2008年 07月
清朝治下ジュンガリアのカザフ -アブライ以後- [2008-07-30 22:05 by satotak]
18-19世紀のカザフ草原と露清関係 [2008-07-14 17:57 by satotak]

2008年 07月 30日
清朝治下ジュンガリアのカザフ -アブライ以後-
Linda Benson、Ingvar Svanberg著「China's Last Nomads: The History and Culture of China's Kazaks(中国の最後の遊牧民:中国カザフの歴史と文化)」(M.E. Sharpe 1998)より:

…アブライが1781年に70歳で死んだ時、カザフの独立の時代は終わろうとしていた。彼の後継者達は彼と同じ権力や威信を享受できず、中国とロシアの両国はカザフからそれぞれの支持者を引き抜き続けた結果、カザフは分裂し、中央アジアの領域で両国の支配力が強化された。例えばナイマンは彼ら自身のハーン、アブル・ガジーを選出したが、彼は中国の支持のもとに統治した。中ジュズの部族のより重要な分裂が、アブライの後継者であるワリーが自分の息子を1794年から95年に中国に派遣した時に起った。これはステップに対するロシアの影響に対抗するために、中国にカザフの臣従を示すものであった。不幸にもこの動きに対し、一族の一部はロシアに保護を求めた。これによって彼の勢力は弱められ、ワリーは最終的には中国の領域に保護を求め、1806年に清の領域に移動した。ロシアは彼の後継者にブケイ・ハーンを任命した。1817年ワリーが死に、続いて1818年にブケイ・ハーンも死んだ。

このような変化も、ロシアとアブライの後継者との関係を改善することはなかった。彼の息子サルジャンはステップに対するロシア勢力の拡張に積極的に対抗した。サルジャンが1836年に死ぬと、彼の兄弟ケネサル・カスムが武力による敵対を引継いだ。1838年にケネサルはハーン位の復活を要求した。彼は約20,000人を率いて攻め、ロシアの交易を8百万ルーブル程度にまで崩壊させた。ケネサルは多くの面でアブライの立派な後継者であった。彼はカザフの法律を整備し、裁判官を任命し、彼の領土を旅する隊商に課税した。しかし彼が大きな犠牲を払ってもたらしたロシアの交易の崩壊は、大規模なロシアの反撃を招き、その結果としてケネサルは1844年に恩赦を受入れざるを得なかった。彼と彼の追随者はその後キルギズに加わり、コーカンド・ハーン国から独立しようとする彼らの企てを援助した。彼は1847年戦闘の中で死んだ。

中国の領域内では、18−19世紀の短い期間カザフのハーンや王公が個々に清の臣下になり、当局に要求されるままに貢物を納めた。カザフはまたジュンガリアと西部ステップの間を行き来し、イリや東トルキスタン−清のいわゆる西域の他の中心地で清と交易をした。中国とロシア帝国間の正確な国境は不明確なままであったが、両国はついに1864年10月7日にタルバガタイ協定に同意した。この協定に基づき、国境が確定し、イリ総督の管轄下にある清の領域内に居住するカザフは今や清の臣下となった。

清の西部領域は北京の支配者からははるか遠くに離れており、しかもこの領域を維持するために清は膨大な出費を余儀なくされていたにもかかわらず、反逆によってこの領域が清支配から離脱されそうになると、清朝は北西部における自らの地位を保つために必要ならばいくらでも資金−そして人命をつぎ込むことを決意した。かくして「異教徒」である中国の手からカシュガルを解放し、イスラム教徒にイスラムの支配をもたらすべく、1864年にカシュガルに到着したコーカンドのヤクブ・ベグの反乱に対して、清は長征を開始し、1877年にヤクブ・ベクが死に、清の支配が再建された。そして清朝はこの全領域を帝国の一行政単位にすることを決意し、1884年にそこが新疆省であると宣言した。

ヤクブ・ベグの反乱の間に、以前からこの地域での機会を窺っていたロシアが、そこで働いている自国民の保護を表向きの理由にして、イリ川渓谷全体を占領した。清の当時の外交は全般に拙劣なものであったが、清はイリ渓谷からロシアを撤退させ、この土地に対する彼らの権利を再び主張することに成功した。

19世紀の終りになる頃、中国とロシアの両国が非常に長くなったお互いの国境の安定を維持する事に関心を持ったことは明らかである。しかしこの時期を通して、ロシア側のカザフ人は東トルキスタンに侵入し続けた。例えば1878年に9,000人を下回らないカザフ人がロシアの領域を去り中国に向かった。彼らの多くははるか奇台(チータイ)の町まで行こうと試みた。ロシアの探検家プルジェヴァリスキーが、カザフ人の群衆がジュンガル沙漠を移動する間に渇きに屈服して残した多くの腐敗した死骸を見ている。

カザフ人をこのような危険な企てに駆り立てたのには様々な理由がある。1861年にロシアで農奴制度が廃止された後で、ロシアの農民は東方に移動し、中央ユーラシアに定住し、耕作を始めた。500の村が19世紀の末までにステップに設けられたが、これは、それまで主にカザフ人の遊牧地であった土地に新しく永住した者に資金を与えるという1895年の帝国政府指令に後押しされたものだった。カザフ平原におけるロシア人とウクライナ人の増加が東トルキスタンへのカザフ人の絶え間ない移住の重要な要因であった。

しかしロシア人の入植と定住がカザフ人の中国領域への移動の唯一の原因ではなかった。政治的な動揺と中国の領土に対するロシアの要求もまたカザフ人を国境に直に接している地域から押し出した。ロシアと中国間の第二次タルバガタイ条約が調印された1883年に、カザフ人が東ジュンガリアのバルコル地域に移動し始めた。最初のグループである90家族ほどが、中露間の国境にあるアルタイとタルバガタイ山脈の牧地の先行き不安に見切りを付け、バルコルの比較的安全な土地に向かった。彼らに続いて、1895年に別の200のカザフ人家族がアルタイを離れた。

20世紀の初めに、中国内のカザフは主に新設された新疆省の北西端地域に集中していた。彼らは満州政府が定めた階級体系に基づいて統治されたが、この階級の一つがロシアに隣接する各地域に責任を持つアンバンであった。このような官吏が清の権威の下に支配したが、カザフの領域の統制はなお伝統的なカザフ人エリートの手中にあった。しかし彼らの称号は北京にいる満州人支配者によって承認されるようになった。満州人は重要な指導者に対して、ハーンという称号ではなく、ワン(王子)という称号を与えた。また彼らは一般的なものとしてタイジ(族長)という称号を授与した。タイジの下にはミンバシ(千戸長)、その下にジュズバシ(百戸長)があった。このような称号や10家族単位の考え方は、中国で村落レベルの支配のために補助的な行政組織として長い間用いられていた保甲制(Bao-jia)のシステムと同様のものである。その目的とするところは、遊牧民の集団を管理可能な単位に分割し、政治的な力を別々の同族グループに分散させることであった。それ故にタイジは部族の指導者と清の官吏という二重の役割を持っていた。この結果は、様々な同族グループに広範囲な自治を与える比較的安定した行政システムとなり、しかもそれは清にとっても好都合なものだった。

他の伝統的な称号も使われ続けた。例えば、バツール:戦場でのみ得られる世襲されない称号、トレ:高貴の生まれであり、アブライのようなカザフの偉大なハーンの家系に属す者、またハーキム(裁判官)、ホージャ(教師)、イマーム(宗教上の教師)、ムッラ−(宗教上の指導者)のようなイスラムの称号も使われた。清朝から授与された称号はそれを受け者たちに大いなる権威を与えた。1911年の革命によって満州人によってもたらされた称号と褒賞のシステムは突然に消滅したが、1949年までこれらの称号を使い続けた一族もあった。

19世紀末に至るまで、清王朝は中国の帝政期を終らせることになる多くの挑戦に悩まされ続けた。満州人は1644年に継承した領土を二倍以上に拡大し、帝国内の人口は150万人からほぼ400万人に増加した。防衛し統治しなければならない領土の拡大と膨大な人口増加が体制崩壊の原因となった。中国社会にとって1912年の共和革命は大変重要なものであったが、しかし遠く離れた北西部の統治は過去の中国の慣行に深く依拠したままであった。…

# by satotak | 2008-07-30 22:05 | テュルク
2008年 07月 14日
18-19世紀のカザフ草原と露清関係
宇山智彦編「講座 スラブ・ユーラシア学 第2巻 地域認識論――多民族空間の構造と表象」(講談社 2008)より(筆者:野田仁):

はじめに
モンゴル帝国の一部としてキプチャク草原を中心に展開したジョチ・ウルスは、いくつかの後継政権に分かれたが、その一つに15世紀後半に「成立」したカザフ・ハン(ハーン)国がある。チンギス・カンの後裔を戴くこの遊牧政権下の集団は、現代カザフ民族の祖となり、キプチャク草原の東半はカザフ草原と呼ばれるようになった。

カザフ・ハン国は、17世紀後半から1740年代にかけてジュンガル(オイラト)の侵略に苦しんだ。18世紀までには三つの「ジュズ」と呼ばれる部族連合体が成立し、複数のハンが並び立つようになっていた。西部の小ジュズは、ジュンガルのほか、トルグートやバシキールに囲まれており、その苦境を解決するためにロシアに使者を送って保護を求めたのは1730年のことである。のちに、ジュンガルの政権が崩壊し、東方の中国(清朝)と接するようになると、清朝に対して朝貢を行う者もいた。こうして、両国の影響を受けながらも独自の政権を保持していたカザフ人であったが、19世紀になるとロシアの影響力は強まり、最終的にカザフの多くはロシア帝国に併合された。ただし、一部は清朝領内にとどまり、いまなお中国新疆ウイグル自治区の主要民族の一つとなっている。このような分断の状況は、まさにロシア帝国と清朝という二大帝国のはざまにあって、両者との関係に翻弄された結果であるともいえる。

翻って研究史上では、カザフとロシアの関係をあつかう論著は数多くあるが、露清関係をも視野に入れながらカザフと清朝のかかわりを検討するものは稀であった。…
独立後のカザフスタンにおいては、より自立したカザフの動向を描こうとする傾向が強くなった。最新の『カザフスタン史』は、カザフと清朝との関係を、遊牧地の獲得と貿易の問題の二点に集約している。近年では、19世紀に貿易によって露清両国を結んだカザフの役割に着目する研究が目立つが、…

[拡大図]

■大清帝国の「藩属」として
清朝への帰順
1757(乾隆22)年、清朝のジュンガル追討の軍勢には抗しがたく、中ジュズのアブライら、さらに翌年には大ジュズのアビリス・ハンらが使者を送り、降伏状を差し出した。これにより、カザフと清朝との公式な関係がはじまった。トド文字オイラト語によるアブライの降伏状には、…ロシアヘの宣誓におけるようなイスラームに関連する要素を見出すことはできない。降伏状の内容を伝える上奏文(満洲語)によれば、アブライは「我が子弟、カザフのすべてとともに、あなた様の臣(albatu)となりました」と述べ、清朝が考える君臣関係に沿う文言となっていた。乾隆帝はアブライの使者を謁見し、この降伏を受け容れて爵位を与える旨を伝え、両者の関係が開始されたのである。

片岡一忠によれば、清の支配体制は、「ハーン−宗室・八旗−外藩王公」というハーン体制と「皇帝−中央−地方−朝貢国」の中華王朝体制の二層構造として理解できる。この中で外藩とは、本来、朝覲(ちょうきん、正月の皇帝への拝謁)を義務づけられ、代わりに爵位などの恩典を受けたモンゴル王公やハミ・トゥルファン王を意味していた。佐口透が整理したように、カザフのハン一族も子弟を朝貢使節として定期的に派遣し、草原の支配者として承徳に在る清朝皇帝に拝謁し、爵位を授けられた。具体的には、カザフのハン位に擬した「汗(han)」をはじめとして、王(wang)、公(gong)、台吉(taiji)の各位があった。カザフにとってのこれらの爵位の意味は、清朝による権威づけにあり、また爵位を受けたスルタンを中心にして、新疆において貿易を行う権利を得ていたのである。このことから、カザフをモンゴルや新疆の王公に次ぐ「外藩の外縁」とみなすものだったという見方もあるが、いずれにしてもカザフが、外藩の周縁に位置し、清朝の意図する国際秩序に緩やかに組み込まれた「藩属」として朝貢をゆるされ、文字通り清朝の「藩屏(はんぺい)」として緩衝的な役割を担わされたことは聞違いない。

それでも、コーカンドやクルグズなど他の勢力と同様に、カザフの清朝に対する臣従も名目的なものに過ぎなかったことも明らかであった。それゆえに、アブライとその子ワリーの時代のカザフは、露清両国への「二方面外交」を行うことができたのである。

カザフの管理
ジュンガル滅亡後、その旧領を自らの故地とみなしていたカザフは、タルバガタイ・イリ周辺の清朝領へも侵入を繰り返した。これに対して清はカルン(?倫)と呼ばれる哨所を設け、各カルンを結んだ線はロシアのシベリア要塞線のごとく、異民族の牧地との境界となっていた。清が想定する自領の境界はカルン線の外側にあったため、「国境線」とカルン線の間の土地について、毎年秋に部隊を派遣し、「巡辺」(巡査辺界)と呼ばれる哨戒を行っていた。ただし、冬季のみはカザフにカルン線内の遊牧を許しており、その代償としてカザフからアルム税(租馬)をあつめる必要があったが、まさにこの巡辺のときに徴収を行ったのである。さらに、カザフが新疆に派遣する隊商の身元確認もカルンで行い、カルンはカザフを含む異民族との関係の窓口であった。カザフを管掌していたのは、イリ・タルバガタイ・コブドの各将軍・参賛大臣およびその指揮下にあった各カルンであり、清朝はこれらを通じてカザフを管理していたと言える。

ロシアがカザフ草原に管区制度を展開し影響力を強めるにしたがって、上述の巡辺部隊がカザフの遊牧地においてロシアの家作やロシア人の部隊を目撃することもあった。こうして露清間にカザフ草原をめぐる問題が発生し、両国の政府間交渉にまで発展する事例が見られるようになる。…

■ 露清関係におけるカザフ草原
両国政府間での交渉
カザフが清に公式に使者を派遣するよりも早く、1756年から、ジュンガルの処置をめぐって露清間で文書の往復があった。ジュンガルの長を自称したアムルサナーがカザフの牧地に身を隠したため、カザフの牧地の帰属が両国間で初めて問題となったのである。ロシアがこの中で、小ジュズのハンが宣誓を行うのみならず人質を送りさえしていることを根拠として、カザフ全体のロシアヘの帰属を主張していることは興味深い(1758年)。一方の清朝は、カザフが清の臣となったことはたしかだが、その関係は人質や徴税によるものではなく、「爵位を与え、慈悲をもって賞する」ものであることを、同じ58年にロシアに伝えていた。カザフとロシアの関係についても、「カザフには二心あり」と自覚的でありながら、積極的に阻害しようとはしなかったのである。結局、カザフは両国に帰属をもつという曖昧な状況のままであった。清朝がジュンガル旧領のアヤグズ川・バルハシ湖までを自領とみなしていたことはロシアも把握していたが、そこにはカザフの遊牧地も含まれており、事態をなお複雑にしていた。

ここまでに整理したように、西のロシア側では管区制度を展開し、東の清朝側では巡辺を通じて国境地帯の管理を行っていた。この二つが接近することで当然ながら問題が発生し、両国間で交渉が行われた。まず1820年代の…事例から見てみよう。

○カザフ遊牧地内のロシア人
1825年、バルハシ水系カラタル川流域のカザフ(大ジュズ)の牧地にロシア人が建てた家屋について、カザフのスルタンが清朝の巡辺部隊に報告した。すぐに清朝政府は討議を行い、…カラタル地方とカザフとを切り離し、カラタルは清朝領であることをロシアに対して主張する方針を定めた。この内容は清朝の外務省と言うべき理藩院からロシア元老院へ送られ、両国政府間の交渉に発展したのである。
ロシアは、翌26年5月10日付で返書を送った。露清関係の基礎であるキャフタ条約(1725年)に規定がなかったために、「カザフは独立している」との認識を示し、清の主張を否定した。さらに、あくまで「カザフの大ジュズの請願にしたがって」ロシア.軍がカザフの地に派遣されたことを述べ、自らの責任を回避することで、清との関係が悪化しないよう配慮していた。

両者の主張を比較してみると、清側が土地の帰属を問題にしていたのに対し、ロシア側ではカザフ[族]の帰属がより重要であった。…
清との関係維持をはかるロシアは自ら家屋を撤去し、この件は不問に付されたが、カザフ草原における境界についてはじめて争われたこの事例は、のちの問題発生時に規範とされたのである。…

スルタンたちの動向
1822年の規約以来、管区導入を請願するスルタンが相次いだ一方で、ロシアの統治拡大に公然と反対する者もいた。なかでもアブライ・ハンの子カスムらの管区反対文書がよく知られている。その子サルジャン、ケネサル兄弟はのちにロシア統治に対して抵抗し、とくにケネサルはカザフ草原最大の反乱の指導者となった。…

また、ロシアに従わない道を選び清朝領に移る者もいた。前述のジャンブベクについては、「アヤグズ管区開設の際にロシア皇帝への忠誠を誓わず、清朝宮廷から王の位を得て……書簡とともに自分の子をタルバガタイの大臣のもとへ派遣し、ロシアからの保護を求めた」と報告されている。さらに、その弟スパングルは、アガ=スルタンの地位をめぐってサルトに敗れ1833年に清朝領へ移動した。のちにロシアに反旗を翻すも、1839年に失敗に終わり捕えられる結果となっている。

逆に、清朝領内に牧地を持つにもかかわらずロシアの保護を求める請願も見られた。1847年のドランバイ・スルタンの請願にかんする報告によると、ドランバイが率いる「[中ジュズの]バイジギト部族のカザフは長年清の臣民であり、貢納を行い」、清のカルン線内でも遊牧をしていた。ドランバイは、皇帝の庇護によってロシアに属するカザフとの諍いを収めるためにオムスクを来訪したのである。前後して、やはり清朝領内を遊牧するクゼイ部族のブテケ・スルタンもオムスクに赴きロシアの臣民となることを願った。ただし、清朝領内にとどまりながらもロシア皇帝の恩恵にあずかろうとする彼らの請願は認められなかった。上のことからは、少なくともロシアにおいては、ロシアに帰属するカザフと、清に帰属するカザフを次第に区別するようになったことがうかがえるのである。…

最後の事例として、大ジュズのテゼク・スルタンの動向と露清の交渉を取り上げる。
この交渉は、1848(道光28)年に、清朝に属するモンゴルからカザフが馬を盗んだ事件を契機としていた。この地を担当する伊犂(イリ)将軍の薩迎阿(サインガ)は、翌49年10月の上奏文において、馬を捜索した巡辺の状況を伝えている。清の部隊はカラタル方面で、ロシアの大ジュズ監督官ヴランゲリ男爵(巴蘭)と遭遇した。ヴランゲリは、カザフが盗んだ馬を探しに来たと告げる清の官員に対して、「カザフは我々[ロシア]が税を徴収する対象である」と主張し、道を開けず再三の説得にも応じなかった。続けてこの奏文は、ロシア元老院に彼らの引き揚げを求めることを提議し、12月に元老院へ文書が送られている。…

そこで、イリの官員は、カザフの台吉(タイジ)である「鉄色克(テゼク)」を派遣して様子を探らせた。イリに戻ったテゼクは、「ロシア人は西に遠ざかり、カザフの遊牧地は平穏である」と差しさわりのない報告を行った。このときテゼクは、清の爵位を受け、アルムを納め、貿易にも携わっていたが、同時にロシアとの関係も持っていたことに注意しなければなるまい。翌50年5月、テゼクは清の官員から、ヴランゲリが返還に応じなかった家畜の捜索を命じられたが、その指示書をテゼク自らがロシア側にもたらした。家畜をイリに届けたテゼクは、その後ロシアのコパル要塞に赴き、清朝側が家畜送還を喜んだことを報告しさえしている。

その後51年2月に、ようやくロシア元老院からの回答が清に到着した。ヴランゲリが「この地のカザフはもともとロシアの所属であるので、ロシアの官員が調査を行う」と回答したことを確認し、つづけて「ロシア所属のカザフのスルタン一名を派遣し、イリに[家畜を]送り届けさせる」との報告が中央にもたらされたことを伝えるだけだった。このカザフのスルタンとは上のテゼクにほかならず、ここで清はようやく大ジュズのカザフとロシアの浅からぬ関係を知るのであった。また、コパルに要塞を建設したのは、カザフが再三ロシアに営地を設けることを求めてきたためであると、ロシアは従来と同様の釈明をしている。

これを知った清は、次の伊犂将軍奕山(イシャン)らへ、近年カザフが清にアルムを納めているのかどうか、ヴランゲリは現在どこにいるのか等を調べさせた。この結果、奕山らは、テゼクはアルム税を支払い清朝との関係が失われていないことを確認し、かつヴランゲリは清の境界からは離れた場所にいるとの情報を得たため、これ以上の問題には発展しなかったようである。

この問題と並行して、1850年になると、イリタルバガタイにおける露清貿易について本格的に交渉が行われることになった。カシュガルを含め三ヵ所での取引を望むロシアに対し、清側は二ヵ所を主張し譲らなかった。その理由の一つとして、51年4月30日の奕山の上奏文は次のように述べている。

異国ロシアはカザフ地方で、以前より租税を集め、苦役を用いている。いまカシュガル貿易を請うとすれば、かならずやイリ西南のカザフに続いてクルグズからも苦役を徴発し、かつ租税を集めるであろう。

通商条約そのものは1851年7月に締結されるが、上の奏文からも、カザフの遊牧地にロシアが影響力を強める様を、清の現地官員が目の当たりにしていたことが理解されるだろう。事実、…大ジュズをロシアの影響下におくことは、新疆との貿易、とりわけカシュガルにおける取引のためでもあった。

ここにみた交渉は、大ジュズにまでロシアの影響力が広がっていったことと連動している。47年のコパル要塞に続き、54年にはヴェールノエ要塞が建設された。1867−68年の臨時規程の制定により、コーカンド領内のカザフを残して、ロシアのカザフ草原併合はほぼ完了したと言える。

おわりに
ロシアは当初よりカザフを臣民としてみなし、たしかな支配下におくための段階を踏んでいった。一方の清朝にとって、カザフはあくまでも「駕馭(がぎょ)[=統制]」すべき異民族に他ならなかった。ロシアの進山を受けても、カザフの土地を護るというよりは、実質上の国境となりつつあったカルン線内の確保に努めていた。清朝はチュー・タラス川までを自領(界内)とみなしながらも、1813年の上諭に見えるように新疆におけるカルン線外の地には干渉しないという方針を取るようになり、1830年代には、カルン線の内外は明確に区別されるようになっていった。このため、1831年に[ロシアの]シベリア・アジア両委員会がロシアの積極的な方針を決議すると、カザフ草原における清朝の影響力は除かれていったのである。

このような露清の方針の違いに対して、カザフ自身がどれほど自覚的であったかを把握することは、史料の制約もあり困難である。それでも、より有利な状況を求めて帰属を選択しようとする動きがカザフのスルタンにあったことはたしかであり、境界を越えての移動も行われたのであった。…

1864年のタルバガタイ国境画定条約以降も、カザフ草原における露清国境地帯はなお動的であり、新疆のムスリム反乱の影響を受け、越境は日常的なものであった。たとえば、前述のブテケ・スルタンは1865年、清朝領からロシア領へ移動を求めたが、のちに再び清朝領へ移り、子孫はそこで辛亥革命を迎えている。…

# by satotak | 2008-07-14 17:57 | テュルク