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新疆で使われた26種の文字新疆ウイグル自治区で紀元前3世紀から1949年まで使ってきた文字を紹介致し ます。1949年の後で使った文字を他の文章で紹介します。 今、新疆ウイグル自治区博物館で保存されいる文字と新疆で発見されて他の博物館、 図書館及び外国に持ち帰られて保存している文字を入れて26種類あります。これら の一部は「もう死んだ文字」、一部は段々改革されてきた「半分死んだ文字」です。 「もう死んだ文字」を読んで分かる学者は世界で極めて少ない。中国ではもっと少な い。一部の文字は読める学者が未だいません。母語が上手な人はちょっと努力すれば 「半分死んだ文字」を読んで分かる。 上述の26種類の文字は3つの文字系統(システム)に分けることが出来る。 これは「Arami文字システム」、「Brahmi文字システム」及び「華 夏文字システム」です。 ■華夏文字システム
■Arami文字システム
■Brahmi文字システム
これらの文字システムに属している各種の文字を用いて、Ham−s am語系に属する言語、インド−ヨーロッパ語系(インド−イラン語も含む)に属す る言語、漢−チベット語系に属する言語で、古代の宗教、歴史、地理、医学、文学、占 いこと(運命判断?)、農業、牧畜業、園芸(果樹園芸術?)、法律内容などが記載 されていた。つまり、その内容は世界の仏教、キリスト教、ゾロアスター教(拝火 教)、マニ教、及びイスラム教を含んでいます。それ以外、山、日(太陽)、月、川 などの自然存在を神格化して信仰した原始宗教まで関わる。 新疆ウイグル自治区から出土(発見)されたこの26種類の文字で記載されたもの
から現代の色んな専門の学者が自分に必要な歴史資料を得ることが出来ます。
華夏文字システム「華夏」とは民族学的な概念です。それは中国語で話す民の昔の祖先の共通な名 前です。この名前が各歴史時代に当時の王朝名でも呼ばれた。例えば、夏朝(紀元前 14−紀元前11世紀)の時代に「夏人」と、商朝(紀元前9世紀−前16世紀)の 時代に「商人」或は「殷人」と、周朝(紀元前11−前8世紀)の時代に「周人」 と、春秋戦国(紀元前8−前5世紀)時代には当時バラバラになった王朝の名前で、 例えば、「秦人」、「魏人」、「韓人」、「趙人」、「楚人」、「燕人」、と、秦朝 (紀元前221−前206年)時代に「秦人」と、漢朝(紀元前206年−紀元22 0年)時代には「漢人」と、隋、唐(518年−907年)時代には「隋人」或は 「唐人」と、宋朝(960年−1127年)時代には「宋人」と、元朝時代には「南 人」と、清朝の時代には満州人と同じく「清人」と呼んでいた。英語の「Chine se]も「清人」から出来たのです。 古代突厥人は(6−9世紀に)「華夏」を「T abghach、タブガチ」と呼んでいた。紀元12、13世紀には中央アジアにあ る「契丹」の名前と一緒に「Kitai、Kitay」と呼ばれた。(「Kita y」と言うのは他の民族が「契丹」族を呼んだ時の発音でした。後でロシア人は「契 丹」を「Kitay、キタイ」と呼んだから他の民族にもそのまま伝えられたもので す。) 華夏民族の一番最初の文字は商朝時代に亀の甲羅、牛、羊の骨に彫って作っ ていた文字ですから「甲骨文」と呼ばれている。その後の華夏文字は金属容器に書い たものですから「金文」と呼ばれた。秦朝が中国を統一してから、文字も統一してい た。その後の漢朝時代にその文字が普及されたので「漢文」(漢朝文字、漢族文字) と呼ばれるようになって今まで使われています。 新疆ウイグル自治区で華夏文字システムに属する文字システムが4つ出土しまし た。それは:− 1.漢文 この文字は秦の時代に統一されて、漢の時代に普及された文字で、その後
の各王朝は改革はしたが、それは画数、上下、左右への交換に過ぎなかった。
2.クージュ(高昌)文 「北史」、「周書」などの歴史文献のトルファンに関する
部分には、「彼らの文字は華夏文に似ている、胡(Hor、ウイグルのこと)語で読
む」とハッキリ載っています。これは日本人が「漢文」で書いて日本語で読むことと
同じです。
3.西夏文 この文字は「Tanggut、Tangghut」文字とも言います。
紀元1038年から1227年に、今の寧夏、陝西省の北、甘粛省の西北、青海の
北、内モンゴルの一部を含んだ王朝があった。北宋人はその王朝を「西夏」と呼んで
いた。この国の民は古代の羌、漢、Tubut(チベット)、ウイグルなどだったの
です。当時には西夏文字を使っていた。私たちが分かる西夏文字は6000個ある。
この文字の形は漢文に似ていますが、画数は多くて、複雑です。今、文字学者、言語
学者はこの文字を見て意味が分かって翻訳は出来ますが、当時の読み方が分かりませ
ん。
4.契丹大字 916年から1125年にバルティック(Baltik)海の辺りか
ら山西の北、内モンゴルの一部まで含んでいる地域で「遼」朝が出来ていた。この王
朝は契丹大字を使っていた。この王朝の国民はKitan(Kidan、契丹)、ウ
イグル、モンゴル、Jurjit人などから出来ていた。
Arami文字システム 紀元前11世紀にMissupotamiye(メソポタミア)平
原(Ihufaratis(ユーフラテス)、Tigiris(ティグリス)川の間の地域を指す、古代
突厥民はこれをアナトリ(Anatuli、Anatoli)平原と読んでいた)にあった
有名な城郭都市Damaskoに「Aram人」という古代部族が生活
していた。考古学者はこの平原から紀元前9−7世紀のArami文字が載っている
石碑を見つけた。
今新疆ウイグル自治区博物館に保存されているものと、新疆ウイグル自治区で出土し て外地で保存されている手書き資料のなかでアラミ文字システムに属している文字が 14種類ある。それは:− 5.Karushti(カルシティ)文字 この文字がアラミ文字の最も古くから
用いられた自由手書き形を基礎として改革されたものです。
紀元前5世紀頃にインド領域でこの文字が使われていた。
6.アラビア文字 紀元前2世紀にアラビスタンのNabata(ナバタ)部族が
アラミ文字を使っていた。紀元106年Nabataハン国が倒れてから、この地域
でアラミ文字を利用して新しいSinay文字を作っていた。アラビア文字はこ
の新文字を利用して5世紀に改革された文字である。
7.ペルシャ文字イラン平原で生活していたペルシャ人はAkamend朝(紀
元前558年−330年)時代にMisimari(ミスィマリ)文字(釘形文
字)用いていた。其の後のArsak朝(紀元前250年−紀元226年)時代には
Pehliwi文字を使うようになった。紀元226年から642年のSasani
朝(日本語でササーン朝)時代にはAwista文字を使っていた。この王朝が倒
されてイスラム教が盛んになってから「コーラン」を通してアラビア文字がここに
伝えてきた。そしてアラビア文字を利用してペルシャ文字が作られた。(上述の文字は
全てArami文字の違った形式を利用して作った文字であったので
す)
8.カラハン文字 イスラム教が紀元7世紀にアラビスタンで形成して、8世紀か
らイラン平原へ、インド領域のパキスタンへ、ヨーロッパの東側のトルコへ、北アフ
リカへ及び中央アジアへ伝え始まった。新疆にはちょっと遅く、つまり10世紀に伝
えられた。それは一番最初にカシュガルに影響を見せた。
9.チャガタイ文字 新疆は1224年から1328年にモンゴル王子チャガタイ
ハンの領域に入れられてからも、この領域でイスラム教の発展が続いていた。この王
朝を創ったモンゴル部族までイスラムに改宗し始めた。
10.シリア文字 Missupotamiyeの西北部にあるIdissa(イディッサ、今は
Urfaと言う)地区はシリア語で話す人々の中でキリスト教が一番最初に発展した
地区でした。此れはArami文化とギリシア文化が融合された特別なキリス
ト文化でした。
キリスト教はこの地区を通してイラン及び他の地域へ伝えられた。
11.マニ文字 紀元247年イランでマニ教が生まれた当時、其の前シリアのP
almira市で用いられた文字形式に依って作られたマニ文字が使い始まっ
た。それからマニ教も中央アジアに入ってきた。
この宗教は中央アジアで大分長い間「定住(地方)化生活」を体験してから、紀元
762年ウイグル王朝の国教になった。それからマニ文字はイランのPehliwi
語を書くことではなく、ウイグル語をも書く文字になった。
12.ソグド文字フェルガナ盆地で生活していたソグディヤン(ソグド人)が紀元3世紀からイランで使われたAwista文字に依って改革された一種の文字を又改革して自分の言葉→東イラン方言を書いていた。言語学者はその文字を「ソグド文字」と言います。(ある本にはPehliwi文字とも言います)。ソグド人はその時代にインド領域、ロップヌル湖地域(タリム盆地)、モンゴル草原まで商売に行っていました。彼らは行った所でもその文字を使っていた。 紀元5世紀頃にこの文字が国際貿易ロードで使う文字の一つになっていた(この文字に依ってウイグル文字も作られた)。
13.Urhun文字 今のシベリアの南、モンゴル草原の西北、新疆の東北などから紀元8−9世紀の石碑が出土した。
この文物は最初Urhun−Yensey流域から出土したことから言語学者はそれを「Urhun文字」と読んでいた。(ある学者はUrhun−Yensey文字とも呼んだ)。
ホタン地区Lop(ロップ)県のAk Sepil故城の城壁のレンガに残る紀元前3世紀のKarushti文字からこれらの文字の起源が感じられる(分かる)。
トルコ語で話す民族はこの文字を11世紀まで使っていた。Mahmut Kashgariの「トルコ語大辞典」にこの文字の形が述べられている。
14.契丹文字(契丹小字)紀元920年契丹ハン(王様)が文学者に命令を出して、前の契丹文字(契丹大字、→漢字)の他に新しい文字を作ってもらった。この文字は「契丹小字」と言います。
この文字が載っている墓碑がある。 新疆のカシュガル、ヤルカンドなどからこの文字が載っている文物が出土した。しかし出土したものが非常に少ない。 研究者がこの文字を重視している。何故なら、その読み方(発音)問題も未だ解決されていません。 15.古代ウイグル文字この文字はソグド文字に依って作られた。Urhun(Urkunともいう)流域、甘粛省の西、トルファン盆地及びタリム盆地のウイグル人がこの文字を一般的に使っていた。 Urhun流域からこの文字で書かれた9世紀のウイグル文物が発見されてから、「ウイグル人は9世紀にソグド文字に依って作ったウイグル文字を用いていた。彼らは西(新疆)に移動して、この文字も持って来た。その前に新疆にはウイグル人が居なかった。この文字も無かった。」という間違った観点が非常に普及されて「不動な結論」になって、中学校から大学の教科書まで載せられた。 紀元5世紀頃にウイグル人がトルファン盆地でこの文字を用いたことが証明されてから、この観点を持っている人の「不動な結論」が倒された。 証明の前には上述の間違った「結論」のせいで、古代ウイグル語の手書き文書(文物)の内、9世以前に作られたものは解明されない状態が続いてきた。 Tohri(トホラ)文、Sansikrit文、サカ(Sak)文、漢文、Tubut(チベット)文からこの文字(ウイグル文)に翻訳された著作が多いです。この文字で書かれたマニ教著作(トルコ語)もある。その他にも政治、経済、法律に関する文書、文学著作、医学著作がある。(残っている)
16.モンゴル文字 モンゴル人は紀元1204年から古代ウイグル文字に依って作られたモンゴル文字を使い始めた。それは今まで続いている。
この文字には古代ウイグル文字のアルファベット形が残っているため、もう捨てられた(死んだ)ウイグル文字で書かれた著作を読んで研究することが可能になる。
17.マンジュ(満州)文字 清朝(1644年−1911年)が成立する前に、満州王Nurhach(ヌルハッチ)が大臣達に命令をしてモンゴル文字に依って新文字を作ってもらった。この文字が1632年から用いられた。1748年に一回改革されて、もっと完成された。それは今まで使われている。
18.シボ族文字 新疆のイリ流域に2万人ぐらいの人がシボ語で話す。彼らは1764年から清朝によって満州部隊に入れられて、今の瀋陽などの市からイリ流域に国境を守る為に派遣された1600人のシボ族兵士(彼らと一緒に来た家族は2000人以上)が定居して形成した民である。
Brahmi文字システム 19世紀の30年代にインド地域から約3000年前のHerogl
if文字(絵文字)が出土しました。この文字の謎は未だ解明されていない。
新疆でBrahmi文字システムに属する文字が8種出土しました。それは:− 19.Brahmi文字 新疆ホタン地区Lop(ロップ)県のAksepil故
城の城壁に書かれた文字の中にBrahmi文字が数個ある。このBrahmi文
字は紀元前3世紀にインド地域で使われたBrahmi文字にそっくり似ている。しか
し、発見された文字は少なかったため、その言語を調べることは出来なかった。
20.Sansikrit文字 この文字は昔のAriyan人の文学文字であ
る。「Sanskrit」とはAriyan語で「飾ってある」と言う意味を表します。
考古学者はこの地区から紀元前32年のSanskrit石碑を発見した。
この文字が長い間形を続けてきた。7世紀になってから一回改革されていた。この 改革された文字の形は「Dewanagari文字」(意味は神の所の文字、天国文 字)と呼ばれていた。現代インド文字はその文字に依って作られた。 新疆のカシュガル、マラルベシ、ホタン(和田)、クチャ、トルファンなどから、S anskrit文字で白樺の皮、板、家畜の皮、紙に書かれた仏教著作が発見された。 今一部の研究者はその著作の時代を3−8世紀だと考えているが、実はもっと昔の宗 派に属する著作もある。 Sanskrit文物を研究するまで古代Ariyan人の輝いた文化は世界に知 られなかった。インドはイギリスの植民地であった時に西洋の学者はこの文字を研究 し始めた。当時イギリスの殖民主義者は「インド文化は西洋から来た」と講演して いた、インドの現地インテリも知識が不足のため、イギリス人の「演奏」に合わせて 「踊っていた」。 Sanskrit文字が研究されてから「西から来た」と言われていた文化が元々 は古代インドのAriyan人の文化であり、インドから西洋に伝わって、西に影響 を与えたことが明かされました。世界レベルの言語、例えば、英語、ドイツ語も自分 の歴史起源をSanskrit語から見つけた。それから「インド−ヨーロッパ語 系」という単語が生まれた。インドの民族も祖先の一つであったAriyan人の輝かしい 文化で、自豪を感じるようになって(自ら誇りを感じるようになって)、自分たち を「古代文明的な民族」と呼んでいる民族と同じ位置に置かれるようになった。殖民 主義者の軽視にも場所はなくなった。 Sanskrit文字は世界の古代言語を研究するのに、特に比較言語学において非常に重 要な意義を持っている。なぜなら、古代、新疆に伝わってきた著作をウイグル人が参 考にして、それから多くの外来語を受け入れた。今、Sanskrit語と古代ウ イグル語を比べて研究すれば、発音、意味が似ている単語及び語根が同じ単語が見つ かりました。 21.Tohri(トホラ)文字(A)1903年−1905年にドイツ探検家の Gronwidilさん、Lekokさんは新疆のクチャ、カラシェル(Kara Shahar)県境内から多くの古書籍を持ち帰った。Sanskrit学者はその 書籍を読んでみて、Sanskrit語に似ている「Maytrsimt」ドラマ のような単語を見つけたが、その他の内容は分からなかった。そしてこういう文字を 整理した時に「知らない民族の文字A」と呼んでいた。 1907年有名な文字学者Muller先生がトルファンで出土した古代ウイグル語
の「Maytrsimt」ドラマの注釈にあった「Tohri語から翻訳された」と
いうことからその文字を「Tohri文字A」と名づけした。
Tohri文字Aの文字はBrahmi文字のGuptahan時代の形に依って
作られたもので、言語学者はそれを斜線のBrahmi文字とも呼んでいます。この
文字は5世紀から8世紀に使われた。この文字がトルファンとカラシェルで発見されて
いる。
この文字はトルコ諸語で話す民にもSanskritよりもっと直接影響を見せ
た。ウイグル語の仏教名称の多くはTohri語の発音で受け入れられた。この文字
は新疆の歴史的な言葉の研究に重要な資料を提供している。
22.Tohri文字(B)この文字でTohri語のクチャ方言が書かれてい る。この文字は研究されるまでに「知らない民族の文字(B)」と呼ばれていた。な ぜなら、それはTohri文字(A)とは違っていった。 この文字で書かれた著作には方言が多くあるだけではなく、この文字がトルファ ン、カラシェル以外に新疆の多くの地区から発見されている。この文字の伝達範囲は 「Tohri文字(A)」より広い。Brahmi文でのトルコ文字はこの文字に 依って作られた。比較言語学でこの文字の参考価値は「Tohri文字(A)」より 高い。(A)では仏教著作しか書かれていない。(B)では仏教のほかに、文学作 品、社会、経済文書も書かれている。 23.サカ(Sak)文字 この文字も古代インドのGuptaハン時代に用いら
れた文字に依って作られた。言語学者はこれを直線のBrahmi文字とも呼ぶ。又
多くの研究者はそれを「ホタンサカ文字」(和田Sak文字)とも言う。
外国の研究者はこの文字で書かれた文書の時代を6−10世紀だと見なしている。
24.Brahmi式のトルコ文字 クチャ、トルファンからこの文字で書かれた
著作が発見された。最初この文字はBrahmi文字だと考えられたが、後の研究でそ
の言葉はトルコ語だったので「Brahmi式のトルコ文字」と呼ばれた。
有名な古代トルコ語(突厥語)学者A.Fon Gabayinさんはこの文字で
書かれた著作の一部を研究して発表しました。
紀元567年、西トルコと呼ばれたトルコ民が中央アジアを統治していたペイタル (Peytal、(漢字だと:唳?+口偏に達)白い匈奴とも言う)の政権の位置を 占めていた。(その政権を倒した)。それは歴史で「西トルコ王朝」と言います。5 82年にこれらのトルコ部族の内部に分裂が起こって、西トルコ王朝は今の新疆及び 旧ソ連の南の地域を含んでいた。659年唐に倒された。当時トルコ語で話す民の一 部はクチャのTohri文字を勉強するチャンスが出来た。つまりこういうBrah mi式のトルコ文字を当時の西トルコ文字と思って良い。 25.Tubut(チベット)文字考古学者は新疆のトルファン、ミラン(ミレ ン、米蘭)などで板及び紙に書かれたTubut文の手書きものを発見した。これら の文物は紀元9世紀に属する。 チベット自治区のチベット文学者はTubut文字が639年Brahmi文字の カシミールで使われた形に依って作られたと見なす。その他一部の学者はTubut 文字にある記号が違っても、やっぱりホタンで出土したサカ文字にもっと似ている、 この文字はサカ文字に依って作られたと見なすのが合理的だと言っている。実はMahm ut Kashgariがトルコ語大辞典で言ったように、彼らは「トルコの地へ後で来た」 民である。彼らは新疆に来てからBrahmi文字と知り合うチャンスが出来たので す。 26.Basba文字 モンゴル人の中でラーマ教が発展してから1269年モン
ゴルハンがもう一種の文字を作ってもらって、1272年から使い始めた.Tubu
t(チベット)のラーマであるBasbaさんがTubut文字に依って作ったた
め、言語学者はこの文字を「Basba文字」と呼んできた。
(2000.2.6受 2.15掲/2.19改)
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