2008年 09月
昭蘇石人 -西突厥の痕跡- [2008-09-29 20:49 by satotak]

2008年 09月 29日
昭蘇石人 -西突厥の痕跡-
NHK「新シルクロード」プロジェクト編著「NHKスペシャル 新シルクロード2 草原の道-風の民 タクラマカン-西域のモナリザ」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一・内藤みどり):
…このイリ河は、天山山脈の万年雪から流れ出た雪解け水を集め、一年を通して豊富な水の恵みを周辺の草原地帯にもたらしています。…そこが単に草原地帯であるだけでなく、多様な植生にも恵まれた土地であることがわかります。天山山脈のイリ河流域は、古来遊牧民にとって豊かな草原地帯であったのと同時に、農耕民にとっても肥沃な土地でした。

このことは、突厥などに代表される騎馬遊牧民が、イリ河流域を根拠地にして強大な帝国を作ることになった大きな要因であったようです。

もともと遊牧というのは生産性が低く、それだけでは大きな経済力になり得ないのですが、古代遊牧民は略奪によって獲得した定住農耕民に農業をさせ、その収穫を帝国の経済力の基礎にしてきたといわれています。古代遊牧国家にとって天山山脈がひとつの重要拠点となっていたのは、その天山山脈を流れるイリ河によって豊かな農産物がもたらされたからなのです。

この古代騎馬遊牧民と定住農耕民の関係を示唆する遺物が、ナラティからイリ河をたどって下流に下った昭蘇(しょうそ)(注1)というところにあります。

その遺物というのは小洪納海(コナカイ)石人というもので、石人とは遊牧民をかたどって草原に置かれた石像なのですが、新疆の草原地帯には200体もの石人があちこちに点在していて、その多くは、突厥時代に作られたものと考えられています。この小洪納海石人には、他の石人とは大きく異なる特徴があります。それは、この石人の下半身の部分に、ソグド文字(元々シルクロードの交易の民として知られるソグド人の文字で、後に突厥もこの文字を使用するようになります)が刻まれているのです。

その文字は摩耗が激しく、また読める研究者も極めて限られている特殊な文字なので、久しく読解が困難とされてきました。しかし近年の研究で、その文字の一部がようやく読めるようになったのです。

石人に刻まれた文字には、六世紀末に突厥を治めた泥利可汗(ニリ・カガン)の名前が見て取れるといいます。その石人は、泥利可汗の業績を讃えるために作られたものらしいのです。中国の史書「隋書・西突厥伝」によれば、泥利可汗の后は漢人の女性でした。突厥によって略奪された女性だったと考えられています。当時は、突厥によって多くの漢人が略奪され、突厥領内に連行されていました。そして、その漢人は主に農耕民だったと考えられますが、突厥はその農耕民に、自分の領内で農業に当たらせていたらしいのです。…

こうして古代騎馬遊牧国家は、広大な領土を維持する経済力を東西貿易からだけでなく、定住農耕民を使った農業によって得ていたと考えられています。突厥は、遊牧民のみならず、農耕民や交易の民、異なる部族、異なる民族を飲み込んでその支配下に置きました。その意味で、突厥はいわば世界帝国の先駆けともいうべき遊牧国家だったのです。

◎ 昭蘇県の石人と達頭可汗(タルドゥ・カガン)の行方
…ソグド語・ソグド文字の突厥碑文がある。それは中国・新疆ウイグル自治区の伊犁(イリ)地区昭蘇(しょうそ)県にある石人の腰に書かれた縦書き約20行のソグド文で、これが突厥史の不明部分を明らかにすることになった。そこには第三代「木杆可汗(ムハン・カガン)」が「21年間国を保持した」こと、「26年後に木杆可汗の孫、神なる泥利可汗(ニリ・カガン)……」と見え、木杆可汗とその孫である泥利可汗の関係が記されているのである。この碑は泥利可汗のため、その子泥?處羅可汗(でいけつしょら・カガン)599年頃に建てたと考えられている。

実際、現地資料ほど研究に役立つものはない。この豊かな地域を根拠としていた泥利可汗(ニリ・カガン)の父は、木杆可汗(ムハン・カガン)の子で阿波可汗(アバ・カガン)の弟にあたり、泥利は阿波の甥であることがわかった(注2)。阿波可汗は第四代他鉢可汗(タトバル・カガン)の死に際して本国モンゴリアでの可汗継承戦に敗れると、最強の西面可汗である達頭可汗(タルドゥ・カガン)のもとに逃げ、援軍を得て第六代の大可汗沙鉢略可汗(イシュンバラ・カガン)と国を挙げての大戦乱となるが、阿波は沙鉢略に捕らえられる。これは、中国を統一した隋の、突厥分離策だったのである。達頭可汗が、隋軍を攻撃する沙鉢略可汗戦線から分離した時点(583年)を、東・西突厥の分裂とする見方もある。

ところで不思議なのは、これ以後しばらく達頭可汗(タルドゥ・カガン)の消息が途絶えたことである。代わって泥利可汗(ニリ・カガン)とその系統が、中部天山の北麓、豊富な雪解け水に穀物も実るという豊かな地にいたことが、昭蘇石人とその銘によって証明された。

頭に三つの円環をもつ王冠帯をつけ、後ろに長く弁髪を垂らしている昭蘇石人は、泥利可汗(ニリ・カガン)その人の姿を思わせる。かつては、溝に囲まれていた約30メートル四方の方形土台上の南東部に、東面して立っていたというが、筆者が訪問した2000年には、草が繁茂して方形台趾を確認するのが困難で、おまけに多くの新しい道もつけられ、十ほどの石人がその周囲に集められて石人公園となっていた。石人は是非もとの場所から動かさないでほしい。その置かれた状況自身が歴史を語るのであるから。

泥利可汗(ニリ・カガン)が亡くなった頃、達頭可汗(タルドゥ・カガン)はモンゴリアに現れ、大可汗都藍可汗(とらん・カガン)と提携して突利可汗(とつり・カガン)を南に追い、都藍可汗が部下に殺されると、ついに大可汗の地位に立った。かつて西面可汗であった達頭可汗は、東ローマのマウリキオス帝に手紙を送り、この時叛乱を平定して全土を統一したことを誇っているが、今はふれる余裕がない。しかし、西面可汗達頭が大可汗位を簒奪したこと自体、突厥がまだ東西に分裂していなかったことを示すと考えられる。

その後、達頭(タルドゥ)は国内の大反乱に加え隋の討伐を受けて、603年に吐谷渾に走入した。隋末、中国北辺の群雄はみな突厥の力を借りてしのぎを削り、その中で唐朝が成立したことは有名である。しかし一旦全国統一した唐には勝てず、630年、突厥(第一)可汗国は滅亡した。

この後約50年の唐の支配を受けたのち、モンゴリアで第二可汗国を立ち上げたのは、阿史那氏の骨咄禄可汗(クトゥルク・カガン)であった。…

◎ 西突厥・統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)時代の繁栄
七世紀の初め、ほぼ唐朝の統一と並行して繁栄した独立可汗国西突厥は、達頭可汗(タルドゥ・カガン)の孫、統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)の大発展によって築かれた。かつての西面可汗国を受け継ぎ、ジュンガリアから、天山山脈の草原を西に黒海付近まで最大勢力範囲を回復し、その統治機能を充実させていた統葉護可汗が、牙庭を東部天山の北から西方の「砕葉(スイアブ)」(現キルギスタン共和国トクマク付近)に移したのは、ササン朝ペルシアとの対立も激しく、黒海に至る西方草原で活躍していた多くの部族の統制に力を注いだ結果でもあると思われる。一方、南はソグディアナからヒンドゥクシュ山脈にいたる地域を確保して、アム河の南、エフタルの根拠地であったクンドゥズを副牙とし、パミールを東に越えて西域南道と北道の諸国に通じる状況にあった。長安からインドに行くため、玄奘が西部天山の北麓砕葉に統葉護可汗を訪れた理由は、その保護なしに中央アジアを行くことができなかったからである。

統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)に会った玄奘は、その牙庭の状況に驚いた。「可汗は長い髪を緑色の錦帯で巻いて後ろに垂らし、その前にはしとねを敷いた上に宮廷官たちが二列に座り、その後ろには護衛兵が武器を持って立ち並んでいた。彼らは錦織の華美な衣服をつけて輝いており、草原の君とは、このように華美であるものか」と詠嘆している。

一方、達頭可汗(タルドゥ・カガン)も統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)も、ソグディアナの中心サマルカンド王に娘を与えたことに注目したい。また、統葉護可汗は、「西域諸国すべての王に、(部族長に与える)イルテベルの称号を与え、トドンを派遣して監視させ税を取り立てた」。オアシス民の城郭都市の規模は小さく、彼らは、東西に繋がる道―シルクロード―を利用する中継貿易で利益をあげ、繁栄してきた。それに対して、オアシス民の生産する穀物や日用品、そこに集合する多くの商品は遊牧民にとっても重要で、貿易や税の対象とされた。それゆえ、彼らはオアシスとその商業活動を保護し、花とミツバチの関係にも似て、共栄を図ったのである。

西域諸国にはトドンとして、あるいは護衛兵として突厥人が派遣されて、その安全を守り、利益を確保していたのであった。

中心を阿史那氏一族で固めた西突厥であったが、外部的発展に内部の組織が追いつかず、叛乱によって可汗自身も倒れ(628年頃)、混乱の中で西突厥自身の勢力が分裂し縮小していった。これはまさに唐朝の統一と安定に反比例している。この結果、唐朝に近い突厥第一可汗国の滅亡(630年)に次いで、唐朝の三回にわたる西突厥討伐戦により、西突厥は滅亡した(657年)。

6-7世紀 草原の道とシルクロード
[拡大図]  [全体図]

(注1) 実際は、昭蘇はイリ河本流から約50km南の一山越えたところにあり、その真中をイリ河支流のトクス河が西から東に流れている。

(注2) 突厥可汗系図

(参考) 突厥

# by satotak | 2008-09-29 20:49 | テュルク |