2009年 01月
満族 -創出される民族、想像される民族- [2009-01-23 20:59 by satotak]
2009年 01月 23日
満族 -創出される民族、想像される民族-
劉正愛著「民族生成の歴史人類学 −満洲・旗人・満族」(風響社 2006)(注1)より:


■ 集団の名称とアイデンティティ
満洲(注2)が正式にある人々の集団を指す言葉として用いられたのが1635年だとすれば、それ以降書かれた歴史(あるいは神話)に登場する「満洲」は、歴史を書いた時点から遡上して定立されたものである。それは「満族(注3)という語が1950年代以降正式に使用されたにもかかわらず、あたかも当初から存在しているかのように語られているのと同じである。

集団の名称は、名付けであろうと、名乗りであろうと、それが生まれた時点から、遡及的にそれにアイデンティティを求める運動が起きる。「満洲」と「満族」という語はそういった意味でも、人々のアイデンティティの形成においては特に重要な意味を持つものであるといえよう。しかし、清朝政府がその「満洲の道」を推進するに当たって、八旗満洲や八旗漢軍を問わず、旗人を一つのカテゴリーとしてみてはいたものの、「満洲」という言葉は決して八旗漢軍や八旗蒙古を包括できる概念ではなかった。たとえば、八旗漢軍は「旗人」であっても「満洲人」「満人」ではなかった。

現代満族の間で「純粋な満族」とそうでない「満族」という議論があるのもそのためである。「旗人」はすべて「満族」と見なされるが、旗人の構成における多元的特徴のゆえに、満族はさらに二つのカテゴリーに分類される。つまり、八旗満洲は「純粋な満族」で、八旗漢軍は「純粋な満族」ではないという考え方が生まれるわけである。ただ、こうした議論は外部調査者あるいは行政への応対の時に表に出るものであって、日常生活ではほとんど意識されない問題である。…

一方、「民人」というカテゴリーも考察の対象にしなければならない。なぜなら、東北地方ではこれら「民人」――旗人ではない漢人の後裔たち――も今日では満族の一員になっているケースが数多く確認されているからである。…

東北地方のいくつかの事例と福建省の二つの事例を比較してみれば分かるように、今日満族と呼ばれる人々はその歴史的・社会的背景が異なるがゆえに、アイデンティティの表出も異なっている。
村人の話を借りれば、肇家村(注4)では、80年代、特に84年の上夾河満族郷成立以前は「誰も満族という言葉を口にしなかった」。「満族」という言葉が頻繁に登場するのはそれ以降のことである。肇家村では…周囲との明確な境界もなければ、他者を強く意識することもない。なぜなら、彼らは自ら満族であると強調しなくても、事実として満族であり続けてきたため、自らを差異化する必要に迫られていない。つまり、彼らの日常生活における生活実践は「無意識の生活様式」である。

それに対して、福建省の満族、特に琴江(注5)の満族は、長年地元の福建漢人とは異なった社会的環境(物理的にも精神的にも)に置かれたため、自らを差異化しないと「満族」としてのステータスを確保できない。血縁的に漢人に結びつけられるような「漢軍旗人」という立場は時として彼らを困らせる。彼らは数百年間旗人として生活しており、「旗人」=「満族」という図式が成り立つならば、彼らは文句なしの「満族」である。しかし、行政側を含む周囲の人々は彼らが「漢軍」ということでそれを否定する傾向にある。民族籍を満族に変更し、満族村が成立されて20数年以上たった今でも、彼らの「満族」としてのステータスは常に「漢軍」であるがゆえに不安定なままである。「満族」であることを証明するためには、周囲の漢人とは異なる旗人たる身分を証明しなければならず、それは同時に国のために献身的に戦った功績の証明にも繋がる。そして、何よりも重要なのは、文化的差異を強調する必要がある。それはたとえどんな小さな差異でも、彼らにとっては大きな意味を有する。…

彼らが積極的に「満族」として名乗り出る背景にはもうひとつ重要な要素がはたらいている。それは単に少数民族としての優遇政策を享受しようとするだけではない。宗族組織が発達している「城外」の福建漢人社会に囲まれた社会的環境において、個と個の繋がりの薄い彼らにとって、「満族」は共同体の結束力を高める重要なカテゴリーでもあるからである。その意味において、彼らのアイデンティティには強い政治性があるといえよう。

しかし、一方では、民族政策の実施に伴う厚生的利益享受のための民族籍変更が見られており、同じ満族でも決して一枚岩的ではない。
…1985年満族自治県の成立をきっかけに新賓の満族人口は1982年の33%から1985年の63%に急増した。これは少数民族人口が半数以上占めることが自治県成立の条件の一つとされたため、県政府や郷鎮政府の動員によって多くの人が満族籍に変更したことに起因する。満族として新たに登録したのは、?八旗満洲後裔(辛亥革命以降に漢族に変えた者)、?八旗漢軍の後裔(元漢族と申告した者や満族と申告したが辛亥革命以降に漢族に変えた者)、?民人の後裔などであるが、変更の原因については少数民族の優遇政策のためだと答える人がほとんどである。

現在、中国において、少数民族とは厚生の対象となる籍としての性質をもっており、少数民族になることは様々な優遇政策を享受できることを意味する。ここで、アイデンティティの実利的側面を窺うことができる。もちろん、これは自治県という特殊な行政地域においてのみ顕著に現れることであり、すべての少数民族の民族意識が実利的であるとは言っていない。事実上、利益などかまわず、満族としての強いアイデンティティを持っている人は多数存在しており、また、利益があっても「民族を裏切る行為」をしたくないため、頑なに民族籍を変えない漢族もいるわけで、アイデンティティを一枚岩的にとらえては決してならないのである。

■ 創出される民族、想像される民族
筆者は肇家村を含め新賓満族自治県の五村及び… (調査対象は満族が大半を占める)などで個別のインタビューを通して意識調査を行ったが、満族の特色を表すものはなにかという質問に対して、「漢族と大して変わりない」との回答は90%以上であった。しかし、この語りは「満族は自らの文化を持っていない」という意味ではなく、逆に「漢族はわれわれ満族と変わりない」という意味でとらえることもできる。この場合、「漢化」と「満化」の図式は同時に成立できる。
標準中国語の基礎になっている北京語は、清代の旗人語に由来するといわれるように、現代中国語に対する満族の影響は無視できない。中国の伝統服といわれるチャイナドレスも実は旗人の服装「旗袍」の改訂版であり、食生活においても、東北、北京地方では満族の伝統的メニューといわれるものがまだ生きている。だが、これらは満族の独立した文化体系としてではなく、むしろ支配王朝における満漢文化の相互受容によって新たに生み出された旗人文化あるいは地域文化として存続してきたのかもしれない。...

東北の地域文化として表象されてきたこれらの文化的諸要素は、満族の伝統文化として新たに意味付けられ、アイデンティティ構築のための文化的距離は明確な形で確立された。これらの「選び取られた」文化要素がエスニック・マーカーとして再びクローズアップされたとき、それは、文化要素の原初性から用具性への転換を意味し、ある種の政治性を帯びるようになる。

八旗満洲、八旗漢軍、八旗蒙古を網羅する「旗人」は、初期においては様々な異質の文化を抱え込み、後期ではそれらの異質な文化要素が渾然たる一体をなし、新たに再構成された旗人文化を所有する「上位集団」となった。
この上位集団の中でも上は為政者から下は八旗兵士や庄園の農奴までの階級区分があった。しかし、辛亥革命とともに清王朝の統治に終止符が打たれ、中国が王朝政権から国民国家に移行したとき、「旗人」は、今度はそれを陵駕する政治的権力国家の中に内包される下位集団少数民族としての満族へと反転していった。このとき、かつての階級的区分は消し去られ、かつて存在した満洲・漢軍・蒙古などの区分もなくなり、「旗人」はそのまま想像された均質的な文化や共通の起源に基づく「満族」として生まれ変わる。

現在「中国人」と呼ばれる人々が国民国家の成立と共に形成された一つの「多元一体」的な民族範疇(中華民族)であるとすれば、かつての「旗族」という語に示されるとおり、「旗人」もまた当時においては「民人」を排除した、狭い範囲とはいえ一つの「多元一体」(満、漢、蒙、朝ほか)的なカテゴリーであったといえよう。

支配的な「漢化」という言説の中で、80年代の半ばから満族は今日を待っていたかのように人々の前に現れ、自らの存在を強く主張し始めた。共通言語の不在や文化的特徴の欠如のために、「帰属意識」のみが強調されてきた満族は、近年様々な歴史的記憶を想起し、「歴史文化の再構成」活動が政府主導の観光の場で行われ、かつて曖昧であったイメージの明確化を図っている。ヘトアラ城(注6)に代表されるように、そこに動員されるファクターはヌルハチにまつわる清前史、ヌルハチ家の生活様式など一連の王朝系譜的なものであり、「満族文化」=「清朝文化」という図式が成り立っている。ここで、歴史と文化は経済利益を獲得する商品として開発され、歴史や文化の真正性を問う研究者らとの思惑の違いも見られている。しかし、本物であろうと、まがいものであろうと、すでにそれらは確実に満族文化の一部になっている。...

民族は流動的で多変的な現象であり、民族という概念は常に変化のプロセスの中で捉えなければならないということは今日人類学においては常識である。しかし、多くの場合、民族は自明の概念のごとく語られているため、あたかも実体として存在するかのような錯覚を人々に与える。言語、文化、宗教、慣習などの定義要素は他者規定による客観的基準であることが多い。しかし、自らの言語を持たず、宗教・生活慣習などを共有しない場合でも、自分たちは「○○族」だと認識することはよくあることである。
このような共属意識が行政という制度に対応する必要が生じた場合、上記の他者規定による客観的定義要素は自己規定による主観的定義要素に転じ、主観的認識を裏付ける「証拠」として逆利用される場合がある。これは例えば、言語の再習得や「伝統文化の回復」など客観的に定義し得る方向へ向かう姿勢によく表れている。したがって、客観的定義要素と主観的定義要素は決して無関係のものではなく、むしろ互いに補完し合うものであり、定義される主体側が自らの状況に応じて巧みに操作していくものである。ここで主導的役割を果たすのは主体内部の権力者やエリートなどの「活動家(エージェント)」である。

中国の民族を論じる際のもう一つの重要な側面は、戸籍制度民族政策の関係である。1949年以降、中国では民族政策を戸籍制度に反映させるために、戸籍に「民族成分」という欄が設けられた。個々人にとって、「民族成分」は簡単に変更できず、民族籍は避けられない問題である。両親の民族籍が異なる場合、子供はそのどちらかを選択することができる。50年代から行われた国家主導の民族識別作業は、多くの人の民族籍を行政的に確定した。こうした制度的な他者による定義は個々人のアイデンティティを一層複雑なものにした。人々は生まれたその瞬間から、制度的にあるレッテルを貼られてしまい、その後、自分の意識がどうであれ、通常一生○○族として生きていかなければならない。

一方、戸籍上の民族籍の欄は逆に彼らのアイデンティティを規定する要因になったのも事実である。つまり、「○○族」というレッテルは漢族と少数民族を差異化する。その結果、少数民族側に差別される意識を与える一方、彼らの民族意識の高揚をもたらし、少数民族優遇政策に対応した利益獲得のための実利的帰属意識をもたらすことにもなった。つまり、中国において、「民族」は学術用語であるというよりはむしろ国民や住民を分類して統治するための行政的な装置の中で生まれた行政的範疇であり、国家によって作られた行政的範疇はそれに属される人々の「共属意識」を醸成し、それは「作為的・政治的」と「自生的・文化的」という二つの力の拮抗と相互作用によって維持されている。

佐々木[史郎]は民族帰属意識の形成過程について二つのケースを提示している。一つはカリスマ性を持った少数の指導者が政治力と軍事力を持って人々を結集して、それを民族に類する集団に仕立て、国家建設の原動力とするケースで、もう一つは国家の中枢を担う有力な人々によって区分され、枠組を与えられた行政的な「民族」が時とともにそれに属する人々の意識の中に定着して、帰属意識が共有されるようになり、人類学的に民族と見なせる集団になってしまうケースである。そして、満洲(満族)は前者の典型的な例だとしている。しかし、今日の満族はむしろ両方の性質を帯びているといえるかもしれない。つまり、清朝時代の「旗人」はヌルハチがその政治力と軍事力を持って結集した人々の集団であり、中華人民共和国成立後の「満族」は国家主導による行政的な「民族」である。しかしながら、「満族」は与えられた枠組の中で「満族」としての帰属意識を持つようになったのは確かだが、同時に「満族」という枠組を乗り越えて自らを清王朝に結びつけ、「旗人」としての社会的・歴史的記憶を依然保持し続けており、「満族」としてのアイデンティティを裏付けるものとして、その「輝かしき征服の歴史」を文化として打ち出している。

上述の通り、満族が今日、「満族」と呼ばれるようになったのは、様々な歴史的、政治的経緯があった。「旗人」という歴史的、政治的カテゴリーが「原初的体験」として満族の定義における客観的、主観的根拠になっているとすれば、中国における「民族成分」という制度は、制度への帰属意識を醸成する装置であり、「均質的で固定的な帰属意識を持たせ」るアイデンティティの新たな根拠として機能しているといえよう。

1949年まで、満族は自称、他称とも「旗人」「満人」「満洲人」などと呼ばれていたが、1949年以降、「満族」という呼称が正式に行政的名称として使用されたとき、満族は実体のあるものとして、あたかも最初から存在していたかのように語られ、自明の実体のある概念として人々の脳裏に植え付けられた。そしていまも満族自身を含め誰も「満族」という実体を疑うものはいない。
民族は「上から作られ」てきたというのは、ある程度の妥当性を持つかもしれないが、作られる側の主体性を剥奪してしまう危険性も常にあることを忘れてはいけない。その主体性を確立させるためには、もう一つの側面を視野に入れなければならない。つまり、それは「作られる」ことへの少数民族側の積極的な呼応の側面であり、国家によって「創出」された「民族」への少数民族側の「想像」の側面である。それらの一方だけを強調せず、二つあるいはそれ以上の力学を視野に入れてはじめて、中国における少数民族の本質を理解することができるのである。

この視点を受け入れたとき、われわれは、民族は近代に創られたものなのだから、民族そのものが存在するのではなく、民族は幻想でありウソなのだとする理論に疑問を投げかけるであろう。渡邊欣雄は沖縄文化を論じる際に、「仮構」という概念を利用し、絶えず生成し、創造される「沖縄文化」を積極的に肯定しようとした。「仮構」とはもともとなかったものが、あるものとして構築されることであり、真正なものかまがい物かを問わず、あるがままの現実を積極的に肯定しようとする姿勢を反映している。それに対して、「虚構」という概念はあるがままの現実を主観的に否定し、その現実を生きている人々の主体性を奪う危険性を常に孕んでいる。
「仮構」という概念は「民族」にも適用できるものである。民族は現に創られており、それに向かって振舞おうとする人びとにとって、「イメージ」や「目標」、「……らしさ」の民族は明らかにいま存在している。かれらのイメージや目標は、もはや民族を創った政策から離れ、民族の担い手のものになっている。かれらにとって民族は虚構、つまりはウソなのではなく、仮構、つまりは仮=前提として構築すべき対象になっている。民族の担い手たちにとって、民族はいかなる意味でもウソ=虚構ではない。

「ある特定の集合的アイデンティティの形態を無条件に普遍化し実体化する」本質主義を、支配や不平等を隠蔽する政治的役割を担ってきたとして批判した構築主義の功績は評価される一面がある。しかし、本質主義を絶対視するあまり、現実社会における人々の日々の実践を見逃すと、現実離れの空論になってしまうという懸念も残される。

筆者からすれば、「構築」と「本質」は表裏一体のものである。前者は固定したものへの相対化を図ることによって、流動的で、未来に開かれた可能性を切り開き、後者は揺れ動く意味要素を認知可能なものとして固定する作用をもっている。この両者のいずれをも絶対視せず、それらを、相互作用のスペクトルで捉えることが、いま必要となっている。つまり、人類学やほかの社会科学において重要なのは、意味の解体だけでなく、解体された後、新たな意味が生成されるプロセスを視野に入れることであり、そのためには共時的かつ通時的な研究である歴史人類学的手法が有効となってくるだろう。

(注1) 著者 劉正愛:1965年中国遼寧省生まれの朝鮮族、東京都立大学博士課程終了(社会人類学博士)、2006年現在北京大学社会学人類学研究所ポストドクター。本書は彼女の博士論文をベースにしたもの。

(注2) 満洲:1635年にヌルハチの位を継いだホンタイジが、自らの集団を指す言葉として、ジュセン(諸申、女真、女直)をマンジュ(満洲)に改名したということについては、歴史学会の定説になっているようである。

(注3) 満族:清朝の根幹的存在であった「旗人」が「満族」として認定されたのは1950年のことであるとされるが、「満族」が少数民族であるかどうかという議論はその後も続いた。

(注4) 肇家村:肇家(ちょうけ)村は遼寧省新賓満族自治県に属し、県庁所在地の新賓鎮から61キロ、撫順市から60キロ離れた山地に位置する。2000年現在の総人口は1612人である。満族と登録しているものは約93%で、満族集居村、そして愛新覚羅の後裔の居住村として内外にその名を知られている(「肇家」の「肇」は愛新覚羅の漢字姓)。

(注5) 琴江村:琴江村は福建省東部を流れる閔江(びんこう)南岸の烏龍江、馬江、琴江の合流するところに位置する省内唯一の満族村である。総人口は2002年現在157世帯の395人、うち満族222人、漢族171人、苗族2人。1979年まで、琴江村は洋嶼村に所属する一つの自然村(当時は「生産大隊」と呼ばれた)であったが、満族村として独立した。
琴江村の前身である常磐里は雍正7年(1729)に作られた。朝廷が福州に駐屯していた漢軍八旗から513名の官兵とその家族を派遣し、三江口水師旗営を創建したのが、その始まりである。

(注6) へトアラ城の「復元」:新賓は、農業以外に特に目立った産業はなく、交通不便などの原因で経済発展が遅れているが、観光開発が経済発展の柱産業となった。「ヌルハチの生まれ故郷、清王朝の発祥の地」と称される新賓では、美しい自然景色と清前史を観光資源として打ち出した。2000年に新賓で行われた記者会見で、ある政府関係者は次のように述べている。
「わが県中部の永陵地区に位置する清王朝の祖陵−永陵と後金政権の第一都城−ヘトアラ城などの歴史名勝は、民族英雄ヌルハチが残してくれた世紀を跨る作品であり、新賓観光産業の最大のカードである。清前史跡という文章を完成し、満族というブランドを打ち出すために新賓は1.5億元を投資し、全国唯一の「中華満族風情園』を建設し、清永陵、覚爾察城、皇寺などの人文景観を修繕・開発した」。

# by satotak | 2009-01-23 20:59 | 女真・満州 |