2009年 11月
漢民族とは何か [2009-11-13 20:49 by satotak]

2009年 11月 13日
漢民族とは何か
橋本萬太郎編「民族の世界史5 漢民族と中国社会」(1983 山川出版)より(筆者:橋本萬太郎・岡田英弘):

中国文化圏における「民族」
国家とは、要するに一種の契約から成り立っているものであるにすぎないが、民族とは各人自身の社会的・文化的な規定にかかっている――ということがはっきりしていないと、どうしても漢民族というのが理解でぎない。いや、漢民族だけでなくて、実は、世界の民族もわからないのであるが、幸か不幸か、われわれの日常生活のなかでは、そういったことにたいする認識を迫られることが、ほとんどない。各人自身の社会的・文化的な規定にかかっているから、一民族の成員は、自分自身がその民族に属すると思わなくなったら、ほかにどんなに条件がそろっていても、民族でなくなるという側面がある。

漢民族とは、一番わかりやすくいったら、「漢字を識(し)っている人びとの集団である」ということになろうか。いや実際には、漢字を完全に習得するためには、たいへんな資力を必要としたから、かつての中国社会では、右のことばは、「漢字を識っている人びと、および漢字を識ろうと願っていた〔けれども、実際にはそれがかなわなかった〕人びとの集団」とでも、いいかえなければならない。…

この定義は、もちろん極端に簡略化していったものである。漢字を識っているとは、実はそれによってになわれた文化、文物、制度、その他これにかかわる社会的・文化的産物のいっさいを背景にもっている人びとである、ということである。もっとも、そうすると、日本人も、朝鮮人も、それからフランスの入りこむ前のベトナム人も、漢民族であったということになりかねない。これは、今では忘れられがちであるが、日本も、明治になるまでは、公用語は、少なくとも書き物のうえでは漢文であった。しかしそれだからこそ、これらの国々では、民族国家成立の文化的努力は、まず日本語、朝鮮語、ベトナム語といった民族語〔とそれにもとづく書きことば〕の確立、という形をとったのである。いわば、ルーテルがドイツ語で聖書を訳し、ダンテがイタリア語で詩作をしてはじめて、近代的民族としてのドイツ人イタリア人が成立したようなものである。それまでは、ヨーロッパでは、書き物はみなラテン語でなされていて、その間は、われわれの今日理解するような意味とレベルでの近代的な民族意識というものは、存在しなかった。

漢民族とはそういうものであるから、そのなりたち、あり方を論じようとすると、中国大陸、もっと広くいえば東アジア大陸における少数民族の問題と、きりはなしては考えられない。

漢民族のなりたち
…漢民族は、いま確実に知られているかぎりでは、西暦前10世紀ごろ、おそらく西北方の中央アジアから、下図に示すように、「中原地方」といわれる、大陸の中心部に入ってきた(しゅう)という部族が黄河流域に定着し、徐々に周辺の諸部族を同化してゆく過程のなかで、できあがってきたものである。「中原」とは、べつにここからここまでと決まった地域のことではないが、黄河の中下流域で、古代から漢民族の政治的・文化的中心舞台となった地方をいう。…黄河を中心とする、華北のもっとも肥沃な平原地帯である。この中原地方には、それ以前に(か)といい、(しょう)(のちに(いん))といった人びとの国があったという伝説があり、その存在は今日では疑いないものとして、考古学的にもたしかめられつつあるが、それらの人びとが、われわれの今日にいうような意味での漢民族であったかどうかは、まだ、あまりはっきりしていない。…
…東アジア大陸における状況は、…大局的にみると、構造上の驚くべき連続体をなしている。もって、漢民族の言語とその文化圏が、中原地方を中心とした、何千年にもわたる、周辺民族のいかにゆるやかな同化をはかりつつ成立したものであるかということが、うかがえるであろう。漢民族が、東に夷(い)、西に戎(じゅう)、南に蛮(ばん)、北に狄(てき)という「未開人」を配し、中心に開花した中華の民をすえるという、伝統的な世界像をつくりあげたのも、ゆえなしとしない。しかも、その文化圏は、異常な早熟さを示しているのである。

それには、漢民族の文化がもっともみごとに花を開いた、大唐の世をおもいおこせばよい。その時代(7−9世紀)には、イギリスは、やっと歴史に登場したばかりだし(アルフレッド大王の即位が871年)、わが国では、『古事記』(712)や『日本書紀』(720)が編さんされているところであった。

いわゆる華夷の思想はこうして生まれた。何がその華(漢民族)と夷(周囲の未開人)をわけているかといったら、要するに漢字を受けいれ、その背後にあるいわゆる「中国風」の生活をしているかどうか、「中国風」の農耕経済をいとなんでいるかどうかである。

西北方から中原地方に入ってきた周の人口など、今日からみれば、たかがしれた数であったろう。だから極端にいえば、漢民族とは、そのかなりの数が、このように同化された諸民族であるといってよい。われわれの今日いうような意味の国家などとはケタのちがったスケールで、民族としてのまとまりを考えてきた。相互にことばが通じるとか通じないとかといった問題は、二の次であった。しかしまた、同化民族であったからこそ、逆にその文化的なまとまりは、驚くほど整合的であった。その点だけについていえば、今日のアメリカ合衆国に似ているところがある。一方でアイリッシュ系とかイタリア系とかいった背景をきちんと保持しながら、たちまちに「アメリカン・ライフスタイル」にくみこまれ、そのことばに象徴される文化的な自己規定をしてしまうところは、漢民族のまとまり方によく似ている。…

周辺民族圏
これらの少数民族が、漢民族をかこむ第一次外輪圏をなしているとすると、東アジア世界には、さらにその外をかこむ第二次民族圏があった。東の朝鮮日本や南のベトナムなどが、それである。

歴史的にみると、第一次民族圏にも、その後歴史の舞台から消えてしまったが、西北の高昌(こうしょう)、西夏(せいか)、それから今日にも尾をひく西方のチベット、西南の南詔(なんしょう)(ぺー族)のような、前近代的な意味での国家をつくるうごきがあったが、漢民族的なまとまりをマイクロコズムにした近代国家をつくるのに成功したのは、この第二次外輪圏の諸民族である。

文化的に、ことに制度的に、漢文化を高度に受けいれながら、その文化圏から独立しようとしたために、これらの民族は偶然にも、近代にいたって、「単一民族単一国家」という形をとることになった。しかしそれだけに、漢民族の文化にたいして、つねに愛憎共存するアンビバレンスを保持する特徴がある。前述のように、これらの国々においては、つい近代にいたるまで、漢民族の言語が公用の書きことばであった事実が、今では、ややもすれば忘れられがちなのも、そのためである。

しかし、この公用の書きことばが漢民族の言語であったという事実は、漢民族のまとまり方を理解する上で、かぎりなく重要である。それは、漢民族の文化圏で民族をまとめるコミュニケーション・ネットワークのあり方を、今でもそのまま反映しているからである。…

漢民族のあいだには、バイブルにみられるような、できあいの文句[「はじめにことばありき」]こそないが、「はじめに文字ありき」ということが、強固な、抜きがたい伝統になっている。漢民族にとっては、それはあまりにもあたりまえのことなので、かえって、できあいの文句がないのであろう。

この、書きことばと各地の人びとの実際に話すことばとの乖離(かいり)は、あまりにも長いあいだ支配的であったので、漢民族のあいだですら、漢字によって書かれた言語のほうが、自分たちの口にする言語より本物であった。北京人と上海人、上海人と広東人のあいだにことばが通じなかったということは、そのために、漢民族としてのまとまりに、歴史のうえでは少しも障害にならなかった。

しかし、池になげた小石のえがく輪状波紋形としてとらえられる漢字文化圏のまとまりだけで漢民族をとらえると、われわれは、ことの一面しかみていない危険におちいる.
われわれは、第一次、第二次外輪圏にあらわれた諸民族のうち、北方にあらわれた諸民族の存在を、今まで故意にふせておいた。

漢民族の政治史は、極端にいうと、古代以来北方民族の不断の侵略の.歴史である。第一、周(しゅう)そのものが、西北からの侵入者であり、それ以後でも、4−5世紀に中原に入って北方を蹂躙(じゅうりん)した五胡、5−6世紀の北朝、10世紀の五代、12世紀の遼、12−13世紀の金、13−14世紀の元、17−20世紀の清(しん)と、歴史の主要な変動は、すべて北方からの侵入者によってひきおこされている。一つの例外もない。

北方以外からの侵入は、わずかに西方から8世紀に吐蕃(とばん)(チベット)の長安(今日の西安)侵入があったが、これはほんの一時的なもので、漢民族の形成・発展には、大きなかげをおとしていない。万里の長城が、華南や華西にないのも、ゆえなしとしない。

漢民族の形成をたどる、もう一つの重要な軸――南北の軸――は、こうした淵源をもつ。…なぜそうした側面が生じたかという問題を、ここで考えておこう。その問題にうつると、われわれは、この地球上における人間集団のあり方を、数千年という単位で大きく規定している気象変動と、それによってもたらされる自然環境の変化というものを考えざるをえなくなってくる。…

民族の成立と中国の歴史
…現在の中国、すなわち中華人民共和国の国民の大多数は「漢族」と分類されていて、その他のいわゆる少数民族、チワン族、回族、ウイグル族、イ族、チベット族、ミャオ族、満(満洲)族、モンゴル族などと区別されている。
これでみると、いかにも漢族という名の単一種族が存在しているようにみえるが、それは少数民族との対照の上でそうみえるだけである。漢族がすべて神話の最初の帝王、黄帝(こうてい)の血をひく子孫であるという観念、「黄帝の子孫」としての中華民族という観念が発生したのは、1895年、日清戦争で清朝の中国が日本に敗れ、近代化、西欧化に踏み切ってからのことであって、それまでは、現在「漢族」と呼ばれている人びとのあいだにさえ、同一民族としての連帯感なぞ存在していなかった。そうした「血」や「言語」のアイデンティティのかわりに存在したのは、漢字という表意文字の体系を利用するコミュニケーションであって、それが通用する範囲が中国文化圏であり、それに参加する人びとが中国人であった。…

中国人の誕生
…前221年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国、中国以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡をくりかえしたのであるが、それでは中国人そのものは、どこから来たのであろうか。

中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。

…中国の都市の特徴は城壁で囲まれていることで、これは1911年の辛亥革命まで、あらゆる中国の都市に共通であり、城郭都市こそが都市であった。「」の本来の意味は城郭都市のことであり、その音は「郭」と共通であって、「中国」とは、もともと首都の城壁の内側のことである。のちに意味が拡張されて、「中国」は首都の直轄下の地域、つまり畿内のこととなり、最後に皇帝の支配権のおよぶ範囲をすべて「中国」と呼ぶようになったが、これは本来の用法ではない。だから「中国」とは、よく誤解されているように、「世界の中心の国」という意味ではない。

城壁の形は、地形にしたがっていろいろであるが、もっとも基本的な形は四面が東西南北にそれぞれ面した正方形で、土をねって築きあげる。四面にそれぞれ門を開くが、正門は南門で、門にはそれぞれ丈夫な扉をつけ、日没とともに閉じ、日の出とともに開く。城壁の内側は、縦横に走る大通りによって多くの方形の区画に区切られ、もっとも中心の区画は王宮である。…

こうした城門、木戸の夜間閉鎖と、夜間外出の取り締まりは、1921年に清朝が倒れるまで続いた制度であった。首都の城内に住む権利があるのは、役人、兵士、それから商工業者であって、すべて塀に囲まれた坊里のなかの、長屋風の集団住宅に住んで共同生活をしていた。これは兵営都市という印象をあたえるが、実際城壁は「中国」の空間を、外側の「蛮、夷、戎、狄」の世界から区別する、もっとも重要な境界だったのである。つまり、いかなる民族の出身者であれ、都市に住みついて、市民の戸籍に名を登録し、市民の義務である夫役と兵役に服し、市民の職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は中国人、「華夏」の人だったのであって、中国人という人種はなかった。その意味で、中国人は文化上の観念だというのである。…

中国語の起源
中国語(漢語)と普通、呼ばれているものは、実は多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽(おお)いかぶさっているにすぎない。…

漢字の原型らしいものが発生したのは華中の長江流域であって、これを華北にもたらしたのは、もともとこの方面から河川をさかのぼってきたらしい夏人であった。夏人とむすびつく系譜をもつ越人は、後世、浙江省、福建省、広東省、広西チワン族自治区、ベトナムの方面に分布していたが、その故地に残存する福建語、広東語の基層はタイ系の言語である。つまり華中、華南が漢化する前、この地方で話されていた言語はタイ系であったと思われるので、この地方に故郷をもち、洛陽盆地を中心として最初の王朝をつくった夏人の言語も、タイ系であったかと思われる。

ところで漢字は表意文字であって、表音文字ではない。現在、知られている漢字は約5万字であるが、…いずれにせよ、一字一音、しかも一音節が原則となった。ところがいかにタイ系の言語といえど、あらゆる語が一音節からなるということはありえない。そのため、漢字の音は、意味というより、その字の名前という性格のものになってしまう。

こうなると、漢字のもっとも効果的な使用法は、実際に人びとが話す言語の構造とは関係なく、ある簡単な原則にしたがって排列することになる。そうすると、表意文字の体系であるから、言語を異にする人びとのあいだの通信手段として使えることになる。そしてそのように排列された漢字を、それぞれにわりあてた一音節の音で読むと、まったく新しい、人工的な符号ができあがる。こうしてつくりだされた人工的な言語は、日常の言語とはまったく違う、文字通信専用の「言語」となる。これが「雅言(がげん)」である。こうして漢字は、それをつくりだした民族の日常言語から遊離することによって、彼らにとってかわった殷人や周人、また秦人や楚人にとっても有用な通信手段、記録手段になりえたのである。

ところでこうした漢字で綴られた漢文の特徴としてきわだつことは、そこには名詞や動詞の形式上の区別もなく、接頭辞も接尾辞も書きあらわされていない、ということである。この結果、漢字の組み合わせを順次に読み下すことによって成立する、いわゆる「雅言」は、性・数・格も時称もない、ピジン風の言語の様相を呈するが、これは夏人の言語をベースにして、多くの言語、狄や戎のアルタイ系、チベット・ビルマ系の言語が影響して成立した古代都市の共通語、マーケット・ランゲージの特徴を残したものと考えられる。…

中国文明は商業文明であり、都市文明である。北緯35度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組みこまれた範囲が、すなわち中国なのである。そして中国語は、市場で取り引きにもちいられた片言を基礎とし、それを書きあらわす不完全な文字体系が二次的に生みだした言語なのである。
# by satotak | 2009-11-13 20:49 | 民族・国家 |