2009年 10月
賢治の里に満洲ツングース族!? [2009-10-27 21:04 by satotak]
近況報告 - ハイランチャ、そしてマンション管理 [2009-10-13 19:49 by satotak]

2009年 10月 27日
賢治の里に満洲ツングース族!?
今月初旬に帰郷した折、96歳の父親との会話:−
  父「お前が中学の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
  私「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。ところで何故?」
  父「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったよ。」
  私「終戦後の満洲開拓団の引揚げのことかな?」
  父「いや違う。ずっと昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
  私「…そんなことは書いてないなあ。平泉の藤原氏が源頼朝に滅ばされたとき、その一族の一人が幸田に落ちのびて来たとあるから、それと混同したのでは。この冊子によれば、満洲の原住民というのはツングース系民族のことで、飛鳥時代より前に日本に渡来したという説があるらしい。幸田ではなく、胡四王山の方の話だね。」…
  父「越国...新潟の方が本拠だったのか。どうりで田中角栄はどこか普通の日本人とは違って、大陸的だったなあ。」

「ふるさとの由来」(「季刊タウンやさわ第29号」 矢沢観光開発協議会 2009)より(筆者:内舘勝人):

…花巻市矢沢地区は、北上川の左岸にある地域で、三郎堤、胡四王山、大森山があり、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、花巻市博物館、東北新幹線新花巻駅などの建物もあり、文化観光の拠点地域となっている。…

古志族とは
花巻市史に古志族について次のような記述がある。
「藤原相之助氏は「古四王神考」(東亜古俗考)に於て、我々の祖先は祖神を祭ってそれを中心として集落をつくり都邑を形成していくものであるということを前提として、古四族−満州附近に住んでいたツングース系民族−の祖神たる高志(越)王神であるとし、この神社のあるところ古志族の分布した名残の場所と考えた。(古四王神社は岩手、宮城、秋田、山形、新潟などにわたって約40位あるようである。)」

また、古志族についての文献がホームページにあったので紹介する。
「(略)日本海岸の独立国「越国」は、山形県の小国町にあり、古志王神社がある。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族である。日本古代、この民族は、遷移南下し、渡海して北海道に至り、日本一帯を統治した。一説によれば、彼らは、祖先の石像を彫刻して、祖先を祭った。現在、古志王神社が祭る神像は、鎌倉時代の一刀彫(小刀で刻み込む彫法)の古志王像である。古志国は、日本飛鳥時代(7世紀初め)の国名であり、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した。越国の位置は、今日の新潟県から福井県北部に当たる。

この後、山形県、秋田県から青森県の最北端に至るまで、全て越国を称した。7世紀後半の天武、持統天皇時期に至り、越国は、越前、越中、越後に三分され、この呼称は、現在に至るまで用いられている。越後新潟の新発田市にも、古志王神社がある。当地の民間信仰には、このような伝説がある。神社の戸の隙間又は裂け目に赤土を塗り、身体上にも赤土を塗りさえずれば、冬になっても、皮膚は凍傷にならないという話である。これより、古志王は、元々寒地の神であったと見られる。

「日本書紀」神代の国造り神話の中には、越州の地名がある。当時、本州を「大日本豊秋津洲」と称したことから、日本海沿岸の越国は、大和王権の外に独立した独特な地区であったと見られる。」
(出典:「満洲族の祖先粛慎人及び靺鞨人と日本の親縁 」の「渡海して日本に建国した北方ツングース族−粛慎、靺鞨、狄」)

(参考 1) 「胡四王山
 ...と、ここまでなら、坂上田村麻呂伝説に始まり、神仏習合→神仏分離という経過をたどったという、東北地方に数多くある社寺の一例のように思えます。
 しかし、「胡四王」という名前には、もっと古い歴史が秘められているという説もあるのです。

 じつは、「コシオウ」という名前の表記には、「古四王」や、「越王」、「巨四王」、「高志王」、「腰王」、「小四王」、「小姓」など様々な種類があって、その名を冠した神社は、新潟、山形、秋田に多く見られるのです。(例えば、秋田市の古四王神社、秋田県大曲の古四王神社、秋田県横手市の古四王神社、新潟県新発田市の古四王神社など。)...

 そして、北陸地方が古来より「越(こし)の国」と呼ばれていることを踏まえて、これは日本海側に住んでいた人々によって古くから信仰されていた神であるとする説が、かなり有力と考えられています。
 その「神」とは、ある説では、阿倍比羅夫が秋田地方に遠征したことと関連して、阿倍氏の祖神と蝦夷(エミシ)の土着の神が習合したものが「コシオウ」神であるとします。
 また別の説は、『花巻市史』にも紹介されているものですが、沿海州から日本海を越えて渡ってきたツングース系渡来人が、高志(越)族だったとするものです。『花巻市史』では、藤原相之助氏の「奥羽越の先住民族ツングースの研究」を参照しつつ、次のように説明されています。...

(参考 2) 「東北民俗学からアジア民俗学へ:藤原相之助論(1)
…藤原相之助の民俗学方面の主著は『日本先住民族史』(1916)と『東亜古俗考』(1943)である。前著は大正二、三年頃、河北新報上に掲載したものを修訂した随筆であると相之助は謙遜し…。後者もまた、『旅と伝説』などの雑誌に寄稿した論文で一書が編まれている。刊行年から見ると順が逆になるが、まず、テーマも多岐に渡り、藤原相之助の問題関心が広く窺える『東亜古俗考』を取り上げる。…

# by satotak | 2009-10-27 21:04 | 女真・満洲・内蒙古 |
2009年 10月 13日
近況報告 - ハイランチャ、そしてマンション管理
月に1編は載せようと思っているのですが、ナカナカ...
8月は果たせず、9月はピンチヒッターで過ごし、グズグズしているうちに10月も半ばを過ぎようとしています。
8月には、ハイランチャ(海蘭察)について載せようと、ネットで資料を集めたりしたんですが、まとまりませんでした。

そして別にこんなサイトを立ち上げました。
  「マンション管理 内観外望
WORDとFTPだけで作る地味なサイトです。
そんなこともあって、ハイランチャは全然進んでいません。

ハイランチャ...清朝乾隆期のエベンキ族出身の将軍。ホロンバイルから一兵卒として出て、ジュンガル、ビルマ国境、ネパール国境、四川、台湾と各地を転戦するうちに昇進を重ね、数々の栄誉に輝いた。
そして最期は都の畳の上(?)で逝ったのですが、帝のはからいで戦場で死した勇士の礼をもって弔われたとか。
しかし、一方でエベンキ族は度重なる遠征に駆り出され、人口が急減したといいます。
少数民族の栄光と悲惨...ハイランチャは何を想って逝ったのか!

エベンキ族がハイラルの方にまで南下し、清朝で大活躍した将軍を出したことを、今年6月の東内蒙古旅行まで知りませんでした。
それまでの私の知識では、エベンキ族はシベリア先住少数民族の一つで、中国側に居るとしても北縁の黒竜江流域ぐらいと思っていましたので。もしかすると「黒竜江」の認識が問題なのかもしれません。ハイラルも黒竜江地域?清朝の黒竜江将軍が管轄したのはどの範囲?

# by satotak | 2009-10-13 19:49 | 女真・満洲・内蒙古 |