2009年 05月
満洲族のモビリティ -大清に向かって- [2009-05-28 12:46 by satotak]
北疆ジュンガリア旅行 -無いものを見に行った旅- [2009-05-08 13:13 by satotak]

2009年 05月 28日
満洲族のモビリティ -大清に向かって-
三宅理一著「ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷」(ランダムハウス講談社 2009)より:

太祖ヌルハチの登場
女真族(じょしんぞく)すなわち満洲族は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)や百済(くだら)などと同根のツングース語系民族であると同時に、日本との共通性もきわめて高く、数の数え方を始めとして日本語の中に満洲語の片鱗を見出すのもそう難しくない。この女真族が中国史の中で大きな位置を占めるようになるのは12世紀から13世紀にかけてであり、遼から分かれて東北部に金(1115−1234)を建国し、その後、宋を倒して中国の北半分を支配したことで知られている。金朝はモンゴル高原から南下した元によって滅ぼされ、主を失った遺民は関外の地に四散して部族ごとに小集団を構えることになる。三百年にわたる沈黙期間の後、この女真族を再び糾合し中原の覇者をめざして攻め上ったのがヌルハチ(1559−1626)である。…

明朝期における女真族の実態はそう簡単なものではなく、少数民族ゆえにわからない部分も多く、周囲を囲む明朝、李朝、モンゴル等のはざまにあって小集団が相互の合従と抗争を繰り返していたようだ。女真族全体としては大きく三系統に分かれて、現在の東北三省からロシア沿海州にかけて分散して生活圏を築いていた。東北部、撫順(ぶじゅん)の東の山間部に広がる「建州」、その北にあり、今日のハルビンの一帯までを治める「海西」、はるか東に位置し、豆満江(とまんこう)の河口から沿海州にかけて陣取る「野人」の三統である。そのうちヌルハチが属しているのは遼東平野に隣りあう建州女真であった。建州の地域は、明との国境(現在の撫順市の東側)の東に広がる山岳丘陵地帯で、南北では瀋陽を横切って流れる渾河(こんが)の南岸から朝鮮との国境地帯に到るエリアが彼らの居留地である。森林に恵まれ、狩猟、採集、牧畜、農耕を生業とする民であり、草原の遊牧民たるモンゴル人とは生活形態が大きく異なって定住を常としていた。山間の地に数十戸単位の集落を構え、危急の時には馬を駆って首長のもとに馳せ参じ、戦闘に参加した。彼らは、モンゴルには若干劣るものの、騎馬民族としての資質を有し、成人男子はすべて武の道に秀でており、いつでも戦闘集団として戦える体制になっていた。この仕組みが後の八旗制度に発展する。

ヌルハチは、1559年に撫順の東、蘇子(そし)河の流域で生まれた。この場所は、今日の新濱(しんぴん)満族自治県に相当し、瀋陽から150キロほど東に進んだところである。一円に清朝の始祖たちを合葬した陵墓(永陵(えいりょう))や当時の都城(フェアラやヘトアラ)など、満洲人の歴史を語るには絶対に見逃すことのできない貴重な遺構が散見される。その当時、明との国境をかたちづくっていたのは撫順の東側で、そこに築かれた撫順城がその東の建州との境であった。万里の長城とまではいかないが、周辺民族の侵入を妨げるために土塁(辺牆(へんしょう))が築かれていた。明の支配が及ぶのは平坦な遼東平野の東端のこの地までで、そこから東の森林に覆われた山間の地が、満洲人の前身女真族(女直)の跳梁跋扈する土地であった。…

[清朝建国直前の満洲]

[満洲の地勢]

建州の統一
13世紀初めに元によって金が滅ぼされ、東北の故地に散った女真族(じょしんぞく)は、森林地帯で狩猟と採集の細々とした生活に甘んじることになる。西に明、南に朝鮮との国境を抱え、女真族が少しでも反旗を翻せば両者から手痛い仕返しを受けていた。しかし、北方のモンゴルを最大の敵とみなす明朝は、女真族を一種の外人部隊に仕立てて対モンゴル戦に活用しようと考え、国境から近いところに居住する建州や海西の女真族に対し懐柔策を打ち出すことになった。胡(こ)に対しては胡でもってという中国古来の辺境民族対策で、その先兵に利用されたということである。その策として女真の有力家系に一定の官位を授けて朝貢の形態をとる国境貿易の利権を提供する。女真族の経済は、広大な後背地を抱える明に対して馬や毛皮、人参などの特産品を売って得た利益でなりたっており、この利権を得るために各部族がしのぎを削っていた。このアメを巧みにばら撒くことで明朝は彼らの間接支配を行うことに成功する。東北一帯に「衛所(えいしょ)」と呼ばれる辺境部の末端行政組織をつくり、そこでの官職に各部族の長をつけ、明との関係をオーソライズするわけである。その先鞭をきるのは建州女真族で、15世紀の前半には建州三衛(建州衛・建州右衛・建州左衛)と呼ばれる衛所に組み込まれていった。部族の有力者には、都督(ととく)、都指揮(としき)、鎮撫(ちんぶ)といった官職が授けられ、それを錦の御旗に朝貢貿易の利権を部族内で分配する。建州の北側に散らばる海西の女真族においても、同じ頃に兀者(ウェジ)衛以下、多くの衛所が組織され、遼東一帯に女真族の手を借りた明の支配の体系が成立していく。…

彼らのかたちづくっていた部族社会は15世紀後半に入ってそれなりの成長を示し、生産力も軍事力も高まってきた。明の側からいえば建州三衛やその他の衛所を介して明に帰属したということになるが、女真族の立場からすれば、明の衛所を足がかりとして彼らの国家をつくることが大きな目的であった。16世紀に入ると彼らは部族ごとにまとまって独立した国家を形成するようになる。ヌルハチの時代には建州五部と呼ばれる五つの部族国家が成立していた。…ヌルハチ自身はスクスフ部に属していた。ちなみに、建州以外の女真族も同様に部族国家化し、海西女真で四部、野人女真で四部の、女真すべてを合わせて十三の国家が成立していたのである。とりわけ、海西のハダ(哈達)部やイェヘ(葉赫)部は建州をしのぐ力を有して、部族国家間でしばしば衝突を起こしていた。我国の戦国時代の群雄割拠の状態を頭に浮かべれば理解できるだろう。

ヌルハチの家系は、代々渾河(こんが)支流の蘇子(そし)河(スクスフ河)の流域に住み、明朝から都督や都指揮使等の官位を授かるとともに、部族の長としてスクスフ部をまとめる立場にあった。歴史上、この一門で最初に名前が出てくるのが14世紀後半のメンゲティムル(孟哥帖木児)で、その七代後がヌルハチとされる。メンゲティムルは、建文帝(けんぶんてい)の時代に当時の首都南京に朝貢し建州衛都指揮使の位を授かり、次の永楽帝(えいらくてい)の時代には帝に従ってモンゴルヘの遠征にも参加している。当初、朝鮮の国境地帯に居住していたが、朝鮮との関係が悪化し、北の蘇子河の流域に移住して、その地で建州左衛のトップたる指揮使の職を与えられた。

1598年になってヌルハチは自身の祖先を祀るため蘇子河と二道(にどう)河の合流点の近くに大掛かりな陵墓をつくり、マンジュ・グルン(満洲国)建国に到る以前の父祖の霊を祀った。この陵墓は、後の順治帝(じゅんちてい)の時代に大きく改装されて今日のかたちになり、名称も「永陵(えいりょう)」と改められる。…

「マンジュ国」の成立
ヌルハチをトップに仰ぐマンジュ(満洲)国は16世紀末に成立した。辺境であった東北地方に、強大な軍事力を有した国家が出現したということであり、ヌルハチ自身も一介の部族長からのしあがって、統一されたひとつの国家の長に就くのである。…
建州統一の過程でヌルハチはマンジュ国に対して国家としての機能とデザインを整えるべく、さまざまな事業に乗り出していた。後述するように、1587年になって新たな都を構えるべくフェアラ(佛阿拉)城の造営に取り掛かり、法律を整備し、さらに行政制度としても大臣をトップとする国家機構を整え、国事を処理すべく衙門(がもん))役所)を設立した。

かくして、1590年を境にヌルハチは、全女真族の覇権を握るべく海西女真の平定に乗り出していく。ここで知っておかなければならないのが、ヌルハチにおける女真の統一事業が、彼にとって抵抗勢力となる他部を討って征服することではなく、同一言語を有し血族関係もある女真諸部の勢力をそのまま自身のもとに再編成することを目的としていたということである。その点は、平定した地域の住民に対する移住政策をみれば明らかだろう。帰順した他部のベイレや領民をマンジュの地に移住させ、新たな殖民を行って農業生産を上げるとともに、機動性に富んだ兵団を確保する。領民を屯田兵化することが目標だったのである。

女真族は山間の民である。寒冷の地で少ない人口を養いつつ強力な国家をかたちづくるにあたって、生産の基盤となる領民をどう配置していくかは為政者にとって大きな課題であり、中原のように膨大な数の農民の上に少数の支配者が立ち富を吸い上げる体制を敷くわけにはいかない。同一の部族集団からなる支配者も領民もいわば運命共同体の中にあり、部族抗争の中で滅亡するか、あるいは巨大な中華文明の中に吸収されていくか、当時の女真族はそのような選択肢の中にあった。

そもそも女真族自体の人口はいわゆる漢民族に対して極端に少なく、15世紀半ばの時点では建州女真はわずかに一万三千人にすぎないという人口推計が出ているくらいだから、その数がいくら多くなったとしても数万人から十数万人の規摸である。広い東北地方に分散して住んでいる女真の民を、できるだけ多く蘇子(そし)河流域のマンジュ国に移住させ、強力な戦闘集団となして明に対峙させることがみずからの生存を保証する最大の手段であった。ヌルハチはその意味で稀有のリーダーであり、戦略家であったようだ。…

八旗の村
…マンジュの軍団編制と居住環境との関係は、いわゆる定住型の農耕民とは一線を画しているようにもみえる。漢人であれば、長子相続型の形態をとり、代々家作を相続し、その地に住み続けるのが普通であるが、女真族(じょしんぞく)つまり満洲人は、長子は必ず家を出て、別に家作を構えることになっていた。居住地を次から次へと変えるのは、彼らにとっては日常のことであり、何か切羽詰まった理由で移動を開始するのではなさそうだ。元の支配がなくなり、明朝の支配が及んでくると、各地に分散していた女真族は続々と移動を始める。たとえば、ヌルハチの先祖にあたるメンゲティムル(孟哥帖木児)一族は他の女真族の圧力で今日のハルビン一帯から朝鮮国境地帯に「家を挈(けつ)きて流移」し、その後、朝鮮との関係が悪化し、北の蘇子(そし)河の流域に移り住んだことが朝鮮側の史料に記されている。女真族の集落はせいぜい数十戸が単位で、それ以上の町となると、ハダやウラのように部族国家を成立させて、その「城下」に数百戸を集住させるようになってからであった。つまり、彼らは自然条件や部族間の関係によって居住地を転々と変えており、マンジュの軍門に下った後に、マンジュの国内に集団で移住したとしても、それは彼らにとってそう特別なことではなかったはずだ。「野人(女真)は散処し、或いは五、六戸或いは十余戸、或いは十五余戸、屯居常ならず。各酋長有りて、酋長留まらんと欲すれば、即ち其の下焉(いずく)にか往かん。去らんと欲すれば、即ち其の下亦之に従う」というのが実態であった。重要なのは、「家を挈きて流移」と記されるように、住宅を解体し、必要に応じてどこにでもそれを運搬して「移築」をはかるという文化を有していた点である。明末の彼らの住まいは『満洲実録』の図版から窺い知ることができるが、木造と煉瓦造を組み合わせ茅葺(かやぶき)、土塗りが一般的であった。基本は木造の軸組みからなっていて、それを解体・異動させることができれば、高度の建築経験がなくとも建築が可能なのである。

モンゴルに代表される遊牧系の国家では、移動型の生活自体はとりたてて不思議なことではなく、むしろ季節に応じて居留地を変えることが必要であった。遊牧民は夏季の間に家畜とともに移動し、冬季は冬営地でじっとしている。女真族は遊牧民ではなく、狩猟や漁労にいそしんでいた伝統をもつ。狩猟のために「タタン」と呼ばれる小屋を建てて必要な期間、そこに移り住むことは普通であった。明朝時代の建州女真族の居住実態については、成人男子二名程度を含む小単位であることが報告されている。つまり、彼らは大家族ではなく、小家族の単位で転居を繰り返していたのである。ヌルハチが、蘇子河流域の開墾を促進させマンジュ国の国力増進に努めるために多くの帰順女真一族をその地に移住させた背景には、このような文化が横たわっていた。八旗(当初は四旗)を単位として軍団的に兵丁を組織し一定の土地に定住させた後も、ヌルハチの西進政策のために多くの八旗兵が居留地から抜け、新たな土地に向けて移動していくことになる。…

# by satotak | 2009-05-28 12:46 | 女真・満州・内蒙古 |
2009年 05月 08日
北疆ジュンガリア旅行 -無いものを見に行った旅-

◆北疆ジュンガリア旅行から帰ってきて、その印象をまとめておこうと思っているうちに、もう半年以上が経ってしまった。



最後の遊牧帝国といわれるジュンガル、その興亡の地に立ってみたいと思って、ジュンガル盆地の縁を一巡りし、イリにも行った。しかし、予想されないことではなかったが、ジュンガル帝国の痕跡を見ることも聞くこともできなかった。無いものを見に行った旅…といったところ。






旅行は15日間のパッケージツアー。参加者は13名で、それに日本人添乗員とウルムチからの現地スルーガイド(漢人)とバスの運転手(撒拉族)の総勢16名。

行程は、9月4日午後に羽田を発って−上海(泊)−ウルムチ−トルファン(泊)−ハミ(泊)−バリコン(泊)−ジムサル(泊)−アルタイ(2泊)−カトンユイ(泊)−カナス湖−カトンユイ(泊)−ウルホ(泊)−精河(泊)−イーニン(泊)−昭蘇−イーニン(泊)−ウルムチ−上海(泊)−そして18日午後に羽田帰着。


こんな旅で印象に残ったことは…


ジュンガル

現地ガイドからは、ジュンガル族あるいはオイラト族について何も話されなかった。まだ若い漢人女性ガイドだったので、やむを得ないとも思ったが、アルタイやイーニンの博物館にも関係する展示はないようだった。ウルムチの博物館なら何かあったのかもしれないが、今回の旅行では安全面で不安があるということで、ウルムチの観光は中止。ウルムチでは飛行機の乗換えと食事だけになってしまった。


広大な町と道路と農地

今度の旅行で一番印象に残ったのは、「広大さ」。といってもジュンガル盆地や砂漠のことではない。盆地の縁を辿っただけのせいか、あるいは他の砂漠を見慣れたためか、これらの広さはそれ程実感できなかった。


広さ、大きさが印象に残ったのは、町と道路と農地。

県庁所在地だけでなくそれ以下の都市でもかなりの規模。それも町の中心部を大通りが貫通する中国風の街づくりになっていた。

また道路も整備されており、主要な都市の中は片側2〜3車線、その外側に街路樹、さらに自転車路(?)、緑地、そして広い歩道。イーニン等では朝暗いうちから作業員が出て大きな竹箒で掃除をしていた。主要国道では高速道路化も進んでおり、今度の旅行のバス行程全3,700km中、工事中のところを除けば、ほとんど舗装完備だった。これも西部大開発戦略の成果か。

飛行機から見下ろす赤茶けた土漠の中に現れる、くっきりと直線で区切られた広大な緑の畑、これも印象的!




中国の統治

オリンピックの直後で、ウルムチの観光が中止になるなど、治安・安全面が気になっていたのだが、何事も起こらず、途中不安を覚えるようなこともなかった。

軍隊はおろか、制服姿の警官を見かけることもほとんどなかったように思う。

中国の統治が行き渡っているという感じ。


しかし旅行シーズンの終り間近ということもあるのだろうが、外国人観光客にはほとんど行き会わない。特に日本人は皆無。今年のカナス湖の観光客は、中国人を含めて例年の半分以下だったとか。


新疆生産建設兵団

あちこちで「137団場」のような道路標識を見かけた。新疆生産建設兵団の農場や工場団地があるのだろう。兵団は漢族の新疆進出の拠点として、いろいろ議論の的になってきたようだが、今では巨大なコングロマリットといったところか。

ウルホで泊まったホテルも兵団の系列のようだった。隣接して兵団の地方本部のような建物があり、このホテルはかつて「招待所」などと呼ばれていたものかもしれない。




民族英雄 林則徐

イーニンで予定外の林則徐記念館に寄った。林則徐の名前はアヘン戦争に絡んで高校の世界史にも出てきたように思うが、何故イーニンに? アヘン戦争後に、清朝は英国を慮ってか林則徐を新疆に形だけの流罪にし、彼は無位無官となったが当地の開発にも大いなる貢献をしたのだという。新疆にいたのはわずか3年たらず。


この記念館は、新疆開発というよりは、アヘン戦争の民族英雄を顕彰するのがメインのようだった。林則徐記念館は中国各地に合計6ヵ所あるとか。


撒拉族

15日間、3,700kmの全行程を一人でバスを運転してくれたドライバー氏。最初の日に「彼はムスリムです」とガイドから紹介があった。顔は漢族と見分けが付かないので、「回族か」と聞いてみると、「サラ族」だという。サラ族??


王柯著「多民族国家 中国」によれば、「撒拉(サラール)族 人口:10.45万人 その88%が青海省居住」とあり、他の資料には「西海省、甘粛省、新疆に住む 自称サラール 言語はウイグル語に非常に近いが、文字はなく、漢語を用いる 農業を主とする」とある。


この旅行の期間がちょうどラマダンと重なっていた。


◆さてその次は…

今度の旅行で残念だったのは、昭蘇まで行きながら、バインブルク(ユルドゥズ)草原に行けなかったこと。いつかバインブルクの大自然を堪能するだけでなく、ハズルンドの跡を少しでも追ってみたい。


摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-


そして、ジュンガルを滅ぼし中国の新疆支配を確立した清朝発祥の地、満洲。しかし近代以降の満洲と日本との関わりを思うと、気が重くなるようでもあり…


女真・満洲・満族


# by satotak | 2009-05-08 13:13 | 東トルキスタン |