2009年 07月
中国エヴェンキの歴史と現在 [2009-07-16 10:38 by satotak]

2009年 07月 16日
中国エヴェンキの歴史と現在
末成道男・曽士才編「講座 世界の先住民族 01 東アジア」(明石書房 2005)より(筆者:思沁夫(スチンフ)):

1 はじめに
かつて、エヴェンキはシベリアのほぼ全域とアムール川の流域に分布していた。エヴェンキは広大なタイガの森で繰り返し行われる移動、また他の民族との交流を通じて、さまざまな自然環境に適応した狩猟、漁猟、トナカイ放牧など多様な生業を確立し、洗練させ、それを経済基盤に氏族組織、シャマニズム、独自な文化、言語や習慣などを維持してきた。

エヴェンキは国家(あるいは王朝)という政治組織を持たず、基本的には外婚制の氏族組織を中心に社会生活が秩序付けられていた。氏族内部での結婚が禁止されていたため、他の氏族と何らかの関係を結ぶ必要があった。また、エヴェンキはつねに周辺民族の影響を受けていたが、彼らもまた他の先住民に影響を与えていた。エヴェンキは獲物や家畜の餌を求めて自由な移動生活を好み、また移動は彼らにとって、さまざまな支配から自分の生活スタイルを守る最も有力な武器でもあった。

16世紀以降、シベリアのエヴェンキはロシアの支配下に置かれ、ヤサーク(毛皮税)の徴収対象となり、アムール川流域のエヴェンキは他の先住民(中国語の文献では、“索倫(ソロン)部”として登場するが、“索倫部”にはエヴェンキ、ダフール、オロチョンなどが含まれる)と一緒に、清朝によって嫩江(のんこう)流域へ強制移住させられ、清朝の政治組織(八旗)に組み込まれた。20世紀になって、中国とロシアは過去に支配していた領土を引き継ぎ、新しい国家として再出発する。それによって、エヴェンキはそれぞれ新たな国家統合を経験することになる。本章では、中国側のエヴェンキについて述べることにとどまる。
2 エヴエンキの人口、分布、言語
(1)エヴエンキの人口と分布
中国は56の民族(正式に認められたのが56で、まだ識別されていない民族もいる)から構成される多民族国家である。一般的に、人口構成上、漢民族が圧倒的に多い(中国総人口の9割以上を占める)ため、漢民族以外の民族を「少数民族」と呼んでいる。エヴェンキは少数民族というカテゴリーに入るが、その中でも人口が非常に少ない民族である。

2000年の中国政府の人口統計データによれば、エヴェンキの総人口は3万505人である。そのうち2万6578人が内モンゴル自治区・ホロンバイル市(2001年までホロバイル盟)に分布している。それ以外のエヴェンキは黒龍江省、遼寧省、北京、山東省、河北省、新疆ウイグル自治区、広東省などの地に分散している。

ホロンバイル市は内モンゴル自治区の東部に位置し、市の西部にホロンバイル草原が広がり、東北から西南にかけて大興安嶺が走っている。また、ホロンバイル市はモンゴルを始め、エヴェンキ、ダフール、オロチョン、漢など多民族が共存する場所でもある。ここではエヴェンキは一つの自治旗(エヴェンキ族自治旗)と八つの民族郷を持っており、大多数のエヴェンキはこれらの「自治地方」で生活している。

しかし、1950年代から始まった社会主義建設(開発)、1980年以降の改革・開放政策の実施に伴い、ホロンバイル市に周辺地域や全国各地から人口が絶えず移住するようになった(移住者のほとんどは漢民族だが、中にモンゴル、ダフールなどの少数民族の人口も含む)ため、ほとんどすべての自治地方で、人口構成上エヴェンキは少数者となっている。例えば、エヴェンキ族自治旗の総人口は14万3324人、そのうちエヴェンキは1万151人、総人口の7.08%に過ぎない(ちなみに漢民族は8万6943人、総人口の約61%を占める)。また、生活環境の著しい漢化、あるいは多民族化は、エヴェンキの婚姻関係、家庭にも大きな影響を与えている。1950年代までは7割ぐらいの家庭は民族内部の結婚(地域によって差はあるが)によるものであったが、現在(21世紀)では5割以上の家庭は漢、ダフールやモンゴルなどの民族出身者との結婚から成り立っている。

また、長い間、エヴェンキは牧畜、狩猟、林業、農業によって、生活を維持し、またほとんどの人口がそれらの生業に従事していた。しかし地域社会の都市化や進学などを通じて都市への移住者が急増するなど、従来の生業に従事する人口が年々減っている。2003年の時点で、定住化が実現し、約6−7割の人口は都市、町(鎮)で暮らしている。また4−5割の人口は生業経済ではなく、公務員、会社員や自営業などによって生活を営んでいる。

(2) エヴエンキ語
エヴェンキ語はアルタイ諸語―ツングース語派に属する。エヴェンキ語は共通な起源を持っているとはいえ、広大な地域に分散し、異なる環境下で生活していたため、方言の差が見られる。…エヴェンキ語は自然現象、特に大興安嶺の地名、動物や植物などに関して大変豊な語彙を持っているだけではなく、人間を動物、植物と同等に扱い、自然利用において、つねに批判的な目で人間の行動を看るなど、エヴェンキの中で代々伝わってきた考え方(世界観)を直接表現できる唯一の手段でもある。

エヴェンキは文字を持たない。そのため、口頭伝承は歴史、文化、民族のさまざまな出来事や個人の経験などを後世に伝える最も重要な手段となっている。エヴェンキは伝説、神話、物語、シャマンの詩などさまざまな形で、歴史を後世に伝えてきたが、その中でシャマンは大変重要な役割を担ってきた。

…独自な表現やことばによって唱えられる「シャマンの詩」は、エヴェンキの言語―文化の結晶の一つであり、エヴェンキの視点から捉えた「歴史の記憶」でもある。…例えば、その中に16世紀後半、ロシア(コサック)の侵入を逃れ、大興安嶺の森に移住した経過をこのように伝えている「……われわれはシルカ川から出発し/生茂るタイガ(森)の影に沿って/アムール川を渡る。……われわれの根はシベリアのチューム(テント)にあり、われわれの運命は祖先の霊によって導かれる……」。…

1950年代からはじまった政治運動、特に文化大革命によって、シャマニズムは迷信として批判され、シャマンたちのすべての活動が禁止された。1980年代後半からシャマンは復活しつつあるとはいえ、シャマンの独自なことばに精通したシャマンがほとんどこの世を去り、…復活には多くの困難が伴うことは容易に想像できる。

3 16世紀以降、清朝によるエヴエンキの移住と新たな生活環境への適応と変化
エヴェンキは17世紀、19世紀初め、そして20世紀初頭という大きく三つの時期に、アムール川流域、レナ川上流流域とトランス・バイカル地方から中国東北地域に移住させられ、または移住してきた。…

(1)清朝によるソロン・エヴェンキの嫩江流域への移住とホロンバイル草原への派遣
17世紀初めまで、中国文献で「索倫」(ソロン)と呼ばれるエヴェンキは、西はシルカ川から、東はアムール川中流、ゼヤ川まで、北は外興安嶺までの地域で、狩猟や牧畜などによって生活を営んでいた。単独で、あるいはダフールと一緒に「部族連盟」を形成し、この地域においては最も影響力を持つ部族社会(集団)を維持していた。

1619年満洲のリーダー、ヌルハチ(清の太祖)は、自分たちの本拠地の安全を確保するために、アムール川流域に住む先住民、エヴェンキ、ダフール、オロチョン(索倫部)を自分たちの支配下に治めようとした。エヴェンキのリーダー、ボンブグル(博穆博果爾)が率いる部落がそれに抵抗したため、彼は軍隊を派遣し先住民たちの抵抗を武力によって治めた。清朝は1639年12月―1640年5月まで、1640年12月、そして1643年5月、全部で三回に渡って征服戦争を行い、それによって、先住民側は多くの死傷者を出し、成人男性は清朝の軍隊に編入され、女性と子供は、征服戦争で功を立てた清朝の将士に奴隷として与えられた。

17世紀40年代からネルチンスク条約が結ばれる(1689年)までの約40年間、コサック(ロシア人)はアムール川に侵入し、すでに清朝の影響下にあった先住民に対し、略奪とクロテンなどの毛皮の強制徴収を繰り返し行った。清朝はコサックが先住民から食糧を調達できなくするために、1649年―1652年にかけて、アムール川中流域やゼヤ川流域のほとんどの先住民を嫩江流域へ移住させた。…さらに、1731年布特哈地域のエヴェンキ、ダフールとオロチョンは「布特哈八旗」として、清朝の政治組織に組み込まれた。

1732年清朝は「移民実辺」、つまり国境地帯地域の防衛のために、すでに布特哈地域に落ち着いたエヴェンキ、ダフール、オロチョンとバラグ・モンゴル、合計3000人(そのうちエヴェンキ人1636人)を、この地域に住むモンゴルが南下したため、ほとんど無人地帯化したホロンバイル草原に派遣した。…また、ホロンバイル草原では「八旗」(全部で一六旗からなる)を編成し、いまのハイラル市のところで「副都統衙門聡管」を設けて、彼らを統轄し、また11万8528頭の牛、羊や馬などの家畜を与え、牧畜業に従事させた。…

満洲族の発祥地である東北地方は、清朝の特別な政策に守られ、漢民族の流入を制限していた。しかし、19世紀に入ってから、清朝勢力の衰退や中原地域で人口増加によって耕地が不足するなどが主な原因で、東北地域への漢民族の流入は急速に増加した。…また、19世紀末東清鉄道の敷設によって、鉄道が通る大興安嶺の部分で生活していたエヴェンキなどは、猟場を失う、生活空間を失うなど大きな被害にあった。

レナ川上流流域あたりに狩猟とトナカイ放牧によって生活を立てていたエヴェンキは、19世紀の初めに、ロシア、ヤクートの圧力を感じて、大興安嶺の北西部森に猟場とトナカイ放牧地を求めて移住した。移住する前に彼らはすでにロシア人の影響を受けており、移住後から日本軍の統治を受ける1930年代までも、ロシア側の徴税官に税金…を払い、主にロシアの住民と物々交換を行っていた。…

(2) 清朝支配下のエヴエンキの生活と周辺民族との関係
見てきたように、17世紀半ば―20世紀初頭まで、エヴェンキは清朝の支配下にあった。この200年以上に上る清朝支配の歴史は、エヴェンキにとって、従来の生活形態が大きく変化させられた過程であるが、同時に、変化の中で自分の生活、文化、言語などを維持し、積極的に新しい環境に対応し、ダフール、モンゴル、オロチョンなどと共存関係を形成してきた過程でもある。

清朝は黒龍江将軍、その下の布特哈副都統、呼倫貝爾副都統、さらにその下の旗を通じて、先住民を管理すると同時に、エヴェンキなどに「納貢」(税のようなもの)、「軍務」を課した。15才以上の住民は全員貢納の義務があり、納貢の対象はテンの毛皮のみが認められていた。テンの狩猟は大変難しい(毛皮が少しでも傷ついたら価値が下がるので、傷つかないようにするには大変な工夫が必要)上、大量捕獲によって数が激減したため、貢納は先住民にとって、ますます大きな負担となった。18世紀後半以降、テンは獲れなくなったため、先住民は納貢するため、商人から、高い値段でテンの毛皮を買わなければならなかった。また、先住民は官人の腐敗にも悩まされていた。しかし、貢納制度は先住民の反発、抵抗にもかかわらず、1908年まで続いた。

八旗に編入された先住民の人口は、領土確保、内部反乱の鎮圧を始め、数知れない戦争に参加させられ、また各地に駐屯を強いられたことによって、減少したといわれている。その中でエヴェンキはその勇敢さゆえに最も大きな犠牲を払った先住民である。1769年南方で起こったある反乱を鎮圧するため、エヴェンキ、ダフールから1700名を兵士として徴集されたが、生き残ったのは300人であった。(注1)

すでに述べたように、エヴェンキは嫩江に移住される前からダフール、オロチョンと混住していた。移住後も密接な関係は維持されていた。…

また、ホロンバイル草原に派遣されたエヴェンキとモンゴルも、草原の利用、交換関係など多方面にわたる関係を維持していた。エヴェンキとモンゴルは基本的に別々の旗によって統治されていたが、日常生活では、旗の境界を越えて、牧草地を利用し合っていた。…さらに、一部分のエヴェンキはモンゴル語、満洲語を通じて、読み書き能力を身につけていた。

4 エヴエンキの現在(1990年代以降を中心に)
20世紀に入って、ホロンバイル地域は国民党勢力の浸透、モンゴル民族による「地方自治」、さらに日本軍による統治を経て、1947年中国共産党勢力によって中国社会主義体制下に組み込まれた。社会主義体制下に置かれてから今日(2003年)に至るまでに、エヴェンキは1950年代から1970年代にかけて、上地改革、人民公社化(集団化)、文化大革命などの激しい政治運動の時期を経験し、1980年代以降、中国全体が急速に市場経済化する中、新たな選択や対応に迫られている。…

(1) エヴエンキの生業の変化
エヴェンキは自然環境に応じて、さまざまな生業経済を行ってきた。例えば、動植物が豊富な大興安嶺の奥地や北西部などでは、狩猟とトナカイ放牧を行い、ホロンバイル草原では、ウシ、ヒツジ、ウマなどの家畜を飼い、季節的に移動する生活を送り、気候が相対的に温暖な大興安嶺の東南部などでは、農業、狩猟、林業と牧畜を組み合わせて生計を立てることが主流であった。しかし、これらの生業経済は土地、家畜などの集団化、また生業経済を直接政府各部門の管理の下で行われる「生産活動」へと統合することによって、特に、1980年代後半以降、市場経済に吸収され、あるいは市場経済の影響を受けることによって、大きな変貌を見せている。

もちろん、生業経済は自然環境に大きく依存しているため、開発や人口増加などによって、自然環境の変化、破壊にも左右されることは言うまでもない。実際、ホロンバイル地域の人口増加、大興安嶺の森の伐採と農地化、草原での大規模な農地の開拓、また大規模な石炭工場の建設などによって、エヴエンキの生業経済は大きな被害を受けており、それによって生業経済が完全に崩壊してしまった例も出ている。…1950年代から本格化した大興安嶺の森林の大規模な伐採(1950年代から大興安嶺は中国で最大の木材供給地となっている)によって、…森の生態系が破壊されただけでなく、この地域に生息していたヘラジカ、アカシカ、オオヤマネコ、テンなど多くの動物が絶滅、あるいは激減し、生業経済としての狩猟は21世紀を見ることなく、この地域から姿を消した。…

ホロンバイル草原で遊牧生活を営むエヴェンキにとって、ウシ、ヒツジ、ウマなどの家畜は財産であり、食料の源でありさらに現金を得る手段でもある。自然に入って草を家畜の餌とし、移動を繰り返し行うことで草原を再利用することを図ってきた遊牧民エヴェンキにとって、草原の面積と草の質量は家畜の生存に関わる問題である。このような自然にほとんど手を加えずに利用する放牧は、広大な面積の草原を必要とする。しかし、1950年代から本格化し今日まで続く農地開墾、大規模な石炭の発掘、工業用地としての利用、さらに町と道路の建設などによって、放牧可能な牧草地は大きく縮小され、また以上のことも原因となり、草地の乾燥化や砂漠化が急速に進むなど、遊牧エヴェンキも大きな環境問題に直面し、生活に深刻な影響が出ている。例えば、エヴェンキ族自治旗・バインチャガン・ソム(村)のエヴェンキの3割の牧民が家畜の冬を越すために充分な草が取れないため、生活を維持できる数の家畜を飼うことができず、貧困化現象が生じている。…

(2) 言語の変化
エヴェンキ語はオロチョン語と同様最も急速に消滅しつつある言語の一つといわれている。…

1996年以来、私はエヴェンキ族自治旗を始め、ホロンバイル市におけるエヴェンキが集中して住んでいるところの大半を見てきた。…これらの地域への旅で、エヴェンキの中で漢語化現象が急速に広がっていることを感じ取った。
それではなぜこのような事態が生じたのか。漢語化はエヴェンキが自ら選択した結果であり、誰かによって強制されたものではないことは明らかである。では、なぜ彼らはそのような選択をするのか、その要因には遊牧エヴェンキの「脱モンゴル語化」現象が挙げられる。

エヴェンキは文字を持っていないため、進学時に学校教育用語として漢語とモンゴル語のどちらかを選択しなければならないという現状がある。長い間遊牧エヴェンキはモンゴルと混住し、またほとんどの人がモンゴル語を話せるという事情から、モンゴル語で学校教育を受けてきた。しかし、1990年代に入ってから、漢語を選ぶ人が急速に増えている。脱モンゴル語化現象と漢語化現象の背景には、共通している部分が多い。学歴社会へ進む中国の現状を考えると、将来大学や専門学校などに進学する時、教育用語を漢語にした学生は、モンゴル語を選んだ学生より選択肢は圧倒的に多い。また、ほとんどの地域で通信設備が整備され、漢語による大量の情報が流れている。特に各家庭におけるテレビの普及は、子供たちの言語環境を大きく変えている。調査で世話になったほとんどの家庭の子供たちは漢語放送の番組を見ていた。モンゴル語の放送も少しはあるものの面白くないと彼ら、彼女らは言う。さらに、地域社会の都市化、城鎮化(町化)も要因の一つと考えられる。

5 おわりに
エヴェンキは東北アジアの先住民として、中国北魏時代(日本の古墳時代の前期に当たる)の文献にすでに登場し、また日本、中国やロシアの研究成果から、紀元前2千年前から、シベリアから中国の東北地域にかけての広大な空間を舞台に活動し、独自な生活形態を確立したと同時に、その地域の歴史、文化の形成にも大きな影響を与えたことが判明されつつある。

本章で紹介してきたように、17世紀以降、特に20世紀に入ってからエヴェンキの従来の生活形態は大きく変わり、近年「民族文化」の継承も危機的な状況にあると考えられる。しかし、1980年代以降、エヴェンキの各自治地域において、さまざまな形で「民族文化」を復活させようという動きが見られる。…例えば、元エヴェンキ研究会の理事だったウインダライは、『エヴェンキ族の起源』という本の中で、エヴェンキを主体的に捉え、国から出版された歴史教科書や漢民族出身の学者と異なるエヴェンキ民族の起源、形成過程を論証している。…さらに、近年ロシア側のエヴェンキとの文化交流活動も軌道に乗り始め、国境を越えてのエヴェンキ同士の交流が広がりつつある。

(注1) エヴェンキ族自治旗にあるエヴェンキ博物館の前庭には、清朝乾隆期に活躍したエヴェンキ族将軍海蘭察(ハイランチャ)の像があり、その銘には次のように記されている。

海  蘭  察
  海蘭察(公元1740年――1793年)額格都・杜拉爾氏,呼倫貝爾索倫左翼?黄旗鄂温克人。乾隆二十年(1755年)従軍,征戦南北。海蘭察武勇過人,身先士卒,由索倫馬甲,晋昇頭等侍衛、一等超勇公、侍衛大臣、内大臣、都統,参賛大臣等大清国要職。
  為維護大清版図之完整,海蘭察之戦騎踏大小金川,西蔵台湾等地,其戦功赫赫,青史留名。乾隆五十八年,海蘭察病逝于京都,以神威之帥入昭忠祀,画像列紫光閣四次。

(参考) 《清史稿》331巻、ハイランチャ(海蘭察)

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