2007年 10月
ブハラを去る人々 -ウズベキスタンのユダヤ人- [2007-10-26 11:41 by satotak]
シベリアの民族 -サハ共和国(ヤクーチア)- [2007-10-18 15:41 by satotak]

2007年 10月 26日
ブハラを去る人々 -ウズベキスタンのユダヤ人-

NHK編著「新シルクロード 激動の大地をゆく<上>」(NHK出版 2007)より(筆者:矢部裕一):

◆中世シルクロードの都
…ウズベキスタン西部に位置し、世界遺産にも登録されているブハラは、中世シルクロードの面影を今も色濃く残している街です。…
しかし、そうしたイスラム建築の遺跡以上に中世の雰囲気を濃厚に感じさせてくれるのが、ブハラの旧市街です。
普通の人々が今も暮らしている旧市街は、迷路のように入り組んだ細い路地の両側に白い壁がどこまでも続いていて、その中に入り込むと、急に静寂があたりを覆い、時間がゆっくりと流れていくように感じられます。
この旧市街にある人々の住む家は、およそ100年から150年前に建てられたものが多いと聞きました。
中を見せてもらうと、壁や天井にはおそらくイスラムに由来していると思われる色鮮やかな模様が描かれています。
こうしたこの地方の伝統的な建物は、私たちから見ればそのまま遺跡といってもよいようなものですが、その古い家でブハラの人々は当たり前のように毎日の暮らしを送っています。

◆ブハラのユダヤ人
ブハラの強い日差しに照らされて反射する白い壁に沿って、ひと気のない路地をしばらく歩いているうちに、意外なものを見つけました。
ユダヤ教の礼拝所、シナゴーグです。
ブハラには昔から、そして今も、ユダヤ人が暮らし、コミュニティーを作ってきました。今でも、ブハラに住むユダヤ人が毎朝そのシナゴーグに集まり、礼拝を行っているといいます。
シナゴーグを見て意外と感じたのは、きっと私たちが、ブハラを中世におけるイスラム文化の中心地であったとする観光ガイド的な認識にとらわれていたからでしょう。…
しかしブハラの人々にとってみれば、旧市街の片隅にシナゴーグがあることは何も意外なことではないはずです。何故なら、ブハラは何世紀も昔から、様々な土地から様々な民族がやってきては住み着いてきた、まさにシルクロード的な街だったからです。

ブハラは、パミール高原に源を発するザラフシャン川によって形作られる豊かなオアシスでした。東は中国、北はロシア、西はヨーロッパ、南はインドというように、長い歴史にわたってユーラシアの東西南北を結び、大陸を行き交うキャラバン隊の重要な拠点になってきました。
その結果、ユーラシアの各地から交易を通じて様々な民族がやってくることになったのです。

…そして、今もこの街に暮らす様々な民族こそ、ブハラがシルクロードの要衝だった何よりの痕跡といえるかもしれません。
イラン人、アラブ人、ロシア人、そしてユダヤ人。
ユダヤ人は、おもに13世紀頃、イランやアフガニスタン経由し、シルクロードをたどって中央アジアにやってきた交易商人の末裔といわれています。

◆民族が共存する街
その昔、旧市街の中でユダヤ人は自分たちの居住区を作り、ウズベク人やタジク人などのイスラム教徒とは混住せずに暮らしていたといいます。
しかし、同じ旧市街の中でわずかに細い路地を隔てて共に暮らしていくうちに、いつからかお互いの文化や習慣が混じり合っていったようです。
ウズベク人やタジク人の女性は、伝統的に眉がつながってみえるような化粧をすることで知られています。ブハラでは、高齢のユダヤ人女性も、ウズベク人やタジク人と同じように眉をつなげる化粧をしています。若いユダヤ人女性でも、結婚式には同じように眉をつなげるのだと聞きました。

…もちろん宗教的なことはそれぞれお互いに大事に守っているし、イスラム教徒とユダヤ人が結婚することはないといいます。
それでも、ソ連時代の70年を経たせいか、今ではユダヤ人が住むエリアとウズベク人、タジク人などのイスラム教徒が住むエリアが、線引きできないほど混じり合うようになっています。
そして、お互いに隣人として普通の近所づきあいを続けています。…

◆ブハラを去るユダヤ人
しかし、ブハラで垣間見たユダヤとイスラムの共存の姿も、実はだいぶ前から状況は大きく変わってきていました。
ブハラのユダヤ人の多くが、街を去っているのです。
ブハラを去ったユダヤ人は、そのほとんどがイスラエルとアメリカに移住して行ったといいます。

かつて、ブハラにどのくらいのユダヤ人が住んでいたのか、その正確な数字を求めるのは難しいのですが、少なくとも2万人のユダヤ人がこの旧市街を中心に暮らしていたといわれています。そして、私たちがブハラを訪れた2006年時点で、ブハラに住むユダヤ人はおよそ150人ほどに激減していました。…
いつ頃、ブハラからユダヤ人が去っていったのでしょう。
ユダヤ人の移住の大きな波は、1980年代以降、ふたつあったといいます。

ひとつ目は、ペレストロイカの時代である1980年代末です。
この時期、ペレストロイカによって、ユダヤ人がソ連からイスラエルやアメソカに移住することが、それまでより容易に認められるようになりました。そのため、ソ連に留まるより豊かな西側での暮らしを求めて、大勢のユダヤ人が移住していきました。

◆ウズベキスタン建国とマイノリティー
ふたつ目の移住の波は、ウズベキスタンが建国した1991年以降の数年間に起こりました。なぜ、この時期に再び大勢のユダヤ人が移住していったのかについては、いくつか理由が指摘されています。

ひとつには、経済的な理由があります。
独立後、ウズベキスタンもまた経済混乱に襲われていたため、もっと豊かで安定した生活が送れるところを求めて、ユダヤ人が移住していったといわれています。
もうひとつの理由として指摘されているのは、ウズベク人の民族意識の高揚がユダヤ人の移住の背景にあったということです。
ソ連が崩壊しウズベキスタンが誕生したことで、ウズベキスタンはウズベク人の国であるという認識が人々の間にゆっくりと浸透していきました。ウズベキスタン政府もまた、そうしたウズベク人の民族意識を高めるため、教育の現場などでウズベク人の民族の誇りを形成させるような歴史教育を行ってきました。

建国以降のこうした動きの中で、ウズベク人以外の民族は、自分たちがこの国ではマイノリティーになってしまったと感じはじめたといいます。
この感覚はとても微妙なもので、国がウズベキスタンになったからといって、あからさまな差別が急に行われるといったことは、少なくともブハラでは、ほとんどなかったといいますし、それまで隣人として親しく付き合ってきたウズベク人、タジク人とユダヤ人との人間関係も、ほとんど変わることなく続いていたといいます。
それでも、それまで同じソ連の国民として、まったく同じポジションにいた人々の間に、少しずつ段差のようなものが生まれ始めていったようです。
そして、この民族共存の長い歴史を持つブハラでさえ、ユダヤ人が住みづらいと感じるような空気が、かすかに少しずつひろがっていったといいます。

◆ユダヤコミュニティーの崩壊
…B&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)と呼ばれる小型のホテルが、旧市街の至るところにできていました。
中を見せてもらうと、100年前の伝統的な家の装飾をそのまま残した、雰囲気のある造りになっています。泊るのはブハラを訪れる観光客で、そうした歴史を感じさせる部屋が観光客の人気を集めているといいます。こうしたホテルのほとんどが、元はブハラを去っていったユダヤ人の家なのだそうです。
本来、普通の人々の普通の生活の場だったブハラの旧市街も、こうやって櫛の歯が欠けていくように、少しずつ観光地とされていくのかもしれません。

何人ものユダヤ人の話を聞いて歩くうちに、分かってきたことがありました。
今、ブハラに残っているユダヤの人々も、そのほとんどがいずれブハラを去ろうと考えているのです。まだブハラに留まっているのは、意識的に故郷を離れないようにしているのではなく、主に経済的な理由で仕方なく残っているのであって、家が売れ次第、あるいはお金が用意でき次第、すぐにでもイスラエルやアメリカに移住したいと考えている人がほとんどです。
彼らに、どうして移住したいと思っているのか、その理由を尋ねると、ここまでユダヤ人の数が減ってしまうと、ブハラはもうユダヤ人の暮らす場所ではなくなってしまったから、という答えが返ってきました。
長い歴史の中で綿々と続いてきたブハラのユダヤ人のコミュニティーは、すでに崩壊しつつありました。そして、その流れが逆戻りすることはおそらくありえないだろうと、ユダヤの人々の話を聞いていると、思えてきました。…

◆失われる共存
そう遠くない将来、ブハラのユダヤ人はおそらく一人もいなくなるでしょう。
それが、ブハラに残るユダヤの人々の話を聞いて歩いた私たちの率直な感想です。
数世紀にわたって、イスラムとの共存を当たり前のように実現してきたブハラのユダヤ人が、今ゆっくりと、静かに、人知れず消えようとしています.
シルクードによってもたらされた豊かな世界が、ここでは失われようとしているのでした。

それまでソ連の一部だったウズベキスタンがひとつの国として独立したことで、新たに国境が生まれ、ウズベキスタンという国家の独自の歴史が語られ始め、その民族の誇りが強調されていきました。そうやって国の輪郭がせり上がっていったことによって、シルクロード的世界が逆に寸断されてしまったようです。
ユダヤの人々が見えない境界線によって隔てられ、移住を余儀なくされているよう思えてきました。
かつての豊かなシルクロード的世界を象徴していたブハラのユダヤ人が、今、終焉を迎えようとしています。

# by satotak | 2007-10-26 11:41 | 民族・国家 |
2007年 10月 18日
シベリアの民族 -サハ共和国(ヤクーチア)-
黒田 卓・他編「中央ユーラシアの民族文化と歴史像」(東北大学東北アジア研究センター 2003)より(筆者:イグナティエヴァ・ヴァンダ):

■ サハ共和国の地理的特徴
アジア大陸の東北部分に位置するロシア連邦サハ共和国(ヤクーチア)の面積(北極海に位置するノボシビルスク諸島も含む)は310万3200平方キロメートルであり、全ロシアの18%以上に及ぶ。その領域の40%以上は北極圏に含まれている。
共和国の南北間の距離は2000?、東西間の距離は2500kmである。…ヤクーチアの領域には3つの時間帯があり、モスクワとの時差は+6〜+8時間である。


[拡大図]

■ 諸民族の歴史と文化
ロシアの植民地化が開始されるはるか以前から、ロシアのレナ地方(ユーラシア大陸東北部に対する旧称)にはさまざまな原住諸種族および諸民族が暮らしてきた。彼らは何千年にもわたってこの地域に適した生業適応を行い、ほぼすべての領域に進出してきた。ある専門家によれば、さまざまなかたちで分布している先住民族の経済・文化類型は、ホモサピエンスとしての人類の極北環境への適応メカニズムとしてだけではなく、「自然地理および社会経済的過程における社会と自然の相互作用と動態的な均衡の結晶」として理解すべきものである。

・ユカギール
種族としてのユカギール(自称はヴァドゥル、オドゥル)は、レナ川下流からアナディール川にかけての広大な領域に暮らしてきた。…
ユカギールの民族起源は、紀元前2〜1千年紀の考古学上のウスチ・ミール文化と関係する独自の種族が関わったといわれている。
ユカギールの主要な生業は、半遊動ないし遊動的な狩猟である。ツンドラにすむグループは主として野生トナカイが、タイガにすむグループは野生トナカイの他にヘラジカ、シベリアビックホーンが主な狩猟対象だった。季節に応じてさまざまな生業に従事していた。夏には鳥の卵の捕獲、秋には漁労、冬には毛皮獣狩猟という具合である。彼らはトナカイを飼育していたが、それは主として交通用であり副次的な位置にあった。それ以外に橇牽引及び狩猟用にもちいる犬も持っていた。17世紀の前半のユカギール種族の人口は、いくつかの説があるが、おおよそ5〜9千人だったといわれている。

・チュクチ
チュクチは自称をリグオラベトルアンといい、チュコト自治管区と北レドヴィト海沿岸に住んでいる。
チュクチもその中に含まれる北東パレオアジア種族形成に関与した古い基層文化は、新石器時代後期のヤクーチアに現れるウミィヤフタフ文化と関係しており、その担い手が後になってユカギールの祖先をなす集団を同化したといわれている。
チュクチの生業の特徴は大きく二つある。一つは「チャウチュ」と自称する人々によるツンドラのトナカイ遊牧であり、もう一つは「アンカリン」による定住的な狩猟と海獣狩猟である。前者はトナカイ・チュクチとも呼ばれ、家畜トナカイの群れとともに一年を通して、アラゼイや川、コリマ川、シェラグスキ岬、ベーリング海峡に至る領域を遊動する生活を送っていた。その遊動パターンはツンドラ地帯から、東シベリア海・チュコト海・ベーリング海の沿岸に移動し、戻ってくるというものであった。これに対し沿岸に定住し、海獣狩猟に従事するいわゆる海岸チュクチが暮らしていた場所は、デジュネフ岬からクレスト湾さらにアナディール川とカンチャラン川下流域にかけてであった。彼らは春及び冬にはアザラシを、夏から秋にかけてはセイウチや鯨を捕獲した。17世紀末のチュクチの人口は8〜9千人だったと考えられている。

・エヴェンキ
すでに5〜7世紀に中国の記録に「奇」として知られ、かつてツングースとよばれたこの民族が暮らしていた地域は巨大な領域に及ぶ。西はオビ川、エニセイ川から東はオホーツク海にいたり、南は中国東北部から北はエニセイ川とレナ川に挟まれたツンドラ地帯までだからである。エヴェンキには数多くの自称をもった地域集団があり、…
エヴェンキは東シベリアに原住したさまざま種族つまり、ユカギールやプリバイカル及びザバイカル地方のツングース・満州系の種族が混じり合って10世紀頃に民族が形成された。
エヴェンキは地域によってそれぞれさまざまであるが、主として三つの生業文化に分けることが可能で、徒歩エヴェンキ・トナカイエヴェンキ・馬エヴェンキと呼ばれる。徒歩エヴェンキの多くはタイガの狩猟民であり、トナカイ・ヘラジカ・ノロ・ジャコウジカ・シベリアビックホーン・オオヤマネコ・クズリ・オオカミ・クマなどの獲物を求めて常に移動する生活であった。生活のために重要な狩猟を行うため、その移動手段として騎乗及び駄載トナカイも用いていた。後には毛皮獣であるクロテン・キツネ・リス・オコジョ・北極キツネもその対象となった。トナカイエヴェンキは、家畜トナカイの新しい放牧地を求めて移動を繰り返す遊動生活を送っていた。家畜トナカイの群れは通常25〜30頭ほどで、彼らは夏には分水嶺に赴き、冬には川沿いに移るという移動パターンだった。馬エヴェンキは、ザバイカル地方南部そして中国(大興安嶺の支脈)やモンゴル(イロ川上流及びブイルーヌル湖付近)と接する地域にくらしていた。彼らは定住的生活を行い、さまざまな家畜を飼っていた。上記の分類とは別に、プリバイカル地域及びザバイカル地域南部、ヴィルイ川上流、さらにオホーツク海沿岸には漁労を中心とする集団もあった。

・エヴェン
かつてラムート諸種族と呼ばれた人々(自称はウヴン)は、エヴェンキの分布域から北東に広がる領域、つまりベルホヤンスク山脈の支脈、コリマ川・インジギルカ川・オモロン川の各流域、オホーツク海沿岸で暮らしてきた。エヴェンはその内部に複数の集団があり、それぞれ名前をもっており、…
エヴェンの民族起源は、ツングース・満州系の諸種族と関係しており、紀元1世紀頃アンガラ川及びアムール川の中流から下流域から現れた人々が、ヤクーチア北東部地域に住んでいたユカギール系の文化を持っていた人々と混合して成立したといわれる。
エヴェンの生業複合の特徴は、漁労や毛皮獣狩猟をともなう遊動的トナカイ飼育あるいはタイガでの半遊動的狩猟である。彼らの中には定住的あるいは半定住的生活を送っていた集団もおり、そこでは海獣狩猟や河口での漁労が中心だった。専門家によれば、18世紀初頭エヴェンとエヴェンキをあわせた人口は8〜9万人だったといわれている。

・サハ (注1)
レナ地方の主要な住民はサハ(自称はサハ、ロシア語による名称はヤクート)であった。彼らは中世初期の時代に南シベリアのモンゴル・テュルク系種族が中心とし、主としてツングース系諸種族を同化して形成された民族である。なおサハの民族構成要素としてサモディ一系の要素をも含まれているという仮説もある。
伝統的にサハの多くはアムガ川とレナ川の間の領域、及びヴィルイ川流域に暮らしてきた。またそれほど多くはないがオレクマ川河口付近やヤナ川上流域にも住んでいた。サハは35〜40の外婚制集団(種族)に分けられ、それぞれ地域ごとに独自の自称を持っている。…
サハの伝統的生業は、馬群による馬飼育と牛飼育それに集団漁労、マツやカラマツの伐採、さまざまな根や植物(ベリー類も含む)の採集である。北方に住むサハの中にはトナカイ飼育を行っていた集団もいた。さらにタイガに住む動物――クマ・ヘラジカ・トナカイ・ウサギ・鳥類などを対象にする狩猟も副業的な意味として広く行われていた。さらに、リス・キツネ・クロテン・北極キツネなどの毛皮獣猟もあった・特徴的なのは手工業が発達していたことである。鍛造・木材細工・貴金属細工・陶器制作などがこれにあたる。

・ドルガン
ドルガンは民族自称を、ティアキヒあるいはサカといい、19世紀後半に主として4つのツングース系種族であるドルガン、ドンゴト、エジャン、カラントから形成された民族である。さらに北方サハ・エネツ・ネネツ・「ツンドラ後方の農民」と呼ばれたタイムィール地方の先住ロシア人といったさまざまな民族の一部もドルガンの形成に加わった。彼らの多くはタイムィール半島に暮らし、さらにアナバール川沿岸にも数は少ないが住んでいた。
彼らの生業複合は、トナカイ飼育、狩猟、漁労から成り立っている。そのなかで最も重要なのはツンドラ型トナカイ飼育である。ドルガンのトナカイ飼育では、他の先住民と比べてそれほど長い距離にわたる季節移動は行わなかった。夏季はツンドラに赴き、冬には森林ツンドラに移動したからである。狩猟の主な対象は野生のトナカイであり、これ以外に春には水鳥やライチョウが、秋にはカモ類が狩られた。毛皮獣狩猟についていえば、キツネ・オコジョ・赤キツネが捕獲された。ハタンガ川流域やツンドラに数多く点在する湖では漁労も行われた。

17世紀初頭には、レナ地方に住んでいたさまざまな種族や民族は上記のようなかたちでそのほぼ全域にわたって分布していた。古い時代から、このレナ地方においてさまざまな民族の移入・混合があった。その結果、現在にいたるような民族起源と民族文化の特徴をもつエスニック集団が形成されたのであった。

■ ロシアの植民地化と社会主義、そして現在
17世紀の最初の四半世紀に、レナ地方は「経済的領域」として征服されロシアの一部となった。この時代から現在のヤクーチアの領域は明確になり、ロシア人を主とする東スラブ系住民の人口が増え始めたのである。彼らは当初、行政府・軍隊・宗教組織で働く人々あるいは商人であったが、後には農民も入植するようになった。ロシア人は定住のための入植拠点つまり要塞や柵そしてヤサク(毛皮税)取り立てのための冬営地といったものの建設を急速に進めた。それらは先住民にとってみると、ヤサクを規則的かつ組織的に取り立てるための場所でしがなかった。
公式文書資料によれば、17世紀の後半にロシア人初期植民者が建設した入植拠点は20を越えていた。レナ要塞、オレクマ柵、チェチュイ柵、さらに21にも及ぶヤサク冬営地、… 入植拠点は時代によって場所を変える場合もあり、その総数はしばしば変わったが、そうした状況は入植が至るところで頻繁に行われていたことを示している。
17世紀から19世紀にかけてのヤクーチア領域における経済植民地化の結果、東スラブ系住民がまとまって暮らす状況を生み出した。後に、彼らは比較的均質的な民俗的特徴をもつ先住ロシア人となった。中央ロシアとヤクーチアは地理的に離れており、また彼らは当初少数であったこと、さらに厳しい自然−気候条件下で新たな生活を送るための適応が必要だったこと、それらの理由によって、これらロシア人の伝統的民俗文化は変容し、彼らが移り住んだ地方的・北方的変種が形成されたのである。入植者達の民俗文化適応の過程は一方的なものではなかった。文化複合の変容は先住ロシア人だけでなく、同時にヤクーチアの先住民にもおよんだ。後者もまた顕著な文化伝播の影響を受けたのだった。
ヤクーチアがロシアに組み込まれてから常に入植者及び先住民の人口は変動してきた。植民地化がすすむなかで次第に進んだことは、もともと存在した歴史・文化的領域の範囲が狭まったことである。疫病・家畜伝染病・大規模な飢餓が頻繁に起きたため、住民の人口は大規模に減少した。19世紀の間にかつて数千の人口がいた諸種族は次のような状況になった。19世紀末においてユカギールは948人、チュクチは1558人、エヴェンとエヴェンキは11647人であり、ヤクーチアにおける彼らの比率は全部あわせて5.3%だったのである。この地域で人口の点で優勢であったサハ(19世紀末には22万1500人おり、ヤクーチアの人口の82・1%)の影響のもとで(他の民族を取り込む)同化が進行したことも、ヤクーチア人口の展開に大きな影響を及ぼした。
1897年ロシアにおける最初の国勢調査が行われたが、ここからわかるのは、当時行政区分として存在したヤクート州における民族構成の多様化が進行し、ロシア帝国の他の県から移民が流入していたことである。国勢調査の分析からは、ヤクーチアでは新たに現れた42の言語及び方言が分類され、それに対応して42の種族・民族が存在していたのである。国勢調査後ロシア帝国の民族構成は、言語によって確定されるようになった。帝国において最も人口の多いロシア人(この場合、3つの東スラブ系民族つまり、大ロシア人・小ロシア人・白ロシア人が統合された総称)は、ヤクート州においては3万600人で、彼らの割合は11.3%だった。他の諸民族の人口および割合はいずれもきわめて小さいものであった。
ヤクーチアの新たな住民達の多くが住み着いたのは、当時金鉱山があったオレクマ管区で、ここには最も多い81.6%が集中していた。二番目に多かったのは14.8パーセントが暮らしていたヤクーツク管区で、ここにイルクーツク−ヤクーツク間に多数あった郵便・交通のための宿駅――これらを経営していた初期のレナ地方への入植者の子孫達、農業を行うために入植した農民が暮らしていた。
1920〜30年代には大規模な移民が押し寄せていた。これは、当時のヤクート自治共和国での産業開発が原因である。こうした傾向は1960〜80年代にかけて雪崩のように強まり、この地域の民族構成の動態に著しい影響をもたらした。1989年に行われたソ連最後の国勢調査によると、自治共和国には116の民族が登録された。とはいえ、この数字にはソ連の公式民族リストに含まれない12の民族が除外されている。
過去40年の間に、ヤクーチアの有力な民族はロシア人となった。文字通り人口の点で50.3%を占めていること、またソ連全体の民族階層のなかでの位置付けという二つの意味において「有力」なのである。ヤクーチア先住民及びロシア人を除いた他の民族は合計で14.1%であり、このうち8.0%はウクライナ人とベラルーシ人であった。つまりヤクーチア先住民を除いて、ヤクーチアに暮らす民族の大半(90.5%)は東スラブ系の住民となったのである。…
1959年から1989年にかけてのソ連国勢調査が示しているのは、20世紀の中葉はヤクーチア先住民にしてみると危機的な人口発展の始まりだったということである。つまり移民が入ってくることは、自治共和国におけるヤクーチア先住民の人口比を著しく下げたからである。1989年の国勢調査では、ヤクーチア先住民の人口比は35.6%でしかなかった。その内訳は、サハ人が33.4%、エヴェンキ人が1.3%、エヴェン人が0.8%、チュクチが0.1%となる。ヤクーチア先住民の人口減少が進んでいることに対し、「シベリア少数民族」の代表者達は、100年前と同様に深刻な懸念を表明している。

■ 住民の人口構成
2000年1月1日現在で、サハ共和国(ヤクーチア)の人口は988,600人である。膨大な面積であるにもかかわらず、ヤクーチア領域はここ100年間において人口密度は低い。20世紀の初頭および末いずれにおいても、平均人口密度はロシアのヨーロッパ部と比べて10分の1程度である。ヤクーチアを構成する行政区ごとに人口密度の分布をみてみると、居住のパターンは一様ではないことがわかる。居住に影響するのは、自然・気候的および経済的な要素である。農業生産において比較的好条件のメギノ・カンガル郡、…そのほか工業生産と交通網の整備が進んだヤクーツクやニュールングリの都市管轄区においては人口密度は高く、1平方キロメートルあたり1.2〜2.8人である。人口分布は不均等であり、最も人口密度が低いのは、極地気候帯にあり生活および生産活動に好条件とはいえない地域つまり、オレニョク郡、…ここでは1平方キロメートルあたり0.01〜0.08人である。上記以外の共和国郡における人口密度は1平方キロメートルあたり0.1〜0.9人という具合である。

ソ連崩壊とその後の政治社会的不安定によってもたらされたのは、労働移民が大量に発生し、彼らがサハ共和国へとやってきたことである。また広範囲にわたる大規模な経済改革等が行われる際に十分な熟慮がなさなれなかったため、極北地区にすむ住民に対してはその恩恵がわずかな形でしか及ばなかった。それゆえ最近では移民流入型から移民流出型へとヤクーチアはかわってきた。
いうまでもなく、移民の存在はサハ共和国の民族構成動態に大きな影響を与えている(表参照)。第一にここ40年間をみてみると、サハ人の比率が大きく伸びている。サハ人は他の民族と比べて、常に相対的に高い出生率をともなう自然増加という特徴がある。それに対応するようにロシア人の比率は減っている。減少した部分の大半はヤクーチアから出て行った人々である。その結果、サハ人とロシア人の間の人口比率差は1989年において16.9パーセントだったのが、1996年には8.1パーセントとほぼ二分の一になった。
第二点としていえるのは、これまでにはそれほどみられなかったことであるが、北方・シベリア・極東地方の少数民族さらにカフカス・ダゲスタン、中央アジアおよびカザフスタンの諸民族の人口が恒常的に増加していることである。…
第三にロシア連邦外に民族的故地をもつ民族の人口が増加していることである。…外国からの移民でヤクーチアの民族構成に大きな比率を占めるのが中国と北朝鮮からの人々である。こうした外国移民の流入やロシア人やヤクーチア先住少数民族の流出といった状況を背景として、中国及び北朝鮮からの移民数の増加は…むしろ近い将来において新しい民族政治の実態を生み出すことになろう。
今後その状況がどのように展開するか、さまざまなバリエーションを分析しておく必要がある。

(注1) サハ:ヤクート[人] Yakut
東シベリアのサハ共和国(ソ連時代はヤクート自治共和国)に暮らす民族。自称はサハSakha。総人口40万8000(1996)。ヤクート(サハ)語は、チュルク諸語に属するが、長期にわたるツングース語、モンゴル語との接触の結果、音韻・語彙・部分的には文法にいたるまで、他のチュルク語とはちがう特色をもっている。これはヤクート人の民族的形成の過程を反映している。考古学者A.P.オクラドニコフは、ヤクート人の中核がバイカル湖付近に住んで牧畜に従事した骨利幹(クリカン)であって、14〜15世紀にモンゴル人に圧迫されてレナ川中流部に移ったと主張している。
1620-30年ごろからこの地域に対するロシア人の植民地化が始まり、ヤクート人にヤサク(毛皮による現物税)を課した。彼らの伝統的生業は馬を中心とする牧畜であり、半遊動的生活を送っていた。19世紀以降、牛飼育の比重が高まり、さらに農耕も行われるようになった。シャマニズムが伝統的信仰であるが、18世紀後半以後、多くがロシア正教へ改宗した。1917年の十月革命と30年代の農業集団化によって、ヤクート人の生活様式は大きく変わった。農村部における定住生活が確立されると同時に、都市部において労働者・技術者・知識人が出現したからである。ソ連崩壊前後から、伝統文化および民俗信仰の復興、歴史の見直しが社会現象となり、ナショナリズムが顕在化するようになった。共和国名に、ソ連時代の〈ヤクート〉に代えて民族自称である〈サハ〉を掲げるようになったことはその現れである。
(川端香男里・他監修「[新版]ロシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:加藤九祚+高倉浩樹))

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