e
r
k
i
n

k
a
s
h
g
a
r
i

エイティガル・モスク


 エイティガルモスクはカシュガルの貿易、文化の中心であるエイティガル広場の西側に 位置します。モスクは−
 玄関 (@門:高さ4.70m、幅4.50m。Aドーム:高さ 12.50m、外周長40m、ドームの真ん中に塔があって地上から17.50m。 B塔:玄関の北と南に塔が一本 づつあります。塔の高さ19m。二本の塔が28mのレンガ構造の壁で繋いでいま す。この塔はお祈りの呼びかけに使います。)、
 中庭 (金曜日とお祭りのお祈りの時 呼びかけに使うあずまやが南北に一つづつ、お祈りの前に清めるのに使う池が二ケ 所、欄干などがあります。)、
 礼拝堂 (中礼拝堂(ハニカ)36.50mx10.50m、外礼拝堂(ピシャイワ ン)、庭から出来ています。 屋根のある部分は2,660u、高さ7mの緑色の柱が1 40本使われています。)
 と、東、北、南に24部屋づつ、全部で72の部屋から出来ています。
面積は16,800u。東北の角に50人入れるシャワー室と男用のトイレがあります。

モスクの歴史

 1442年までこの辺りはカシュガル旧市街(内城、カシュガル市には 内城、外城がありました)の西にあるお墓であったのです。1442年カシュ ガルの支配者であるSakit Mirza(サークト・ミルザ)は墓参りに来る 人々の為に此処に小さいモスクを 建てておきました。
 1558年(Saidhan王朝の時代)カシュガルの役長であ るObul Hadibeg(オブル・ハディベグ)が普段一日5回のお祈りに使うこ のモスクを拡張して金曜日のお祈りも、お祭りのお祈りも出来る大きいモスクに変え た。
 1787年Yengi Sheher(疏勒、意味は新城)県Hanerik人のZulpiyehan(ズルピヤハン、女 性)がメッカに巡礼に行く予定でしたが、イラン辺りに行った時内戦が起こって巡礼 は出来ませんでした。それでカシュガルに戻ってきて稼いだ資金をエイティガルモス クに上げてモスクをもう一回拡張して綺麗に飾ってもらいました。

 19世紀の始め頃カシュガルの支配者であったト ルファン出身のIskender王が市民から資金を取って自分の為カシュガル市の 南のパイナップ(地名、今の人民公園の中)にドーム形の大きなお墓を造ってもらっ た為、市民は不満で蜂起を起こ した。Iskender王は市民の不満を下げる為にエイティガルモスクの中に池を 造って、水を流して、木を植えました。
 1820年カシュガルで大雨があってモスクの礼拝堂(屋根)一部が壊れてしまいま した。その時、Nedirhoja Ebrishimka と言う金持ちが綺麗に修復してあげた。
 1839年カシュガルの支配者のZordun Hakimbegが市を拡張する為 外城を造った時にこのモスクも一回修復しました。 
 1872年当時は今の新疆ウイグル自治区のことは「カシュガリヤ」と呼ばれてい て、都はカシュガル市でした。その支配者はYakupbeg(タジク族、コーカン ドHanの陸軍の将軍だったのです、Bedoletとも言う、東大出版会はヤクプ ベグについて論文を出版してい る)が民の支持を得る為に天山の南で多くのモスク、メドレス(宗教学校)、お墓な どを建てたり、修復したりしたのです。その時エイティガルモスク(ヤクプベグの宮 殿はエイティガル広場の東にあった)も綺麗に飾っていました。モスクの西側をモス クに、東側をメドレスにしました。それで今の姿になったのです。

 1903年、カシュガルで大地震があって外礼拝堂の一部が壊れてしまいました。
 1905年カシュガルの有名な金持ちで「Ahunbay」と呼ばれたTurdiba y HajiとKerimahun Baywetchiが修復して上げた。
 1934年カシュガル教育局長のAbdukerimhan Mehsumの指導に よって中庭の木を増やして、池の周りに欄干を作っておきました。
 1936年カシュガルで「イスラムメドレス」モスク協会が成立した。その時モスク の北と南にそれぞれ門が造られ、出入りは便利になりました。
 1937年カシュガル市の通りが拡張された時にモスクの東側の24の部屋と東北 の角の100人以上入れるお風呂を削って道にしました。
 1955年新疆ウイグル自治区が成立してからこのモスクは「自治区級重点保護単 位」と決められ、自治区政府が資金を出して数年間に一回修復しています。

エイティガルモスクの歴史的な意義

 カシュガルは古代からのシルクロードの十字 路の一つで、西域の政治、経済、文化の中心でした。今の新疆ウイグル自治区で最も古 い町で長い間疏勒国、カラハン(Karahan)王朝(819年ー1218 年)、カシュガルのヤルカンドを都 にしたサイドハン(Saidhan)王朝(1514年ー1680年)の都だったの です。この十字路はシルクロードの十字路であり、、民族の十字路であり、宗教の十 字路でもあります。昔から我々の祖先はこの土地で原始宗教、マニ教、Shaman 教、拝火教、仏教、キリスト 教(少なかったけど)、最後はイスラム教を信仰してきた。

 カラハン王朝の国教は最 初仏教でしたが、カラハン朝の三代目の王様のスルタン・ストゥック・ブグラハン (901年ー955年)はサマン朝(今のウズベキスタンのブハラを都にした王朝、 874年イラン人のNasir Ibni Ahmed Samaniによって作られ、999年カラハンに負けてお しまい)から亡命して来た王子のEbunasir Samaniと913年12歳 の時に知り合って、イスラム教の影響を受けて、イスラム教に改宗した。926年ま で4000人をこっそりイスラ ムに改宗させた。926年Sutukさんは暴動を起こし、叔父さん(代理王様)を 殺してカラハンの王位に即位し、国教を仏教からイスラム教に改宗させた。それ以来1074 年間、カシュガル人はイスラム教徒になっています。

 イスラム教が8世紀頃ブハラに入ってから中央アジアでブハラはイスラム文化の中心 として有名な町でした。その次、カシュガルも中央アジアでイスラム文化の中心になっ て「サニ・ブハラ」(2番目のブハラ)と呼ばれていた。カシュガル市で皇族専用の メドレスを始め、多くのメドレ ス(宗教文化学校、大学)が設けられ、イスラム教の他に天文学、数学、医学、文 学、歴史、アラビア語、ペルシャ語などの専門が設けられていた。エイティガルモス クでお祈りの他に上述の授業も行われていた。エイティガルモスク(大学)の卒業生 は中央アジアで当時有名なインテ リになっていた。それでエイティガルモスクは中央アジア、西アジア、北アフリカの エジプトまで知られています。

 現代ではエイティガルモスクは中国で一番大きいモスクとして中国のイスラム文化 の生きた「博物館」になっています。カシュガル市でこの辺はいつも賑やかでカ シュガル地区、新疆ウイグル自治区の他の地区、中国の東の方から来た観光客、海外 からの観光客の皆様のお祈り、観光のポイントになっています。
 一言で言えば、エイティガルモスクはカシュガルのシンボルであり、中国ウイグル イスラム文化のシンボルです。
 


 普段このモスクで3、4千人お祈りします。金曜日は1万5000人〜2万人がお 祈りします。毎年ラマダン祭とクルバン祭の時に6万人から10万人がこのモス クでお祈りします。朝、お祈りが終わってからお兄さん数人が玄関の上に上がって 「ナグラ」(太鼓より小さい叩く 楽器)と「スーナイ」(チャルメラ)で演奏します。その音楽に合わせて7歳から7 0歳までの男が「サマー」踊り(イスラムに改宗する前からの民族踊り)を踊りま す。女性と踊らない男はそれを見てお祭を楽しみます。チャンスがあれば是非カシ ュガルのお祭を楽しみにいらっしゃってください。
 今年のラマダン祭は1月8日(もう終わった)と12月28日 (初めて年に2回)、クルバン祭(もっと賑やかなお祭)は3月16日から三日 間ですが、実は一週間以上行われます。ウイグル族の「春節」は毎年3月21日で、「Noruz Bayram」(ノー ルズ・バイラム)と言います。「Noruz」は桜のことです。桜の花はウイグル語 で「Noruz gul」と言います。

 エイティガルモスクのことがローマ字で「Idkah」と色々な案内図に載ってしま いましたが、それはちょっと間違いです。正しいのは「Eyitgar」(エイティ ガル)です。「Eyit」はお祭で、Garは場所のことです。 

(グラビア・ページ「カシュガルの見どころ」にエイティガル・モスクとクルバン祭の写真が載っています。)

(2000.1.24受、1.29掲)