2008年 03月
シボ族の西遷 -瀋陽からイリへ- [2008-03-30 19:59 by satotak]
イリ帰還後のトルグート [2008-03-21 13:12 by satotak]
民族を追って 次は何処へ?何を? [2008-03-16 12:47 by satotak]
トルグート部の帰還 -ジュンガル滅亡後のジュンガリア- [2008-03-13 12:00 by satotak]

2008年 03月 30日
シボ族の西遷 -瀋陽からイリへ-
「NHKスペシャル 新シルクロード2」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一):

旅の終わりに
シボ(錫伯)族(注1)という少数民族が、新疆のカザフスタン国境近くのチャプチャル・シボ族自治県に住んでいます。
草原の道の旅の終わりに、私たちはこのシボ族を訪ねることにしました。彼らは遊牧民ではなく、元々は遊牧民であった古代拓跋鮮卑(たくばつせんぴ)族の末裔ではありますが、数百年前から遊牧は行わず、半農半猟の生活を送っています。なぜ、最後に遊牧民でないシボ族を訪ねるのか? それは、彼らの存在が、遊牧民の近代国家の中での遇され方を象徴しているように思えたからです。

8月28日、チャプチャル・シボ族自治県では、西遷節というお祭りが行われていました。
西遷節とはその名の通り、シボ族が西へ向かって移動した時のことを記念するお祭りで、シボ族とは18世紀、清朝皇帝の命により故郷である中国・東北地方の瀋陽(しんよう)から苦難に満ちた5000キロの道のりを1年9か月の月日をかけて大移動し、この地に住み着いた人々なのです。

シボ族を大移動させた清朝の目的は、少数民族であるシボ族を用い、騎馬遊牧民ジュンガルの残党による反乱を制圧し、対ロシアの国境線を守ることにありました。シボ族はこの命令に従い、大移動の末チャプチャルに住み着き、戦争の時は銃をとって前線で戦い、平時にも軍備を怠ることなく、辺境の荒れ地を開墾して生きてきました。彼らの存在で、ほぼ現在あるような国境線が確定することになりました。

清朝皇帝の苛酷な命令に従ったシボ族ですが、その「草原の道」を西へたどる1年9か月の旅路の記憶は、シボ族受難の歴史として、今でも歌や絵画など様々な形で次世代に伝えられています。文字を読み書きできない人にも伝わる、文字によらない歴史の継承。私たちは、シボ族の西遷の旅路を、史実に基づき40年にわたって絵に描き続けている画家、何興謙(かこうけん)さんを訪ねました。

何さんは元々学校の絵の先生で、ある時、自分たちの歴史を後世に伝えるため絵を描くことを決意し、現在まで50枚もの西遷の絵を描き続けています。ある時は極寒の洞窟でひと冬を過ごし、またある時は十分な食料もなく乾燥した砂礫の原を強行する長く苦しい旅路でした。そのため逃亡者が続出したのですが、その逃亡者は捕らえられ、皇帝の命に背いたとして処刑されました。自分たちの仲間を自分たちの手で処刑するという、筆舌に尽くしがたい体験を描いた絵を目にすると、ある感慨が私たちをつつみます。

[拡大図]

その感慨とは、次のようなものです。
これまで私たちは、騎馬遊牧民のかすかな歴史をたどってきました。国境にも民族にも囚われることなく、ユーラシアの大地を風のように走り抜けていった遊牧民を、国境線の中に押し込める役割を担ったのがシボ族ですが、彼らもまた時の権力によって暴力的に強制移住させられた民でした。少数民族を制するのに、少数民族の手をもってするという、近代国家の非情さ。そして、その苛酷な運命に従順に処して、それを誇りとしている人々が、今も中国の片隅で生きています。
ごく平凡な日々を生きているシボ族の人々、そのひとりひとりが、こうした近代の歴史を背負っているのだなあ、と思うのです。


(注1) シボ族シベ[人] | sibe[満洲語]
中国東北の嫩江(のんこう)流域を原住地とし,ツングース系言語を話す民族. シボ人とも. 漢語では錫伯と表記する。2000年の中国の人口調査によると, 人口は約18万9000人, そのうち約13万3000人が遼寧省に, 約3万5000人が新疆ウイグル自治区に居住する.

1692年にモンゴル族ホルチン部の支配下から, 清朝の直接支配下に移り, チチハル, ベドゥネ(吉林省松源市), 吉林の駐防兵となり, 99年から1701年にかけて, チチハル, ベドゥネのシベ族は盛京(遼寧省瀋陽市)に, 吉林のシベ族は北京に移駐した. さらに清朝によるジュンガル平定後の1764年に盛京のシベ族の一部が現新疆ウイグル自治区のイリに移されて駐防兵となった.

この集団は1954年にイリ川南岸に成立したチャプチャル・シベ自治県の礎となり, 現在約1万9000人のシベ族が8集落に分かれて居住し. 農耕生活をしている. シベ族はこの集落のことを, 現在も清朝時代の軍事組織, 八旗の基層単位であるニルと呼ぶ.

絶対的多数派民族がいないイリにおいては, 満洲語の一方言であるシベ語口語をはじめ, 自民族の客観的属性の多くを保持しているのに対し, その他の地域では民族の客観的属性のほとんどを失い, 漢化が進んでいる.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:楠木賢道) )

# by satotak | 2008-03-30 19:59 | 東トルキスタン |
2008年 03月 21日
イリ帰還後のトルグート
モンゴル国立中央図書館蔵『トルグート王統記』について」(宮脇淳子 2007)より:

ハズルンドが見たトルグート
…20世紀初めに新疆トルグート部を訪ねた、デンマークの有名な探険家ヘンニング・ハズルンド・クリステンセン... 彼は、1927−30年、スウェーデンの大探検家スヴェン・ヘディンが統率した中央アジア科学探検隊の一員になった。1928年から29年にかけて、ハズルンドは、新疆ウルムチの探検隊本隊から分かれて一人で天山山脈中のトルグートの牧地を訪れ、そこで一冊の古文書史料に遭遇したのである。…

…ハズルンド著『蒙古の旅』(内藤岩雄訳)の記述を利用しながら見てみよう。

1928年9月、ハズルンドはモンゴル語のできる二人の支那人従者とともに、支那官憲に気取られないよう、新疆ウルムチを出発した。トルファン盆地から山中に入った三日目、毛皮の帽子とコザックの軍服を着た二人のトルグート人が彼を出迎えた。彼らはウルムチから付いてきていたのである。一行はカラシャール(焉耆)に通ずる大道路を避けて、天山山脈の裾野にわけ入った。山肌を進み、やがてホシュート部の族長の野営地に到着した。おそらく小ユルドゥズ渓谷であると思われるこの一帯で遊牧していたホシュート部は、1771年にヴォルガ河畔からトルグート部とともに帰還した部族であった。まだ若いホシュート部族長の夫人はトルグート部族長の王女で、彼女の弟が、将来トルグート部を継承するはずであった。

この地でホシュート部の従者も加わって騎馬行列のようになった一行は、高い山の窪地で野営し、さらに峠を西に進み、渓谷を降り、渓流が大河となる低地の草原に出た。大ユルドゥズ渓谷と思われる。突然、トルグート部の指導者、テイン・ラマの冬の館邸である純白の町が出現した。これが、エレゲトのトルグート城であった。頂上に銃眼を設けた高い城壁に囲まれ、衛門だけが支那式で、あとはチベット(西蔵)様式の建物であった。…

…ハズルンドは1929年の新年、摂政(テイン・ラマ)の冬の館邸エレゲトから北へ一日行程のシャラ・スム(黄色い寺)廟を訪ねた。シャラ・スムは、広々とした谷間の南斜面に建てられた、九つの寺堂から成る、大建築物であった。一万五千いたラマ僧を、セン・チェン(テイン・ラマ)は摂政になったあと、三分の二以上減らした。仏教の教義に精通したものか美術工芸に堪能な者以外は、遊牧民生活に戻すために送り還したのである。

寺院には立派な図書館が付属していた。書籍の数は莫大であり、ハズルンドの時間は限られていたので、書籍の書名と内容に知悉しているラマたちに質問するだけにとどめなければならなかった。文庫はラマ教の寺院にありふれている西蔵の経書のみから成っているように思われたが、ついに住職との話で、トルグートの歴史家によって幾代にもわたって編纂せられた「トルゴト・ラレルロ(トルグートの起源)」と題される古文書の存在することがわかった。この著述は他の多くのトルグートの写本と同様に、この種族によって殆ど宗教的畏敬を以って見られていて、ただ選ばれた少数の者ばかりがこれを保管した楼閣に出入りすることが出来た。…

テイン・ラマの運命
テイン・ラマは…トイン・ラマ・ルーザン・チェレン・チュムベルと言い、中国側では「多活仏」と記される。彼は1890年、トルグート第五代ハーン、ブヤン・チョクトの第四子として生まれた。ヴォルガ河から帰還した旧トルグート部長ウバシ・ハーンから数えて七代目の直系の子孫であっが、チベットのセン・チェン活仏の化身と認定され、1897年、七歳でチベットに行き、戒を受けて修行し「トイン(沙弥)・ラマ」となった。

一方、トルグート部族長の方は、1891年ブヤン・チョクトが病気で亡くなると、多活仏の兄である長男ブヤン・モンケが第六代ハーンに即位した。辛亥革命後の1917年、ブヤン・モンケが突然死に、その子マンチュクジャブがわずか二歳で位を継いだ。当時の新疆の実力者、楊増新(新疆都督)は、未亡人のセルジブジドにトルグート事務の処理を命じたが、実権は多活仏の手中にあった。1922年セルジブジドが亡くなると、北洋政府国務院は、多活仏が摂政となってハーンの事務を行うように命じた。…

1932年、新疆省政府に対する反乱運動が新疆の回教徒の間に起こったとき、省主席(金樹仁)は反乱の抑圧策について相談するためと偽って、セン・チェン(トイン・ラマ)をウルムチに招いた。セン・チェンは彼の有力な首領たちに取巻かれて到着したが、なんらの相談もなされなかった。というのは、第一日の饗宴の後、トルグートたちが省主席の衛門で座って茶を飲んでいたとき、主席は客の全部を彼の部下に背後から射撃させたからである。…

イリ帰還後のトルグート部
乾隆帝は、オイラトの一部族トルグート部が、ロシアを離れて自発的に清朝に帰属した(1771年)ことを、ことのほか喜び、自ら、トルグートの来帰を題材とした三篇の詩文を作った。…

乾隆帝は詔を発し、トルグート部を新旧二部に分け、それぞれジャサク(旗長)を設けた。1630年ヴォルガ河畔に移住し、今回イリの故郷に戻ったトルグート部は、「ウネンスジュクト(真の信仰を持つ)旧トルグート」と名づけ、十部に分け、ウバシに管轄させた。ウバシはハンとなり、以下の王公は、モンゴル各部と同様、それぞれ、親王、郡王、ベイレ(貝勒)、ベイセ(貝子)、公、一等タイジ(台吉)に封じられた

一方、ジューンガル帝国の構成員であって、1755年に清軍がイリを攻めた時にヴォルガ河畔に逃げ、今回再びイリに帰ってきたトルグートを、乾隆帝は「チンセトキルト(誠の心を持つ)新トルグート」と名付け、首長のシェレンを郡王に、他の一人をベイセに封じた。シェレン率いる新トルグート部は、おそらくジューンガル帝国崩壊後、ロシアに逃げてヴォルガ・トルグート部に合流したとき、そこで「新トルグート」と呼ばれたのであろう。…

さらに乾隆帝は、翌1772年に彼らに牧地を賜った。…彼らに与えられた牧地は、…すべてイリ将軍の統括下にあった。

1783年になって、乾隆帝の詔により、旧トルグートは東西南北の四路に分けられることになり、四人の盟長と三人の副盟長が置かれた。新トルグートは左右二翼に分けられ、正副各一人の盟長が置かれた。…

旧トルグート南路・ハーン旗ジャサク、ジョリクト・ハーンであったマハバザルは、1852年に亡くなり、息子ラトナバザルが後を継いで、1857年にブヤン・オルジェイトと改名した。同年、ブヤン・オルジェイトは、ヤンギサールその他の地方における盗賊を掃討するのに功があったことを清から賞せられ、ウネンスジュクト盟の副盟長の地位を与えられた。しかし、1864年に勃発したムスリムの大反乱(同治の回乱)により、彼はイリの牧地をことごとく失ってウルムチに逃げてきた。京師(北京)に行って皇帝に謁見したいという願いが聞き入れられ、1868年、ブヤン・オルジェイトは北京に赴き、清の同治帝に拝謁することができた。翌年、ウネンスジュクト盟長に賞せられ、さらに1872年には御前走行を命ぜられた。ブヤン・オルジェイトは1876年に病没し、息子のブヤン・チョクトが後を継ぎ、父のハーン号と盟長を引き継いだ。…

ブヤン・チョクト・ハーンは1891年に病没し、長子ブヤン・モンケが跡を継いだが、盟長の事務はその祖母が取った。1896年に今度は、盟長とジャサクの事務をブヤン・モンケの母が取ることになった。1902年、ブヤン・モンケが18歳になったので、ようやく自ら印務を取るようになったとある。夫人が摂政になる伝統があったらしい。

ブヤン・モンケの死後(辛亥革命後の1917年)、その子マンチュクジャブがわずか二歳で位を継いだ。マンチュクジャブの息子、ハーン・ゴンボ・デジドは、ゴンボ・ダンジンという名前であるが、現代中国の研究書の系図にも名前が掲載されているから、少なくとも戦後まで生きていたことは間違いない。…

現モンゴル国西部のホブド一帯にはかなりの数のトルグート人が住んでおり、もともとアルタイ山中のブルガンにいたという。彼らの言うところでは、毛沢東とスターリンの間で、新疆とモンゴル人民共和国の国境線が一夜にして引かれることになった。このとき、あわててアルタイ山脈を越えてこちら側に来たのが自分たちで、山の向こうに留まった同族が新疆トルグート・モンゴルであるという。…

# by satotak | 2008-03-21 13:12 | 東トルキスタン |
2008年 03月 16日
民族を追って 次は何処へ?何を?
「民族は…?」をテーマに、主にテュルクとモンゴルについて見てきたが、早2年が経ってしまった。そして何が分かったのか? 残念ながら「民族」の輪郭が益々ボヤケてくるばかり。
敢えて言うとすれば、仏の教えに擬えて、「民族即是空:民族には実体がない」と言ったところか。

明確な領土と国境そして国民の存在を前提とした近代国家(国民国家)の中で民族はどんな意味を持つのか。「民族自決」とは言うけれど、この「民族」は日本独自の用語とか。本来は「民族自決」ではなく、「人民(people)自決」ではなかったのか。

しかし、こんな言い草を、故郷を捨て家族を悲しませてまで、東トルキスタンの独立を夢見て運動しているウイグル人が聞いたら、何と思うことだろうか。


「民族」の輪郭は益々ボヤケてくるばかりなのだが、では次は何に焦点を当ててみようか?また今年の旅行はどこにしようか?
インド…シベリア…沿海州…西モンゴル…新疆北部?

インド:大分前に載せたことがあるが、インドにムガル朝を建てたバーブルはチムール朝出身のテュルク=モンゴル系の人物であった。これは16世紀のことであるが、それ以前にインドにあった奴隷王朝と言われる国もテュルク系の人々が興したものであったらしい。これは面白いと思ったが、しかし適当に詳しくて手ごろな文献が見つからず、私の手には負えそうもない。

シベリア:中国、モンゴル、カザフスタンの北に連なるシベリア南部は当然古くからのテュルク=モンゴル系民族の活躍の場。現在でも、トゥヴァ共和国など、テュルク=モンゴル系民族の名称を付したロシア連邦内の共和国が存在する。しかしこちらも手ごろな文献は見つからず、関心のある地域を訪ねるパックツアーもないようだ。

沿海州:テュルク、モンゴルとはちょっと離れるが、「デルス・ウザーラ」を追ってみるのも面白そうだ。大分前にテレビの深夜放送で見て、気になっていた黒澤明の映画、題名も分からぬままでいたのだが…調べてみると、「デルス・ウザーラ」。ツングース系の猟師デルス・ウザーラを主人公としたこの物語(ノンフィクション)はもちろんのこと、作者のロシア人アルセニエフとその家族の人生も興味深い。時代は20世紀初頭、舞台はハバロフスク、ウラジボストク東方、日本海に面した山岳地帯。こちらは資料もいろいろとある…映画のDVD、アルセニエフの著作の翻訳本、岡本氏のマニアックな著作。しかし…またの機会に後回し。

ジュンガリア(新疆北部):1755年、最後の遊牧帝国と言われるジュンガルが清に滅ぼされた後、ジュンガルが支配していた人々や土地はどうなったのだろうか。
現在の中国新疆ウイグル自治区は東トルキスタンとも呼ばれ、そこに住む民族と言えばテュルク系民族であるウイグル族がまず頭に浮かぶ。しかし実際はどうだったのか。天山山脈の南と北では事情が異なると思うが、天山山脈の北、ジュンガリアはもともとモンゴル系やカザフ系の人々が遊牧していた土地ではなかったか。

カシュガル方面には何度か行ったことがあるので、今年はジュンガリアに行ってみようか。できれば西モンゴルからアルタイ山脈を越えてジュンガリアに抜けるコースがあれば…と思ったが、見つからない。
そんな訳で、今年の旅行は、西安〜トルファン〜ハミ〜バリコン〜ジムサル〜アルタイ〜カナス湖〜ウルホ〜精河〜イーニン〜ウルムチ〜西安というコースに申込もうと思っている。6月19日出発の予定だが、参加者が集まるかどうか。
ジュンガリアの北端にあるカナス湖も、最近は観光開発が進み、中国人観光客が多いとか。あまりゾットしないが、これもジュンガリアの現実と諦め、現実を直視してくることにしよう。

現代のウイグル族と言えば、カシュガルのエイティガル寺院を持ち出すまでもなく、イスラム教徒として知られるが、18世紀のカシュガルやヤルカンドも同じこと。これら諸都市の実権を握っていたのはホージャと呼ばれるイスラム教の宗教貴族だった。しかしイリに本拠を置くジュンガルは違った。チベットから青海、モンゴル、ジュンガル、そして遥かボルガ川沿いのトルグートまでがチベット仏教の勢力圏だった。現代のジュンガリアに仏教はあるのか。

「チベットのラサで暴動 僧侶がデモ」と昨日から報じられている。北京オリンピック開催の今年、中国で何が起こるのか。
中国における「民族」も分かり難い。「民族識別」による56民族とか、「民族区域自治」に基づくという複雑な行政区の構成…そして、そもそも「漢族」とは何なのか?

こんなことも含めて、これから数ヶ月は、ジュンガリアにフォーカスしてみたい。

# by satotak | 2008-03-16 12:47 | 民族・国家 |
2008年 03月 13日
トルグート部の帰還 -ジュンガル滅亡後のジュンガリア-
宮脇淳子著「最後の遊牧帝国」(講談社 1995)より:

トルグート部とロシアとの同盟関係
1755年のジューンガル征伐の際、清軍は最初は無血でイリに到達したが、ホイト部長アムルサナーの叛逆とハルハのチングンザブの蜂起のあと、各地でジューンガルの残党が清軍を襲撃する事件が起こった。清軍がこれらの残党を掃討し続けている間に、天然痘が大流行し、オイラトの人口は激減した。なかでもジューンガルの人びとはほぼ全滅したという。イリ地方は、ほとんど無人地帯になった。

これを知ったヴォルガ河畔トルグート部長ウバシは、1771(乾隆36)年初め、配下の3万3千家族を引き連れてヴォルガ河畔を出発し、カザフ草原を過ぎてバルハシ湖沙漠を遠回りし、7ヵ月後にイリの故郷に到って、清の乾隆帝の保護を求めた。その年は暖かく、ヴォルガ河が凍結しなかったので、ヴォルガ右岸(西方)のカルムィク(トルグート部とドルベト部とホシュート部など) 1万数千家族は、渡河できずに取り残された。その子孫が、いまのロシア連邦内のカルムィク共和国の人びとである。

ここで、1630年にヴォルガ河畔に移住(注1)したあと1771年にそこを去るまでの、140年にわたるトルグート部とロシアの関係について、簡単に説明しよう。
アジアの奥地からやってきて、ヴォルガ河畔の草原を支配した新しい遊牧民カルムィク(トルグート部を中心とするオイラト)は、モスクワ政府にとって最初歓迎されざる客であった。モスクワ政府がようやく懐柔したヴォルガ左岸(東方)のノガイ・タタルは、カルムィクに駆逐されて、ヴォルガ河を渡ってクリム・タタルに合流したからである。しかし、1654年クリムとオスマン・トルコが同盟すると、モスクワ政府の政策は、カルムィクの軍事力を利用する方向に転換した。

モスクワは、カルムィクにロシアの町での交易の許可を与え、クリムを攻撃する見返りに贈物や報酬を約束したが、カルムィクがクリムの配下に入ったノガイを襲撃するのは、かれら自身の領民や牧地拡大のためだった。カルムィクたちはその後ずっと、報酬を受け取っても、モスクワの希望通りに行動したりはしなかった。

ヴォルガに移住したホー・オルロクの曾孫アユーキは、父プンツクの死後1669年にトルグート部長になった。かれは、1673年にモスクワ政府と同盟を結んだ。ウクライナ領有をめぐる紛争が激化していたので、ロシアはカルムィク騎馬隊の従軍を必要としたのである。モスクワ側から見れば、この同盟でアユーキは臣民として忠誠を誓ったことになったが、アユーキにすれば、ライバルの諸首長に勝って、多数の領民支配をロシアに公認されたことになった。

1677〜83年に及ぶロシア・オスマン会戦の間、カルムィクはロシア側に立ったが、オスマンとクリムが多くの贈物を携えた使節をアユーキに派遣し続けたので、1683〜96年アユーキは中立を守った。この間、アユーキ自身はモスクワとの独占的関係によって莫大な富を蓄え、他のカルムィク首長とは比較にならない強力な権力を手中にした。1697年、アユーキとロシアのゴリツィン公爵は、対等な権力者間の新たな同盟条約にサインした。…

トルグート部とジューンガルとのライバル関係
…1641年頃生まれたトルグート部長アユーキは、ジューンガル部長バートル・ホンタイジの孫であった。つまり、センゲとガルダンの甥であり、ツェワンラブタンの従兄弟であった。ダライラマ五世の摂政サンギェ・ギャツォは、1694年にジューンガル部長ツェワンラブタンにホンタイジ号を授けたあと、1697年ガルダンがアルタイ山中で死ぬ直前、ダライラマ六世の名のもと、なんとトルグート部長アユーキに、ダイチン・アヨシ・ハーンの称号を授けたのである。

ジューンガルのガルダンは、母方ではあるが、それでもチンギス・ハーンの弟の子孫と見なされたグーシ・ハーンの孫である。トルグート部長アユーキのハーン号には、チンギス統原理からすれば、もはやなんの根拠もない。ジューンガルのガルダン・ボショクト・ハーンの甥というだけだった(注2)。チベットのダライラマ政権すなわち摂政サンギェ・ギャツォは、ヴォルガ河畔で異教徒たちに君臨し、大勢力を築いていたアユーキを、遊牧民の間で信仰されていたチンギス統原理を無視して、全オイラトのハーンと承認した。ゲルク派にとって、ヴォルガ河畔のオイラト人は、最も遠隔地にいる、自派の有力な施主であったからだろう。

一方のアユーキにとって、このダライラマ政権によるハーン号授与は、周りのチンギス・ハーンの子孫のイスラム教徒たちに対して、実に有効な切り札となった。…

ホンタイジ号を有するジューンガル部長と、ハーン号を有するトルグート部長は、その後さらにいっそう、オイラト部族連合の盟主の地位を争うライバルになった。…

1698年、アユーキは、自分の従兄弟のアラブジュルを団長とする大使節団をチベットに派遣した。チベットからハーン号を授かったアユーキは、全オイラト統合の意図を持ったのである。ところが、父と対立していたアユーキの息子の一人サンジブが、自分の領民1万5千家族を連れて、ジューンガルのツェワンラブタンのもとへ走った。…およそ6万人の遊牧民がトルグート部からジューンガル部へ移ったせいで、軍事的にも政治的にもツェワンラブタンの勢力が優勢になり、アユーキは、ジューンガル制圧と全オイラト統合をあきらめざるを得なくなった。

一方、チベットに派遣されたアラブジュルは、ダライラマを訪問して帰国しようとしたところ、ツェワンラブタンとアユーキの間が不和になり、ジューンガルを通過できなくなった。アラブジュル一行は、やむなく清朝皇帝を頼って行き、嘉硲関(かよくかん)外に牧地を与えられた。かれらトルグート部は、1731(雍正9)年にエジネ河畔に牧地を移されて、エジネ・トルグートとよばれるようになった。…

ロシアと清朝のトルグート部への対応
アユーキ・ハーンが1724年に死んだ後、…継承争いのあと、アユーキの長男チャタドルジャブの息子ドンドクダシがトルグート部長となった。

ロシアの干渉のせいで長びいた内乱と、ロシア人の入植による遊牧地の減少の結果、カルムィクのなかでは、家畜を失って貧窮化し、漁師になる者やロシア正教に改宗する者や、子供や自分をロシア人に売る者が出てきた。しかも漁業権と塩はロシア人が握り、カルムィク人をロシアの法律で裁いた。ロシアは、カルムィクの経済力と軍事力が衰退したので、新たな遊牧民カザフとの関係を強化していた。このような中ですでに1747(乾隆12)年、トルグート部長ドンドクダシはロシアを去ろうとしていた。…

1761年、ドンドクダシの息子ウバシが17歳で父の後を継いだ頃、ヴォルガ河沿いにウクライナ人、ロシア人、ドイツ人の入植が進み、カルムィクは水のない荒れ地に追いやられた。現地の事情を知らないイェカテリナ二世は、カルムィクの抗議に耳をかさず、モスクワで地図を見ながら、カルムィクが遊牧する土地はたくさん残っていると断定した。その上、オスマン・トルコとの戦争に、応じるのが無理な数のカルムィク騎馬兵の参加を命じた。

すでに、ジューンガル部滅亡の情報が、ヴォルガ河畔にも届いていた。イリのオイラト人口が激減したことを知ったトルグート部は、今度こそ絶望的な状況のヴォルガ草原を脱出して、父祖の土地イリに向かった。ロシア配下のコサックやバシキル人や、カザフやキルギズなどの追跡と攻撃を受け、7ヵ月に及ぶ困難な逃避行で10万人を失った末、ウバシ率いる7万人のトルグートは、1771(乾隆36)年にイリ地方に帰還したのである。

乾隆帝は、オイラトの一部族トルグート部がロシアを離れて自発的に清朝に帰属したことを、ことのほか喜んだ。乾隆帝はみずから、トルグートの来帰を題材とした三篇の詩文を作った。そのなかの、頭韻を踏んだ四行詩を、満洲語原文から翻訳して紹介しよう。

〈このトルグート部というもの、
これらの先のハンはアユキであった、
ここに至ってウバシはオロス(ロシア)に背いて、
エジル(ヴォルガ)の地から降って来た。

懐柔したのでもないのに皇帝の徳化を慕ってきたのである、
手厚く恩を及ぼしあまねく慈しむべきである、…〉

清朝は、1636年、満洲人、モンゴル人、漢人の三種族から推戴された共通の皇帝が、チンギス・ハーンの孫のフビライ.ハーンが建てた元朝から統治の正統を受け継いで誕生した国家であった。ジューンガル征伐ののち、思いもかけずロシアからトルグート部が帰ってきたことは、清の徳を天下に知らしめる慶事であった。乾隆帝は、尊敬する祖父康煕帝も果たせなかった、全モンゴルの帰順という偉業を成し遂げたことに、心から満足したのである。

一方、カルムィクに脱走されたロシアの方だが、当時イェカテリナ二世が進めていた拡張主義政策に、カルムィクだけでなくロシア南方のさまざまな集団が不安を感じていた。ヴォルガ・カルムィクの大集団が、ロシア人に妨害されずに逃亡したことで、ロシアの辺境守備隊の無能ぶりと人力の不足が暴露された。カルムィクの背反に勇気づけられたクバン人やカバルダ人は、もはやカルムィクの援助のない草原の小規模のロシア守備隊を盛んに襲撃し、ロシアの町に対するカザフの掠奪も増加した。バシキル人は反抗的になり、伝統的な自由が脅かされていると感じたけれどもカルムィクと違って行く先のないヤイク・コサックは、ロシア政府に対して武装蜂起した。カルムィクが脱走した2年後、南ロシアすべてが、プガチョフの乱(プーシキンの小説「大尉の娘』の題材となった)として有名な大暴動の炎の中にあった。

(注1) トルグート部のヴォルガ河畔への移住
後世ヴォルガ河畔で書かれた年代記『カルムィク・ハーン略史』は、1630年のトルグート部の移住の背景をこのように伝える。

四オイラトで乱となった時、トルグートのタイシであったホー・オルロクという者が、「そのように互いに殺し合ってアルバト(属民)たちが尽きるよりは、遠い土地に行って異姓のウルスの近くに住んで、かれらと戦い、戦利品を取って暮らす方がましになろうぞ」と考えて、1618年にカスピ海の方に心利いた人を遣わして、その土地は主がないと確かに知って、1628年に自分のアルバト(属民)のトルグート、及びホシュートとドルベト5万家族を連れて、6人の息子を従えて、もとの牧地を捨てて、日の沈む方向に出発した。ジャイ(ウラル)河に到らないうちにエンバ河の傍らに牧地を持つ一群のタタルを打ち負かし、ジャイ(ウラル河)を渡ってノガイ、キタイ、キプチャク、ジテシェンというタタル人たちを征服して、1630年にイジル(ヴォルガ河)に到った。

(注2) オイラト部族連合系図

# by satotak | 2008-03-13 12:00 | 東トルキスタン |


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