 ネズカラ討伐
バイと二人の息子〉バイの受難〉バイ、ジャクィプと邂逅〉ネズカラ、ジャイサンバイを攻撃〉キルギス軍迎撃〉マングル人、キルギス人に服属〉

第8章 十一人の密偵団に仕置き
ジャクィプ、虎口を逃れる〉鳩首凝議〉怪物退治〉密偵どもに鉄拳制裁〉

第9章 オルクン川の戦い
若者グループのかしらに選ばれる〉オルクン川の岸辺に到達〉エセン・ハーンの調査隊〉クィタイ軍撃破〉

第10章 ハーンに推戴
ジャクィプの提案〉

《青年篇》
第1章 テケス・ハーンの魔人部隊撃滅
長老会議〉出陣〉テケス・ハーンの驚き〉魔法使いクヤス、魔兵を配置〉バカイ、魔兵を看破〉魔兵部隊の全滅〉テケスの後継者選出〉テイイシュの祝賀会〉マナス、一騎打ちに出場〉祝賀会は続く〉更なる進軍〉

第2章 オルゴ・ハーン軍との決戦
オルゴ・ハーンの驚き〉オルゴ・ハーン、迎撃体制を固める〉巨漢アタンの惨死〉合戦始まる〉激戦のあと〉オルゴ・ハーン妃、命乞いに行く〉

第3章 アクンベシム征伐
長老会議〉部隊を分けて行軍〉アクンベシム、防戦準備に大わらわ〉マナス、バカイ二手に分かれる〉魔法使いボーン現る〉バカイ隊の行動〉魔法使いボーンの最後〉マナス軍進軍〉シャムィン・シャー注進〉アクンベシム、防戦体制を取る〉合戦の火蓋切らる〉アクンベシムの最期〉

第4章 父祖の故地へ移動開始
長老会議〉移動中のできごと〉

第5章 アローケ・ハーンに向けて進撃
マナス、狩りに興じる〉アローケ・ハーン登場〉アローケの使者来る〉アローケ出陣の知らせ〉マナス出陣〉アローケの王宮〉マナス王宮に突入〉マナス、猛獣の群の中に入る〉アローケ降伏〉

第6章 ショールク・ハーンとの抗争
ショールク・ハーン出陣〉美女アクィライの諌め〉合戦の火蓋切らる〉ショールク、和睦を懇願〉美女たちの婿選び〉アローケの後日談〉

第7章 アルマムベトとの出会い
マナスの見た夢〉マナス、狩りに出る〉アルマムベトの悲哀〉アルマムベトを発見〉アルマムベト、マナスの営地に来る〉アルマムベト、マナスにまみえる〉歓迎の競馬〉

第8章 マナスとアルマムベトの盟約
義兄弟の契り〉マナス、自分の結婚を決意〉

第9章 マナスのために嫁探し
嫁の条件〉ジャクィプ嫁探しの旅に出る〉ジャクィプ、娘をのぞき見る〉ジャクィプ、王宮に乗り込む〉アテミル、難題を案出〉婚約成る〉

第10章 マナスの求婚
マナスとアルマムベトの見た夢〉ジャクィプの帰郷談〉マナス、ケイイプへ行く〉アテミルのマナス迎接〉マナスとサニラビイガのいさかい〉怒りのマナス、軍勢をアテミルに向ける〉冷遇にマナス怒る〉マナス、アテミル膺懲の戦を決意〉サニラビイガ、マナスに嫁ぐことを決意〉

第11章 マナス、アルマムベト、四十勇士の結婚
花嫁達のテント〉婿選びの競馬〉婿と嫁の二度のテスト〉アルーケ翻心〉華燭の典〉

《壮年篇》
第1章 六ハーンの謀反(上)
六ハーンの謀議〉マナスに遣使〉使者を威圧〉祝宴を開く〉使者帰還〉

第2章 六ハーンの謀反(下)
トュシトュク叱咤激励〉六ハーン進発〉マナス、四十勇士を招集〉六ハーン到着〉マナス、六ハーンに接見〉

第3章 大遠征の準備
バカイを遠征軍の総司令官に任命〉アルマムベトを全軍の先導役に任命〉従軍を望まぬ者に帰郷を許す〉

第4章 大遠征の途につく
マナス、部隊を視察〉部隊進発〉アルマムベトの提案〉カヌィケイからの選別〉カヌィケイの嘆き〉マナスと四十勇士、部隊に戻る〉アルマムベト、軍紀に不満〉アルマムベトを総司令官に選ぶ〉

第5章 ベージンへ向けて進発
全軍の点呼をとる〉アルマムベト、全軍に訓示〉強行軍にクィルグィル老怒る〉クィルグィル、マナスに抗議〉クィルグィル老、十人隊に戻る〉宿営の令下る〉アルマムベト、オルクン川を渡って偵察〉アルマムベト、天気を変える〉全軍オルクン川を渡る〉エリメで越冬〉全軍の点呼と取る〉アルマムベトとスィルガクを斥候に選ぶ〉

第6章 アルマムベトとチュバクのいさかい
チュバクの怒り〉チュバク、アルマムベトの懲らしめを決意〉バカイ、チュバクの説得に行く〉マナス、チュバク説得に加わる〉マナスとチュバク、アルマムベトと合う〉チュバクとアルマムベトの和解〉

第7章 一つ目の巨人マケル退治
サヤス山からベージン観察〉一つ目の巨人マケル出現〉チュバク、アルマムベト、一つ目の巨人マケルと闘う〉マケルの首を持ち帰る〉

第8章 クィタイから馬群奪取
ベージンへ偵察に行く〉クィタイ陣営鳩首擬議〉都督チャバラ討たれる〉馬飼い頭カラグル、馬群を移す〉クィタイ陣営、防戦準備に乗り出す〉変装したアルマムベトとスィルガク、クィタイに潜入〉アルマムベト、故郷を見て懐旧にふける〉アルマムベト、馬飼い頭カラグルをだます〉二勇士、馬群を連れ出す〉カラグル、盗まれた馬群を追跡〉両勇士、背後から迫るクィタイ軍と戦う〉コングルバイ、アルマムベトに傷を負わさる〉

第9章 キルギス軍奮戦
マナス、熟睡から目覚める〉スィルガク、バカイに救援を求めに走る。三勇士奮戦〉バカイ、大軍を率いて出動〉キョル・ケチュー渡河点でコングルバイ、マナスを襲う〉

第10章 凱旋
キルギス全軍突撃〉コングルバイ、マナスによって負傷〉キルギス軍、カスパンを包囲〉重傷のコングルバイ抗戦の非を説く〉コングルバイ、終戦をエセン・ハーンに嘆願〉和平成る。キルギス軍凱旋の途につく〉

〈和平成る。キルギス軍凱旋の途につく〉
クィタイ人からコングルバイ、クィルムス・シャーの〔子〕ムラディル、〔帽子に〕朱房をつけたネズカラ、カルマク人のウシャン、奴らが命と引き替えに財物を出すことを合意した。カンガイ人からオロングもその場にいたな。軍司令官コングルバイが奴ら全員をそばに集めた。黒いたてがみボローンチュ、カトカランの〔娘〕サイカル、いちいち名前を挙げるんですかい。ソローンのアローケ、猪のような気性の勇士ジョロイ、トクシュケルの〔子〕ボズケルティク、九十二歳の長寿を保つ、ソロボの〔子〕ソーロンドュク、奴らが自分の命を心配して、偶像の前に額ずぎ、財物を奉納することを誓った。

奴らは九千頭の黒いひとこぶ駱駝を用意して、ひとこぶ駱駝の背に金貨を積んだ。また、
九千頭の赤いひとこぶ駱駝を用意して、赤いひとこぶ駱駝に高価な金細工を積んだ。駱駝に高々と積まれた荷の中には金塊もある。これらのすべての荷の上には絹のロープが掛けられた。さらに白銀を積んだ三万頭の駱駝が引き出された。白銀を積んだ駱駝を引いて行ったときのその光景を見てくだされ。エメラルド・ダイヤ・ルビーが二千頭の駱駝に積まれた。贈り物として進呈するために、今いるすべての馬の中から、互いによく似た黒馬九千頭が選り抜かれて、それらを達人どもが調教した。さらに九千頭の赤毛馬と九千頭の栗毛馬を用意した。どいつも姿が優雅で、走れば駿足だ。さらにまたすらりとして美しい大型の鹿毛馬九千頭も用意して、そいつらが土埃を山のように巻き上げた。ほかにも九千頭の葦毛馬も用意した。各村落から集めさせた贈り物用の馬群は十万頭に達した。

奴らは各自の町から娘たちを探し出させた。その黒髪は川獺(かわうそ)のよう、鏡の前で髪を櫛けずらせて、真珠のような歯、反った眉、鴨のような首、小さい上品な頭、丈は中背、歳は十五、細くて柔らかい指、太いお下げ、黒い干し葡萄や食べ物を口にすると、白い喉を通してそれらが透けて見える。そういう美しい娘を九千人引き連れ、工匠の中でも抜きん出た名人たちも連れて、贈り物を届けに、アンディジャンから逃げたアローケ老人をはじめ、みんなが来た。

昔からこういうことばがある、「槍を刺すなら折れるほどに刺せ。敵であろうとひとたび倒れたら、辱しめるな、心を安んじさせてやれ」と。まさにその通りに、バカイ翁とクィルグィル老(チャル)が〔マナス・〕バートゥルのもとへ行って、バカイ翁が言った。
「贈り物を受け取ってやれ、勇者マナスよ。異教徒であろうと、ハーンを戴く人民じゃ。昔から物をたんと持っておる人民じゃよ。クィタイ人であろうと、膨大な人民じゃ。握力の強い我が猛者よ、わしの言うことを聞き入れよ。奴らはついに恐れ入った。今はもう放っといてやれ、バートゥルよ」
賢いバカイがことばを継いだ。
「娘たちを贈り物に差し出したからには、〔クィタイ人を〕虐殺したらよろしくない。〔キルギス人の〕六ハーンを集めて、彼らと協議したらどうじゃな。相談しようぞ。あのクィタイ人どもを苦しませぬよう返事をしてやろうぞ」

獅子マナス・バートゥルはバカイの言った助言を受け入れた。腕の立つ匠をもらう者、望んで娘をもらう者、ひとこぶ駱駝をもらう老、人それぞれであった。食うや食わずだった者は金銀をもらい、〔みなが〕数えきれぬ家畜をもらった。クィタイ人とキルギス人が和睦したのち、アローケらはそれぞれの故郷へ散って行った。
カカンでは七十の城門を備える都市を七つ破壊して占領したという。クィタイ人の地へ来て、キルギス人が殺戮をやったという。十二か月が経って、一年と一月になったとき、彼らが撤退したという。短かからぬ、長い道のりを通って、ベージンから出たおびただしい〔キルギス人の〕軍勢が郷里へ帰ったという。

# by satotak | 2007-04-13 17:40 | キルギス |
2007年 04月 05日
マナス概観 -八部の叙事詩-
若松 寛訳「マナス 少年篇 ?キルギス英雄叙事詩-」(東洋文庫694 2001)より:

今日、中央アジアのキルギス共和国と中国とに分かれて住むキルギス民族に伝わる長篇英雄叙事詩『マナス』は、内陸アジア民族文学のあまたの星の中でひときわ光り輝く巨星である。中国では、チベット・モンゴル民族の『ケサル(ゲセル)』、モンゴル民族の「ジャンガル』とともに、三大史詩とたたえられる。

『マナス』は全部で八部、約20万詩行から成る。(注1)
第一部『マナス』は、八部の叙事詩の中で最も長く、5万余行あり、全叙事詩の4分の1の篇幅を占める(語り師ごとにその語る第一部『マナス』の長短は異なる。ここで指しているのは現代中国の大語り師ジュースフ・ママーイの語り本の行数である)。ここには、主人公マナスが誕生、成長し、そしてキルギス・ハーンとなり、自民族とその周囲の諸民族を結集して国を建て、外敵の侵略に抵抗する英雄的事跡が述べられている。それらの叙述を通じて、最も集中的に、かつ鮮明に歌い上げられているのは、クィタイ人(中国人)とカルマク人(西モンゴル族オイラト人)の侵略に対する反抗精神である。この部は他の七部に比べて最も早く発生し、最も古くから流伝してきた上、芸術的にも最も成熟度が高いことから、八部叙事詩中の核心部分とみなされている。
こうした理由から、他の七部にも個別の題名が付されているものの、八部全体が『マナス』と称されるのである。…

第二部『セメテイ』は、マナスの死後発生した内乱を述べる。マナスの遺児セメテイは母に連れられて異郷に避難する。彼は11歳の時故郷に帰り、のち政敵を滅ぼして、内乱を平定する。この部は芸術上独特な風格を備えており、とくにセメテイと仙女アイチュリョクとの愛情物語を描写する章は、現実と神話が入り交じり、人間と仙女が共同で暮らして、すこぶる浪漫的色彩に富む。

第三部『セイテク』は、セメテイとアイチュリョクの遺児セイテクが苦難の中で成長し、のちに父謀殺の犯人一味を討って、国を再建するいきさつを述べる。セイテクは外敵の侵犯もたびたび撃退する。この部も神話的・伝奇的色彩に満ちている。

第四部『カイ二二ム』の主人公カイニニムは、セイテクと仙女クヤルの子であり、天下無双の英雄である。彼は齢八千の蛇頭石身の妖怪を退治し、また民衆を苦しめる7人の巨人を討つ。

第五部『セイイト』の主人公セイイトは、幼い時から父カイ二二ムに従って南征北戦し、9歳で単独出征する。彼は凶悪な巨人カラドを打ち破ったのち、巨人に囚われていた民衆を解放する。「赤い沙漠の戦い」は叙事詩中の名場面である。

第六部『アスルバチャとベクバチャ』の主人公アスルバチャとベクバチャは、セイイトの双子の遺児である。兄アスルバチャは25歳の時沙漠で戦死したが、弟ベクバチャは兄の業を承け、勇士部隊を率いて外敵の侵入を撃退した。彼の足跡はチベット、モンゴル高原、中央アジア、アフガニスタンなどの地にも及んだ。

第七部『ソムビリョク』の主人公はベクバチャの子ソムビリョクで、幼い時に父母を失い、母方の叔父に育てられて成人する。彼は15歳で故郷に帰り、東征西戦して、侵入の敵を追い払い、勝利をかちとる。だが彼は敵に奇襲されて、24歳の盛りで陣没する。

第八部『チクテイ』の主人公はソムビリョクの遺児チクテイである。彼はカザフ人と共同して侵入のマングト人、クィタイ人を撃退するが、戦場で重傷を負ったのちに死去する。時に年21歳。彼は妻を娶らなかったので嗣子がなく、ここにマナス家は第八代子孫をもっ
て断絶する。

この八部の叙事詩には長短がある。ジュースフ・ママーイの語り本に拠れば、3万行を超えるものは四部あって、それらは第一部『マナス』(5万行)、第二部『セメテイ』(3.2万行)、第四部『カイニニム』(3.5万行)、第六部『アスルバチャとベクバチャ』(4.5万行)である。第五部「セイイト』、第七部『ソムビリョク』、第八部『チクテイ』、この三部叙事詩の主人公はいずれも20数歳で世を去り、事跡がわりと少ないため、各部1万行余りあるにすぎない。第三部『セイテク』は長からず短からず、中くらいの篇幅である(2.4万行)。

(注1) 英雄叙事詩「マナス」は勇士マナスの生涯をうたった作品であるが、彼の息子セメテイと孫セイテクについてうたった作品を含めた三つの作品を一括した「マナス大系」を「マナス」と呼ぶのが一般的となっている。
「マナス大系」のほとんどのヴァリアントはこの三部作からなるが、中国・新疆ウイグル自治区に住むクルグズの語り手ジュスプ=ママイは、マナス・セメテイ・セイテク・ケネニム・セイィティム・アスルバチャとベクバチャ・ソムビレク・チギテイと、マナス以後七代の子々孫々までを歌う。「マナス」は、類似するモチーフやエピソードが近隣の中央アジア諸民族に見られるものの、もっぱらクルグズにのみ伝わる民族叙事詩として知られている。
「マナス」の語り手はマナスチュといい、彼らによって「マナス」は語り伝えられてきた。とくに有名なマナスチュは、サグムバイ=オロズバコフとサヤクバイ=カララエフである。サグムバイは約18万行、サヤクバイは約8万行にもわたる「マナス」を語っている。先に触れたジュスプに至っては、20万行以上もの「マナス」を語るなど、その規模の大きさが「マナス」の特徴のひとつとなっている。
(「英雄叙事詩と「国家」-「アルパミシュ」と「マナス」を例に-」より)

# by satotak | 2007-04-05 21:49 | キルギス |