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宮脇淳子著「モンゴルの歴史 遊牧民の誕生かモンゴル国まで」(刀水書房 2002)より: …モンゴルという名前の部族がはじめて歴史文献に登場するのは、7世紀のことである。その時代は、モンゴル高原を突厥(とっけつ、トルコ)が支配し、南の中国は、鮮卑族の建てた唐王朝が支配していた。… 室韋はすなわちタタル 7世紀にアルグン河渓谷にいたモンゴル部は、唐から見れば、室韋(しつい)と総称される種族の一部だったわけだが、もともと当時の北アジアは突厥帝国の支配下にあり、…室韋の諸部落もまた、突厥に付属していた。… …三十姓という多数の部族からなるタタルが、ケルレン河中流下流流域、アルグン河、オノン河、シルカ河方面にいたということになる。この、古代トルコ語でタタルと呼ばれる多数の部族が、同時代の中国史料では室韋と総称された諸部族であったことは間違いない。 …「九姓タタル(トクズ・タタル)」がセレンゲ河下流近くにおり、突厥やウイグルと激戦したという。 三十姓タタルと九姓タタルの関係について記したものはないが、九姓タタルの住地が突厥やウイグルに近く、かれらがタタル諸部の中では、文化的により開けた部族であったとはいえるだろう。 突厥を滅ぼしたウイグルは、100年ちかく漠北のモンゴル高原を支配したのち、840年に、西北方から侵入してきたキルギズ軍に本拠地を追われて四散した。しかし、キルギズの支配は長続きせず、860年代には、タタルがキルギズをアルタイ山脈の北方に撃退してしまった。 キルギズをおって漠北の中心地にあるオルホン河畔に入ったのは、九姓タタルであると考えられる。13世紀にモンゴル部が強大になるまでモンゴル高原の支配部族だったケレイト王家は、おそらくこの九姓タタルの後身だろう。一方、モンゴル部をふくむ残りの三十姓タタルは、九姓タタルがかつて住んでいたセレンゲ河上流域やケルレン河上流にまで住地を広げた。チンギス・ハーンの時代に大部族として有名であるモンゴル高原東部のタタル部族は、かつての三十姓タタルの一部族で、この集団にだけその名が残ったのである。… モンゴル史料の出現 …7世紀の蒙兀室韋(もうごつしつい)あるいは8世紀の三十姓タタルが、モンゴル部族の遠い祖先らしいことは明らかになった。しかし、このあとチンギス・ハーンが誕生するまでの500年もの間、モンゴルについて記した史料はほとんどない。これから物語るチンギス・ハーンの祖先たちの話は、すべて、チンギス・ハーンの子孫の時代、13世紀末から14世紀になって、口頭で伝えられ伝承や当時のさまざまな言語の記録をもとにして、書き留められたものなのである。しかも当時の記録といっても、チンギス・ハーンが成人するまで、記録をつける習慣はモンゴル人にはなかった。 13世紀にチンギス・ハーンがモンゴル帝国を建国し、モンゴル人が中央ユーラシアの支配者となったために、古くから文字があり記録の伝統を持つ人びとが、モンゴル人の家来になった。それからはじめて、君主の一族の由来や偉業が書かれるようになったのだ。 それらのモンゴル史料のなかで、書かれた年代が古く、もっとも信頼のおける歴史書が二つある。一つはペルシア語の『集史(しゅうし)』(注1)、もう一つは漢文の『元史(げんし)』(注2)である。 …今のモンゴル人にとって、もっとも大切な資料がこの『元朝秘史』(注3)である。…いわば「歴史小説」のようなものであるから、史料として利用するには慎重を期さなければならない。… モンゴルの始祖説話 (注4) …しかし、わが日本国でもっとも有名なチンギス・ハーンの始祖説話は、例の「蒼き狼」の神話である。『元朝秘史』はこのように物語をはじめる。 「高き天の定命(さだめ)を受けて生まれたボルテ・チノがあった。その妻のホワイ・マラルがあった。海を渡って来た。オノン河の源のブルハン・ハルドン[山]に遊牧して、生まれたバタチハンがあった」。 モンゴル語でチノは「狼」、マラルは「牝鹿(めじか)」の意味で、狼と牝鹿の夫妻が渡ってモンゴル高原に来た海とは、バイカル湖のことである。妻のホワイ・マラルのホワは、モンゴル語で黄毛のことで、ホワイはその女性形であるから、「黄色い牝鹿」という名前である。 …那珂通世博士は、ボルテ・チノを「蒼き狼」と訳した。…しかし、残念ながら「蒼き狼」は誤訳で、しかもチンギス・ハーンはその子孫ではないのだ。 モンゴル語で「ボルテ」は「斑点のある」という意味である。…だから、ボルテ・チノは「斑(まだら)の狼」という名前なのである。 『元朝秘史』の話では、ボルテ・チノとホワイ・マラル夫妻の八代あとの子孫に、ドブン・メルゲンが生まれる。ドブン・メルゲンが死んだあと、その寡婦のアラン・ゴワが天窓から差し込んだ光に感じて産んだ男の子が、チンギス・ハーンの祖先である。チンギス・ハーンはボルテ・チノと血統でつながっていないから、「蒼き狼」の子孫ではないのだ。 祖先が狼であるという始祖説話は、突厥など、いわゆるトルコ系部族に共通の物語である。 …狼と鹿の夫妻が渡ってきた海、とあるバイカル湖の西方のイェニセイ河の流域は、トルコ系のキルギズ部族の古い住地だった。さらにバイカル湖の北方のシベリアのヤクート人はトルコ系の言語を話す。だから、…モンゴル部族にはシベリアのトルコ系住民の血も混じっているということを示しているのだろう。 また、狼の子孫ドブン・メルゲンの妻となったアラン・ゴワの父は、ホリ・トマトの氏族長、母はバルグジン・トクムの領主の娘と伝えられるが、どちらもバイカル湖周囲の遊牧部族で、いまのブリヤート・モンゴル人の祖先にあたる。そういうわけで、チンギス・ハーンの祖先の物語は、モンゴル高原を中心とした広い地域の、さまざまな遊牧民に伝わっていた口頭伝承を集めて整理したものである、ということができる。 チンギス・ハーンの祖先の物語 (注4) …『集史』『元史』『元朝秘史』に共通な物語は、アラン・ゴワが天の光に感じて産んだボドンチャルが、ボルジギン氏族の祖になったというものであった。そのボドンチャルの孫の寡婦モナルンと息子たちは、キタイ軍に攻められてケルレン河から逃げてきたジャライル部族に襲撃されて、皆殺しになった。ただ一人だけ生き残ったハイドが、バイカル湖のほとりのバルグジン・トクムに移って成人し、兵を率いてジャライル部族を攻め、これを臣下とした、という話が続く。このハイドはチンギス・ハーンの六代前の祖先だが、かれがどうやら最初の歴史上の人物らしい。 先に述べたように、アラン・ゴワもバイカル湖畔の出身だったことを考えると、チンギス・ハーンの祖先の本当の発祥の地はバイカル湖畔で、そこから南下してオノン河の渓谷に移住し、そこでチンギス・ハーンが生まれたと考えるほうがよさそうだ。 ハイドには三人の息子があって、次男のチャラハイ・リングンの子孫が、のちにチンギス・ハーンと敵対するタイチウト氏族になった。長男のバイ・シンホルにはトンビナイという息子があった。トンビナイには多くの息子があって、それぞれ氏族の始祖となったが、六番目の息子ハブル・ハーンが、チンギス・ハーンの曾祖父である。 トンビナイの時代と思われる1084年、久しぶりに漢文史料に「モンゴル」が現れる。『遼史』によると、この年「萌古(もうこ)国」が契丹に使者を派遣している。このころようやくモンゴル部にも王権が生まれて、「国」と呼べるような集団になったらしい。 1125年に金帝国がキタイを滅ぼしたころのモンゴル部族の指導者は、チンギス・ハーンの曾祖父ハブル・ハーンだった。ハブル・ハーンは金の朝廷を訪問したこともあるらしい。バブル・ハーンの死後、かれの又従兄弟(またいとこ)のアンバガイが次のハーンになった。 ハブルとアンバガイ二人のハーンの時代、モンゴル部族は、金の長城沿いに遊牧していたタタル部族と抗争をくりかえした。アンバガイ・ハーンはついにはタタル部族に捕らえられて、金の皇帝のもとに送られて殺された。 アンバガイ・ハーンのあと、今度はハブル・ハーンの息子フトラがハーンになった。チンギス・ハーンの祖父バルタン・バートルは、フトラ・ハーンの兄弟である。バートルとはモンゴル語で「勇士」の意味だ。バルタン・バートルには四人の息子があり、その三番目がチンギス・ハーンの父イエスゲイ・バートルだった。つまり、チンギス・ハーンは、モンゴルのハーン一族の出身ではあったが、傍系だった。 『元朝秘史』には続いて、チンギス・ハーンの父イエスゲイがメルキト部の若者から新妻ホエルンを掠奪する話、九歳のチンギス・ハーンとボルテの婚約、イエスゲイがタタル部族に毒殺され、残されたホエルンが苦労して息子たちを育てる話などが物語られるが、いずれも史実かどうかは定かではない。 (注1) 『集史(しゅうし)』:正式の書名を『ジャーミア・ウッタワーリーフ』(歴史の集成)という。チンギス・ハーンの孫でイランにいわゆるイル・ハーン国を建てたフレグの曾孫、第七代ガザン・ハーンが、1302年にユダヤ人宰相ラシード・ウッディーンに命じて、「モンゴル史」の編纂がはじまった。「万国史」、「地理誌」を加え『集史』が完成したのは1311年。 モンゴル帝国が遠征軍を組織するときは、戦利品が各部族に公平に渡るように、それぞれの部族あるいは氏族が代表者を参加させた。このため、遠征軍がそのまま征服地に残留して国家をたてたこのイル・ハーン国のような場合には、モンゴルの故地から遠く離れたイランの地に、モンゴル高原のすべての部族や氏族の子孫が暮らしていた。だから、イランの地で、『集史』のような、あらゆる部族の伝承を記録したモンゴル史が書かれたのである。 (注2) 『元史(げんし)』:中国の正史の一つで、元朝を継承した明朝で編纂された歴史書。1370年完成。 (注3) 『元朝秘史』:今のモンゴル人にとってもっとも大切な資料。モンゴル語の題は『モンゴルン・ニウチャ・トブチャアン』(『モンゴル秘史』)というが、モンゴル文字の原本は見つかっていない。原文のモンゴル語を、日本語の万葉仮名のように、一音ずつ漢字で写し、その脇に中国語で一語ずつの直訳を付け、一節が終わる漢文で意訳を付けたテキストだけが現存している。 モンゴル国では、公式には1240年の庚子(こうし)の年に成立したという説を採用し、1990年に『モンゴル秘史』成立750周年記念大会が開催された。… (注4) [モンゴルの系図]参照 2006年 03月 29日
「パクス・イスラミカの世紀 新書イスラームの世界史?」(講談社 1993)より(筆者:羽田 正): 「東方イスライム世界」とは …モンゴルの侵入は、西アジア・イスラーム世界を東西に大きく分かつことになった。バグダードのカリフが倒れ、イル・ハーン朝が成立する13世紀の後半からおよそ500年の間、イスラーム世界の東半に位置するイランを中心とした地域に、ひとつの歴史世界が存在することになったのである。 そこでは、この間、一貫してトルコ・モンゴル系の遊牧民的な規範や心性、価値観や行動様式が大きな価値をもち、それが政治や社会、文化のあり方に多大な影響をあたえていた。この歴史世界のことを「東方イスラーム世界」とよぶことにしよう。(注1)… 東方イスラーム世界の主要部分は、アム川とユーフラテス川の間の地である。イル・ハーン朝時代の史料では、この地域のことを、「イランの地(イーラーン・ザミーン)」とよぶ。今日の国名でいうと、イラン、イラク、シリア、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャン、トルコ、アフガニスタン、パキスタン、トルクメニスタンの全部または一部を含む広大な地域がこの歴史世界にふくまれていた。… 東方イスラーム世界の…社会の主たる構成要素は、農民、都市民、遊牧民の三者だったのである。 民族的にみると、定住民である農民・都市民には、ペルシア語を話すイラン系の人が多く、彼らはしばしばタージークとよばれた。彼らは、乾燥したイラン高原のなかで水を得ることのできる限られた土地に居住していた。定住民の居住地は、しばしば砂漠の海に浮かぶ島にたとえられる。 これに対して、遊牧民には、トルコ語を話すトルコ系の人々が多かった。11世紀にはじまるトルコ系遊牧民の西アジア侵入以前から遊牧をおこなっていたイラン系の遊牧民も存在したが、その多くはトルコ化した。13世紀のチンギス・カンやフレグの遠征の結果、モンゴル系の遊牧民もこの地にやってきたが、100年を経ると、多数を占めるトルコ系の遊牧民のなかに吸収されていった。遊牧民の遊牧地には夏営地と冬営地があり、それらの大部分は、イラン西部のアゼルバイジャンと東部のホラーサーン、それに西南部のザグロス山脈沿いに展開していた。… ペルシア語が共通語 東方イスラーム世界では複数の言語が用いられた。話し言葉についていえば、遊牧民の多くはトルコ語を話し、メソポタミア平原の人々はアラビア語を使用した。クルド語のような少数民族の言葉もいくつかあった。しかし、この世界全体で通用する共通語は、ペルシア語だった。… トルコ系遊牧民の君主やその側近は、トルコ語とペルシア語のバイリンガルである場合が多かった。… 書き言葉の場合はやや様相がことなって、アラビア語が宗教的な書物や文書に限って使用された。しかし、政府の公文書、詩や歴史書などの文学作品、日常的な私文書はほとんどすべてペルシア語で記された。ペルシア語が書き言葉として用いられるようになるのは10世紀以後のことだが、この言葉は13〜14世紀までに、優雅な言い回しや語調、正確な表現力をそなえた文章語としての地位を確立していた。 トルコ語は書き言葉としては、ほとんど用いられなかった。ティムール朝の末期にはチャガタイ・トルコ語で書かれた文学作品も生まれたが、文章語としてのペルシア語の優勢をくつがえすにはいたらなかった。… 同じころ、シリア以西のイスラーム世界では、アラビア語が話し言葉としても書き言葉 としてもひろく通用していた。人間の日常生活の基本となる言語の点で、東方イスラーム 世界は、西のアラブ世界とははっきりと一線を画していたのである。 トルコとタージーク 東方イスラーム世界の社会の最大の特徴は、主として定住民からなるイラン系住民(タージーク)と、主に遊牧をいとなむトルコ系住民が混在して生活していたということである。… イラン系住民は10〜11世紀ごろまでには、ほぼすべてがムスリムとなっていた。他方、トルコ系の住民のなかには、…かならずしも正統的なムスリムとはいえない人々もいた。… しかし…トルコ系住民についても、その大部分がムスリムであったと考えて大過ないだろう。この歴史世界では、生活形態や言語をことにする人々が、ともにムスリムとして、トルコ系遊牧民集団の頂点に立つ君主の下でたがいに依存しながら暮らしていたのである。 両者の共存関係は、一般の人々の日常生活のレヴェルでも、統治のレヴェルでも、常にみられた。遊牧民は彼らの特産品である乳製品や皮革製品、毛織物、それに動物をもって町を訪れ、それと交換に穀物、野菜などの食糧品、金属や木工の各種工芸品、絹織物や薬品、香料などを手に入れていた。また、町の人々の荷物の運搬やその警護をひき受ける遊牧民も多かった。遊牧民と定住民は日常的に接触していたのである。 統治のレヴェルでは、軍事は主としてトルコ系の人々がにない、行政は主にイラン系の人々が担当していた。… 血統を重視する社会 遊牧民には、部族単位で分封地があたえられた。それは、イクター、ソユルガル、インジューなどと時代によって違った呼び方をされた。… 一方、イラン系の人々は、文書行政や財務行政、それに宗教知識を要する職務を得意とした。このような職務をこなすには読み書きの能力だけではなく、イスラーム諸学や詩、文学につうじ、高い教養と見識をもっていることが必要だった。このため、幼いときからそのような環境になれ親しむことが可能な都市名家の出身者が、多くこの種の職についた。…東方イスラーム世界の社会では、とりわけ血統が重視されたことに注目しておきたい。この世界には、中国における科挙のような官吏任用試験はなかったので、官吏となるには有力者の口利きがもっとも確実な手段だった。その意味でも、都市の名家や高貴な家系に属していることは、有利な条件だった。 …トルコ系遊牧民の建設した国家はみな短命だったが、これらの遊牧政権につかえたイラン系の行政官僚たちは、王朝が滅び別の王朝ができても、そのまま職務をつづけることがあった。「二君にまみえず」という儒教的な「忠」の観念は、この世界では価値をもたなかったのである。… 他方、一般の遊牧民は通常、君主に税を支払っていた。税が払えず落ちぶれて定住民の有力者に購入される遊牧民もいたのである。両者の関係はあくまでも「共存」ととらえるべきだろう。 セルジューク朝とイル・ハーン朝 トルコ系遊牧民とイラン系定住民の共存という状態は、…11世紀にセルジューク朝を建てたトルコ系の人々が、中央アジアからイランに移住してきたことによって生じた。史料にもこのころから「トルコとタージーク」というように、両者を対比的にみる用法があらわれる。 その意味では、東方イスラーム世界は、セルジューク朝の時代にはじまるとみることもできよう。実際、セルジューク朝の宮廷には、宰相となったニザーム・アルムルクとその一族をはじめ、多くのイラン系名家出身の有力者が出仕しており、行政、財政はほとんど彼らの手ににぎられていた。軍事をトルコ系の人々がにない、行政はイラン系の人々があつかうという原則が生まれつつあったのである。 しかし、セルジューク朝の王家は、王朝の軍事力としては、彼らとともに西アジアにやってきたトルコ系の遊牧部族集団を重視せず、トルコ人の奴隷を重用した。遊牧部族が自分達の利害によって行動し、君主にかならずしも忠実ではなかったのに対して、金銭で購入された奴隷はその主人に忠誠を尽くすと考えられたからである。多くの奴隷がスルタンによって購入され、軍人として活躍するとともに、国家とりわけ宮廷の要職についた。 …奴隷を軍人として活用し、また側近として重用したという点で、セルジューク朝はそれ以前のアッバース朝やブワイフ朝につうじる特徴を有していたのである。 …トルコ系の遊牧部族集団を主とする軍隊構成は、期待されていなかった。彼らは軍隊から完全に排除されたわけではなかったが、大部分はイラン高原のセルジューク朝の本拠からは遠い、西方のアナトリア方面に移された。 部族単位で軍隊が編制され、一族の男たちが誇り高き戦士となる遊牧社会では、奴隷が軍人として活躍するということはありえなかった。このことは、北アジアに成立した遊牧国家である匈奴や突厥の場合を考えてみれば容易に納得できよう。これらの国家の指導者層を形成したのは、ほとんどの場合、君主とその親族、姻族に限られていた。遊牧社会で重視されたのは血縁だった。 したがって、遊牧民的な考え方、慣習が広範にみられるということを東方イスラーム世界の最大の特徴だとすれば、セルジューク朝の時代には、まだこの歴史世界が確立していなかったということになろう。この王朝の時代は、トルコ系の人々の流入によって、イランを中心とした地域にしだいに独自の特徴をもった新しい社会が形成されつつあったと考えられるのである。 これに対して、イル・ハーン朝以後サファヴィー朝にいたるまでの諸王朝では、軍事力の根幹は、トルコ・モンゴル系の遊牧部族に属する騎馬兵だった。君主は遊牧部族の連合体の頂点に立ち、部族連合の強大な軍事力を背景に統治をおこなった。イル・ハーン朝以後、軍隊の構成がセルジューク朝時代とは大きく変化したのである。このことは、トルコ系遊牧民がその武力を背景に、大きな政治的影響力をもつようになったことを意味している。筆者が、イル・ハーン朝時代になって東方イスラーム世界が成立したと考える理由のひとつはそこにある。 遊牧民族支配がなぜ長くつづいたのか …中国の場合には、遊牧民がその根拠地にできる草原が、華北や華中の平原地帯には存在しなかった。万里の長城以南の中国には遊牧民は存在せず、彼らは中国社会にとってあくまでも外来者、侵略者でしがなかった。… これに対して、東方イスラーム世界では、その各所に豊かな牧草地が点在していた。遊牧民と定住民は地理的にまじりあって、たがいを意識しながら生活しており、両者の関係は東アジアにくらべるとよほど緊密だった。この地域では、遊牧民は社会を構成する重要な要素のひとつだったのである。 中国では遊牧民が風土の違う定住地帯で遊牧民でありつづけることが困難だったのに対して、東方イスラーム世界では遊牧民は遊牧民のままで、定住地帯を支配することができた。そこに、この地域で遊牧民政権が次々と誕生した秘密があった。… 遊牧民軍は両刃の剣 …このように王朝の権力が不安定だったのだろうか。その最大の原因は、遊牧民の政権がもつ独特の君主位継承の方法にあった。生活条件の厳しい遊牧世界では、君主の地位は座して待つものではなく、実力でかちとるものだった。君主はまず何よりも有能で公正なリーダーであることが求められ、この条件をそなえた王家の一員であれば、誰でも君主の位をのぞむことができたのである。 理論上は別として、遊牧世界では、長子や末子による相続が慣習として定まっていたわけではない。したがって君主が死ぬと、しばしば激しい後継者争いがおこった。この争いには、各候補者の母方の部族の思惑がからむことが多く、そのような場合には、争いはなおいっそう激しさをました。先代の君主の意向は、ほとんど無視された。 遊牧部族の連合した軍隊は、その連合が有効に機能している間は、君主にとって有力な武器だった。王朝初期の大征服は、この武器をうまく活用した結果実現された。しかし、君主位継承をめぐっていったん争いがおこると、連合は雲散霧消し、激しい内部対立はやがて王朝の滅亡をまねいた。遊牧民の軍隊は、東方イスラーム世界の王朝にとって両刃の刃だったのである。 遊牧民が生んだ庭園文化 政治的・社会的な枠組みだけではなく、文化の面でも、東方イスラーム世界には独自の特徴がみられた。とりわけ、遊牧民の君主やその側近たちによって築きあげられた豊かな庭園文化は、遊牧民的な心性が色濃く反映されたものとして注目に値する。 東方イスラーム世界の君主たちは、今日の私たちが考えるような首都をもたなかった。君主は原則として夏は高原の涼しい夏営地ですごし、秋から冬になると、気候が温暖で糧食、物資が豊かな都市を訪れた。その際に君主や側近たちが滞在したのが、都市郊外の緑濃い庭園(バーグ)である。東方イスラーム世界では、遊牧政権とかかわりの深い町に多くの庭園がつくられた。 これらの庭園は高い壁によって囲まれ、都市の喧噪とは隔絶された別天地で、暑く乾燥した土地では何よりも貴重な水と緑がふんだんに取りいれられ、心地よい空間をつくりだしていた。君主は庭園のなかに大テントを張ってそこで寝起きし、しばしば客人を池のほとりのあずまやにむかえて夜通しで宴会を催した。遊牧民的な心性をもった人々にとっては、水と緑の豊かな牧草地で生活することこそ、最高の贅沢だった。狭隘で騒々しい都市の郊外につくられた庭園は、彼らのこのような欲求を満たす施設として、この時代に大いに発展するのである。 (注1) [イスラム国家・王朝年代図]参照 2006年 03月 27日
突厥、ウイグルと深く関わったソグド人を調べているうちに、非常に良く似た、魅力的な2枚の写真に出会った。 これは杉山正明著「遊牧民から見た世界史」(日本経済新聞社 1997)に載っていたもの。説明文に「うるわしいソグドのハープ奏者 西トルキスタンのペンジケント遺跡から発掘された壁に描かれたハープ奏者 (Ancient Art of Central Asia より )」とある。 モノクロで分かり難いが、大分痛んでいる状態の写真のようである。 こちらは、いわき市立美術館のサイトにある「オアシス国家の光芒──偉大なるシルクロードの遺産展」ページで見つけたもの。「「壁画(ハープ奏者)」(部分)5〜8世紀(タジキスタン)」と記されている。 この写真を初めて見たときは、上の写真と同じもので、上が修復前、下が修復後のものと思った。 しかし仔細に眺めると若干違いがあるのに気付く。例えば、右手首の2つの腕輪、その角度が違っているように見える。また右上腕部の腕輪の形状も違うようだ。 これはどうしたことか。修復の過程で改変されたのか、それとも壁画には似たようなハープ奏者が複数人描かれていたのか。 この「偉大なるシルクロードの遺産展」は昨年全国で巡回開催された。後の祭で、私は見ていない。詳しい印象記が[雲来末・風来末]に載っている。 ロンリープラネットの旅行ガイド(“Central Asia” Lonely Planet Publication 1996)にこんな記述があったが、タジキスタン民族考古博物館所蔵という壁画は本物か、それともレプリカか。 ペンジケント[(タジキスタン)] …フレスコ画(長さ15mのものもある)、彫刻、陶器や写本の優れたものは、[ウズベキスタンの]タシケント歴史博物館と[ロシア]サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に持っていかれた。…これらよりは劣る発掘品が現在のペンジケントにあるルダーキ博物館に展示されている。… 2006年 03月 24日
「都市の文明イスラーム 新書イスラーム世界史?」(講談社 1993)より(筆者:清水宏祐): 「玉座の足」は移動する… どの教科書をみても、セルジューク朝の首都の所在地は書かれていない。 …セルジューク朝の場合、いくつかの地方に分家(注1)ができ、中心が次第にあいまいになったという面はたしかにある。しかし、それ以上に重要なことは、君主が移動を続け、ときおりある都市に腰をすえたという、歴史的な経緯があったことである。特に、初期の時代にこの傾向が強い。君主は、ニーシャープール、レイ、イスファハーンという具合に移動し、都市(あるいは、都市郊外の緑地)に滞在すればそこが中心地となった。文書庁、軍務庁など、文献に記録がある役所も、実際には建物はなく、それを担当するものがいるところが即、役所となったのである。ペルシア語では、「首都」を「玉座の足」という。…君主が座る玉座とは、かついで移動可能なものである。ある場所に玉座がすえられれば、たちまちそこが「首都」となったというわけだ。 重用された奴隷将軍 セルジューク朝時代にいかに奴隷軍人が重んじられていたかを、サーウ・ティギーンなるものを例にとってみてみよう。ティギーンとは、北アジアのトルコ系遊牧民の君長の近親者にあたえられた称号で、漢文史料では「特勤」としてあらわれる。西アジアでは、これが奴隷に特有な名前となっていた。… サーウ・ティギーンは、ホラーサーンの村に生まれ、おそらく奴隷商人をとおしてセルジューク朝に購入されたのであろう。トゥグリル・ベクのもとで軍隊の隊長、つづいて司令官へと順調に昇進した。トゥグリル・ベクがカリフの娘と政略結婚したときには、その費用一万ディーナールを、イラン西部の町から徴収する役をはたした。 二代目アルプ・アルスラーンのもとでは、一族内部の反乱を鎮圧し、カフカス遠征軍の指揮をとった。マラーズギルトの合戦では、ディオゲネスヘの使節となった。…つぎに、カラ・ハーン朝の侵入をアム河のほとりで撃退、ダルバンド、アッラーンをイクターとしてあたえられ、メッカ巡礼の指導者となってカリフに面会するなど、まさに八面六臂の活躍だった。 彼がイスファハーンで世を去ったとき、200万ディーナール、馬5000頭、ラクダ1000頭、羊3万頭の財産を残したという。 ペルシア人の宰相 一方、セルジューク朝で行政の実務を担当したのは、ペルシア人の官僚たちだった。カリフと折衝するのも、地方王朝との外交交渉をおこなうのも、高度に発達した形式の文書によらなければ何事もうまく運ばなかった。トルコ人にとって、実務にたけた書記官僚を確保することは、イスラーム世界での主権をにぎるためには、軍事力以上に重要なものであったともいえる。 そのなかでも特に有名なのが、ニザーム・アルムルク(「国家の秩序」という意味の称号)である。彼はホラーサーンの、トゥース地方のある村で生まれた。… 彼はガズナ朝のホラーサーン総督につかえたのち、セルジューク朝に転じ、まずアルプ・アルスラーンのアター・ベクとなった。アター・ベクとは、セルジューク朝にはじまった制度で、王族の子息の養育係のことである。一対一で教育にあたったため大きな影響力をもち、その子が君主になれば、後見役として大変な権力を握ることになった。… 1063年、トゥグリル・ベクがレイ近郊で、…謎の死をとげると、ニザーム・アルムルクは奴隷出身の将軍とともに、アルプ・アルスラーン擁立に立ちあがった。…この闘争に勝利をおさめたニザーム・アルムルクは、即位したアルプ・アルスラーンのもとで宰相となり、王朝の基礎を固めるために尽力した。… 次にスルタンとなるマリク・シャーも、アター・ベクとしてのニザーム・アルムルクの後見を受けた。マリク・シャーは、即位したとき18歳。実際の政治はすべてニザーム・アルムルクがおこない、スルタンの仕事はただ狩りをすることだけだったという。実権をにぎったニザーム・アルムルクは、思いのままに手腕をふるうことができたのである。 古代ペルシアの遺産 ペルシア人宰相ニザーム・アルムルクの業績のひとつは、マドラサ(学院)の創設である。それ以前にもマドラサはつくられていたが、国家支配のイデオロギー確立と、体制に協力する官僚の養成のために、国家によってつくられたのは、これが最初だった。… …宮廷の公用語は、ペルシア語だった。君主もペルシア語は理解できたが、アラビア語の素養はなかったようで、アラビア語のコーランやハディースの引用のあとで、わざわざペルシア語の訳をつけた歴史書も残っている。軍隊もペルシア語で訓練がおこなわれていたらしい。 将軍たちがカリフに拝謁した際には、ニザーム・アルムルクが、逐一アラビア語からペルシア語への通訳をつとめていた。歴史書も、従来のアラビア語のものにまじって、ペルシア語で書かれたものが次第に増えてきた。 彼の功績で最も有名なのは、『スィヤーサト・ナーメ(統治の書)』の執筆である。マリク・シャーの要請により、君主の統治の心構えを述べた教訓文学で、わかりやすい逸話、実例をあげて、統治論を展開している。トルコ系の支配者のもとで、古代ペルシア以来の理想としての帝王の支配を実現しようとしたものと考えられる。文章も、ペルシア語散文の傑作といわれている。… 晩年には、ニザーム・アルムルクとマリク・シャーとの関係は極度に悪化していた。...1092年、イスファハーンからバグダードへ向かおうとした途中、彼はダイラム人の若者によって刺殺された。…当時の人々はむしろ、王妃と組んだペルシア人官僚タージュ・アルムルクの差し金によるものと考えていた。官僚どうしの権力争いの結果だというのである。 …ニザーム・アルムルクの墓は、イスファハーンの旧市街の南部地区にある。廟は簡素なものであるが、剣を浮彫りにした立派な墓石がある。かたわらにマリク・シャーの墓もあるが、こちらはずっと小さくつくられている。君主よりも部下の宰相の墓を立派にするとは、トルコ人も死後ペルシア人にしてやられたという形だ。… トルコ人のもとでペルシア文化がさかえる …セルジューク朝のもとで、ペルシア語の散文・韻文文学が、ともに著しい発達をとげた。それまでイスラーム世界では、ほとんどの記録はアラビア語でなされていた。アッバース朝時代、官僚の大半はペルシア人であったが、彼らは家ではペルシア語で話をしていても、役所ではアラビア語で執務し、記録をしていたのである。 …ペルシア語の場合、アッバース朝時代にはまだ書き言葉が発達していなかった。アラブに征服されてササン朝時代のパフラヴィー語の記録が途絶えてから、アラビア文字で綴られた今日みるようなペルシア語の文献があらわれるまで、長い断絶の時期があった。イラン人は、これを「沈黙の二世紀」とよぶ。そして、「沈黙の二世紀」に終止符を打ったセルジューク朝時代に、多くの文人があらわれた。放浪の大詩人オマル・ハイヤームは、セルジューク朝時代の文人のなかでも特に有名である。 …多くの人々にとって文学とは、耳で聞き、記憶すべきものだった。民族叙事詩として有名な『シャー・ナーメ(王書)』も、語り手がいて、辻講釈のようにして物語ったものだ。… グズの反乱 セルジューク朝の内部矛盾が最もよくあらわれたのが、[マリク・シャーの息子]サンジャル時代[(在位1119〜57)]におこったグズ族の大反乱である。遊牧集団をどのように統制下におくかは、常に支配者の苦労するところだった。このグズ族も牧地や馬のかいばを要求してもめごとをおこし、ついにはサンジヤルみずからが彼らによって捕らえられるという失態を演じてしまった。… セルジューク朝では、君主が死んだときの後継者選出のルールが確立していなかった。イスラーム的な慣習によれば、子どもが親のあとを継ぐことになる。しかし、遊牧社会では、一族中の最年長者が後継者となることがふつうだった。そのため、スルタンが死ぬと、息子と叔父とが対立することが多かったのである。しかも、奴隷や官僚を優遇する政策に不満をもつ遊牧集団がこの争いに介入し、騒動を大きくした。 一方、イクター政策によって、地方総督が独立し、中央への税収が低下し、スルタンの力を弱めるのに拍車をかけることになった。このようにセルジューク朝も、内部抗争のなか.て、徐々に弱体化していった。… (注1) 本家セルジューク朝(1037〜1157)、ケルマン=セルジューク朝(1041〜1186、イラン中南部ケルマンを中心)、ルーム=セルジューク朝(1077〜1307、アナトリアを中心)、シリア=セルジューク朝(1078〜1117、シリアを中心)、イラク=セルジューク朝(1117〜1194、イラクを中心) 2006年 03月 22日
「都市の文明イスラーム 新書イスラーム世界史?」(講談社 1993)より(筆者:清水宏祐): マラーズギルトの合戦 現在のトルコ共和国の東部に、ヴァン湖という大きな塩湖がある。この北岸から数十キロ内陸に入ったところに、マラーズギルトというさびれた小さな町がある。かつて、ここでビザンツ軍とセルジューク朝軍の一大決戦という世界史上の大事件がおこったとは思えないほど、静かなたたずまいをみせている… そこかしこに城壁の断片が残り、池ではあひるがのんびりと遊んでいる。 11世紀半ばのビザンツ帝国は、歴史上例をみない急速な衰退の時期といわれたコムネノス朝の時代にあたり、東部辺境の守備軍が弱体化し、トゥルクマーンの侵入を防ぐことができなかった。 1071年、時のビザンツ皇帝ロマノス・ディオゲネスは、首都コンスタンチノープルを出陣、東方遠征の途についた。総数20万とも30万ともいわれたビザンツ軍のなかには、現地で募集した、いくつかのトルコ系の遊牧民も含まれていた。彼らはカスピ海の北をとおり、黒海のほうからアナトリアヘやって来たものたちであった。一方のセルジューク朝軍の中心はトルコ人奴隷であり、統制のとれた行動でビザンツ軍を圧倒した。 記録によれば、アルプ・アルスラーンみずからひきいるセルジューク朝軍の兵力は1万5000。そのうちの4000がマムルークとよばれる奴隷兵だった。この戦いではビザンツ側は、皇帝も奴隷兵によって捕らえられるという、圧倒的な敗北を喫してしまった。 アナトリアのトルコ化は西からすすんだ この戦いの結果、アナトリアではトルコ人の移住をさまたげる障害はなくなり、セルジューク朝も、つぎつぎに中央アジアから流入してくる遊牧民をイラン西部からアナトリアヘと送りだす政策をとった。 11世紀の半ばにはすでに、イランでは牧地が不足し、特に都市近郊の農村では、遊牧民が連れこんだ羊や山羊の群れによって、耕地の荒廃が深刻な問題となっていた。… もっとも、トルコ民族のアナトリアヘの移動は、セルジューク朝時代に集中的におこなわれたものではない。イル・ハーン朝時代にはさらに多くの人々が移動し、オスマン朝時代にかけて、徐々にアナトリアのトルコ化が進んでいった。 そこで注意すべきことは、アナトリアのトルコ化が東から西へ徐々にすすんだのではないということだ。 11世紀後半、セルジューク朝の内部抗争に敗れた一族の一人、クタルミシュ(クタルムシュ)は、イラク、ジャズィーラを経て、アナトリアへ入った。彼らはボスポラス海峡にまで進出し、船から通行税を取りたてた。コンスタンティノープル陥落に先立つこと四世紀である。まず根城としたのが、かつてキリスト教の宗教会議がおこなわれた古都ニケーアであった。現在のイズニクである。これがルーム・セルジューク朝のはじまりである。 この王朝の名称は、アナトリアやビザンツの支配領域を、当時のイスラーム世界ではルームとよんだことに由来している。現在のトルコ共和国では、うっかりルーム・セルジューク朝といおうものなら、「アナトリア・セルジューク朝です」と訂正されてしまう。ルームとは、もともとローマ・ローマ人という意味だったからである。 …オスマン帝国の旗揚げの地も、西部の都市ブルサであった。この例からもわかるように、アナトリアのトルコ化は、まず西部に拠点ができ、それから徐々に東へと逆にすすんでいったのであった。ある意味では現在でも、アナトリアのトルコ化はなお完成していないともいえるかもしれない。東部アナトリアにはクルド系の人々が多いし、南部にはアラブ系の住民もいるからである。 2006年 03月 20日
「都市の文明イスラーム 新書イスラーム世界史?」(講談社 1993)より(筆者:清水宏祐): 西へ向かうトルコ人 …彼らは、西方のイスラーム世界の中心部に移動しようとする動きをみせはじめた。そして、奴隷としてではなく、中央アジアにいたときの組織や、血縁の関係をたもちながらイスラーム世界に入ってきたのが、セルジューク朝である。その集団は、歴史書にはグズの他、オグズ、トゥルクマーンなどの名前であらわれる。 彼らの旗揚げの地は、アラル海にちかいジャンドという町だった。セルジュークとは一族の始祖の名前だが、彼についてはほとんど何もわかっていない。一家の系図をみると、はじめのころの名に、ミーカーイール(ミカエル)とかイスラーイール(イズラエル)という、ユダヤ的な名前をもったものがあることに気づく。…初期のムスリムの名前のなかには、このようにどの宗派にも共通した名をもつものが結構いた。また、一族の長老がムーサー・ヤブグとよばれていたこともある。ムーサーとはモーゼであり、ヤブグとは北アジアのトルコ系民族の称号として、漢文史料に「葉護」とあらわされている。このような「ごつた煮」的な名前がみられるのも、過渡期の現象としておもしろい。 イル・ハーン朝時代の歴史家ラシード・アッディーンは、オグズ族にはさらに24のサブグループがあったとして、それぞれの名前とダムガとを並べたてている。ダムガというのは、羊の群れを管理するために、遊牧民が羊につけた記号である。… 部族の象徴としての弓と矢 1026年、セルジュークの息子アルスラーン・イスラーイールが、テント4000帳のトゥルクマーンを引き連れてアム川をこえ、ガズナ朝のマフムードの保護下に入ったときのこと。マフムードが「おまえは、どれくらいの兵力を動員できるか」と質問した。アルスラーン・イスラーイールはやおら弓を取りあげ、「この弓をわが部族に送りましょう。そうすれば、3000人の働き手が、ただちに馬に乗ってやってまいります」と答えた。… こんな話もある。のちにセルジューク朝の最初のスルタンとなったトゥグリル・ベク(トルコ語で「鷹の君主」の意味)は、ガズナ朝とのダンダーンカーンの大決戦で勝利をおさめたのち、一族郎党を集めた。席上、彼は兄弟のチャグリー・ベクに矢を渡して、折らせてみた。一本、二本、三本と数を増やしていき四本となったとき、さしものチャグリー・ベクも折ることができなくなった。そこで、トゥグリル・ベクは、一族の連帯の重要性を説いて聞かせたのだという。… 矢を折らせる話は、北アジアの遊牧社会にも広くみられるものである。… 公正なる支配者 トゥグリル・ベクは、チャグリー・ベク、叔父のムーサー・ヤブグとともに、はじめはガズナ朝につかえていた。彼らの任務は、他のトルコ人集団を攻撃することだった。この時代、セルジューク家以外にもいくつもの独立したトルコ人の勢力があって、ホラーサーンやイラクを荒らし回っていたのである。 1038年、古都ニーシャープールの城門の前に、セルジューク一族の使者があらわれ、同市の開城を要求した。当時の都市は、大商人や有力なウラマーの談合によって運営されていた。彼らは相談し、ガズナ朝が遊牧民や任侠団を取り締まることができない以上、これ以上したがう必要はないとして、みずからセルジューク勢力をむかえいれることにし、集団礼拝ではトゥグリル・ベクの名を唱えるようになったという。この年が、セルジューク朝の創設の年となる。 セルジューク朝がモンゴル人の場合とは違って、さしたる摩擦も流血もなくイスラーム世界に入りこむことができたのには、いくつかの理由があった。まず、彼らがムスリムであったこと。早くからカリフと連絡をとって「カリフのしもべ」と名乗り、ガズナ朝の圧制からの解放者として、また、シーア派のブワイフ朝に対抗するスンナ派の擁護者としてアピールしたことが大きい。 彼らがアピールしたのは、「支配の公正さ」「公正な君主」という、イスラームが理想としたものだった。君主の肩書きや貨幣の銘文には、しばしばこの言葉が登場する。また、さまざまなトルコ糸遊牧集団を取り締まることができるのは、彼らだけだったから、ニーシャープール以外にもいくつかの都市はすすんで彼らをむかえいれた。都市の商人から軍資金や武器の供給を受け、マドラサに学んでいた優秀な人材を登用して、セルジューク朝は、いよいよイスラーム世界の制覇に乗りだすことになる。 11世紀後半のアジア [拡大図] トルコ人がトルコ人奴隷を使う セルジューク朝の軍事力は、遊牧トゥルクマーン集団を根幹としていた。しかし、彼らは自分たちの利害を優先させ、必ずしもトゥグリル・ベクの思惑どおりには動こうとしなかった。そのため、支配者が遊牧集団の長から王朝の君主へと変わっていく過程では、…トルコ人奴隷兵による親衛軍が組織され、軍隊の中核として重んじられるようになった。 つまり、セルジューク朝のなかには、自由人のトルコ系遊牧民と、トルコ系の奴隷軍人とが同時に存在していたことになる。「セルジューク・トルコ」という、あいまいな言い方では、こうした王朝の基本構造を見落とすことになりかねない。… 西に移動するトルコ人の流れも、はじめに奴隷が、次に自由な遊牧集団が続いたのであった。もっとも、どちらも生活向上を求めての出稼ぎ、という色彩も強かった。いずれにせよ、決して軍事力にものをいわせての「進出」ではなかったことは確かである。大きな 世界史の流れをみれば、トルコ民族の西方移動は今も続いており、ドイツにおける出稼ぎ労働者(ガストアルバイター)問題も、その流れで理解すべきであるかもしれない。(注1) スルタンとは何か 1055年、トゥグリル・ベクはカリフからの招きに応じるという形で、バグダードに入城した。その前にカリフとは何度も綿密な打ち合わせをして、条件をつめていたことはいうまでもない。ブワイフ朝の最後の君主は捕らえられ、大モスクの集団礼拝では、「偉大なるスルタン」トゥグリル・ベクの名が唱えられ、名を刻んだ貨幣もつくられた。ここに、イスラーム世界でのセルジューク朝の支配が、公式に認められたわけである。 ただし、このときのスルタンという称号が、歴史上画期的なものであったとは必ずしもいいきれない。…この時代には、スルタンという言葉は決して特殊な用語ではなく、ふつうに支配者を意味する言葉となっていたものと考えられる。その証拠に、セルジューク朝の君主がただスルタンとよばれることはなく、必ず「偉大なるスルタン」「最も偉大なスルタン」との言葉が用いられているのである。 トゥグリグ・ベクがバグダードに入る前の年、不思議な前兆があった。年代記によれば、突然空にまばゆい光があらわれ、1ヵ月もその状態が続いたという。肉眼でも長さが5メートル、幅が50センチほどにみえたという。この現象は中国、日本でも観測されている。わが国では、藤原定家の『名月記』に記録がある.これが、天文学の分野では有名な、おうし座のなかの恒星が超新星となった大爆発だった。カニ星雲である。いまでも、その名残の星雲をみることができる。 (注1) 「ヨーロッパのトルコ人労働者 -現代の民族移動-」(2006.3.3)参照 2006年 03月 17日
「中央アジアを知る事典」(平凡社 2005)より: オグス (筆者:井谷鋼造) [オグズは]中央ユーラシア西部に居住したテュルク系の遊牧民族.その存在は,6世紀の突厥(とっけつ)時代から知られる.[突厥の滅亡とともに、その構成員の一つであったオグズの人びとは西方へと移動を始めた。] アラル海北方の東西に分布し,シャマニズムやゾロアスター教を信仰し,ヤブグと称する支配者を戴いていたが,10世紀の半ばから,住地を南下させ,マー・ワラー・アンナフルの文化との接触の結果,イスラームヘの改宗を始めた.イスラーム化したオグズは,イスラーム史料の中でトルクマーンとも呼ばれるようになる.一方で,イスラーム化しなかったオグズは,そのままオグズの名で呼ばれ続けた. 11世紀に書かれたカーシュガリーの《テュルク諸語集成》によれば,オグズは22の支族に分かれていたとされる.この22支族の筆頭に挙げられる,クヌク氏族の出身とされるセルジューク朝が,11世紀にホラーサーンから西アジアへ進出すると,オグズ・トルクマーン集団は,セルジューク朝の軍事力の中核として,イラン,イラク,シリア,アゼルバイジャン,アナトリアへ移住した.これらの集団は,独立心の強いベグと呼ばれる,それぞれの首領を中心にまとまった氏族からなり,遊牧をおもな生業とし,交易や農耕に従事する者もあった.戦時には,ガーズィー(聖戦の戦士)として兵役につき,アゼルバイジャンやアナトリア住民のイスラーム化,テュルク化に寄与した.オグズは,12世紀にセルジューク朝の統治者(スルタン)サンジャルに対して,ホラーサーンで大規模な反乱を起こし,セルジューク朝の体制を揺るがした集団の名前として知られるが,13世紀以後,民族名としては使われなくなる. 一方,14世紀の初めにペルシア語で書かれたラシードゥッディーンの世界史《集史》には〈オグズ・ハン〉の名が現れ,〈オグズ・ハン〉はテュルク・モンゴル系諸部族の伝説上の先祖とされている.また,オグズ・ハンの6人の息子たちから,それぞれ4人の子供が生まれ,オグズの氏族数24は,これら24人の孫に由来するとされる.これら24の氏族名には,カーシュガリーの記録する22氏族名がすべて含まれるが,列挙の順はまったく異なっている. また15世紀の半ば頃に東部アナトリアで書かれたと思われる,叙事詩《デデ・コルクトの書》…は〈オグズの言葉〉で書かれたとされる.これらの例は,オグズの語が14世紀以後,実在した民族の名前を離れて,伝説や虚構の中で用いられるようになったことを示している. セルジューク朝 (筆者:井谷鋼造) オグズ・トルクマーン系のセルジューク家がイラン,イラク,シリア,アナトリアに建てた諸国家の総称.伝説によれば,オグズ22氏族の筆頭に挙げられる,クヌク氏族に属したセルジューク家は,10世紀後半にスンナ派のイスラームを受容し,アラル海東方のジャンド付近で遊牧生活を送っていた.その後,オグズの王(ヤブグ)と不和になり,マー・ワラー・アンナフルへ南下し,サーマーン朝,カラハン朝,ガズナ朝などと,ときには戦い,ときには同盟するという状況を経験しながら,トルクマーンの代表者としての地位を築いていった. 1038年,ホラーサーンのニーシャーブールを占領した初代スルタンのトゥグリル・ベグは,40年ダンダーナカーンの戦いでガズナ朝のマスウード軍を破り,以後西進の勢いを強めた.55年にはアッバース朝カリフの要請でバグダードに入り,スンナ派のスルタン(統治者)として正式に認知された.第2代スルタンのアルプ・アルスラン時代の71年には,東アナトリアのマラズギルトで皇帝ロマヌス4世ディオゲネス率いるビザンツ帝国軍を破り,アナトリアヘイスラーム教徒トルクマーンが浸透して,イラン文化の影響を強く受けたテュルク・イスラーム文化が流入する契機となった. … 2006年 03月 15日
「中央アジアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者: 堀 直): 中国新疆(しんきょう)社会科学院のウイグル人研究者トルグン・アルマス(1924-2002)の著作《ウイグル人》〔1989),《匈奴簡史》(1986),《ウイグル古代文学》(1987)を対象にした中国政府の思想・言論統制のキャンペーン. これらの著作は,政府公認の出版社から刊行されたものであり,その背景には,胡耀邦,趙紫陽と続いた共産党総書記の政策が主導した〈自由化〉の容認姿勢があった.その流れに乗った〈民主化〉要求運動のなかで,1989年6月に北京で天安門事件が起こったのだが,その前月にウルムチでも自由化と民族格差の解消を求める大衆抗議運動が起こった.ウルムチ事件(5・19事件)とも呼ばれるこの〈暴動〉は,イスラーム信仰を侮辱する漢語図書の出版に反対するデモが過激化して,省政府の建物に乱入し,これを焼打ちしたものであった. これに危機感をもった新疆ウイグル自治区共産党委員会が,自由化の行き過ぎの一例としてトルグン・アルマスの3種本の内容の検討に乗り出した. そして91年2月にはウルムチ市で1週間にわたって全国から研究者を集めて,その内容が〈非学問的〉かつ現代中国にとって〈犯罪的〉であることの確認がなされ,多くのメディアでこれが宣伝された. 著作の学術性にはたしかに多くの問題点があり,著者の汎テュルク主義に基づいた強引な解釈による史実の誤りは多い. しかし〈祖国の統一と民族の団結〉の立場からする論難にも問題が多い.例えば,新疆ウイグル自治区は古来,中国の不可分の領土であるとする立論は,この地域が中国の統一的支配下にあった時期のほうが例外的である史実を無視したものである. 要するに,現代中国の辺境統治理論上の根拠となる中華意識とその現実への適用に際しての苦悩,そして対外開放傾向によって生ずる民族主義への警戒心が背景となった政治運動といえる. 2006年 03月 13日
http://ethnos.takoffc.info/tarim/ の記事を、エリキン氏が最近校正したもの: 東トルキスタン(新疆)大学文学部教授,専門家のアブドゥケリム.ラフマン先生,助教授 レウェイドゥラ.ヘムドゥラ先生,シェリップ.フシタル先生などが書いた「ウイグル族の風俗習慣」(ウイグル文,新疆青少年出版社,1996年8月出版)を参考に,ウイグル族の風俗習慣を紹介します。 ウイグル族のシンボル的な色について ウイグル族は各種の色から美学的なエンジョイを受けると同時に,色を自分の生活習慣の中のさまざまな活動と概念に密接に結びつけて,生活にある善と悪のシンボル的な意味として用いてきた。各種の色の中で特に白,青(緑),赤,黄はウイグル人の心理的な活動及び宗教信仰に密接に結びつき,彼らの生活,習俗に比較的に突出した役割を果たしてきた。それは昔から続いてきたもので,ウイグル人の習慣で重要な特徴として形成されてきたものです。 白い色(Aq reng): 白い色はウイグル人の伝統的な意識では幸福,幸運,善,純潔,高尚の意味を表してきた。この概念はウイグル人の原始宗教時代から今まで続いています。白いはウイグル語で「Ak,Aq,アック」と言う。例えば,誰かが旅に行く前に見送る人は「Aq yol bolsun!」(日本語にそのまま訳せば「白い道を祈ります」)と言って見送ります。ミルクを大切にする,雪を幸福・幸運の印と分かる,お嫁さんは結婚式の日に白いワンピースを着る,親戚の亡くなった男は白い帯を締め,女は白いスカーフを被る(40日間まで),家を白く染めるなど。 ウイグル人の有名な歴史詩集「Oghuzname,オグズ伝」でもオグズハンの軍事遠征で勝ち取った勝利のお祝い式で,40ghulach(グラッチ、長さの単位,両手を伸ばした時の長さで,普通身長と同じ位の長さです)の白い柱の下に白い羊を縛って,幸せがいつまでも続くことを祈っていた。又,仏教時代にも同じように白い色を幸福と幸運のシンボルとして信仰していた。例えば,「Ikki Tekinning Hikayisi,二人のテキン(王子)の物語」でも善意のテキンの事跡を白いという形容詞で表していた。今でも素晴らしい人は「Aq niyet」(善意),反対語は「Qara niyet」(悪意)と言います。 青い色(Kok reng): 青い色もウイグル人の原始宗教信仰と結びついて,善と幸運の印,神的色のシンボルとされた。Kok(青い)の意味は神様,天,空,青い色,元、根(祖先),kokle(生きていけ,願いのように生きていけ),野菜,草など。纏めたら,?神様,Tengri ?青い色、Kok reng、根、kok、根源です。ウイグル語で普段青いといえば、緑も含めている。 古代ウイグル人は宗教信仰で青い色を偉大な色として崇めて,神様の形容,名前にすることは一定の社会的基礎に拠ったものです。中央アジアで生活した民(ウイグル人など)は長い間主に遊牧生産をしていた。牧畜業生活は主に青い色(緑色)を中心とした草原を舞台とした。草原文化では緑色は生命の基礎と考えられて,それに対する(大切にする)意識は強まっていた。古代の「Tura(鉄勒)詩」に緑色に結びついた草原生活が形象的に述べられていた。それ以外に上述の「オグズ書」にも青い色関係の記述が結構見つかる。「オグズ伝」にはオグズハンの顔色は青い,オグズハンがお祈りしている時に回りは暗くなってきて天から一筋の青い光が落ちる,その光の中から目の青い綺麗なお嬢さんが出てくる。又毛の青い雄のオオカミがオグズハンを案内してくれる....などは古代ウイグル人が青い色を神様にして信仰したことの根拠である。薩満(Shaman)教を信仰していた時代に,大自然神を中心とした天,太陽,月,星,風,雨,稲光などの現象の発生に「Kok」という語が神様に比喩されて使われた。 ウイグル人がイスラム教を受容してから,「Kok Tengri,神様」概念から宇宙を作ったアラー概念が出てきて,Kok Tengriの役割をするようになりましたが,ウイグル人の意識にあるKok(青い,緑)のシンボル的な意味は変わらず,習慣として残ってきた。例えば,悲しいことに遇ったらKok(天)に向かってお願いする,緑(植物)を大切にする,(馬のえさになる草)kok(草の名)で餃子を作って隣,親戚,友達をおごる,kokパーティ(民族舞踊もやるパーティ)など。 赤い色(Qizil reng): ウイグル人は赤い色を善,嬉しい,幸福,美しい,勇敢,勝利のシンボルと考える。 例えば,ウイグル人が結婚する前にお嫁さんの家へ「Ash suyi,結婚式に使う食べ物,家畜,小麦粉,お米,野菜,塩,マキなど」を持って行って上げる時に羊の頭に赤い絹を縛って行く。お嫁さんを迎えに行く馬車(現代では車,マイクロバス)の前に赤い絹を縛って行く。結婚式の楽器(チャルメラ,ラワップ,太鼓)にも赤い絹を付けておく。ウイグル人の男の子が7歳の時に割礼を行います。その時,割礼の息子に赤い帯を締めておきます。赤ちゃんが生まれた家のドアに赤い布をかけておきます。お嬢さんを赤い花に比喩する。未婚のお嬢さんと若い奥さんは赤いワンピースを着る。こういう意味では赤い色は若さの印と考えられる。 天山の北と東(ハミ,特にトルファン)のウイグル人は赤い帽子を被るのが好きです。トルファン人は赤い色の火炎山を尊敬して「Qut tagh,幸せを与える山」と言います。 中央アジアは20世紀にロシア共産党と中国共産党に占領されてから、赤い色は政治的な色になり、ソ連と中国の侵略軍のことは赤軍と呼ばれるので、赤い色は共産党、侵略者、独裁者という意味でも使っている。例えば、Qizil Hitay(赤い中国)。 黄色(Seriq reng): 黄色はウイグル人の美学的な意識では太陽,豊収,高尚さのシンボルです。ウイグル人は黄色を金色と言う。芸術的表現では太陽の光がいっぱいの時を「黄金のように光る太陽」と言う。よく実った小麦を「Altun bashaklik bugdaylar」(Altunは金,bashakは穂,bugdayは小麦,larは複数)と言う。礼儀正しい良い子を「Altundek Bala」(黄金のような子),女の子を「Altundek qiz」(qizは娘)と言う。 アクセサリーなどウイグル人の貴重な芸術品の色も金色を基礎とする。建物などの飾り(彫刻)にも金色が多いです。黄色が好きなのはウイグル人が昔太陽神を信仰したことを源にするが,口頭文学の叙述手段に黄色は気分が低い,精神低下,独りぼっちの寂しさに比喩されることもある。 (1999.11.29受、…) 2006.2.21 エリキン.エズィズ 2006年 03月 10日
「中央アジアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:濱田正美): …しかし,その後のイスラーム化の進展は比較的緩やかで,モンゴル帝国の支配下でイスラームは仏教と共存し,15世紀の前半でもトゥルファンの住民の大多数は依然仏教徒であったが,この世紀の後半以降,チャガタイ・ウルスの後身であるモグール・ウルス(モグーリスターン)の攻勢により仏教は完全に消滅した.トゥルファンよりさらに東に位置するハミの最後の仏教徒が明の庇護を求めて長城の内側へ移住したのは1513年のことである.またこの時期以降,天山以北の支配権を喪失した遊牧モグール(モンゴルのぺルシァ語形)の定住化が進み,彼らは言語的にはテュルク化・宗教的にはイスラーム化した. その結果,カシュガル・ヤルカンドからハミに至る天山山脈以南のオアシス地帯には,言語,文化,宗教的にほぼ均質な社会が形成された.モンゴル帝国時代、ウイグルという名辞は〈仏教徒〉の同義語に変化した.それゆえ明の領域に移住した仏教徒はウイグルと自称し続けたが、イスラームを受容した住民は,異教徒に対してはムスリム,この地域の外の出身者に対してはエルリク(土地者)と自称するのみであり,個々の出身オアシスヘの帰属を示すカシュガルリク・トゥルファンリクといった名称のほか,より包括的な民族名称を持たなかった. …西北ムスリム大反乱と10年に及ぶヤークーブ・ベグの支配の後,1878年に新疆を再征服すると,清朝は現地人を同化する政策に転じ,84年には新彊に省制が施行された.同化政策の推進は逆に民族的覚醒をうながす契機となり,東トルキスタンのムスリム定住民は固有の民族であるとする観念が形成されはじめ,東トルキスタン人,さらには汎テュルク主義の影響を受けて,テュルク人などの民族名称が用いられるようになった. 1921年,ソ連に居住する東トルキスタン出身者…の代表者会議において,ロシア人の古代テュルク語学者セルゲイ・マローフの提議に基づき,ウイグルという名称が民族名として採用された.中国領新疆では,この名称は35年に公式に用いられるようになり,〈維吾爾〉という漢字表記も定められた…. …文化大革命時期には多くの宗教関係者が迫害,ときに虐殺されたと伝えられるがその詳細は不明である.80年代の開放政策展開後,文革中に破壊されたモスクや墓廟(マザール)の再建,ウイグル語表記に一時期採用きれていた漢字ピンインに基づくローマ字からアラビア文字に戻すなどの〈和解政策〉が行われた.しかし,90年代には権力の側からの宗教に対する管理の強化とこれに対する反対運動の過激化とが同時に進行している.これらの運動が民族主義的なものか,あるいは世界的な広がりを持つイスラーム主義(イスラーム復興)につながるものであるか,その実体は報道が限られているため不明であるが,中国政府はこれをテロリストと呼んでその弾圧に腐心している.同時にウイグル社会の漢化はさらに進展し,2003年には自治区のすべての高等教育機関の授業は漢語によるとの決定がなされた. エリキン氏(カシュガル出身のウイグル人、トルコ在住)のメール(2006.2.21)より: ウイグルという名前は東トルキスタン国内のウイグル人の存在の最後の合法的な名前として理解しています。東トルキスタンという単語は禁止されているから。自慢の言葉だと考えても言い過ぎません。ウイグルだったから光栄と考えています。 中国はウイグル自治区と呼びながら、また隠したくて少数民族と一生懸命に宣伝しているけど。… ウイグルという名前は…紀元前4世紀からある名前で、8世紀に今のモンゴル草原でウイグル国家、9世紀になるとケンス.コックヌル(Kengsu Koknur、中国語への音訳は甘粛青海)ウイグル国家を作ったこともあり、ウイグルという民族名はいつの時代にも東トルキスタンの土地で知られていた。(注1) ロシアという侵略者は自らの侵略を隠し、植民統治を正当化するために、中央アジアのチュルク系民族に圧力をかけ、ロシアの口に合う学説を受けさせ、学術討論会も、会議も、宣伝もロシア人の利益にあうように設定したものに過ぎません。 東トルキスタンの合法的な持ち主であるウイグル民族は、自分の民族名を知らずに1921年か1935年にロシア人に教えてもらったことも存在しないし、それは真っ赤な嘘です。腹が立ちます。 1921年アブドゥハリック.ウイグル(Abduhaliq Uyghur)という詩人が作った〈目覚ませウイグル!〉という歌の中で、中華民国の植民統治に反対し、目を覚めて、命をかけて、侵略者を追い出し、独立しよう、と言う内容の詩だったので、詩人は侵略者当局によってトルファンで残酷に足から頭まで体が切られて殺害されてしまったのです。 に〈目覚ませよ、ウイグル!〉という詩があり、国旗が並んでいる行に一番左はウイグル語、聞こえてくる歌詞つきの音楽もウイグル語です。… 目覚ませはウイグル語でOyghanといいます。Biz Uyghur は私たちはウイグルです、という意味です。 19世紀の始めごろのモラムサ.サイラミ(Molla Musa Sayrami)という歴史家が書いた歴史の本にもウイグルという民族名ははっきりと記載されています。いうまでもなく、ウイグルはそれぞれの時代で東トルキスタンの国民という意味で使われてきました。 1921年カザフスタンでロシア人が会議をやった同時に、中央アジアの民であるチュルク民族に対する新たな弾圧が始まった時です。その会議は科学的な会議ではなく、政治、侵略者のために設計された会議です。歴史を偽造し、反対者を弾圧するための公文書です。 (注1) 「ウイグル」という名前」(2006.2.22) 参照 2006年 03月 08日
「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974) より(筆者:護 雅夫): …漢人植民王国・高昌を別にすると、中央アジアはすべてインド-ヨーロッパ人種の住地であった。そして、このような中央アジアの人種構成を押し崩していったのが、…トルコ系ウイグル国人の西方移住であり、それはまず、甘州ウイグル王国、西ウイグル(天山ウイグル)王国の成立としてあらわれた。 これ以前、モンゴル高原の遊牧国家と中国諸王朝とは、東西両文明世界を結ぶ交通・交易の国際幹線ルートをめぐって争いを繰り返してきた。そして、漢代や唐代のように中国の国力がビークに達し、匈奴や突厥の国家が分裂・弱化したときには、中国は遊牧勢力をはねのけて中央アジアを支配したし、また逆に、中国が内乱などで苦しむと、遊牧勢力は強化されて中央アジアを制圧した。しかし、中国諸王朝はもちろん、遊牧国家でさえ、それらの本拠が中央アジアへ移ったわけではなく、その中央アジア統治はあくまで間接的であった。これにたいして、ウイグル国人は、その「文明化」の果て、まず、中央アジアの東端 −河西地域と東部天山山脈南北麓− へ移住して二つの王国をたてた。これによって、インド-ヨーロッパ系人種の土地、中央アジアがトルコ化されてゆく第一歩が踏みだされた。 それに止まらない。トルコ系のカルルクは、セミレチエ方面へ向かったウイグル国人を合わせてカラハン王国を建て、カシュガルを始めタリム盆地西部のオアシス都市に進出して定着し、「完全にオアシス都市の住民となりきった」…。これは、中央アジアのトルコ化の第二歩であった。 これらの結果、インド-ヨーロッパ系の原住民は、少なくとも言語を標識とする民族的な意味をしだいに失ってゆく。 トルコ族の動きは、パミールの西でも活発化する。アッバース朝は、9世紀の中ごろ以後、シルダリア北方の草原地域に遊牧したトルコ人を傭い入れて軍隊を編成したが、やがて、これらは軍閥化して、中央・地方を問わず勢力を振うにいたった。こうした形勢に乗じて、ソグディアナ地方にブハーラーを首都とするイラン人国家サーマーン王国(874〜999年)が成立したが、そののち、これに仕えていた一トルコ人総督がアフガニスタンに独立してガズナ王国(962〜1186年)を建て、…カラハン王国がサーマーン王国を滅ぼし(999年)、ソグディアナ地方を制圧した。これによって、トルコ族は、その西進基地を確保されることになった。 ウイグル、カルルクの西方移動は、このように、東からするトルコ族の西方への発展を推進しただけでなく、西からするイスラムの東方への流伝に大きく寄与した。いうまでもなく、…カラハン王国のサトゥク-ボグラ-ハンの改宗・帰依によって、イスラムがはじめてシルダリアを越え、トルコ族の本拠にまで広がってきたからである。 カラハン王国がトルコ人の建てたイスラム国家であった以上、そこで、トルコ文化とイスラム文化との結びつきが見られたのは当然であった。 『クダトゥク-ビリク(「幸福にする知慧」)』と称される書物は、このことを示す一例である。これは、バラサグン生まれのユースフがカシュガルで著わし(1069年)、その主君に献呈したものである。この書はトルコ語韻文で書かれ、…突厥碑文に次ぐトルコ文学作品と評し得る。その内容は、一般に、イスラム道徳にもとづいて人間の踏むべき道を説いたものだといわれているが、最近の研究によると、そこには仏教的思想もまたにじみ出ており、…「それを貫いているのは、正統的なイスラム道徳思想である」とは、簡単に言い切れぬもののようである。(注1) はじめアラビア文字でしるされたが、ウイグル文字による写本も伝わっている。…この書物は、著者自身の言のごとく王者のために書かれたのではあるが、その内容は万民にも通じ、彼らにも説き聴かすべきものだったのである。(注2) …そこには、「サーマーン朝で発達したペルシア的先進文明と、草原から新しくやってきた遊牧民の詩情との結合、すなわち書かれる文学の伝統と、口でうたわれる詩のそれとのからみあい」が見られるという。…トルコ遊牧民の詩情…それが、トルコ遊牧民のあいだに絶えることなく継承され、イラン的イスラム文学という肥料・花粉を得て、ここにみごとに開花・結実したとも言えようか。 これとほぼ時を同じくして、カシュガルで生まれたマフムードは、『トルコ語総覧』 とも訳すべき最古のトルコ語-アラビア語辞典 −というよりむしろ、トルコ諸族の方言・歴史・民俗・民謡、居住地域の地理その他についての一種のトルコ族百科事典− をバクダードで著わした(1074年)。彼の父はイッシク-クル湖近辺の出身だったが、彼は、成長するにおよんで、トルコ諸族の住地をくまなく遍歴してトルコ語諸方言に通じ、それらを、トルコ族に関する万般の事項を挙げつつ、アラビア語で説明したのである。(注3) こうした書物の出現それ自体、いまや、トルコ語およびトルコ族にたいする知識が、当時のイスラム世界の中心バグダード、いやさらに広くはイスラム世界全域において要求されていたこと、つまり、イスラム世界でのトルコ族の役割がきわめて重視されるにいたっていたことを物語る。(注4) … 西進したトルコ族は、こうして、東にむかって拡大してきたイスラム世界に包みこまれてトルコ-イスラム文化の花を咲かせ、中央アジアのトルコ化、イスラムの東方伝播に貢献したのである。 (注1) 別書には、「…現世に対する諦念を主張する議論が多くみられ、これを仏教からの影響とする説もあるが、むしろイスラーム神秘主義思想の忠実な反映と考えるほうが自然…」とある。 (注2) 「クダトゥク-ビリク」について、ウイグル人が書いた解説がこちらにある。 (注3) 「トルコ語総覧」について、ウイグル人が書いた解説がこちらにある。 (注4) セルジューク-トルコのトゥグリル-ベクが、1055年にアッバース朝のカリフの要請でバグダードに入り、スンナ派のスルタンとして正式に認知された。 2006年 03月 06日
「人類文化史 第四巻 中国文明と内陸アジア」(講談社 1974) より(筆者:護 雅夫): カルルク王国 …モンゴル高原から西進したウイグル国人には、さらにもう一派があった。「カルルクに奔(はし)る」と伝えられているのがそれである。カルルクは、突厥の建国いらい、史上に姿をあらわすトルコ系の部族で、本拠を、アルタイ山脈の西南、東部天山山脈の西北 −ジュンガル盆地からバルハシ湖の東南、イリ川東方− に有し、三氏族から成っていた。東西両突厥の盛時には、「〔カルルクの〕三族は、東西突厥の聞に当り、常にその興衰を視(うかが)いて、附叛常ならざるなり」といわれる。突厥第二帝国の崩壊に、このカルルクがバスミルとともに一役買っていた…しかし、ウイグル遊牧国家がモンゴル高原に.成立すると(744年)、一部のカルルクはこれに服属したが、多くのものはこれから離反し、建国期のウイグルにとっては、その西隣における最大の敵対勢力であった。そして、ウイグルの国礎が固まると、その圧力を受けて、カルルクはしだいに西方へ移動したと思われる。タラス川の会戦において、唐軍に叛いてアラブ軍に味方したカルルクは、彼らであったにちがいない。 唐は、タラス河畔での敗戦後、とりわけ安史の乱(755〜763年)ののち、その方面からまったく手を引き、また、アラブ軍も勝利を収めたものの、彼らには、天山北方にまで進出しようとする意図はなかった。ここに生じた空白を埋めたもの、それがカルルクであった。…カルルクのなかには、オアシス農業に従う者、または砕葉(スーイ・アーブ)城(アク-ベシム)・タラス城(ジャンブール)内に定住する者のほかに、西突厥・突騎施(チュルギシュ)いらいの、セミレチエにおけるトルコ遊牧民の伝統をひきつぎ、周辺の草原で遊牧を行なう者がなお多数を占めていたと考えられる。 カルルクの君主は可汗と称せず、その下位の葉護(ヤブグ)の称号を帯びてはいたけれども、チュー川流域を中心に、東はイリ川のほとりをふくむセミレチエのオアシス群を支配し、依然、モンゴル高原の遊牧ウイグルと対立した。… 西走したウイグル国人が「奔った」というカルルクとは、このセミレチエを中心とするカルルク王国を指す。そのウイグルたちの動静は明らかではないが、…。しかし、これらウイグル人の流入によって、カルルク王国の命運が左右されることはなかった。のみならず、モンゴル高原の遊牧ウイグル政権が没落すると(840年)、カルルク王国の君主は可汗と称するにいたった。 近年、このときからカルルク王国はカラハン王国として新しい発展をとげたという説が提唱された。この意見に従うと、カラハン朝の創始者はカルルクに属したということになるが、この問題については、18世紀いらい、さまざまな見解 −ウイグル説・カルルク説・突厥説・その他 −が出されていて、いまだ断言できる段階ではない。たとえ、カラハン王国の初代可汗の出自がカルルクであったとしても、その王国内に、上述のようなウイグル人を始め多数のトルコ人が居住していたことは忘れられてはなるまい。 10世紀中頃の世界 [拡大図] カラハン王国 この国がカラハン王国とよばれるのは、その君主がしばしばカラハンの称号を帯びたからで、…。(注1) カラハン王国では、その初期に、大ハンの本拠が砕葉(スーイ・アーブ)から同じチュー川流域のバラサグンに移され、副ハンがタラスにいた。ところが、ソグディアナ地方のブハーラーを首都としてイラン人のたてたイスラム国家サーマーン王国(874〜999年)がタラスを攻略すると(893年)、副ハンは天山を南に越えてタリム盆地南端のカシュガルに移り、サーマーン王国内部の対立を避けて亡命して来た者を保護した。彼の甥のサトゥクはその影響をうけてイスラムに改宗し、やがて叔父を倒し、ボクラ-ハンと号した。 サトゥク-ボクラ-ハンは、かつて敵対していたサーマーン王国の君主の求めに応じて、そこでの反乱鎮定を援け、また、天山を越えて、いまなお非イスラム教徒だったバラサグンの大ハンを攻め、955年に歿した。彼をついだその息子は、960年ごろ、バラサグンの大ハンを攻撃して勝利を得、セミレチエのイスラム化を推進した。他方、彼は、西域南道の仏教国家ホータンに遠征し、タリム盆地の西部に進出した。カラハン王国の勢力はソグディアナ地方へもおよぶ。ほかでもない、そのブハーラーに都したサーマーン王国が、フェルガーナにいたカラハン王国の一ハンの攻略をうけ、ついに瓦解したからである(999年)。この結果、東方におけるイスラム文化の中心、ソグディアナ地方にもトルコ化の波が押しよせた。 しかし、カラハン王国の基礎が決して強固でなかったことは、カシュガルのハンとバラサグンの大ハンとの対立はいうまでもなく、フェルガーナにもハンと称する者のいた事実からも明らかである。… それらのハンは、まず、イスラム教徒かそうでないかによって互いに対立した。「血は水より濃い」といわれるが、このばあいには、「宗教は血より濃い」ともいえようか。 カラハン王国内部においてだけではない、東方の西ウイグル(天山ウイグル)王国との関係にあっても、宗教は血よりも濃かった。仏教文化を基調とする西ウイグル王国の領域は、北道ではクチャ、南道ではチェルチェンをふくんで、カラハン王国のそれと接し、…中部天山のイシック-クル東方、イリ盆地からボロホロ山脈周辺は両者の抗争あるいは中間地帯であったろう…。東部天山山脈南北麓を本拠とする仏教国家西ウイグル王国と、西部天山山脈北麓からカシュガル、さらにホータンへと手を伸ばしてきたイスラム国家カラハン王国とは、同じトルコ民族に属しながら、タリム盆地を両分して対立・抗争したのである。 …サーマーン王国の滅亡後、カラハン王国はソグディアナ地方をめぐって、同じトルコ政権ガズナ王国(注2)と争い、カラハン王国の各ハンは、これに巻きこまれて互いに抗争を繰り返した。カラハン王国は、11世紀中葉にパミールを境として東西に分裂したといわれるが、その萌芽は、すでに国家の成立期からきざしていたのである。 ガズナ王国につづいて、セルジューク-トルコの進出が始まると、11世紀の末、パミール以西のカラハン系諸政権はこれに服属した。やがて、モンゴル系仏教徒を支配層とするカラ-キタイが東方から進出のうえ、バラサグンを陥れ(1133年)、セミレチエからカシュガル地方を征服し、1140年代に、パミール以西の支配権をセルジューク-トルコの手から奪うにおよんで、カラハン王国はついにその命脈を絶たれるにいたったという。 (注1) 「カラハン朝」という名称は近代の歴史家の命名によるもので、イスラム資料では「ハーカーニーヤ朝」もしくは「アフラースィヤーブ朝」と呼ばれている。 (注2) 「ガズナ朝」は、現在のアフガニスタンのガズナ(ガズニー)を首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年/977年〜1187年)。サーマーン朝に仕えるテュルク系マムルーク(奴隷軍人)出身の有力アミール(将軍)が、955年にガズナで立てた政権を基礎としている。 2006年 03月 03日
ドイツ(当時の西ドイツ)、フランス、イギリス等の西ヨーロッパ諸国では、20世紀後半のある時期自国の労働力不足を補うために、積極的に外国人労働者を受け入れた。 例えば、1960〜70年代初頭のドイツでは、雇用双務協定に基づき約900万人のトルコ人労働者の受け入れがなされたが、彼らの一部は呼び寄せた家族とともに定住し、その数は現在200万人以上とされる。 この移民労働力に対しては既にEU圏内の労働者からは反発が起こっている。 さらに将来、トルコがEUに加盟した場合トルコ人労働者のEU圏内での就職は自由化されるので、大量の労働者が流入して、経済的・社会的混乱が増大するのではないかと懸念されている。 西ヨーロッパにおける外国人労働者の問題は時折日本のマスコミにも取り上げられる。 しかしこれまでの報道は、外国人労働者を受け入れた西ヨーロッパの視点からのものがほとんどだったように思う。 「トルコ人が語るトルコ・イスラム講座]の「国際関係(3)」では、多くの労働者を送り出したトルコから見た、ヨーロッパのトルコ人労働者問題が、自分の体験も含め具体的に語られている。 2006年 03月 01日
「中央アジアの歴史・社会・文化」(放送大学教育振興会 2004)より(筆者:稲葉 穣): ウイグル商人の登場 …このようなソグド人商人はやがて歴史上から消えていく。それにかわって中央アジア史の表舞台に登場してくるのがウイグル商人である。 モンゴル支配時代,ユーラシアを巡る交易ネットワークのかなりの部分はムスリム商人の手にあったが,当初,中央アジア東半の交易ルートでは仏教徒ウイグル商人が活躍していた。 ウイグルとモンゴルの結びつきは非常に早く,1209年,当時のウイグル王はモンゴルに使節を送っている。その後ウイグル王はチンギス家の娘をめとって婿となり,さらにその関係を強化した。その結果,モンゴル帝国内にはさまざまな形で活躍するウイグル人が満ちあふれていった。ただし,文献史料にはウイグルと書かれるものの,その実態はウイグル支配地域に居住していたソグド人,あるいはその後裔だったのではないかということが近年指摘されている。…多様な人々 を内含したウイグル国家が中央アジア史の主役になった8世紀以降,その支配地域に定住したり,そこを舞台に活動していた商人達が史料においてウイグル人という呼び名を冠せられるという事態は十分あり得る。 13世紀,ウイグルの根拠地はおおよそ東部天山地域にあったが,玄装の報告にあるとおり,この地域はかつてソグド人達が植民都市を築いていた場所でもあった。9世紀以降ウイグルがオアシス都市に定住し,…「牧農複合国家」を形成し,中央アジアのテュルク化を促して以降,ウイグルの国家は中央アジアにおいて文化的にも経済的にも重要な存在であり続けたが,当然ウイグル王国治下にはかつてのソグド人の後裔も含まれていたと考えられるのである。 唐代,ソグド人が活躍した時期に彼らがソグド人として認識されていたのは,彼らがソグド本地との連絡を保ち続け,その言語,文字を解し,あるいはその宗教文化を保持していたことが大きな理由であった。しかし,イスラームの東漸に伴い,ソグド地方がイスラーム化され,言語的にもソグド語から近世ペルシア語への移行が起こった10 世紀以降,中央アジア全域に広がっていたソグド系交易離散共同体のメンバーが,他者によってソグド人として認識される積極的理由もまた薄れていったと考えられる。そして,それが史料からソグド人の名が消え,かわりにウイグル商人が登場する一つの背景となったのであろう。 ウイグル商人とモンゴル ウイグル商人達の活躍の様子は,やや時代が遡るが,敦煌から出土したウイグル語の手紙から知れる。おそらく9〜10世紀に書かれたと考えられるその手紙には,遠隔地に旅した商人たちが,他のキャラバンに手紙を託して仲間達と連絡をとり,また荷物の交換をも行っていたという実態が示されている。… モンゴル時代,とくにモンゴルの王族や貴族達と,これらの商人の間の関係を考える際に,オルトク商人と呼ばれる者達の存在が注目される。オルトクは,テュルク語諸語に見られる「パートナー,仲間」という意味の語で,出資者と,実際に交易を行う商人が共同事業者となり,前者は資本を委託し,後者が遠隔地交易や高利貸し,徴税請負などの事業の中でそれを運用して利益を生み出した。ユーラシア大陸を結ぶ交易全体が活発化したこの時代,商業活動からあがる税収入で潤ったモンゴル支配層達は,収人の一部を資本として商人たちに投資し,商人たちはそれらの資金をあわせて商売を行い,得られた利益が分配されたと考えられる。このような商業活動は,東西の物品の交易をさらに加速し,モンゴル帝国と,そのパートナーとして働いたウイグル商人に巨万の富をもたらした。このオルトクという言葉は,ペルシア語や漢語にも取り入れられ,それぞれ「オルターク」「斡脱」と転写されているが,これはウイグルあるいはテュルクという中央アジアの民に発した企業形態が,東アジアや西アジアにも広く認知されていたことの証といっていい。 13世紀後半以降はしかしながら,中央アジア地域の商業は西方のムスリム商人の手に移っていく。西アジア,地中海方面,あるいはインド洋交易において巨大な交易ネットワークを形成していたムスリム商人との競争の中で,仏教徒ウイグル商人は中央アジア商業における支配的地位を明け渡さざるを得なくなったのである。 |