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エイティガル・モスク エイティガルモスクはカシュガルの貿易、文化の中心であるエイティガル広場の西側に
位置します。モスクは−
モスクの歴史 1442年までこの辺りはカシュガル旧市街(内城、カシュガル市には
内城、外城がありました)の西にあるお墓であったのです。1442年カシュ
ガルの支配者であるSakit Mirza(サークト・ミルザ)は墓参りに来る
人々の為に此処に小さいモスクを
建てておきました。
19世紀の始め頃カシュガルの支配者であったト
ルファン出身のIskender王が市民から資金を取って自分の為カシュガル市の
南のパイナップ(地名、今の人民公園の中)にドーム形の大きなお墓を造ってもらっ
た為、市民は不満で蜂起を起こ
した。Iskender王は市民の不満を下げる為にエイティガルモスクの中に池を
造って、水を流して、木を植えました。
1903年、カシュガルで大地震があって外礼拝堂の一部が壊れてしまいました。
エイティガルモスクの歴史的な意義カシュガルは古代からのシルクロードの十字 路の一つで、西域の政治、経済、文化の中心でした。今の新疆ウイグル自治区で最も古 い町で長い間疏勒国、カラハン(Karahan)王朝(819年ー1218 年)、カシュガルのヤルカンドを都 にしたサイドハン(Saidhan)王朝(1514年ー1680年)の都だったの です。この十字路はシルクロードの十字路であり、、民族の十字路であり、宗教の十 字路でもあります。昔から我々の祖先はこの土地で原始宗教、マニ教、Shaman 教、拝火教、仏教、キリスト 教(少なかったけど)、最後はイスラム教を信仰してきた。 カラハン王朝の国教は最 初仏教でしたが、カラハン朝の三代目の王様のスルタン・ストゥック・ブグラハン (901年ー955年)はサマン朝(今のウズベキスタンのブハラを都にした王朝、 874年イラン人のNasir Ibni Ahmed Samaniによって作られ、999年カラハンに負けてお しまい)から亡命して来た王子のEbunasir Samaniと913年12歳 の時に知り合って、イスラム教の影響を受けて、イスラム教に改宗した。926年ま で4000人をこっそりイスラ ムに改宗させた。926年Sutukさんは暴動を起こし、叔父さん(代理王様)を 殺してカラハンの王位に即位し、国教を仏教からイスラム教に改宗させた。それ以来1074 年間、カシュガル人はイスラム教徒になっています。 イスラム教が8世紀頃ブハラに入ってから中央アジアでブハラはイスラム文化の中心 として有名な町でした。その次、カシュガルも中央アジアでイスラム文化の中心になっ て「サニ・ブハラ」(2番目のブハラ)と呼ばれていた。カシュガル市で皇族専用の メドレスを始め、多くのメドレ ス(宗教文化学校、大学)が設けられ、イスラム教の他に天文学、数学、医学、文 学、歴史、アラビア語、ペルシャ語などの専門が設けられていた。エイティガルモス クでお祈りの他に上述の授業も行われていた。エイティガルモスク(大学)の卒業生 は中央アジアで当時有名なインテ リになっていた。それでエイティガルモスクは中央アジア、西アジア、北アフリカの エジプトまで知られています。 現代ではエイティガルモスクは中国で一番大きいモスクとして中国のイスラム文化
の生きた「博物館」になっています。カシュガル市でこの辺はいつも賑やかでカ
シュガル地区、新疆ウイグル自治区の他の地区、中国の東の方から来た観光客、海外
からの観光客の皆様のお祈り、観光のポイントになっています。
普段このモスクで3、4千人お祈りします。金曜日は1万5000人〜2万人がお
祈りします。毎年ラマダン祭とクルバン祭の時に6万人から10万人がこのモス
クでお祈りします。朝、お祈りが終わってからお兄さん数人が玄関の上に上がって
「ナグラ」(太鼓より小さい叩く
楽器)と「スーナイ」(チャルメラ)で演奏します。その音楽に合わせて7歳から7
0歳までの男が「サマー」踊り(イスラムに改宗する前からの民族踊り)を踊りま
す。女性と踊らない男はそれを見てお祭を楽しみます。チャンスがあれば是非カシ
ュガルのお祭を楽しみにいらっしゃってください。
エイティガルモスクのことがローマ字で「Idkah」と色々な案内図に載ってしま いましたが、それはちょっと間違いです。正しいのは「Eyitgar」(エイティ ガル)です。「Eyit」はお祭で、Garは場所のことです。 (グラビア・ページ「カシュガルの見どころ」にエイティガル・モスクとクルバン祭の写真が載っています。) (2000.1.24受、1.29掲)
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