2008年 02月
草原の道 風の民 -「歴史」の痕跡- [2008-02-05 12:49 by satotak]

2008年 02月 05日
草原の道 風の民 -「歴史」の痕跡-
「NHKスペシャル 新シルクロード2」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一):

…東はモンゴル草原から西は黒海北岸の南ロシア草原まで、7500キロにおよんでユーラシア大陸に横たわる草原地帯があり…、それらの草原を「草原の道(ステップ・ロード)」と総称します。
これは、東西交易路であるシルクロードのひとつで、砂漠のオアシスをつなげるオアシス・ロードより歴史的に古くから確認されていて、紀元前5世紀に記されたギリシャのヘロドトスの歴史書に、すでにその存在が記述されています。しかも水や草があるため馬の移動に適していて、ラクダに乗るよりはるかに速く旅することが可能でした。

この「草原の道」の存在が、あまたの騎馬遊牧国家――スキタイ、匈奴、突厥、モンゴル、ジュンガル――がユーラシアの広い地域を支配することを可能にし、時に広大な世界帝国を出現させる要因となって、ユーラシアの歴史そのものを動かしてきました。特に、ユーラシア大陸に横たわる「草原の道」の中でも、中国の天山山脈はそのほぼ中央に位置し、ヨーロッパ世界と中華世界を結ぶ上で重要な場所でした。
この天山山脈北麓の草原地帯(天山北路)をたどりながら、その土地土地に残っている騎馬遊牧民の歴史の痕跡を撮影していこうというのが、私たちの取材の眼目なのです。…

[拡大図]

遊牧民〜近代国家
ユーラシア内陸部が清朝とロシア帝国に割拠されていった時代は、また国というものが近代国家としての条件を整えていく時代でもあったようです。
国民からすべからく徴収する税金と兵役を近代国家システムの大きな要素と考えるなら、それは、国民があるひとつの住所に定住し、国が国民をひとりひとり把握しうることを暗黙の前提としています。ところが遊牧民というのは、決まった住所というものを持たず、その年その年によって、またその季節によって、気温や天候に左右されながら草を求めて移動していきます。

その移動は全く自由に行われているわけではなく、ある季節にある部族が使える牧草地は代々決まっているそうなのですが、それでも例えば大規模な雪害などがあると、遊牧民は国境すら越えた大移動を行ったりもしてきました。こうした遊牧民の流動性というものは、国民全員から徴税と徴兵を行うことを基礎とする近代国家の成り立ちにそぐわないともいえます。特に清朝の時代は、ロシア帝国と清朝の間で国境線を巡って緊張が続いていたのですから、そんな時期に遊牧民に自分の都合で国境線を行ったり来たりされては、国としても困るのです。

この遊牧民の「まつろわぬ民」としての側面が、近代国家のシステムから遊牧民を阻害する要因となったとしても不思議ではありません。清朝以降、遊牧民というものが政治・社会の表舞台から次第に追いやられてしまったかのような印象を受けるのは、この近代国家と遊牧民の本質的矛盾によると考えられるのではないでしょうか。

現在、世界の中で、昔ながらの生活様式を残している騎馬遊牧民は限られています。モンゴル国と中国の内モンゴルとこの新疆が、世界で最後に残された騎馬遊牧民の大地です。誤解を恐れずに言うなら、往々にして彼らはその国で文化的に遅れた人々と誤解されることが少なくなく(実際に、教育と医療という面から見て、非常にハンディキャップを負うことになります)、自文化と伝統を大切にしている点は認められつつも、その存在そのものが前時代の遺物と見られがちです。

しかし、いま世界の先端では、近代国家を覆っていた堅い殻が様々な動因によって溶け始めていて、人も物も全て国境を越えて流動するのが当たり前になっていますが、そうした世界の中で遊牧民の定住しない流動性を考えてみると、これまでの見方とは全く違った、遊牧に新しい価値観を見出す視点が意味を持ち始めています。

一方、私たちが直接会う遊牧民は、そうした外部からの価値付けとは全く別の所で生きているのも事実で、彼らの中には遊牧より定住生活の物質的豊かさを望む人々も少なくないし、当然彼らも贅沢な都市生活に憧れ、お金が欲しいと切に願っていたりもするのです。そういう遊牧民たちに、あなたたちの遊牧生活は、実はとても先端的な生活スタイルなのですよといったところで、その言葉は彼らには届きそうにありません。結局、彼らがどのような生活スタイルをとるかということは、彼ら自身が決めていくことなのでしょう。その結果として、遊牧という生活スタイルが滅んでしまうなら、それはそれで仕方のないことだという気がします。…

民族〜歴史
60日間、1万キロにおよぶこの撮影の旅で、私たちは一体何を探していたことになるのだろうと、自問してみたくなりました。

いくつもの遺跡を訪ね、おそらくは数百年もの間、姿を変えていないだろうと思われる広大な風景の前に立ち、時には遊牧民に先祖から代々伝わってきた歌に耳を傾け、時には民族大移動の記憶を描いた絵画を目にしてきました。
そのひとつひとつの向こう側に私たちが探していたのは、文字で記録されることなく、大文字の「歴史」の中に生きた痕跡を何ら残さずに、普通に生き、普通に死んでいった無数の遊牧民の、確かにそこに生きていたという、かすかな痕跡だったのではないでしょうか。
そして、その無数の人々の生きた痕跡をたどりながら、私たちは二つの問いを常に反芻していたように思います。
民族とは何か?
そして、そうした民族が背負っている「歴史とは何か?

私たちが取材で現地の人を紹介される時、この遊牧民はカザフ族です、この遊牧民はモンゴル族です、この人々はウイグル族です、といったように、全てが中国56民族(漢民族と55少数民族)にカテゴライズされ、目の前に現れることになります。しかしよくよく調べてみると、民族とはそれほど単純なものではなく、特にユーラシア内陸部では民族が複雑に交錯し、融合し、重なり合っているため、今の民族の区分は、中華人民共和国成立を契機に分類された、とても新しい概念であることがわかります。

民族の意識が隆起してくると、決まって民族の記憶としての「歴史」が声高に語られ始め、その「歴史」が語られることで民族意識はさらに高揚するという事態が、90年代以降、世界各地で見られるのはご存知の通りです。でも、民族紛争を生起させるほど、民族の違いというのは、決定的なものなのでしょうか? そして、そんな民族意識を高揚させるために語られる「歴史」に何の意味があるのでしょうか? そういう問いが、取材している間、何度となく私たちにやってきました。

私たちが、撮影の合間によく立ち寄った拌面(ばんめん、ウイグル語で「ラグメン」)屋がありました。新疆の西の端、カザフスタン国境に近い街道沿いの店です。
そこに17歳の少女が働いていて、何のことはない、その女の子がかわいいのでどうしても私たちの足がその店にむいてしまうだけなのですが、彼女は回族でした。店は父、母、姉とその少女の4人でやっている小さな拌面屋です。
その店のある村は、とても小さな何もない村で、少女は生まれてからその故郷の村を離れたことがほとんどなく、遠いウルムチや北京といった都会に憧れながら、それでも毎日母を手伝って拌面を作っています。

最近、中国でもインターネット・カフェが流行っていて、田舎の町にもあったりするのですが、17歳の少女は一時間かけて歩いて隣町に行き、インターネット・カフェでチャットをしたりする楽しみを見つけ、でも親に知れるととても怒られるのだと話していました。
そういう話を聞くと、この21世紀初頭に生きる17歳の少女のリアルが、日本に住む私たちとも地続きのように思えて、そういうことと彼女が回族であることにはあまり関係がないと思えてきます。

ウルムチに滞在中の私たちに何度となくウイグル族の踊りを披露してくれた19歳の女の子は、パートタイムのダンサーで、私たちも取材で訪れたチャプチャル出身の、ウイグル族シボ族のハーフでした。
彼女は、大学でドイツ語を勉強したいと希望しながら、家に大学に行くだけのお金がないので、幼稚園の子供たちにダンスを教えて進学資金を貯めています。北京オリンピックの応援団の一員として、チームダンスを今から練習しているといい、昼間は朝9時から幼稚園で働き、夜も毎日ダンスの練習に明け暮れています。
彼女は、普段いつも微笑んでいるのですが、時々その笑顔が少し哀しく見えることがあって、それはおそらく彼女の家が経済的にとても困っていることに起因していると思われるのですが、でも、そういうことを彼女が私たちに向かって口にすることはないのでした。
ただ、彼女が日本のMr.Childrenの歌がとても好きだと言っていたのを思い出します。そういう、今の中国に生きている19歳の女の子のリアルと、彼女がウイグル族とシボ族の血を受け継いでいることに、何の関係もないように思うのです。

もしかしたら、回族であったり、ウイグル族とシボ族のハーフであったりすることが、つまり少数民族であるということが、経済的に不利な境遇を作る原因になっているのかもしれません。でも、彼女たちの今の生活は、そういう民族にカテゴライズされるような巾には収まりきっていないように思えるのです。…
# by satotak | 2008-02-05 12:49 | 東トルキスタン |