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Turk & Mongol 更新覚書

■2009.10.31 近況報告 - ハイランチャ、賢治の里、そしてマンション管理

◆月に1編は載せようと思っているのですが、ナカナカ...
8月には、ハイランチャ(海蘭察)について載せようと、ネットで資料を集めたりしたんですが、まとまりませんでした。

ハイランチャ...清朝乾隆期のエベンキ族出身の将軍。ホロンバイルから一兵卒として出て、ジュンガル、ビルマ国境、ネパール国境、四川、台湾と各地を転戦するうちに昇進を重ね、数々の栄誉に輝いた。
そして最期は都の畳の上(?)で逝ったのですが、帝のはからいで戦場で死した勇士の礼をもって弔われたとか。
しかし、一方でエベンキ族は度重なる遠征に駆り出され、人口が急減したといいます。
少数民族の栄光と悲惨...ハイランチャは何を想って逝ったのか!


エベンキ族がハイラルの方にまで南下し、清朝で大活躍した将軍を出したことを、今年6月の東内蒙古旅行まで知りませんでした。
それまでの私の知識では、エベンキ族はシベリア先住少数民族の一つで、中国側に居るとしても北縁の黒竜江流域ぐらいと思っていましたので。もしかすると「黒竜江」の認識が問題なのかもしれません。ハイラルも黒竜江地域?清朝の黒竜江将軍が管轄したのはどの範囲?

  ○中国エヴェンキの歴史と現在

エベンキ族とは違いますが...

  ○中国ホロンボイルのモンゴル族

◆そして別にこんなサイトを始めました。

  ○「マンション管理 内観外望

WORDとFTPだけで作る地味なサイトです。
そんなこともあって、ハイランチャは全然進んでいません。

◆郷土史の類は我田引水・牽強付会が多そうで余り深入りするつもりはないのですが、わき見ついでに...

  ○賢治の里に満洲ツングース族 !?


■2009.5.1 北疆ジュンガリア旅行 -無いものを見に行った旅-

◆北疆ジュンガリア旅行から帰ってきて、その印象をまとめておこうと思っているうちに、もう半年以上が経ってしまった。

最後の遊牧帝国といわれるジュンガル、その興亡の地に立ってみたいと思って、ジュンガル盆地の縁を一巡りし、イリにも行った。しかし、予想されないことではなかったが、ジュンガル帝国の痕跡を見ることも聞くこともできなかった。無いものを見に行った旅…といったところ。

旅行は15日間のパッケージツアー。参加者は13名で、それに日本人添乗員とウルムチからの現地スルーガイド(漢人)とバスの運転手(撒拉族)の総勢16名。
行程は、9月4日午後に羽田を発って−上海(泊)−ウルムチ−トルファン(泊)−ハミ(泊)−バリコン(泊)−ジムサル(泊)−アルタイ(2泊)−カトンユイ(泊)−カナス湖−カトンユイ(泊)−ウルホ(泊)−精河(泊)−イーニン(泊)−昭蘇−イーニン(泊)−ウルムチ−上海(泊)−そして18日午後に羽田帰着。

こんな旅で印象に残ったことは…

ジュンガル
現地ガイドからは、ジュンガル族あるいはオイラト族について何も話されなかった。まだ若い漢人女性ガイドだったので、やむを得ないとも思ったが、アルタイやイーニンの博物館にも関係する展示はないようだった。ウルムチの博物館なら何かあったのかもしれないが、今回の旅行では安全面で不安があるということで、ウルムチの観光は中止。ウルムチでは飛行機の乗換えと食事だけになってしまった。

広大な町と道路と農地
今度の旅行で一番印象に残ったのは、「広大さ」。といってもジュンガル盆地や砂漠のことではない。盆地の縁を辿っただけのせいか、あるいは他の砂漠を見慣れたためか、これらの広さはそれ程実感できなかった。

広さ、大きさが印象に残ったのは、町と道路と農地。
県庁所在地だけでなくそれ以下の都市でもかなりの規模。それも町の中心部を大通りが貫通する中国風の街づくりになっていた。
また道路も整備されており、主要な都市の中は片側2〜3車線、その外側に街路樹、さらに自転車路(?)、緑地、そして広い歩道。イーニン等では朝暗いうちから作業員が出て大きな竹箒で掃除をしていた。主要国道では高速道路化も進んでおり、今度の旅行のバス行程全3,700km中、工事中のところを除けば、ほとんど舗装完備だった。これも西部大開発戦略の成果か。
飛行機から見下ろす赤茶けた土漠の中に現れる、くっきりと直線で区切られた広大な緑の畑、これも印象的!

中国の統治
オリンピックの直後で、ウルムチの観光が中止になるなど、治安・安全面が気になっていたのだが、何事も起こらず、途中不安を覚えるようなこともなかった。
軍隊はおろか、制服姿の警官を見かけることもほとんどなかったように思う。
中国の統治が行き渡っているという感じ。

しかし旅行シーズンの終り間近ということもあるのだろうが、外国人観光客にはほとんど行き会わない。特に日本人は皆無。今年のカナス湖の観光客は、中国人を含めて例年の半分以下だったとか。

新疆生産建設兵団
あちこちで「137団場」のような道路標識を見かけた。新疆生産建設兵団の農場や工場団地があるのだろう。兵団は漢族の新疆進出の拠点として、いろいろ議論の的になってきたようだが、今では巨大なコングロマリットといったところか。
ウルホで泊まったホテルも兵団の系列のようだった。隣接して兵団の地方本部のような建物があり、このホテルはかつて「招待所」などと呼ばれていたものかもしれない。

民族英雄 林則徐
イーニンで予定外の林則徐記念館に寄った。林則徐の名前はアヘン戦争に絡んで高校の世界史にも出てきたように思うが、何故イーニンに? アヘン戦争後に、清朝は英国を慮ってか林則徐を新疆に形だけの流罪にし、彼は無位無官となったが当地の開発にも大いなる貢献をしたのだという。新疆にいたのはわずか3年たらず。

この記念館は、新疆開発というよりは、アヘン戦争の民族英雄を顕彰するのがメインのようだった。林則徐記念館は中国各地に合計6ヵ所あるとか。

撒拉族
15日間、3,700kmの全行程を一人でバスを運転してくれたドライバー氏。最初の日に「彼はムスリムです」とガイドから紹介があった。顔は漢族と見分けが付かないので、「回族か」と聞いてみると、「サラ族」だという。サラ族??

王柯著「多民族国家 中国」によれば、「撒拉(サラール)族 人口:10.45万人 その88%が青海省居住」とあり、他の資料には「西海省、甘粛省、新疆に住む 自称サラール 言語はウイグル語に非常に近いが、文字はなく、漢語を用いる 農業を主とする」とある。

この旅行の期間がちょうどラマダンと重なっていた。

◆さてその次は…
今度の旅行で残念だったのは、昭蘇まで行きながら、バインブルク(ユルドゥズ)草原に行けなかったこと。いつかバインブルクの大自然を堪能するだけでなく、ハズルンドの跡を少しでも追ってみたい。

摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-

そして、ジュンガルを滅ぼし中国の新疆支配を確立した清朝発祥の地、満洲。しかし近代以降の満洲と日本との関わりを思うと、気が重くなるようでもあり…

女真・満洲・満族


■2008.7.7 ジュンガリア旅行は9月に延期

6月に予定していたジュンガリア旅行が、参加者が集まらず、流れてしまった。同じコースの次のツアーが9月にあるというので、こちらに申込み直しておいたが、どうなることか。北京オリンピックがある今年は、あれやこれやで、中国旅行は敬遠されているのだろうか。

そんな訳で、今しばらくジュンガリアにこだわって、見ていきたい。

◆ 今春、「講座 スラブ・ユーラシア学」全3巻が講談社から刊行されたが、その第2巻が「地域認識論―多民族空間の構造と表象」(宇山智彦編)。「表象」というのは、私にとって何とも難解でピンとこない用語だ! それはさておき、この中で特に興味を覚えたのが、「第7章 露清関係とカザフ草原」、「第6章 カルムイク人とブリヤート人の民族意識」、「第5章 生業文化類型と地域表象」、そして「序章 地域認識の方法」。

第7章は、ジュンガリアとカザフ人に直接関わる内容。
第6章は、題名のとおりだが、ここでの「カルムイク」とはロシア連邦カルムイク共和国の名称民族のことで、トルグート族の東遷の際に、ボルガ川西岸に取り残された人々の後裔。
第5章では、トゥバ人をはじめとするシベリアや極東の先住少数民族を扱っている。
そして序章では、構築主義についても述べられているが、これについては大分前に触れた。

18-19世紀のカザフ草原と露清関係
民族と歴史家の立場

◆ ジュンガリアのカザフ族について、文献を探してみたが適当な和書が見つからない。仕方なく英語で探してみると―

[1] L. Benson、I. Svanberg共著「China’s Last Nomads: The History and Culture of Chiana’s Kazaks (中国の最後の遊牧民:中国のカザフ族の歴史と文化)」(M.E. Sharpe 1998)  まさにそのものズバリのタイトルだ。9月の旅行まで目を通しておきたいが、できるかどうか?

[2] G. Lias著「Kazak Exodus(カザフ族の大脱出)」(Evan Brothers Ltd 1956)  1949年以後に起きた中国新疆ザフ族の苦難。

この両書はインターネットで閲覧できる。但し{1}は有料。

◆ 一月前ぐらいになるが、6月10日の夜、何気なくNHKのBS2にチャンネルを合わせると、喜太郎の音楽と石坂浩二の語りで綴られるなつかしい番組をやっていた。

   「蔵出し劇場 NHK特集”シルクロード” 第9集:天山を貫く〜南疆鉄道〜」

初回放送が1980年というから、30年近く前の作品。開業前の南疆鉄道を食堂車付の特別列車でトルファンからコルラまで行くという豪華な取材旅行!

その中に出てきたモンゴル系遊牧民が「トルフト族」?
その歴史を聞くと紛れもなくそれは「トルグート族」のものではないか。
「トルグート」を「トルゴト」という例はあったが、「トルフト」ともいうのだろうか。

気になって、テレビを見た後でググってみたが、「トルグートをトルフトともいう」といった記述は見当たらない。それどころか「トルフト族」という用例はこの作品に関係したものを除いてはほとんどないようだ。これは一体どういうことか。

そんな疑問もあってこの作品をゆっくり見直したいと思い、探してみると、何という幸運! Yahoo!オークションに「新品未開封DVD、1000円から」とあったので、早速入札…無事1000円で落札。そしてその後Amazonで新書版「天山南路の旅」を80円(送料は別)で入手。

天山の民・トルフト族 -現代中国のトルグート-

何だか不思議な気がする。全くの偶然に見たテレビで現代のトルグート族に出会い、幸運にも格安でそのDVDなどを入手。これはテインラマの導きか?私はトルグートと何か深い縁でもあるのだろうか?

摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-

私も2001年の初夏にトルファンからカシュガルまで南疆鉄道に乗ったが、当時は南疆鉄道に乗ること自体に興味が向いていた。途中、天山山脈中の景色に見とれていたのは憶えているが、そこに暮らす人々やその人々の歴史にまでは思い至らなかったように思う。

トルグート、バインブルク(ユルドゥズ)草原そして南疆鉄道をキーワードに来年の旅行を考えてみるのも面白そうだ。

[拡大図]

30年前にトルフト族の牧地があったのは、南疆鉄道のハルダハト大橋の下、奎先(けいせん)トンネルの東側のはず。今はどうなっているのか。南疆鉄道は彼らに本当に幸福をもたらしたのだろうか。


■2008.3.16 次は何処へ?何を?

「民族」の輪郭は益々ボヤケてくるばかりなのだが、では次は何に焦点を当ててみようか?また今年の旅行はどこにしようか?

インド…シベリア…沿海州…西モンゴル…ジュンガリア(新疆北部)?

インド:大分前に載せたことがあるが、インドにムガル朝を建てたバーブルはチムール朝出身のテュルク=モンゴル系の人物であった。これは16世紀のことであるが、それ以前にインドにあった奴隷王朝と言われる国もテュルク系の人々が興したものであったらしい。これは面白いと思ったが、しかし適当に詳しくて手ごろな文献が見つからず、私の手には負えそうもない。

シベリア:中国、モンゴル、カザフスタンの北に連なるシベリア南部は、当然古くからテュルク=モンゴル系民族が活躍したところ。現在でも、トゥヴァ共和国など、テュルク=モンゴル系民族の名称を付したロシア連邦内の共和国が存在する。しかしこちらも手ごろな文献は見つからず、関心のある地域を訪ねるパックツアーもないようだ。

沿海州:テュルク、モンゴルとはちょっと離れるが、「デルス・ウザーラ」を追ってみるのも面白そうだ。大分前にテレビの深夜放送で見て、気になっていた黒澤明の映画、題名も分からぬままでいたのだが…調べてみると、「デルス・ウザーラ」。ツングース系の猟師デルス・ウザーラを主人公としたこの物語(ノンフィクション)はもちろんのこと、作者のロシア人アルセニエフとその家族の人生も興味深い。時代は20世紀初頭、舞台はハバロフスク、ウラジボストク東方、日本海に面した山岳地帯。こちらは資料もいろいろとある…映画のDVD、アルセニエフの著作の翻訳本、岡本氏のマニアックな著作。しかし…またの機会に後回し。

ジュンガリア(新疆北部):1755年、最後の遊牧帝国と言われるジュンガルが清に滅ぼされた後、ジュンガルが支配していた人々や土地はどうなったのだろうか。

現在の中国新疆ウイグル自治区は東トルキスタンとも呼ばれ、そこに住む民族と言えばテュルク系民族であるウイグル族がまず頭に浮かぶ。しかし実際はどうだったのか。天山山脈の南と北では事情が異なると思うが、天山山脈の北、ジュンガリアはもともとモンゴル系やカザフ系の人々が遊牧していた土地ではなかったか。

カシュガル方面には何度か行ったことがあるので、今年はジュンガリアに行ってみようか。できれば西モンゴルからアルタイ山脈を越えてジュンガリアに抜けるコースがあれば…と思ったが、見つからない。

そんな訳で、今年の旅行は、西安〜トルファン〜ハミ〜バリコン〜ジムサル〜アルタイ〜カナス湖〜ウルホ〜精河〜イーニン〜ウルムチ〜西安というコースに申込もうと思っている。6月19日出発の予定だが、参加者が集まるかどうか。

ジュンガリアの北端にあるカナス湖も、最近は観光開発が進み、中国人観光客が多いとか。あまりゾットしないが、これもジュンガリアの現実と諦め、現実を直視してくることにしよう。

現代のウイグル族と言えば、カシュガルのエイティガル寺院を持ち出すまでもなく、イスラム教徒として知られ、18世紀のカシュガルやヤルカンドも同じこと。これら諸都市の実権を握っていたのはホージャと呼ばれるイスラム教の宗教貴族だった。しかしイリに本拠を置くジュンガルは違った。チベットから青海、モンゴル、ジュンガル、そして遥かボルガ川沿いのトルグートまでがチベット仏教の勢力圏だった。現代のジュンガリアに仏教はあるのか。

「チベットのラサで暴動 僧侶がデモ」と昨日から報じられている。北京オリンピック開催の今年、中国で何が起こるのか。

中国における「民族」も分かり難い。「民族識別」による56民族とか、「民族区域自治」に基づくという複雑な行政区域の構成…そして、そもそも「漢族」とは何なのか?

こんなことも含めて、これから数ヶ月は、ジュンガリアにフォーカスしてみたい。

ジュンガリア
ジュンガル


■2008.2.10 民族には実体がない?!

「民族は…?」をテーマに、主にテュルクとモンゴルについて見てきたが、早2年が経ってしまった。そして何が分かったのか? 残念ながら「民族」の輪郭が益々ボヤケてくるばかり。

敢えて言うとすれば、仏の教えに擬えて、「族即是空:民族には実体がない」と言ったところか。
こんな自分の感慨に一脈通じる文章に出会った。

草原の道 風の民 -「歴史」の痕跡-

明確な領土と国境そして国民の存在を前提とした近代国家(国民国家)の中で、民族はどんな意味を持つのか。「民族自決」とは言うけれど、この「民族」は日本独自の用語とか。本来は「民族自決」ではなく、「人民(people)自決」ではなかったのか。

しかし、こんな言い草を、故郷を捨て家族を犠牲にしてまで、東トルキスタンの独立を夢見て運動しているウイグル人が聞いたら、何と思うことだろうか。


■2007.7.28 キルギス旅行を終えて

キルギス・カザフスタン旅行から帰って、ボヤボヤしているうちに2週間が経ってしまった。

今度の旅行は、もともと中国のウルムチから車でコルゴス国境、カザフスタンを経てキルギスに入り、ビシュケク〜イシク・クル湖〜ジェティ・オグズ〜イシク・クル湖〜ナリンを回り、トルガルト峠からカシュガルに抜けるコースを予定していた。しかし参加者が集まらず、催行中止。

替わりに行ったのが、(ウズベキスタン)タシケント〜(カザフスタン)トルケスタン〜タラス〜(キルギス)ビシュケク〜ソン・クル湖〜イシク・クル湖〜(カザフスタン)カルカラ谷〜アルマトイ。タシケントからアルマトイまで10日間。私自身の主な目的はスイアーブとベラサグンの古跡だったが、ツアー企画者にとって目玉はソン・クル湖であったらしい。参加者7名に、日本から添乗員1名、現地ガイド1名、大型バスと運転手2名が付き、途中麓からソン・クル湖(標高3,016m)の往復には別に小形バスと運転手1名を丸2日間借切るという、贅沢と言うか無駄と言うべきか…そんな旅でした。

そして記憶に残った事と言えば−国境、ロシア(人・語)、発掘

国境:国境をウズベキスタン〜カザフスタン、カザフスタン〜キルギス、キルギス〜カザフスタンと3回通ったが、特にウズベキスタン〜カザフスタンではイライラさせられた。ソ連邦時代にもそれぞれ別の共和国で検問があったようだが、現在のように面倒ではなかったと言う。独立国家としての面子が影響しているのか、それとも昨今の国際テロに対する警戒なのか。

国境とは厄介なものだ。あのトラック等の渋滞を見ると、経済的損失も大きいと思われる。民族が国境を作るのか、国境が民族を作るのか?

ロシア(人・語):今度の旅行の現地ガイドはビシュケクに住むキルギス国籍のロシア人であった。国際関係論を学ぶ女子大生のアルバイト。これは私にとって全くの想定外。キルギス人ガイドから現代キルギス人の民族意識などを聞き出したいと思っていたのでガッカリ。

その上、彼女はキルギス語が分からないという。キルギスにはロシア人が多く、ロシア語が広く通ずることは知っていたが、キルギス語が分からなくても不自由しないとまでは思い至らなかった。しかしロシア人は減る一方のようである(2005年にはキルギス人65%、ウズベク人14%に対しロシア人12%)。彼女には聞きそびれたが、ロシア人にはロシア人の悩みがあることだろう。

発掘:アチコチで遺跡の発掘が行われていた。しかし現代の発掘と、遺跡の説明の中で非難がましく語られる墓荒し、盗掘と何が違うのだろうか。玄奘三蔵が立寄ったスイアーブ(砕葉城)の跡というアク・ベシムの発掘跡は崩れるに任せているように見えた。日干し煉瓦でできた都城跡を掘り返し、ろくな養生もしないで放置しては、ただの土の塊になってしまう。
ここだけの事ではない。日本の高松塚古墳やウズベキスタンのアフラースィヤーブ丘も同じようなものか。

ビシュケクのホテルで買った雑誌にシルクロードとソン・クル湖、スイアーブに触れた記事が載っていたので、訳してみた。

トルガルト峠〜ソン・クル湖〜ビシュケク -もう一つのシルクロード-


■2007.3.22 キルギス、キルギズ、クルグズ

今年はどこに行こうか、久しぶりにカシュガルに行ってみようか...などと考えながら、某社の総合パンフレットをめくっていたら、こんなコースが目に入った。

(中国)ウルムチ〜イーニン〜(カザフスタン)アルマトイ〜(キルギス)ビシュケク〜イシククル湖〜ナリン〜(中国)カシュガル

ウルムチからカシュガルまでの行程は全て車。成田を発ってから戻るまで2週間。これにしようか。

カザフスタン:初めて覚えた時は確か首都をアルマアタといったように思う。それが最近ではアルマトイといったりアルマティあるいはアルマトゥと書いたり...ややこしい!
そして今では首都でないらしい。確かに国のこんな西のはずれに首都があったとは奇妙なことだ。

今の首都はアスタナ。国の中央やや北寄りにある。遷都したのが1997年。この都のマスタープランを作ったのは我らが黒川紀章氏。そう!都知事選で狂言回しのような面白い役回りを演じているあの人です。

キルギス:こちらも日本での呼び方は様々...キルギス、キルギズ、クルグズ。日本の外務省のWebサイトでは「キルギス共和国」。
キルギスという名称はずいぶん昔から出てくる。9世紀にウイグル帝国が崩壊し、その故地モンゴル高原を去ったのは、西北モンゴリアのキルギス連合に攻撃されたためだという。
しかしキルギスを名前に付けた国は20世紀になるまで出てこないように思う。様々な場面で遊牧民キルギスに言及されるが、いつも脇役...

現代のキルギス人はどんな民族意識を持ち、どんな歴史が語られているのだろうか。
キルギスに行くとすれば6月か7月。それまでしばらくキルギスについて調べてみたい。

キルギス
キルギス in ユーチューブ

■2007.1.15 東トルキスタン、そしてカシュガル

「東トルキスタン(中国新疆ウイグル自治区)のカシュガルは私にとって因縁の地だ」と前に書いたが…
これからしばらく東トルキスタン、とりわけカシュガルにこだわって見ていきたい。
現在の東トルキスタンの状況や現代ウイグル人の意識に直結する19-20世紀の東トルキスタンに何があったのか?

現代ウイグル

20世紀前半期の東トルキスタンにカザンやクリミヤのタタール人が大きな影響力を持ち、また大日本帝国の影が東トルキスタンにまで及んでいた。

■2006.11.27 格差社会から見たマムルーク

格差社会、再チャレンジが議論される昨今の日本だが、近代以前のイスラム世界はどういう世界だったのだろうか。現代日本どころではない「格差社会」だったと思うのだが、マムルークといわれる奴隷(出身)の人びとが大活躍した。

キプチャク草原出身のバイバルスは、14才のころモンゴルの捕虜となり、奴隷商人に売り渡された。しかしその後弱冠33才でスルタンに昇りつめる。スルタンと言えば、カリフを日本の天皇に例えれば、幕府の将軍に当たるだろう。奴隷がスルタンになるだけでも驚きだが、奴隷からスルタンまで20年足らず。一体どうしてこういうことが可能だったのか?あるいは主(あるじ)との「親密な関係」が与ったのかもしれないが。

バイバルス -カイロに行ったマムルーク-

終身雇用にしがみつこうとして過労死する日本の企業戦士のことを思うと、どちらがより奴隷的か?もちろんマムルークには、驚異の栄耀栄華がある一方で、底なしの悲惨があったことだろう。

バイバルスが第五代スルタンとなったマムルーク朝の初代スルタン・シャジャル=アッドゥッルは王朝名が示すようにマムルーク出身、それも女性だった。
イスラム世界の何というダイナミックレンジの広さよ!

イスラム教徒には、
武芸に秀でたトルコ人の集団や諸部族の中から、
共同体をまもるアミールや献身的な援助者がつかわされた。
彼らは異教の世界から奴隷として
イスラム世界にもたらされた者たちである。
  (イブン・ハルドゥーン『世界史』より)

■2006.10.25 タタールの次は? -東トルキスタン、それともカフカース-

しばらくボルガ・タタールを見てきたが、彼らの民族意識など、疑問は尽きない。しかし私には簡単に解明できそうにもない。

諦めて東トルキスタン(ウイグル民族)に戻ろうか、それともロシアに入り込んだついでにカフカースに寄ってみようか…

東トルキスタン(中国新疆ウイグル自治区)のカシュガルは私にとって因縁の地だ。観光旅行で訪れたカシュガルで、日本語の上手なウイグル人ガイドと知り合った。彼からウイグル人の歴史や独立運動についていろいろ聞かされたことが、このサイトを始めた動機につながっている。今彼は中国を逃れ、トルコにいる。

中国からの独立を主張するウイグル人や、それを支持し、中国を非難する日本のウエブサイトは多い。例えば、

東トルキスタン情報
東トルキスタン

また最近、雑誌や新聞でも東トルキスタン問題が取り上げられている。雑誌「諸君」の10月号に「聞け、亡命ウイグル人の声を『シルクロード虐殺』を看過するな」が載り、10月3日の産経新聞には「ウイグル族人権擁護活動家ノーベル平和賞候補 中国に焦り」と題する記事が載った。

これらのサイト等とは違った視点で、現在の東トルキスタン、ウイグル民族につながる「民族」を追ってみたいと思っている。

カフカース…コーカサス…この黒海とカスピ海に挟まれた地域は、私にとってはメイズ(迷宮)だ。この狭い地域に多くの小さな国が入り組んであり、そこに住む民族がまた複雑。調べてみる気にもならなかったが、大相撲の黒海にひっかけて前にちょっと触れた。

朝青龍、琴欧州、そして黒海は?
黒海の東部周辺 -グルジア、アルメニア、トルコ-

最近またグルジアが新聞に載るようになった。例えば、産経新聞(10月6日)「露、グルジア封鎖強化 政権打倒へ圧力」。

チェチェンのことも気になるし…
まずは、カフカースから見ていくことにしよう。

カフカース(コーカサス)

■2006.9.5 スルタンガリエフ

タタールといえばスルタンガリエフに触れないわけにはいかない。というわけで、これまでなぜか敬遠してきた山内昌之の「スルタンガリエフの夢」を読んでみた。

彼を社会主義に導いたという「民族への愛」とは一体どういうものだったのか? 彼が言う「民族」とはどんな広がりを持ち、「タタール」が彼にとってどういう意味を持ったのか? この本だけではよく分からない。

ソ連共産党の前身ボリシェヴィキの党に入党したのが1917年(25才)、スターリンに認められ、20以上の常勤の役職を務めて、ムスリム・コムニストとして最高の栄位に昇りつめたと言われる。
しかし1923年(31才)に最初の逮捕。そして1940年(48才)に粛清。
最初の逮捕から処刑されるまで17年。彼は何を考え、どのような人生を過ごし、何を思って死んでいったのか?

スルタンガリエフ -タタールのムスリム民族共産主義-

タタールといい、タタルスタンといっても、今日の具体的なイメージが湧かないかもしれない。次のサイトには現在のタタルスタンの首都、カザンが多くの写真で紹介されている。

ロシア歴史紀行アルバム カザン

■2006.8.29 モンゴルの音

7月上旬のモンゴル旅行で取った(盗った?)音を整理して載せた。残念なのは、ツェンケル温泉からツェツェルレグ経由でカラコルムに戻る悪路の途中、車の中で聞いたカセットテープの音が取れていなかったこと。載せた音の中の「ブルドのナーダム_3」の3’15”あたりから、同じような音がかすかに聞こえている。何とも懐かしい日本民謡のような節回し...

日本民謡のことは全然詳しくないが、帰ってきてから調べてみると、「江刺追分」や「長持唄」に良く似ているような気がしたが、どうだろうか?

モンゴルの音      (参考) 宮城長持唄

■2006.8.16 だったんタタール

「だったんタタール」という言いまわしが私の頭にこびりついている。インプットされたのは高校時代か、大学にいた頃か、それとも社会人になって中央アジアの歴史に興味を覚えてからか?

改めて調べてみると、韃靼もタタールも時代によってその意味するところは大きく変化しており、少なくとも特定の一民族を指す用語ではないようだ。
それにも拘らず、「タタール」を名乗る国「タタルスタン」がある。この国民のアイデンティティは?
日本で、この国の位置を正確に示せる人は少ないのではないか。地図上で確かめると、モスクワの真東で、カスピ海の北方に位置でしている。

「韃靼の志士」のことを初めて知った。そして井筒俊彦の名を見付け、懐かしく思い出した。
20年ほど前になると思うが、イスラム圏を旅行するようになって、「コーラン」も少しは勉強してみようと、拾い読みした時期があった。そのとき興味を引いたのがコーランの訳者・井筒俊彦。彼が何かに書いていたと思う。「英語やフランス語は簡単でつまらないので、アラビア語をやることにした。…先生は押入れをベッド代わりにしていて...」 内容はほとんど忘れてしまったが、頭の良い人がいるものだ、と感心してしまったのを覚えている。
ところでこの「先生」とはイブラヒムのことか、それともビギエフか?

タタルスタンとその周辺 (地図)

中央ユーラシア (地図)

韃靼の志士 -日本で活躍したタタール人たち-

新しいタタール知識人 -第一次ロシア革命後の民族意識-

■2006.8.8 モンゴルとタタルスタン

7月上旬に1週間ほどモンゴルに出かけた。今年はモンゴル建国800年、そして7月はナーダムの時節であったが...私の目当ては、歴史の本などに良く出てくるカラコルムとオルホン・トーラ両川。カラコルムの地に自分の足で立ち、オルホン川の水を掬い、トーラ川を間近に眺めることができた。(左の写真:トーラ川)

しかし今度のモンゴル旅行で一番印象に残ったのは、あちこちの町や村に放置されている工場跡。社会主義時代の工場の多くが社会主義崩壊後に操業できなくなった、とは聞いていたが。実際にその荒廃ぶりを目の当たりにすると、何とかならなかったものかと、痛ましい気分にさせられた。
体制変更後15年。悪路に揺られ、廃墟と化した工場跡を眺めて、この国の困難さを思い知らされたような1週間であった。

そして帰国して新聞を見ると、産経新聞の連載記事「大ロシア紀行」で「タタルスタン」が取上げられていた。この国の人びとは賢く、現実的にこの激動の15年を生きてきたようだ。
「タタール人」とはよく聞くが、一体何者なのだろうか? しばらくタタルスタンを追ってみたい。現在から過去に遡る形で…

ロシア連邦タタルスタン共和国

タタルスタンとバシュコルトスタン -モスクワからの自立は?-

1990年代、タタルスタンの政治と民族意識