2008年 04月
摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇- [2008-04-24 21:15 by satotak]
コソボ独立の見えざる背景 -人民自決の今日的意味- [2008-04-13 12:21 by satotak]
東トルキスタン共和国時代のジュンガリア [2008-04-10 21:39 by satotak]

2008年 04月 24日
摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-
ハズルンド著「蒙古の旅」(1942 岩波新書)より(内藤岩雄訳):

[1927年12月]
…二日の後私たちは哈密(ハミ)に到著した。そこで私たちは阿片中毒者の廃物である町の支那人司令官と、支那元帥の制服を着けた四十歳位の新疆東部正面の司令官の前に連行された。元帥が話した数語は蒙古語であり、彼の目は親しみのある好奇のまなざしを示した。…

[拡大図]

[1928年9月]
第三章 『西域の汗(ハン)』に拝謁す
…テイン喇嘛(ラマ)の冬の館邸は、荒涼たる環境に全く不意に現出した純白の町であった。
私たちの小さな騎馬行列は町の東側の外壁に沿うて廣いカーヴを描きつつ、南方の外壁の大きな中央門の前に停止した。城壁は高く、頂上に銃眼を設け、堅固な望楼があった。同行の土爾扈特(トルゴト)(注1)はその難攻不落を誇り、テイン喇嘛の築城したエレゲトの土爾扈特城は全新疆で最も崇高な建築物であると断言した。

この外壁の内に内壁が設けてあるが、この両壁間の約百碼(ヤード)の空間は四つの眞直ぐな通りをなし、方形の防衛地を構成していた。外壁の内側に接して低い兵舎があって、通りには兵や馬が群っていた。兵士は褐色のコザックの軍服、露西亜(ロシア)式の乗馬用長靴および黒や白の高い毛皮帽を着けていた。彼らの或る者は比較的現代式の銃を磨くに忙がしく、他の者は野蛮に古色を帯びてはいるが、ぴかぴかと磨いたコザックの軍刀で騎兵剣技を演じていた。

馬は黒、褐、或いは灰色であった。その日テイン喇嘛を警護していた騎兵中隊はそれらと同色の旗のものであった。どの馬もこの國で有名な喀喇沙爾(カラシャル)産の立派な体格をしていた。同地の馬は哈密(ハミ)の瓜、吐魯番(トルファン)の葡萄、庫車(クチャ)の美人と共に新疆の四つの著名な産物として知られ、嘗ては支那皇帝に献ぜられたこの國の主要な貢物であった。…

摂政と私の最初の会見は、その日の夕刻に行はれた。謁見室には露西亜から輸入した家具を備へ附けてあったが、壁には支那の刺繍と蒙古の格言を誌した赤絹の掛布が懸っていた。
土爾扈特の摂政は哈密で私たちを出迎へ、支那の元帥であると自称した人と同一人であった。

そして彼は直ぐに私の隊長や他の旅行仲間の健康や將來の計画について尋ねた。彼は支那元帥の徽章を着け、露西亜の軍服を着用し、彼の胸の勲章は支那と旧露西亜双方のものであった。露西亜勲章は彼の先祖に授与せられたものだが、相続によって承け継がれ、それらを佩用する権利を持っていると彼は言った。

彼は私の欧州名を訊ね、そして彼がそれを欧州風のノートに露西亜文字で記入するのを私は見た。彼はこの國の習慣に從って巻煙草入れの蓋をあけて私にすすめないで、巻煙草を掌に一本載せて私にすすめた。
洋服は彼に不似合であった。彼は小さく且つ目立たなくなり、そして彼の短く刈った頭は満月のやうでをかしかった。しかし、彼のまなざしは人目を惹く程賢明であった。そして彼の溌剌たるまなざしを長く見れば見るほど、彼の声望の根源には立派な才能があるといふことを益々強く感じさせた。…

第五章  土爾扈特の英傑(ストロング・マン)
…だれもが彼のことを活佛(ゲゲン)或いはテイン喇嘛と呼んだ。どちらも彼の本名ではなく、ただ『活佛』或いは『高貴の喇嘛』を指示するに過ぎない。彼の真実の氏名と血統については彼自身に聞き糺すより外はない。といふのは、蒙古人は彼の父と彼の統治者の名を口に上すことが出来ない、両者は彼には神聖だからである。

本当に彼が實際オビシュ汗の後裔であったか、或いはただ彼の印璽の保持者に過ぎなかっただらうか?
そしてもし彼が往古の土爾扈特王朝の後裔であったとしても、活佛は貧しく賎しい者の中からさへ現はれることが出來るといふ常道が定まっているのに、どうして彼は活佛となり得たであらうか?
そして彼の身体に再来したのは、如何なる亜細亜の神であったらうか?…

テイン喇嘛の兄は、1920年彼の死ぬるまで土爾扈特の汗であった。そして現摂政は活佛として婚姻を禁ぜられていたから、権力は彼の死去に際しては現在(1928年)十五歳で、土爾扈特たちがビチゲン汗(小さな汗(ハン))と呼んでいる、彼の兄の子に移るのである。…

テイン喇嘛は彼の青年時代を宗教研究に過し、壮年時代は佛教の聖地を長い間順礼して暮した。彼の兄が死んだ時、彼の甥はまだほんの幼児であった。それゆゑ主なる土爾扈特の族長たちはこの幼い汗が成長するまで、國民の統率者となるやうテイン喇嘛に懇請するため、亜細亜の大半に急使を派遣した。

テイン喇嘛は國民の懇望を容れた。そして彼が最高の権力を引受けた日から、土爾扈特に自由と幸福とを齎(もたら)すべき多くの変革に着手した。
私の土爾扈特の友人たちは近年のあらゆる進歩発達について誇らしげに述べた。

畜群はその量を増加した。馬の品種は摂政の賢明な発意によって亡命の白系露西亜人から立派な純血種の種馬を買入れたことによって、なほ一層改良せられた。彼は支那人の間に大いに需用されている緩歩馬を産出しようと試みて好結果を得、それは現在土爾扈特の最も有利なる輸出品となっている。彼は脱走のコザック兵から武器や弾薬を購入した。それがため土爾扈特の軍隊は、今では中央亜細亜で最も勇敢である計りでなく、最善の武装をしていると大びらに言ふことが出來た。

テイン喇嘛の統治権受任後起った祝福の中で最大のものは、以前は極めて僅かしか恵まれていなかった子供が、近年目立って多くテントの中で生れだしたといふ明白な事實であった。国民はこれを彼らの指導者の神徳に帰しているが、しかし私の開化せる友人たちはそれをテイン喇嘛の魔法的の力よりも、寧ろ彼の人間的知識に依存したものと思っていた。
土爾扈特領域にやって来た露西亜からの亡命者の中に医者の心得のある一人の韃靼人がいて、テイン喇嘛は彼の忠言に耳を貸した。この医者は現在十二の寝台と澤山の藥剤を備へた病院を管理していて、黴毒(ばいどく)やその他の不妊症を撲滅する猛運動を行っている。

烏魯木齊(ウルムチ)の外国商館の代理店の手を.経てテイン喇嘛は、多数の舶來品を手に入れたが、その中に写真機があった。彼は熱心な写真好きとなり、彼自身で現像や焼付をした。この西洋の発明品に対する彼の興味は、彼の若い土爾扈特の近侍者たちの非常な賛成を得た。…

或る日、私は兵舎を訪問した。
牧民兵士の西洋式の教練や装備、それから彼らの鋭敏な様子は最初から私を感動させた。
土爾扈特の士官は西洋人の優雅さを発揮し、その中の一人は私に露西亜語で話しかけた。対話中彼は自分は1771年の大逃亡の際、ヴォルガ河畔に取残された土爾扈特の後裔の一人であると語った。彼は露西亜の教育を受け聖ペテルスブルグで士官の試験に合格し、世界大戦にはオレンブルグとアストラカン地方で募集せられたカルムック師團に配属せられて露西亜側に從軍した。後に彼は『赤色教義』に抗して帝政のため戦ったが、『白軍』が西比利亜(シベリア)で潰滅した後は、逃亡者の群について南方へのがれ、つひに彼と同種族人に遭ふに至った。彼らの統治者が彼を引取ったので彼はその時から忠勤を励むことになった。
摂政の軍隊に露西亜育ちのこの土爾扈特がいることは、エレゲトに多くの西洋風の現象の存在する所以を明かにしてくれた。

土爾扈特摂政の独立自主の傾向は、外界に対する彼の態度にも亦おのづから現はれた。
彼の兄の宮廷では支那人の勢力が圧倒的であった。ところがテイン喇嘛が統治権を掌握した後は、覚醒した蒙古民族精神は支那當局者に疑惑をもつて観られ、その疑惑は間もなく恐怖となるにいたった。摂政は支那人によって『土爾扈特の英傑(ストロング マン)』と噂された。そして彼らは、彼が中心となって数年にして從順にならされていた遊牧民を挑戦的勇猛果敢な民族に変化させた運動を制圧しようと幾度も企てた。

1924年支那軍が東干(トンガヌ)反乱の首魁、馬仲英を潰滅しようとした時、総督は土爾扈特騎兵および駱駝輸送隊の動員を命じた。しかし、テイン喇嘛は支那人の援助の要求を一も二もなく拒絶した。1925年の初め、摂政は甘粛から威嚇的進軍をしつつあった『クリスチャン』將軍馮玉祥を阻止するため、烏魯木齊に彼の騎兵を派遣するやうに懇請せられた。しかし、再びテイン喇嘛は、彼の兵士は自族の利益のためにのみ血を流すべきで、他所の戦争に彼らの血は流させないと回答した。

昔から、土爾扈特は中央亜細亜における支那の最も信頼すべき援軍であった。そこで督辮楊増新は、若し遊牧民たちが最早強制に屈服しないならば、政略的術策と好意的慇懃をもつて彼らを籠絡しなければならないと考へた。
楊増新は、自分の陰謀を廻らし、互に相猜忌する將軍の一人の指揮下にある支那人の屑よりも、信頼出來る遊牧民族長の指揮下にある土爾扈特兵を親衛兵とするのを好むと申し出た。そして土爾扈特親衛兵に対する彼の阿?的な懇望は、つひにテイン喇嘛をして彼の騎兵三個中隊を派遣せしむることになった。

後日、支那人顧問の説得に從って、楊はテイン喇嘛を烏魯木齊に招いて友好的會見を行った。この會合の秘密の目的は、摂政から彼の権力を剥奪し、未だ未成年者である小汗(ビチゲン・ハン)に土爾扈特汗職の印璽を譲渡させ、後者を支那人顧問の後見の下において土爾扈特を支配せしめることにするといふのであった。テイン喇嘛は旧の雲水生活を再び始めるやうに、強要させられることになっていた。

しかし、烏魯木齊(ウルムチ)におけるその會合へ、テイン喇嘛は素晴しい豪華と壮大とにとり囲まれ、あたかも征服者の凱旋入城式のやうにいかめしく且つ果敢なる遊牧民戦士の多数の護衛兵を引率して到着した。支那人によってたくらまれた政治的手段は商議さへせられないで、テイン喇嘛は支那元帥兼西部國境防衛総司令官に任命せられた。1927年11月、彼は東部より近づきつつある新しい危険――すなはち、スヴエン・ヘディン探検隊!――を迎へるため、哈密(ハミ)に進軍したのは、後者の資格においてであった。…

第八章  草原の法律
…土爾扈特族の総数は八万乃至十二万という非常に違った数字が挙げられている。その組織について私の知り得たところは左の通りである。
十三の土爾扈特部族の各々は札薩克(ヂャサック、世襲首領)によって統治せられている。しかし喀喇沙爾(カラシャル)部族の首領はすべての土爾扈特の汗であって、他の十二は軍事上およびその他の重要な事項について彼に隷属している。

十二人の隷属首領の中二人は親王(チンワン、第一位の王)、二人は郡王(チュンワン、第二位の王)、三人は貝勒(ベイレ、第三の位)、一人は貝子(ベイセ、第四位の王)、一人は公(クン、第一位の侯)、三人は台吉(タイジ、第一位の貴族)、の称号を帯びている。各ホシュンには、その文官行政官として首領から任命されたトサラクチ(協理)がいる。

軍事上は、各ホシュンはソモン(佐領)に分たれ、その五つがグスデの指揮の下に『旗』を構成している。ソモンの兵員は百乃至二百の天幕から募集せられ、メイレンの指揮下に属している。摂政の支配下にある土爾扈特の総兵力は百五十四ソモンに達し、その中五十四ソモンは喀喇沙爾(カラシャル)部族のみから供給せられている。
その上摂政は、名誉あるバドル(勇士)の名を帯びる千四百人の選り抜きの、完全に武装した戦士の親衛兵を持っている。

各部族は、各々割り当てられた地方で遊牧民生活を営んでいるが、これらの中九つは喀喇沙爾部族の周囲に障壁を構成するやうに配置されている。かく互に接近して住居する十の土爾扈特部族をひっくるめて、ホーチン土爾扈特(旧土爾扈特)とよんでいるが、理論上では遠く離れた額濟納河(エチンゴール)土爾扈特もこれに属している。
阿爾泰山中の二部族は新疆に定住した十種族よりも後にヴォルガから帰還したから、シネ
(新)土爾扈特と呼ばれている。この十二部族の首領と額濟納河(エチンゴール)土爾扈特とはアラベングルベン・タマグータイ・ノイェン(十三の印璽を有する王侯)を構成している。

喀喇沙爾土爾扈特の最も重要な遊牧地はツォルトゥス(注2)河畔にあってこの地域を彼らは三つの和碩特(ホショト)部族と共同に使用している。
他の大なる土爾扈特居住地はジルガラン、チンホー(精河)、ホボク・サイリ、ブルゴン、テケスおよびクンゲス諸河の邊およびエレン・ハビルガ山麓にある。…

セン・チェンはその上ボロトラ谿谷の察哈爾(チャハル)蒙古人――彼らの祖先は十八世紀の中葉に清朝皇帝の軍隊と共に彼らの現在の牧地に來た――と相互援助協定を結んでいた。又貧弱で数の少ない彼らの天幕をテケスおよびカシ両河畔並びにタルバガタイの周囲の草原のあちこちに張って、ばらばらの指導者のない額魯特(エルート)族の群とも同種の協約を結んでいた。…

第十一章  土爾扈特の天幕寺院
…数ヶ所の蒙古寺院は十七世紀後半から傳はつているが、近年建立したものはもっと多数でさへある。といふのは、新しい清朝は戦争好きな遊牧民を平和な牧畜者や敬虔な修道僧に一変させるために、草原の茫漠たる廣野に多数の寺院を建立させたからである。…

蒙古人は固定建築物に先天的に嫌悪の情を持っている。そして蒙古の多くの地方…においてはいまだに永久的の石造建築を建てることを、支那商人をはじめとしてすべての者に禁止している。自由の草原は陰欝な建築物で『固め』られてはならない。そして遊牧民は新しい牧場と新しい水飲み場所へと永久に放浪して家畜の群を追うて行く、彼らの第一義務を決して忘却してはならないのである。
しかし修道院および寺院に対してはこれらの法則は適用せられない。といふのは、それらは神と彼らの下僕たる喇嘛の住居であり、かやうな人間的な事由は問題とならないからである。

1920年までは土爾扈特の間には俗人の建築物はなかったが、最初に建てられたのはツォルトゥス(注2)山中のセン・チェンの夏の離宮であった。活佛の資格において彼は人間の掟を蹂躪することが出來た。土爾扈特たちは摂政の行爲はすべて彼の臣下の者に天恵を齎らすことを知っていたから、彼がエレゲトの町を創設して官吏や從者に冬季中それらの木と石と煉瓦の建物に住むやうに命じた時にも、少しの反封も不安も起らなかった。

土爾扈特はセン・チェンの造った、塔や城壁や宏大な建築物のあるエレゲトを誇ってはいたが、然しそれにも拘らす町の住民は長い冬のあひだ中、首領も牧畜者もすべての人が同様に天幕で暮す夏を夢みるのである。暖い季節になるとエレゲトは見捨てられて鎮された町となる。といふのは、土爾扈特は高地の草原に彼らの畜群を追って行き、城砦の守備隊だけが後に残されてツォルトゥスを夢み又遠く隔てたる雪峰に憧れの凝視をするのである。…

間もなくエレゲトを去ることになった。或る晩、私はセン・チェンについてゲゲン・ニ・オルドに入って見たが彼は別に私を拒まなかった。私たちはいつものやうに罪障世界の現實の問題について議論を今しがた終ったばかりであった。しかし、彼が洋服をぬいで長い黄色の喇嘛の法衣に着替へた時、私の目前に居る人は全く別人のやうに見えた。彼の敏捷で怜悧な眼は内観的な半眼となり、きびきびした顔つきは穏かな受容的なものに変った。

私は彼がマイダリと、彼には高遠な理想と深玄な眞理を象徴するその他の金色の佛像の前に、叩頭して祈願するのを見た。絹の掛布や寺院の幡の白、黄、赤、緑および青の神聖な色彩は、祭壇から薄暗い光の中で色々に違って見え、線香の煙は焔のやうに輝く黄色の法衣に包まれて跪伏せる人のまはりを漂うた。
活佛の東洋風に細い手は、何かを形作る様な動作をして、空中に神聖な象徴を描いた。
それから彼は全智の神の青銅の鏡、ダルバナに聖水の滴をふりかけた――私は彼をおき去りにして天幕を出た。唯ひとり神とさし向かひで、この聖者はダルバナの全智のお告げを判じなければならないからである。

第十五章  寺院天幕内の密教
…私ひとりで聖者と対座したのは、私のエレゲトでの長い滞在中これが初めてであった。彼は活佛の衣をつけていたが、その豪奢な襞?(ひだ)と燦然たる色彩は、地味な洋風の部屋の調度の中で不釣合に見えた。
その夜セン・チェンは私に彼の心の宝庫をすっかり打ち明けて見せた。彼の夢や希望や人生観は私に活佛は、丁度あたかも春と秋とのやうに異っていて、しかも両者が自然の交替として當り前であるやうに彼のもっている二重人格の両面を明白にしたやうに思はれた。

彼の神聖な職務を深刻に意識しているセン・チェンは、人生の荘厳と彼がそのために再来した世界的使命について語った。しかも、彼は新しい経験に対する彼の憧れを若人のやうな歓喜をもって談じた。そして草原の彼方の大世界についての、彼の好奇心を満足させようとする彼の熱望の程度は、中央亜細亜のやうな孤立した場所にいる彼としては聊か悲愴に思はれた。…

セン・チェンは平然たる忍從をもつて、彼の生命の非業な最後を覚悟していた。といふのは、彼は彼の心霊上の父と同様な運命に遭ふと占僧が豫言していたからである。しかし、それより以前に彼は草原の外にある世界を見たがっていた。今度私が彼の國へ再び戻って來たときにはアフガン國王のやうに、彼の國民に力を與へられる西洋の學問を体得し得るため、廣い世界に彼を連れ出すことになった。…

その後何事が起つたのか
同年の秋、私は再び草原に向って旅立つた。しかし私は土爾扈特の國に到着出來ない運命にあった。…

それから病床での幾年かが続き、その間にも私は屡々セン・チェンや彼の部下からの消息や季節の挨拶を受けた。
1932年の始めに吉報は來なくなった。やがて、ニルギトマ王女から土爾扈特の誇った將來の夢は潰されてしまったとの知せが來た。

新疆省政府に対する反乱運動が新疆の回教徒の間に起つたとき、省主席[金樹仁]は反乱の抑圧策について相談するためと偽って、セン・チェンを烏魯木齊に招いた。セン・チェンは彼の有力な首領達に取巻かれて到着したが、何らの相談もなされなかった。といふのは、第一日の饗宴の後、土爾扈特たちが省主席の衙門で坐って茶を呑んでいた時、主席は客の全部を彼の部下に背後から射撃させたからである。
無能な省政府の短見の結果、多くの有能な罪なき人がこの世から失はれ、高潔で人道的な抱負は無意義な混乱状態に変った。

土爾扈特の指導者セン・チェン、モングロルダ・ノイェン、バルダン・グスデ、ロドンおよびリルップ――今はみんな死んでしまった。かつてはよく訓練され、その勢力と強固な組織とが從來中央亜細亜の多くの異人種間の均衡を維持するに大いに與って力があった國民は、復讐に飢ゑて荒れ狂ふ遊牧民集團に変じた。苦力(クーリー)に変装してこの國から逃亡しなくてはならなくなった謀殺者たちを放逐した後、土爾扈特たちは山間に退却して、今は中央亜細亜の政治の將來には全然無頓着になってしまった。

それ以来私は、新疆に関する情報をその後に帰国した探検隊員から聞くのみとなり、しかもそれらは落胆させるばかりのものである。…

(注1) トルゴトトルグート | Torγud[モンゴル]
モンゴル族のオイラト系支派.オイラトの内紛を契機として,ホー・オルロクに率いられたトルダートは,タルバガタイ付近から西遷し,1632年にヴォルガ川下流域の草原に到達した.ロシアはこれをカルムイクと呼んだ.オルロクは44年にアストラハンで戦死したが,その後ロシアとの同盟関係により,比較的安定した時期が続いた.
70年に曾孫アユーキが政権を取ると,ロシアとの関係を保ちつつも,ダライラマとの親密な関係を背景に権力を集中していった.1724年にアユーキが死ぬと部内は混乱し,ロシアの干渉を招いた.
これを嫌ったアユーキの曾孫ウバシは71年初め,17万人近いトルグードを率いて東に移動を開始し,7ヵ月に及ぶ旅程で10万人を失いながら,清朝支配下のイリに帰還した.
乾隆帝は彼らを厚遇し,首長層に王公の位を授けた.
現在その後裔が新疆ウイグル自治区天山山脈南麓の和静県,北麓の精河県,鳥蘇県,アルタイ山脈南麓のホボクサル・モンゴル自治県などに暮らしている.中国では単独の少数民族には認められておらず,民族分類上モンゴル族の中に一括されている.
一方ヴォルガ川流域に残った者たちの子孫は,現在ロシア連邦内にカルムイク共和国を形成している.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者: 楠木賢道))

(注2) ツォルトゥスユルドゥズ草原 | Yulduz[テュルク] Yultuz[ウイグル]
新疆ウイグル自治区,天山山脈内奥に位置する広大な遊牧地.現在はモンゴル語でバインブラク(バインブルク、豊かな泉)草原と呼ばれる.

ボスタン湖に注ぐユルドゥズ(カイドウ=開都)川の水源地.標高は3000m前後,ほぼ南北50Km,東西200kmに及ぶ大盆地をなす.4000〜5000m級の山岳に囲まれて,冬は南北縦断道路が閉ざされ,遊牧民は盆地周縁の山岳内部の小渓谷などに分散するが,夏は天山を東西南北に越える交通連絡網の要にもなる.こうした地勢から,歴史上、中央ユーラシア北方の遊牧勢力が南部オアシス地域を支配する重要な拠点となった.6世紀半ば,突厥(とっけつ)の西面可汗イステミ(室点蜜)は本拠地をここにおいてビザンツ使節を迎えたとされる(西突厥).突厥のあとウイグルをはじめとするテユルク系遊牧民が展開したことは間違いない.
モンゴル帝国期以後,また清朝の新疆支配を経て現在では約1万人の遊牧民の95%をモンゴル族が占め,残りはカザフ族である.1980年代から新疆の市場経済化や天山山麓オアシスの都市化が急速に進み,増大する食肉需要に応える必要から牧畜の私的経営が奨励され,外部機関の牧地も根づいた.その結果,100万頭の家畜による過放牧という危機がせまり,草地の保護が大きな課題となっている.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:梅村 坦))


# by satotak | 2008-04-24 21:15 | 東トルキスタン |
2008年 04月 13日
コソボ独立の見えざる背景 -人民自決の今日的意味-
「【正論】コソボ独立の見えざる背景」 佐瀬昌盛 (産経新聞 2008.4.11)より:

国際法の諸則は高尚だが…
 セルビア共和国のコソボ自治州の独立宣言からほぼ50日、独立承認国数が増えている。日本も承認に踏み切った。他方、セルビア擁護のロシアはコソボ独立を国際法違反と決めつけ、だからコソボの国連加盟見通しは立たない。ロシアほど激しくはないが、中国もコソボ独立に反対している。

 ところで、ではコソボ独立の国際法上の準則は何かとなると、わが国の報道は皆無に近い。いや、そんな議論は不要だ、国連憲章第1条2の「人民の自決の原則」(俗に言う民族自決権)がそれに決まっているじゃないか、との声があろう。それは謬論(びゅうろん)ではない。が、ことはしかし簡単ではない。この問題の議論は、将来の国際秩序の根幹にかかわるものだからだ。

 憲章第1条を念頭に国連総会は1966年、2種の国際人権規約を採択した。その第1条はともにこうだ。「すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し、並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」

 1990年代のセルビアによる「民族浄化」の煉獄(れんごく)、それを排除した99年春のNATO(北大西洋条約機構)によるセルビア空爆、同年6月の国連安保理決議1244下での9年間という曲折に照らせば、「人民の自決の権利」こそがコソボ独立の根拠たることは自明である。だが、2月17日発出の長文の独立宣言にはこの原則への言及が全くない。これはなぜだ。

「人民自決」は強調できず
 他面、独立宣言には、コソボ問題で国連事務総長特使を務め、ほぼ1年前に苦心の報告をまとめたアハティサーリの名が8回も登場する。つまり、独立宣言はコソボを将来的にはセルビアともどもEU(欧州連合)の翼で抱擁するとのアハティサーリ構想に導かれたのだ。

 ところで、委曲を尽くしたアハティサーリ案にも、輝かしい「人民の自決の原則」への言及は皆無である。だから、独立宣言はアハティサーリ案ともどもに崇高な「人民の自決の権利」への裏切りだと叫ぶ急進的原理主義組織が、コソボにある。ただ、その報道はわが国にはない。

 独立宣言派やアハティサーリは「人民の自決の原則」を否定したのか。無論、そうではない。彼らは同原則の強調ではなく、非強調の道を選んだまでだ。では、なぜ非強調なのか。国連憲章中のいくつかの理念は、個々にはいかに高尚なものだろうと、脉絡(みゃくらく)なくそれぞれを強調すれば、今日では結果として深刻な相互矛盾を生む。好例が、憲章第1条1の「国際の平和及び安全」の維持と同条2の「人民自決」原則の関係だ。後者の絶叫は前者を危うくする。

 15年前、ブトロス・ガリ国連事務総長は国際社会がボスニア紛争処理を間違うと、アフリカだけでも200の国家が出現しかねず、国連は機能しなくなるとの懸念を語った。同じころ、クリストファー米国務長官は、異なるエスニック集団が一国内で同居する方法を見いださないと、世界は「5000ほどの国家を抱えてしまう」と嘆いた。

 このおぞましいシナリオはまだ退役していない。その回避のため、「人民自決原則」の非強調という知恵が、現代世界にとり必要なのだ。

個別に「最適解」を探す努力
 ロシアのコソボ独立反対の論拠は結局、前述の安保理決議1244がセルビアの「領土保全」を謳っているではないかというにある。確かに「領土保全」は国連憲章やCSCE(欧州安保協力会議=当時)のヘルシンキ宣言などの国際法規範で重視される原則だ。が、絶対的な「領土保全」思想は、そもそも領土関係の変更を理論的に排除しない「人民自決原則」と微妙な緊張関係に立つ。ならば、ここでも純粋原則それぞれの強調ではなく、むしろ非強調に難題処理の実際的方策を求めるほかあるまい。

 六十数年前の国連憲章成立時はおろか、1966年の国際人権規約採択時においても、今日の世界に見るような既存国家からの分離独立志向の蔓延(まんえん)といった事態は予見されていなかった。憲章第1条1「国際の平和及び安全の維持」と同2「人民の自決の原則」とは調和関係にあるはずだった。しかし、そういう牧歌的な時代はとうに終わった。さりとて、それ自体は高尚な後者の原則の廃止は、いまさら不可能である。では、どういう方策があり得るか。

 国際政治の場が無原則であってはならない。が、そこでの現実問題は同じものが2つとはなく、すべて個別的だ。ならば、原則を忘却せず、しかし原則を絶叫するのではなく、個別主義的に最適解を探すこと。世界各地域の分離独立志向を扱うにはこれしかない。

# by satotak | 2008-04-13 12:21 | 民族・国家 |
2008年 04月 10日
東トルキスタン共和国時代のジュンガリア
王 柯著「東トルキスタン共和国研究」(1995 東大出版会)より:


東トルキスタン共和国支配地域 (1945年9月現在)
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共和国政府の大ウイグル主義的傾向
新疆では、五つのトルコ系イスラム民族があり、それはウイグル人・カザフ人・キルギス人・ウズベク人とタタール人である。東トルキスタン共和国政権には、各トルコ系イスラム民族はみな自分の代表をもっていた。たとえば、政府王席のイリハン・トレはウズベク人であり、副王席アキムベグ・ホジャはウイグル人であり、教育省長官アビッブ・ヨンチはタタール人であり、民族軍の副指揮官イスハクベグはキルギス人であり、遊牧業省長官オブリハイリ・トレはカザフ人であった。たしかにモンゴル人の政府委員もいたが、それはいかなる実際の職にも就かず、結局「民族平等」の飾り物にすぎなかった。このような政府委員会メンバーの民族構成は、東トルキスタン共和国がトルコ系イスラム諸民族を主体とする民族国家であることを示している。

東トルキスタン共和国の指導者たち
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しかし、同じトルコ系イスラム民族同士であるにもかかわらず、ウイグル人、ウズベク人、タタール人らオアシス農耕業・商業など同じ生産様式を有するトルコ系イスラム住民は、草原遊牧業を営むカザフ人に対して、政治的な民族差別が設けられていた。

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東トルキスタン共和国領内の総人口は、70万5148人である。そのうちカザフ人は約52.1%、ウイグル人は約25.3%を占めている(表9-1)。ところが、東トルキスタン共和国指導部の構成は、必ずしもこの民族構成を反映していなかった。1944年11月12日に設立された東トルキスタン共和国の臨時政府委員会の17人の委員のうち、ウイグル人が10人、ロシア人が二人、タタール人が二人、ウズベク人が一人、カザフ人が一人、モンゴル人が一人であった(表5-1を参照)。たんなる人数と職務の面からみても、東トルキスタン共和国政府は、主にウイグル人によって構成されていることがわかる。

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新疆のウズベク人とタタール人の人数は非常に少ない。1944年の新疆民政局の調査によれば、当時の新疆省総人口のうち、ウズベク人はわずか0.62%、タタール人はわずか0.14%を占めているにすぎない。にもかかわらず、東トルキスタン共和国主席はウズベク人であり、また政府の要職についているタタール人の政府委員も二人いた。それに比べ、現地人口の過半数を占めているカザフ人の政府委員は、わずか遊牧業省長官に任命された一人であった。ここから、カザフ人が東トルキスタン共和国の政策決定にほとんど影響力をもたないことが、想像できるであろう。

1944年11月12日以降、九人の新しい政府委員が任命された(表9-2)。監察委員会副委員長に任命されたタタール人のワカシ・ハジ、ソ連から軍を率いてきたロシア人のパリノフとキルギス人のイスハクベグ、和平交渉の代表に任命されたウイグル人のエホメッドジャン・カスミを除き、タルバハタイ区・アルタイ区が相次いで東トルキスタン共和国の勢力範囲に入ってから、五人のカザフ人政府委員が任命された。しかし五人のうち、一人は着任が不可能で、三人は地方の責任者であり、残った一人は東トルキスタン共和国の首都クルジャにいたが、いかなる実際の職務にも任命されなかった。つまりいずれも東トルキスタン共和国の政策決定集団に入れられなかった。東トルキスタン共和国において、ウイグル人・ウズベク人・タタール人の政治的優位性に対し、カザフ人がむしろ被支配民族の立場に立たされた理由は、二つ挙げられる。

まず指摘すべきなのは、カザフ人自身の東トルキスタン民族独立運動に対する情熱が、ウイグル人・ウズベク人・タタール人のそれほど強くなかったことである。歴史的にも、アルタイ区とイリ区とは別々の行政単位であり、ウイグル人が多く住むクルジャは、いかなる時代においてもアルタイ・カザフ人の行政的中心とならなかった。本来、東トルキスタン民族独立運動はウイグル人が主体である運動であり、カザフ人には東トルキスタンという意識はなかった。アルタイ区あるいは新疆北部のカザフ人地域は、むしろ「東トルキ.スタン共和国」の時代にはじめて「東トルキスタン」の領域に含まれるようになった。そのため、東トルキスタン共和国に合流してからも、アルタイ区はイリ区にある共和国政府とは、あまり関係しなかった。

しかし、もっとも重要な理由は、ウイグル人、ウズベク人、タタール人のカザフ人に対する民族差別思想にあった。同じトルコ系イスラム住民といっても、実際はカザフ人とウイグル人・ウズベク人・タタール人とのあいだには、大きな文化的隔たりが存在している。ウイグル人・ウズベク人・タタール人のあいだには、オアシス農耕業・商業など同じ生産様式を共有することによって、民族的文化的違和感が非常に希薄であった。しかし一方でウイグル人・ウズベク人・タタール人は、草原遊牧業を営み、彼らとまったくちがう文化構造と社会構造をもっているカザフ人に対し、むしろ文化・経済の側面で差別をつけている。このような差別主義思想は、共和国の行政にも反映されていた。

1946年4月14日の第262号政府決議は、厳しい口調で次の事項を決定した。「一、財政省計画局によるアルタイ区の32万1360元の予算を批准する、二、その使い道について、アルタイ区官庁としては、厳格に審査し、使用状況を機関の首長と会計人員によって共和国銀行に報告しなければならない、…」。決議の日付から、…1946年度の予算であったとわかる。これをアルタイ区で5000万元の「勝利国債」発行を命じた1945年8月22日の第85号政府決議と考え合わせると、予算の金額はあまりにも小さかったと実感せざるをえない。

アルタイ区財政局長ラティプ・ムスタファが当時クルジャにいたため、この金は後に彼によってアルタイ区に運ばれたかもしれない。しかしここで注目すべきは、ラティプ・ムスタファの「クルジャの旅」がアルタイ・カザフ人分裂の大きな引き金となったことである。ラティプは5月にアルタイに帰ってきてからまもなくオスマン・イスラムのもとへ走り、そこから、オスマン・イスラムがチンギリ県、コクトカイ県、ブルルトカイ県において、本来共和国政府によるはずの徴税を独自に開始し、アルタイの町にあるアルタイ区政府、そしてクルジャにある東トルキスタン共和国政府との対決姿勢をみせはじめた。…

オスマン・イスラムの離反は、たんに民族的な要素によるものとは考えられない。そのもっとも重要な理由はオスマン・イスラムの反ソ感情である。…しかし、ラティプ・ムスタファがクルジャから帰った後ただちにオスマン・イスラム自らが徴税しはじめたことを考えると、ラティプ・ムスタファがクルジャで体験したカザフ人に対する経済的な差別が、オスマン・イスラムを離反に走らせた一つの要因ではなかと言わざるを得ない。

カザフ人 オスマン・イスラム
…ソ連が領内のトルコ系イスラム住民とイスラム教に対して弾圧策を取っていたため、東トルキスタン共和国のトルコ系イスラム住民のあいだには、ソ連に反感をもつ人びとが少なくなかった。旧政権と戦った当初はソ連の支援を受けていた一部の民族指導者にも、民族の解放を達成した後、東トルキスタン共和国におけるソ連の横暴に対して不満が噴き出した。アルタイ・カザフ人指導者オスマン・イスラムの場合はその一例であった。

オスマンは最初からアルタイ・カザフ人の反政府運動を指導してきた人物であり、カザフ人にオスマン・バトル(オスマン英雄)と呼ばれていた。しかし1945年9月にアルタイ区の東トルキスタン共和国政権が樹立された際、アルタイ騎兵連隊長・警察局長・各県長など重職に就いたのは、オスマンの側近ではなく、ソ連からきた人物と親ソのカザフ人であった。10月に中国国民政府との和平交渉がはじまってから、内政干渉という口実を与えないため、ソ連はかつてカザフ人ゲリラ・グループに支援したソ連製武器を強引に回収した。この二つのことはオスマンの強い不満を引き起こし、彼はアルタイ区の知事に任命されてからも、しばらく就任しなかった。

オスマンの反ソ感情は、彼の強い宗教信仰心につながる。30年代にソ連から新疆に亡命してきた一人のカザフ人ウラマーが、オスマンに「ソ連が宗教を滅ぼす」と教えたことが、オスマンに大きな影響を与えたとも言われる。オスマンの反ソ感情は、またカザフ人の反ソ志向にもつながる。オスマン自らの話によれば、ソ連がかつてカザフスタン共和国のカザフ人に対して残酷な鎮圧を行ったため、新疆のカザフ人は本来反ソ的であったという。そのため、アルタイ区が東トルキスタン共和国の一部になると、オスマンの複数の部下は、早くも国民政府に降伏した。

やがて和平交渉がはじまり、政府部門とアルタイ騎兵連隊にいたソ連人は撤退した。その後、1945年11月4日にオスマンはアルタイの町に行き、アルタイ区知事に就任した。そこで、彼はシャリーア法の遵守を要求し、「礼拝しない者に50の鞭打ち、断食を行わない者に100の鞭打ち、酒を飲む者に30の鞭打ちの刑を処するべき」との命令を下した。それまでとはまったく異なる統治策をとったため、オスマンは親ソ的カザフ人と衝突し、1946年3月19日にアルタイの町を去り、コクトカイ県で自ら軍を組織し、さらに5月からアルタイ区東部のチンギリ、コクトカイ、ブルルトカイの数県において独自に徴税を開始した。

1946年5月には、ソ連のタングステン採掘隊が、盛世才と1940年に結んだ協定に基づいてオスマンの根拠地コクトカイ県に入り、採掘しはじめた。オスマンは、「私は我が領土、我が宗教を侵略するあらゆるものに、いかなる道をも開かない」と、それを武力で駆逐するよう強く主張し、親ソ的アルタイ区副知事・アルタイ騎兵連隊長デレリカンはこれに反対した。アルタイ・カザフ人の有力者たちは、オスマンが住むク・ウェ地方に集まって対応を討議したが、結局共通の認識がみつからず、アルタイ・カザフ人はついに親中国国民政府と親ソ連の二つのグループに分裂した。


(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)
オスマン | Osman, Ospan[カザフ] | 1899ころ〜1951
1940年代に新疆で活動したカザフ人の首領.
盛世才政権は,アルタイのカザフ人に対し遊牧社会の改変を強制し,有力者を圧迫した.1940-41年の反乱は鎮圧されたが,43年のオスマンとダリルカンを指導者とする反乱は44年にかけて勢力を拡大した.
一方,44年8月にイリ地区で勃発したテュルク系ムスリムの反乱は,11月には東トルキスタン共和国の樹立へと進んだ.この反乱で組織きれた〈民族軍〉はアルタイにも進出し,ダリルカンと協力して承化(現アルタイ市)を攻略した.45年,アルタイ地区は反乱勢力の手に帰し,オスマンは地区専員に任ぜられた.46年,イリの反乱者と国民党政府との和平協定により新疆省連合政府が成立した後,オスマンはしだいに国民党に接近した.それにより国民党側はイリ反乱勢力の分断を図った.
49年,国共内戦の最終段階で中国西北部に進攻した人民解放軍は,省政府主席ブルハンの要請に伴い新彊に進駐した.アルプテキンら国民党系のウイグル人活動家がトルコに亡命したのに対し,オスマンは中国領内で抵抗を続け/が,人民解放軍に捕らえられ,処刑された.
政治的傾向は必ずしも明確でないが,アルタイ地域のカザフ人としての領域意識が濃厚であったとする評価もある.   (筆者:新免康)

# by satotak | 2008-04-10 21:39 | 東トルキスタン |