2007年 07月
トルガルト峠〜ソン・クル湖〜ビシュケク -もう一つのシルクロード- [2007-07-22 12:39 by satotak]

2007年 07月 22日
トルガルト峠〜ソン・クル湖〜ビシュケク -もう一つのシルクロード-
Nikolai Shetnikov “FROM TORUGART TO BISHKEK ALONG GREAT SILK WAY
("DISCOVERY Kyrgyzstan” #9/2007 Silk Road Co.,Ltd.)より:

かつて有名を馳せ、良く知られた存在であった大シルクロードが復活しつつある。遠い昔には荷物を積んだキャラバンが中国から北方に向けてのろのろと進んでいた。自動車が駱駝や馬に取って替り、今日では絹や宝石の替わりに中国からの消費物資が運ばれ、デルヴィーシュ(イスラム神秘主義者の修行者)や巡礼者が観光旅行者に替わったのは重要ではない。最も重要なことは、大シルクロードの精神が消失せず、古代都市の遺跡にそして現代の遊牧民の気分の中に維持されているということである。トルガルト峠(注1)に数年前「アーチ」が載せられて、峠を通る道は国と時代を映す鏡に向かう道のようでもあり…見違えるほどに変貌した。


[拡大図]

峠を越え、キャラバンで1日の行程のところに、タシュ・ラバト(テュルク語、「石の構造物」の意)という奇妙な石の構造物がある。今日まで、これを誰が、いつ、何のために建てたかについて、統一した見解は出ていない。この建造物は全くユニークなもので、世界中に類似したものがない。この建造物の建設時期は10世紀と15世紀の間のいつかである。しばしばこれが隊商宿(テュルク語で「キャラバンサライ」)であると言われている。学者の多くはこれを仏教寺院、あるいはキリスト教の修道院であると考えている。しかしそれが何であったかはそれ程重要でなく、より重要のことは、それがここにあり、昔と同じようにそこでの生活がずっと続いてきたという事実である。住民はこの場所を捨てなかった。ここでは、昔と同じように、様々な国々からの人々-旅行者、遊牧民、地元民 -キルギズ人- に会うことができる。遊牧民の円形天幕(テュルク語で「ユルト」)、テント、木綿製の様々な品物、食品、そしてここでの休息や更に続く旅に必要とされる物全て - それらをここで見出すことができる。

キャラバンの行程で次の主要な地点がコショイ・コルゴン(テュルク語、「英雄コショイの丘」の意)という要塞であった。この要塞跡の直ぐ近くに現代の村(テュルク語で「アイル」)カラ・スー(テュルク語、「黒い水」の意)が位置している。残念ながらこの要塞の昔の名前は知られておらず、今ではキルギスの伝説的な英雄マナスと共に戦った同志にちなんだ名前が付いている。この要塞はかつては大きな都市 −6世紀から8世紀にかけてのテュルク族ハーン国の根拠地− であった。

現代の本道はここからナリンに向かうが、昔のキャラバン・ルートはおそらくアトバシ川に沿って進み、ナリン川を越え、そしてケクジェルティ川とソンケル川沿いに遡り、ソン・クル(テュルク語、「最後の湖」の意)湖(注2) に達するものであったろう。ここにこの見知らぬ土地を最初に発見した商人と旅人達の昔の集落があった。ソン・クル湖の美しい渓谷を昔の旅人が気付かずに通り過ぎることはできなかった。テュルク族貴人の埋葬塚 -古墳- があり、そこからこのことの証拠となる陶磁器の工芸品が発見された。キャラバンが長期に休息できる場所として、ここに大きな町があったことに疑問の余地はない。

さらに、キャラバン・ルートが川の渓谷と山の峠を通って、北方に延びていた。およそ3-4日後にキャラバンはスイエ(スイアーブ)の町に着く。ここは7世紀から12世紀に、西突厥、テュルギシュそしてカルルク各ハーン国のかつての首都であった。今は近くにアク・ベシムという村がある。「この町は周囲6-7里。様々な国から来た商人とフー人(ソグド人)がこの町に一緒に住んでいた。スイエの西隣にはいくつかの町があり、それぞれの町に首長がいた。これらの町は互いに独立していたが、テュルク(突厥)に服属していた。」 西暦630年にスイアーブを訪れた中国の旅行者三蔵がこのように記している。(注3) 現在では、アク・ベシム集落として知られる都市の遺跡が残っているだけである。この集落の範囲内で、二つの仏教寺院、一つのキリスト教教会、複数の日干し煉瓦の建物、そして様々な家庭用品が見付かった。

三蔵が記したように、スイアーブの西方30kmの地点(現代のクラースナヤ・レーチカ村)に大シルクロード上で最も大きい町であったナヴァーカートの遺跡がある。たまにこれが中央アジアのノヴゴロドと言われることもあるが、ほとんどの科学者はクラスノレーチェンスコエ集落と呼んでいる。この都市は最初ブハラやサマルカンドからの移住者によって6世紀にソグド人の交易所として設立され、12世紀まで存続したものである。商人だけでなく、様々な宗教の宣教師がソグド人に続いてここにやって来た。拝火教徒 -ゾロアスター教徒- の教会が建てられ、仏教寺院、そしてネストリウス派キリスト教徒の教会も始まった。これら宗教の教会に関係する品々(ソグド人の陶磁器製小型棺 -アッスリアス- 、ネストリウス派信者の短剣、高さ12mの仏像)、そしてコインや家庭用品など非常に多くの物が発見されており、これら全てがこの都市の過去の繁栄と力を示す証拠である。また黄金の駱駝がこの都市に埋葬されたという伝説もある。誰が、何故、何のために、駱駝を埋葬したかを誰も知らない ? しかし埋葬の事実に疑問の余地はない。

クラスノレーチェンスコエ集落の西方およそ35km、現代のビシュケクの領域内に、6世紀から14世紀までテルサケントという都市があった(この名前は「背信者の居留地」または「キリスト教徒の都市」という意味のペルシャ語に由来する)。ネストリウス派信徒の銘文のある短剣と墓碑銘 -カイラク- を伴う墓石や銀と青銅のコインが発見されたが、これらは13世紀から14世紀のものであり、テルサケントの存在を証明している。歴史家は、キルギスの英雄叙事詩「マナス」の中に「タルサ」という民族が存在していたことに気付いていた。

数多くある大シルクロードのキャラバンルートの一つに沿った短い旅によって、中世の民族と歴史的展開についてこの上ない重要性を理解することができる。テュルク帝国と中国帝国、チンギスハーン、アラブ人のイスラム戦争を見た − これら全てを大シルクロード沿いの町々は切抜けて生きてきた。大シルクロードが存在した当時、時代や民族がこれらの町々を抑圧することはなかった。これら都市の消失を引き起こしたのは、唯一中国からヨーロッパに至る海路が発見されたがためである。

大シルクロードが再び生き生きとしてきた。新しい都市が昔の町の近くに生まれつつある。交易、交渉そして友好関係という理念が再び、かつて古いキャラバンの道が通っていた国の人々の主要な行動指針となってきた。そしてそれが永遠に未来に向かう道であることを信じようではないか。

(注1) トルガルト峠:標高3,752m。南に170kmほど下ると、中国新疆ウイグル自治区西端部の中心都市カシュガルがある。

(注2) ソン・クル湖:キルギスのほぼ中央、ビシュケクの南南東約120kmのところにある湖。標高3,016m、長さ29km、幅18km、深さ13m、面積278ku。キルギスでイシク・クル湖に次ぐ大きさの湖だが、イシク・クル湖とは違って淡水湖であり、9月から6月まで氷が張る。年間の平均気温約-3.5℃、夏季は約11℃。冬は気温が-20℃まで下がり、200日間ほど雪がある。
エーデルワイスなどの高山植物、カモミル、ヤマヨモギなどのハーブ・薬草類が豊富で、カモメ、カモなどの水鳥、シカ、マーモットなどの動物を見ることができる。
湖の周りには4,000m級の山々に囲まれた広大な高原が広がっており、馬、牛、羊の夏の放牧地になっている。
湖畔には民宿風のユルタ(フェルト製の円形天幕)があり、旅行者が利用できる。
(Lake Son-Kul, KyrgyzstanSonkul Lake参照)


(注3) 「城の周は六、七里ありて、諸国の商胡は雑居せり。…素葉已西に数十の孤城あり。」と『大唐西域記』にある。


# by satotak | 2007-07-22 12:39 | キルギス |


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