2008年 11月
マンジュ国・アイシン国から大清国へ -女真・満洲族の再興- [2008-11-17 09:20 by satotak]

2008年 11月 17日
マンジュ国・アイシン国から大清国へ -女真・満洲族の再興-
石橋崇雄著「大清帝国」(講談社 2000)より:

■マンジュ国の樹立
女真族
清朝を建てた女真(満洲)族は、かつて(916〜1125)から独立して現在の中国東北部に(1115〜1234)を建て、この地を統一した後、遼を滅ぼし、さらに南下して中国内地に進み、(960〜1279)を倒して華北を支配した女真族の、直系の末裔にあたる。女真族は、金が新興のモンゴル帝国に滅ぼされた後は、モンゴル帝国、大元、大明の支配下に置かれていた。その間に、金の時代に創始した独自の女真文字も失い、金建国以前の部族集団に後退して生活していた。この女真族が再び勢いを盛り返して復活するのは、明の支配を受けていた明末のことである。数百年を経て二度にわたって歴史に名を残す統一国家を建てて中国内地を支配した、稀有な例である。

大元を建てて北アジアの民族としては史上初めて中国内地を統一支配したモンゴル族と、大清を建てて中国内地を統一支配した女真(満洲)族とは対比されることが多い。しかし両者は、その生活基盤において大きく異なっていた。女真族のいた地域には、モンゴル高原近くの牧草地や山地に広がる森林地帯に加え、河川流域の平野があったことから、モンゴル族と異なり、女真族はもともと原始的ながら農耕を営んでいたからである。このことは、農耕世界に特有な土地所有を基盤とする考え方を理解し易くしていた。この点が、中国農耕世界を支配する際、漢族に対する対処や中国文化の採用において、大元と大清との決定的な相違を生じさせることになった。大元は、漢族を政治の場から分離し、江南の経済地域への執着も薄かったが、大清では漢族を政治の場に活用すると共に、終始、江南の経済地域に執着して税制改革を試みている。

大明の支配下にあった女真族は、その自然環境に従って、馬などの放牧、毛皮や薬用人参の狩猟採集、農耕を行なっていた。とはいえ、それだけで十分に自給自足できるだけの豊かな経済基盤を築いていたわけでは決してなかった。大元をモンゴル高原に追い払った大明は、対モンゴル政策の一環として、モンゴル高原の東に隣接する女真族世界を利用する政策を採った。その際、大明の軍事組織である衛所(えいしょ)制を適用し、各地の女真族の部族長に官職を授けては、官職を示す勅書と印璽を与え、朝貢や馬市の特権を与え、彼らを招撫(しょうぶ)しようとした。このことは、自給自足できない状態にあった女真族世界に、より安定した経済基盤が確約される大明の勅書を得ようとする経済闘争を生じさせ、結果として、各部族長は相互に熾烈な争いを繰り広げることになった。その背景には、女真族の部族長が統合して勢力を拡大させることを阻止しようとする、大明の対女真族分断政策があった。こうした時代にヌルハチが登場し、マンジュ国を樹立するのである。

明朝末期の満洲 [拡大図]

ヌルハチの建州五部統合と多民族性
ここでいうマンジュ(満洲)国の樹立とは、明朝での呼称でいうところの建州女直(けんしゅうじょちょく)の各部族が、ヌルハチによって統合され、一つの国となったものである。明朝では、女真族(明は女直と称した)を大きく、建州・海西(かいせい)・野人(やじん)の三女直に区分していた。そのため、あたかもこの三者各々の中に、もともと何らかの結合関係があったかのように錯覚されがちだが、実態はそうではなかった。建州女直(…マンジュ国)が五部、海西女直(…フルン国)が四部、野人女直が四部の、計13部に分れていた。…建州五部とは、スクスフ、フネヘ、ワンギヤ、ドンゴ、ジェチェンの五部であり、その領域は、渾河(こんが)流域以南、鴨緑江(おうりょくこう)沿岸以北、渾江(こんこう)流域以西、遼東平野の明との国境以東であったとされている。ヌルハチが属していたのは、このうちのスクスフ部で、…

ヌルハチによって統合された建州五部の各々は、もともと別個に建てられた独立国と言うべきものであり、それぞれの集団の間に血縁的な、あるいは民族的な結合関係は認められなかった。すなわち建州部に始まり、やがて女真族全体におよぶヌルハチによる女真統合とは、部族内部における単なる権力抗争といったものではなく、東北地域に散在する独立国間における覇権闘争だったのである。その結果実現された統合国家は、相互に血縁上や民族上の結合関係を持たない複数の部族集団から成るという、不安定な要素を抱える複合部族国家であった。マンジュ国の樹立が清朝への成長段階の第一歩であることを考えれば、清朝はその当初の段階から多民族性を蔵していたことになる。

ヌルハチは一般に、満洲族統一の英雄とされている。しかし、…ヌルハチの統一事業が、東北地域に散在する独立国間における覇権闘争であったとするならば、その統合結果には、部族内部の権力抗争における単なる勝者・敗者というだけの関係に留まらず、征服・被征服の関係が内包されていたことになる。実際、後にヌルハチによって統合された建州以外の女真族を祖先とする現在の満洲族の中には、ヌルハチを民族統一の英雄とすることに否定的な評価を下す例がみられるという。…

近隣世界の動揺
マンジュ国の樹立は、女真(女直)族世界や近隣のモンゴル族世界に大きな動揺を生じさせることになった。1587年には最初の居城である旧老城(フェ=アラ)を築き、1589年に明から都督僉事(ととくせんじ)を授与されたヌルハチは、明との取引によって富を蓄えると共に武器を買い入れて軍備を増強していった。この新興国の急激な発展に脅威を覚えた海西女直(ハダ、イェヘ、ホイファ、ウラ)は、1593年、内モンゴルのハルハ五部の一つコルチン部らと共に九部三万からなる連合軍でヌルハチを攻撃した。…この戦いに敗退したコルチン部はハルハ五部と共に、モンゴル族として初めて、ヌルハチに使者を送り、通好を開始した。

明との対決を決意
他方、この戦いに勝利を収めたヌルハチは、女真族世界における勢力を確立し、その勢いに乗じて、海西女直を次々に滅ぼしていった。そしてイェヘを除く海西女直を併合したヌルハチは、1603年に居城を興京老城(ヘト=アラ)に移した。この情勢の中で1606年、モンゴルのハルハ五部はヌルハチにクンドゥレン(恭敬なるの意)=ハンの称号を贈った。これは、ここまで勢力を拡大したヌルハチがモンゴルのハルハ五部からマンジュ(建州)国主として承認され、両者が友好関係に入ったことを示すものである。

一方、女真族世界に対する分断支配政策を行なってきたは、こうしたヌルハチの勢力拡大と内モンゴル世界との関係強化を危惧し、…海西女直のうちでただ一つ残ったイェヘを擁護すると共に、ヌルハチを圧迫するようになった。ここに、ヌルハチがイェヘを滅ぼして、女真世界の民族統合を完成させるためには、明と直接に対決しなければならないという状況が生まれたのである。明との直接対決を決意したヌルハチは、1616(天命元)年にイェヘを除く女真族のベイレらからゲンギェン=ハンの尊号を贈られてハン位に即き、アイシン国を建て、自立することになるのである。…

■アイシン国の形成−八旗制の創生と遼東への進出
アイシン国
ヌルハチによる覇権闘争は、マンジュ国樹立に続いてアイシン(aisin=金の意)国の形成へといたる。…五部からなる建州女直(マンジュ国)の統合に続く、四部からなる海西女直(フルン国)の統合段階である。…この過程は、部族内部の単なる権力抗争ではなく、東北地域に散在する独立国間における覇権闘争であった。それゆえ、その結果成立した統合国家は必然的に、相互に血縁上や民族上の結合関係を持たない複数の部族集団から成る、不安定な複合部族国家とならざるを得なかったのである。

となれば、統合後の安定を計るための新しい国内秩序を打ち立てると共に、統合国家としての権威を国の内外に示すことが必要となる。ヌルハチの行なった一連の覇権闘争が、もともと一族内から支持されない孤立無援の性格であったこと、統合に、一部族による他部族の征服という面があったことを考慮すれば、その必要性はなおさら強かったに相違ない。事実、このマンジュ国樹立からアイシン国形成前後にいたる時期には、ヌルハチによる次の特筆すべき施策が見られるのである。

モンゴルと漢族の影響
その第一は、一族の支援すら望めない状況下で1583(万暦11)年に覇権闘争を始めたヌルハチが、その当初から内密に明の遼東総兵官李成梁と提携関係を結んで勢力の拡大をはかったことである。統合を進めるヌルハチに対して、明は1589(万暦17)年に都督僉事(ととくせんじ)を授与している。アイシン国の成立過程に漢族世界が深く関わっていたことがうかがえる事例である。

第二は、女真語を書き表すための独自の文字(いわゆる満洲文字)を1599(万暦27)年に創始したことである。金朝の滅亡後、女真族の世界では次第にその女真文字を失い、ヌルハチがモンゴル文字を借りて新たに満洲文字を創始するまで、モンゴル文あるいは漢文に翻訳して文書を作っていた。このことは、当時の女真族世界におけるモンゴル族漢族の影響の大きさをうかがわせる。

第三は、1606(万暦34)年にモンゴルのハルハ五部がヌルハチにクンドゥレン(恭敬なるの意)=ハンの称号を贈っていることである。これもまたアイシン国の成立過程にモンゴル族との深い関わりのあったことを示す事例である。

第四は、統合の最終段階でヌルハチが女真族からゲンギェン(英明なるの意)=ハンの尊号を贈られてハン位に即いたことである。その際、…開国説話を作成し、国号に12〜13世紀の金朝の正統的な後継者であることを示すアイシン(金)を採用している。これらは単にヌルハチ個人の権威付けというだけにとどまらず、統合国家それ自体の結合や権威の象徴とする意味も持っていたはずだ。開国説話の内容…は、従前からトゥングース系諸民族に広がっていた夫余(ふよ)系開国説話…に史実を脚色して添加したものである。ヌルハチを文殊菩薩の化身として位置付け、これにチベット仏教によって粉飾された満洲シャマニズムの世界を配したとされているが、こうした動向は、この統合国家が当初から単なる女真族統合という枠を越える多民族国家としての性格を備えていたことを示唆していよう。…

八旗制度
ヌルハチの時代に八旗制度が創始されたのは、相互に何一つ結合関係を持たない複数の部族集団を統合・管轄する上で、新たな結合秩序としての組織を創設する必要が生じたためである。…

八旗とは満洲語でグサと呼ぶ軍団八個からなる軍事組織である。本来、グサに旗(はた)の意味はないが、各グサがそれぞれ?黄(じょうおう)・正黄・正白・?白・正紅・?紅・正藍・?藍という八種類の旗(四色の旗をさらに縁取りの有無で区分し、縁取りのあるものを?旗、ないものを正旗という)を標識として用いたことから、漢字では八旗と表記するようになった。グサの軍事・経済上の基盤をなすものにニルがある。ヌルハチは、満洲族固有の社会組織をもとに、成年男子300人で1ニルを編成し、これを基本単位に5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グサとした。…女真(のちに満洲)人、それに来帰したモンゴル人、漢人などの全てはいずれかのグサに所属しており、グサは軍事組織であると同時に、政治・社会組織としての性格をも兼ね備えていた。…

サルフの戦い
アイシン国を建て、八旗制を整備して軍事力の増強を進めたヌルハチは、1618(天命3)年、天を仰いで明に対する「七大恨(こん)」をかかげ、ついに軍を発した。…

重要な点は、アイシン国の領域とそこにかかわる経済(穀物)問題とがここで大きな比重を占めていることである。このことは、対明攻撃の本質に、経済基盤確保の点のあったことをうかがわせる。これもまた、安定した経済基盤を確保しようとする経済闘争から派生した覇権闘争の一環として捉えられるのである。

悲願の女真族統一を達成
攻撃を開始したヌルハチはまず、イェヘの領域近くにある明の諸城を次々と攻め落とした。この報に驚いた明は翌年、大軍を派してヌルハチの居城である興京老城(ヘト=アラ)に迫った。配下の者からこの情報を得たヌルハチはヘト=アラで迎え撃っては敗れると考え、先手をうち、サルフの山上に出城を築いてこれを待ち伏せた。…明軍の大敗に終わったのである。

これが明と清とにおける天下分け目の決戦として名高いサルフの戦いであった。ここにヌルハチは明に対する勢力をも確立することになった。明軍に大勝したヌルハチは、明の援軍が望めなくなったイェヘを楽々と滅ぼし、ここに悲願の女真族世界の統合を果たしたのである。孤立無縁の中、25歳で覇権闘争を始めてから36年、ヌルハチは既に還暦を越えていた。明に勝利したヌルハチは、民族統合を成し遂げたと同時に、より大きな経済基盤を有する遼東に進出する契機をも得たことになる。ここに、アイシン国は遼東進出という新たな政治上の展開をみせることになるのである。

部族連合としての八旗
八旗制が相互独立の関係にある八つの旗からなる部族連合ともいうべき性格であったことは重要である。…

さて、女真族統合の最終段階で明朝との直接対決(1619〔天命4〕年のサルフ戦)を余儀なくされたヌルハチは、これに勝利をえたことで、最後まで残ったイェヘを統合して女真族の統合を果たすと同時に遼東進出の契機を獲得し、ここにアイシン国は政治上の新たな展開をみせることになる。初めての明地(=漢族農耕地域)支配と、それにともなう対モンゴル関係の変化である。アイシン国は、南進によって、大元の嫡裔(ちゃくえい)で明の歳幣(さいへい)を受けて内モンゴル統合を推進していたチャハル部のリンダン=ハンによる後方・側面からの脅威を受けることとなった。このためヌルハチは、東部モンゴル諸部と征明(みん)の盟約を結んでチャハル部に対抗することとなった。こうして成立した、女真・蒙古・漢族が混在する旗人社会と、八旗外の漢族・モンゴル族が対置される構図は、その後の清朝における独特な多民族国家構造へとつながっていくことになる。

ヌルハチの遼東進出の目的は、アイシン国の経済基盤を漢族農耕社会に据えることによって、国の基盤をより安定したものにすることにあった。それは同時に、女真族相互間の抗争にも原因があった。女真族相互における抗争の大きな原因は、「交易を必要とする、北方的な狩猟採集経済に依存していた」女真族が、明との「交易権を示す勅書の獲得」をすることにあった…。激しい覇権闘争の内実は、不安定な経済状況下で少しでもより安定した経済条件を獲得しようとする経済抗争だったのである。

遼河以東の広大な漢族農耕社会を攻略・領有し、明が東北経営の拠点とした遼東に遷都したヌルハチは、遼東新城の建設を進め、…さまざまな土地政策をともなう対漢人政策を実施した。…これらの政策は社会・経済上の混乱を招き、漢人農耕社会での経済戦争に敗退した女真(満洲)族に、遼東からの後退を余儀なくさせただけであった。…瀋陽に遷都して失敗の立て直しを図ったのである。しかし、ヌルハチの急死でこれらの改革の遂行は続くホン=タイジの時代に持ち越されることとなった。…

# by satotak | 2008-11-17 09:20 | 女真・満州